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夜景を見ていると 人間の差別が異常に見えてくる。

副題

Sonder――遠くから剥がれ落ちる序列と、光に値札を貼る私たち

はじめに|無数の光の中に、無数の主役がいる


遠くからマンション群を眺めることがある。

夜景に浮かぶ無数の光は、どこか幻想的で、昔から人を惹きつけてきた。

私も夜景は好きだ。

ただ、綺麗だから好きなのではない。

あの無数の灯りの一つひとつに、それぞれの人生があり、それぞれの生活があり、それぞれのかけがえのないものがあると感じるからだ。

外から見れば、ただの一点の光にしか見えない。

けれど、その一点の内側には、疲れて帰ってきた身体がある。

明日の予定を考える沈黙がある。

誰かを待つ時間があり、夕食の湯気があり、言葉にできない不安があり、守りたいものがある。

笑い声が聞こえる部屋もあれば、会話の途絶えた部屋もある。

新しい命を迎えた家もあれば、誰かがいなくなったばかりの家もある。

それらは、遠くからは何も見分けられない。

同じような一点の光に見える。

だから夜景とは、単なる照明の集まりではない。

人間の時間が、遠くから圧縮されて見えている風景なのだと思う。

そして、それらの光のほとんどは、生涯交わることなく終わる。

互いの存在を知ることもない。

それでも同じ夜の中で、隣り合って灯っている。

だから夜景は美しいのだろう。

そして同時に、少し切なくもなるのだろう。

1|光の背後には、生活と負債がある


夜景の美しさを見ていると、その光の背後にある生活の重さまで想像してしまう。

あの一点の光の多くには、長い住宅ローンがあるはずだ。

人は住処を得るために、人生の長い時間を差し出す。

家を買うとは、空間を手に入れることである。

しかし同時に、まだ働いていない未来の自分の労働を、先に差し出すことでもある。

そう考えると、夜景は成功の象徴のようにも見える。

多くの人が働き、住まいを得て、生活を築いた証である。

だが別の角度から見れば、人間が安定を得るために、自らの未来を長期間にわたって拘束している風景にも見える。

さらには、人間がただ集まって暮らしているだけでは、夜景のような光は生まれない。

そこには火を扱ってきた歴史があり、電気を作る技術があり、都市を建てる知恵がある。

発電所があり、送電網があり、建物の設計があり、道路があり、水道があり、下水がある。

あの光は、ただの生活の明かりではない。

人間が長い時間をかけて積み上げてきた、文明の残響でもある。

そして、その光は無料では灯らない。

電力を維持するにも、住まいを保つにも、金が要る。

一つひとつの家庭は、それぞれの労働を差し出し、その対価として得た金銭によって、今日もあの光を灯している。

夜景とは、生活の風景である。

同時に、文明と資本と労働と負債が、かろうじて均衡している光景でもある。

綺麗なのに、どこか哀しい。

夜景には、その両方が含まれている。


2|この感覚には、Sonderという名前がある


この感覚には、すでに名前があるらしい。

Sonder――ソンダー。

アメリカの作家ジョン・ケーニグが、言葉になっていない複雑な感情に名前を与える『The Dictionary of Obscure Sorrows』という企画の中で、2012年に提示した造語である。

それは、街ですれ違う見知らぬ人にも、自分と同じように複雑で鮮明な人生があり、その人自身の物語の中では、その人こそが主役なのだと気づく感覚を表している。

自分にとっては、背景を横切っただけの通行人。

電車で隣に座っただけの人。

窓の向こうに一瞬見えただけの人。

けれど、その人にも過去があり、家族があり、習慣があり、心配事があり、自分の知らない長い時間がある。

自分の物語において脇役でしかない人が、その人自身の物語では主役として生きている。

夜景を見て感じていたものは、まさにSonderだったのだと思う。

一つひとつの窓の向こうに、自分の知らない主役がいる。

自分が一度も登場しない物語が、今この瞬間にも無数に進んでいる。


3|夜景は人生を一点へ圧縮し、想像力はそれを広げる


ただし、ここで一つ不思議なことが起きている。

夜景は、本来は複雑な人間の生活を、一点の光にまで圧縮して見せる。

誰が住んでいるのかも分からない。

何人で暮らしているのかも、幸せなのかも、苦しんでいるのかも分からない。

それでも私は、その一点の中に人生の奥行きを読み取ろうとする。

つまり、夜景は人生を圧縮し、人間の想像力は、圧縮された人生をもう一度広げようとする。

ここに、夜景と差別の違いがある。

夜景の一点を見たとき、私は、

「あの光の中にも、私には見えない人生がある」

と考える。

だが差別する視線は、人間の複雑な人生を一つの属性に圧縮したまま、それ以上広げようとしない。

外国人。

高卒。

無職。

老人。

障害者。

貧困層。

富裕層。

男。

女。

差別とは、他人に人生が存在しないと思うことだけではない。

一人の人間の複雑な人生を、一つの属性で代表させてしまうことでもある。

夜景は人生を一点の光へ圧縮する。

差別は人生を一点の属性へ圧縮する。

しかし夜景を見つめる想像力は、その一点の向こうに、再び奥行きを取り戻そうとする。

差別する視線は、奥行きを失わせたまま、人間を分類し、値踏みする。

その違いは大きい。


4|差別とは、生の光に値札を貼ること


遠くから見れば、どの窓も一点の光でしかない。

肩書も、国籍も、学歴も、職業も、資産も、生まれも、遠景の中では剥がれ落ちる。

残るのは、ただそこに誰かが存在し、今日も生活を続けているということだけだ。

その地点まで引いて見たとき、人間同士が、

優れているとか劣っているとか、

こちら側だとかあちら側だとか、

価値があるとかないとかを言い合っていることが、ひどく奇妙に見えてくる。

なぜなら、それらの序列は、光そのものに最初から付いている性質ではないからだ。

光はただ光っている。

そこに上等な光と下等な光があるわけではない。

正しい光と間違った光があるわけでもない。

あるのは、それぞれが生を灯しているという事実だけだ。

それなのに人間は、その生に後から値札を貼る。

あの人間には価値がある。

この人間には価値がない。

あの属性は尊い。

この属性は見下してよい。

そうやって、存在そのものに序列を持ち込む。

差別とは、生の光に後から評価を貼り付ける行為なのだと思う。

違いを見ること自体が差別なのではない。

現実の人間には、それぞれ異なる能力があり、経験があり、立場があり、責任がある。

違いをすべて無視すれば、社会は成り立たない。

問題は、特定の場面における違いを、その人間の存在全体の価値へ変換してしまうことだ。

仕事ができることと、人間として上等であることは同じではない。

金を持っていることと、生きる価値が高いことも同じではない。

ある能力に優れていることは、存在そのものが優れていることを意味しない。

人間は、部分的な違いを存在全体の序列へ変えてしまう。

そこに差別が生まれる。


5|宇宙が平等なのではない


宇宙は、少なくとも人間社会の意味では差別をしない。

星の光は、善人だけを選んで届くわけではない。

重力は、金持ちだけに強く働くわけでもない。

老いや死も、肩書を読んで相手を選ぶわけではない。

ただし、これは宇宙が平等を尊重しているという意味ではない。

宇宙には、人間を評価する意思がない。

宇宙は公平なのではなく、人間社会の序列そのものを知らない。

星には大きさの違いがある。

明るさも、寿命も、質量も違う。

自然界には、無数の差がある。

だが、その差に、

「こちらの方が人間として尊い」

という意味を与えているのは宇宙ではない。

人間である。

宇宙の側から見れば、まず存在と現象がある。

その後から、人間が分類し、名前を与え、意味を読み込む。

意味を作ること自体が悪いわけではない。

文化も、倫理も、共同体も、意味づけから生まれる。

しかし、意味づけはしばしば歪む。

理解するための分類が、優劣を作る分類に変わる。

違いを捉えるための言葉が、排除するための言葉に変わる。

便宜的に作られた境界が、あたかも世界に最初から刻まれていた境界であるかのように扱われる。

そこから差別が生まれる。


6|夜景は平等なのではなく、格差を隠している


ただ、ここで話を綺麗にしすぎてもいけない。

遠くから見れば、すべての窓が一点の光に見える。

しかし、光の内側にある生活まで同じなわけではない。

広い部屋もあれば、狭い部屋もある。

明日の生活費を心配している家庭もあれば、資産をどう運用するか考えている家庭もある。

安心して眠れる人もいれば、暴力や病気や孤独に怯えている人もいる。

夜景が平等に見えるのは、社会が平等だからではない。

遠すぎて、差が見えなくなっているからだ。

夜景は格差を消しているのではない。

格差を覆い隠している。

だから、

「遠くから見ればみな同じなのだから、現実の差など気にしなくてよい」

と結論づけてはいけない。

それでは、苦しんでいる人の現実まで見えなくしてしまう。

存在の価値に上下はない。

しかし、置かれている条件には大きな差がある。

この二つは両立する。

人間としての価値を等しく認めながら、現実に存在する不平等を見なければならない。

平等とは、違いを見ないことではない。

違いによって、存在そのものの価値を変えないことだ。


7|差別は、心の問題だけではない


差別を生み出すものは、人間の読み方である。

しかし、それだけで終えるのも浅い。

人間が差別を作るのは、悪意だけが原因ではない。

不安がある。

恐れがある。

自分の位置を確かめたい欲がある。

仲間の中にいたいという願いがある。

自分の光が弱いと感じたとき、他人を暗く見積もることで安心したくなる。

その意味では、差別や争いは、強さの表現というより、弱さが外側へ向けられたものなのかもしれない。

だが差別は、個人の心の中だけに留まらない。

一度、制度や慣習や経済の仕組みに組み込まれれば、個人に明確な悪意がなくても動き続ける。

誰かを低く扱うことで利益を得る人もいる。

特定の集団を排除した方が、権力を維持しやすい場合もある。

差別とは、弱さが制度になったものでもある。

同時に、利益と支配が制度になったものでもある。

だから、心を優しくするだけでは解決しない。

自分の偏見を疑うことと、偏見が利益を生む仕組みを変えることの両方が必要になる。

人間の心は、詩を生み、哲学を生み、愛を生む。

だが同じ心が、偏見も、支配も、排除も生む。

光の向こうに人生を読むこともできる。

光の向こうに敵を読むこともできる。

問題は世界そのものだけではない。

世界をどう読み、その読み方をどのような制度に変えているかにある。


8|他人の光を誤って読むことと、自分の光を誤って読むこと


差別が他人の光を誤って読むことだとするなら、悩みは、自分自身の光を誤って読むことなのかもしれない。

光そのものが存在だとするなら、悩みは光そのものではなく、光の揺らぎとして考えることができる。

地上から見る星は、瞬いて見える。

だが、私たちが見ている揺れの多くは、星そのものが明滅しているからではない。

地球の大気の乱れによって光の進路が変化し、揺らいで見えている。

人間も、少し似ている。

自分そのものが壊れているわけではないのに、社会や疲労や記憶や他人の言葉や不安が通り道を乱し、自分の光が揺れて見えることがある。

人は悩むと、自分そのものが駄目になったように感じる。

だが実際には、存在が消えかけているのではなく、存在の現れ方が不安定になっているだけかもしれない。

光が揺れることと、光が存在しないことは違う。

この違いは、生きる上で大切だと思う。

ただし、すべての悩みが単なる見え方の問題だという意味ではない。

生活環境や貧困や病気や暴力によって、現実に光を遮られている人もいる。

本人の考え方を変えれば済む苦しみばかりではない。

それでも、

「現在の状態」と「存在そのもの」を同一視しないことには意味がある。

うまく働けない時期があることと、人間として価値がないことは違う。

誰かに愛されなかったことと、愛される価値がないことも違う。

光の状態と、光の存在は同じではない。


9|Sonderにも危うさがある


ここまで考えると、Sonderもまた、ただ美しい感覚として扱うことはできなくなる。

私はマンションの光を見て、その中に生活を読んだ。

誰かを待つ人。

住宅ローンを抱える人。

孤独な人。

家族を守ろうとする人。

だが、それは本当に、その光の中に存在している人生なのだろうか。

私は、何も知らない窓の向こうに、自分の物語を投影しているだけかもしれない。

他人にも複雑な人生があると想像することと、他人の人生を理解したつもりになることは違う。

想像力は、他者への入口になる。

しかし同時に、自分の解釈で他者を覆い隠す危険も持っている。

ある人の光を見て、

「きっと幸せなのだろう」

と決めつけることもできる。

「きっと孤独なのだろう」

と決めつけることもできる。

どちらも、実際の本人を見ているわけではない。

成熟したSonderとは、他人の人生を想像によって理解することではないのかもしれない。

むしろ、

他人には、自分には最後まで読み切れない人生がある

と認めることなのだと思う。

理解とは、すべてを知ることではない。

自分には分からない奥行きが存在することを、消さずに残すことでもある。


10|観測者である私も、値札を貼る側にいる


ここまで考えてくると、最初に夜景を見ていた自分も、ただの観測者ではいられなくなる。

私はマンションの光を見て、その中に生活を読んだ。

星の光を見て、その向こうに遠さを読んだ。

人間社会を見て、差別の異常さを読んだ。

悩みを見て、光の揺らぎとして読んだ。

だとすれば、私は光そのものを見ているのではない。

光に意味を与えている。

そして、その意味の与え方次第で、世界はまるで違って見える。

ある人は、他人の光を見て優劣を読む。

ある人は、他人の光を見て、生の等しさを読む。

ある人は、自分の揺らぎを見て欠陥だと読む。

ある人は、自分の揺らぎを見て、生きている証だと読む。

世界の見え方は、世界そのものだけでは決まらない。

それをどう読むかによって、大きく変わってしまう。

だから私は、夜景を見るたびに思う。

差別とは、あまりにも不自然だ。

皆ただ存在しているだけなのに、なぜ人間はそこに優劣を刻もうとするのか。

皆ただ光っているだけなのに、なぜ人間はそこに境界を引きたがるのか。

宇宙は、人間社会のような仕方で存在に順位をつけない。

それなのに、人間は存在そのものに点数をつける。

そのことの方が、よほど異常に見える。

しかし、そこで私は立ち止まらなければならない。

差別を異常だと思う自分は、本当に一点一点の光を平等に見てきただろうか。

夜景を美しいと思いながら、無意識のうちに、明るい光と暗い光を分けていなかっただろうか。

大きな光と小さな光を見比べていなかっただろうか。

勝手に物語を与え、勝手に価値を読んでいなかっただろうか。

差別する人間を、自分より下に置くことで、新しい序列を作っていなかっただろうか。

差別がおかしいのではない。

正確には、差別をおかしいと思うこの私の目もまた、どこかで値札を作る側に立っている。

その矛盾から完全に逃れることは、たぶんできない。

人間は分類せずには世界を認識できない。

意味を与えずには、世界を理解できない。

だが、分類することと、分類を絶対視することは違う。

意味を与えることと、与えた意味を真実そのものだと思い込むことも違う。

必要なのは、値札を一度も貼らない純粋な人間になることではない。

自分が値札を貼っていることに気づき、何度でも剥がし直すことなのだと思う。


おわりに|俺を遠くから見たら、どんな光なのだろうか


遠くから見れば、皆ただの一点の光である。

それでは俺を遠くから見たら、どんな光なのだろうか。

私にも、自分だけが知っている生活がある。

失ったものがあり、守りたいものがあり、言葉にできなかった時間がある。

私の物語の中では、私は私の人生の主役である。

だが、どこかの誰かにとっては、私もまた、夜景の中の一点にすぎない。

通勤途中ですれ違った人。

電車の窓から一瞬見えた人。

ある夜、遠くのマンションに灯っていた、名前も知らない光。

考えるとは、ただ情報を処理することではない。

見えていないはずの構造を読み、そこに問いを立てることだ。

夜景を見て、綺麗だと思うだけで終わることもできる。

だが、その奥に生活や負債や孤独や文明や差別や悩みまで見えてしまう。

そして最後には、それらを見ている自分の目まで疑わなければならなくなる。

その面倒さもまた、人間らしさなのだろう。

夜景を見て、差別の愚かさまで読んでしまう私は、いったい光に何を見ていたのだろうか。

おそらく、他人の人生だけではない。

光に値札を貼りながら、その値札を剥がそうとしている、自分自身の矛盾を見ていたのだと思う。


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