「差別はいけない」と言いながら、差別を別の形で続ける社会について
※この記事は約12300文字です。
結局、人は差別は良くないと言いながら
差別を別の何かに埋め込んでいるんだよ。
人は差を感じることで感情を発生させる生き物なんだ。
この二行が、この記事のど真ん中にある。
ここでは、
• フライドチキンと黒人差別
• 男女別トイレや風呂
• VIPラウンジ
• そして資本主義と「勝者/敗者」
こういう、どこかで見たことのある題材をぐるっと一周させながら、
• 差異
• 序列
• 差別
この三つがどう絡み合っているのかを、あらためて整理してみたい。
「差別はよくない」と言いながら、
社会も、そして自分自身も、いったいどこで何をやっているのか。
その構造を、なるべく生々しいまま言葉にしておく試みだと思って読んでもらえたらうれしい。
1. 差別の前に、「三つの段階」を分けておく
いきなり「差別」という言葉から入ると、
世界のすべてが黒く染まって見えてしまう。
なのでまず、ざっくりと三段階に分けてみる。
① 差異
これは、単なる「違い」そのものだ。
• 走るのが速い/遅い
• 背が高い/低い
• お金がある/ない
• 得意なことがある/ない
事実としての「違い」。
ここには、まだ善悪も上下もない。
② 序列化
差異に対して、
• こっちが“上”、あっちが“下”
• こっちが“マシ”、あっちが“ダメ”
というラベルを貼り始めるゾーン。
• 学歴が高い方が“偉い”
• 年収が高い方が“勝ち組”
こういう感覚が出てきた瞬間、差異は「序列」に変わる。
③ 差別
序列に基づいて、
• 扱い
• 権利
• アクセス
を、実際に変えてしまう段階だ。
• 入れる場所・座れる場所が変わる
• そもそも機会すら与えられない
• 同じことをしても評価が違う
このあたりから、いわゆる「差別」の風景が立ち上がる。
多くの社会は表向き、
「③の露骨な差別はダメ」
と言う。
• 人種を理由に入店拒否 → ダメ
• 女性だから選挙権なし → ダメ
• 露骨なヘイトスピーチ → ダメ
これは、20世紀以降、いちおう頑張ってきた部分だと思う。
ただし、①の差異も②の序列化も、
人間の頭の中ではまったく止まらない。
むしろ自動運転で、今日もせっせと働き続ける。
問題はここだ。
「差別はダメ」と言いながら、
序列化を別の名前に貼り替えて温存する
このすり替えが、あちこちで起きている。
2. フライドチキンと黒人差別:「ただの料理」が記号になるとき
映画『グリーンブック』の要約動画を見たとき、こんな疑問が出た。
「フライドチキンで差別ってどういう理屈なの?」
たしかに、日本から見ているとピンとこない。
ただのうまい揚げ物でしょ? と。
でも、アメリカではフライドチキンには長い「物語」が張り付いている。
ざっくり言えば:
• 南部の歴史の中で、黒人コミュニティが現実によく食べていた料理であり
• 同時に、白人側が「黒人を笑いものにするステレオタイプ」として
ブラックフェイスや風刺ショー、広告の中で
わざと誇張して描いてきたモチーフでもある
つまり、「黒人=フライドチキン」は、
長年「嘲笑のアイコン」として使われてきた。
だから、
「黒人なんだからフライドチキン好きだろ?」
と、人種とセットで持ち出されると、
• 「汚い/だらしない/教養がない黒人」
という、古い侮蔑イメージのコピーを、もう一度貼られているーー
そう感じる人が出てきてもおかしくない。
ここでは、
• 差異:実際に歴史的に「よく食べられていた」という事実
• 序列化:それを「笑いものにする記号」に変える行為
• 差別:黒人だけを「フライドチキンの人」として扱うこと
という三段コンボが起きている。
『グリーンブック』のフライドチキンのシーンは、
このステレオタイプを、あえてコメディと不快感の両方で見せることで、
「悪意がない“無邪気な偏見”も、記号の歴史の上に乗るとシャレにならない」
というところを浮き上がらせている。
3. 男女別トイレ・風呂:合理的な区別と排除のグレーゾーン
そこでよく出てくる反応が、これだ。
「それ言ったら、男女別の風呂やトイレも差別じゃん」
一度、落ち着いて分解してみる。
3-1. 守ろうとしているもの
男女別のトイレや風呂には、少なくとも二つの顔がある。
1つ目は、プライバシー・身体性の保護。
• 排泄と入浴は、「ほぼ裸+身体の親密ゾーン」に関わる行為で
• 多くの人にとっては「見られたくない・見せたくない」領域
だから、ある程度空間を分けた方が、
心理的安全を感じやすい、という側面がある。
2つ目は、ジェンダー規範&マイノリティ排除。
• 「男/女」の二択で空間を分けることで
• トランス・ノンバイナリーの居場所がなくなる
• 「男らしく/女らしくあるべき」という枠も強化される
ここにもやはり、
• 差異:身体の違い、羞恥心の傾向
• 序列化:男/女の役割期待
• 差別:一部の人が、そもそも使える場所がない
という混ざり方がある。
3-2. 「即アウト」でも「完全セーフ」でもない
男女別トイレは、
• プライバシー保護という、ある程度合理的な目的と
• マイノリティを締め出す、構造的な問題
が、同じ装置の中に同居している。
だから、
存在そのものがただちに「悪」だとも言えないし、
「これで完璧にフェア」とも言えない
という微妙なゾーンにいる。
このグレーさを飛ばして、
• 「全部差別」か
• 「差別なんて被害妄想」か
どちらかに振り切ると、議論は一気に雑になる。
4. VIP専用ラウンジ:「機会の不平等」が椅子に変わる場所
ここで、もう一つの問いが出てくる。
「じゃあ、VIP専用ラウンジも差別じゃん」
「金を得る機会に恵まれなかっただけで、座る場所を分けられているじゃん」
これは、「階級」と「差別」の境界線をかなり正確に刺している。
4-1. VIPラウンジが分けているもの
表向き、VIPラウンジの基準になっているのは、
• 高い料金(ビジネス・ファーストクラスなど)
• マイルやロイヤリティ(たくさん利用した人)
• 場合によっては「招待制」
つまり、
「支払い能力」と「その会社への貢献度」
という“行動条件”だ。
紙の上では、
「誰でもたくさん乗れば/お金を払えば到達できる」
というロジックになっている。
4-2. でも実際には「機会の不平等の可視化」
ただ、現実には、
• 生まれた家庭の資産
• 教育の有無
• 健康状態
• 育った地域
こういうものが、「そもそも稼ぐチャンス」を決めてしまう。
つまり、
金を得る機会の配り方が最初から偏っている世界で、
「お金がある人だけ、静かな椅子に座っていいですよ」
と言っている。
空港の待合室を見回すと、
• ラウンジの中:スーツ姿、静かな声、アルコール、ソファ
• ラウンジの外:固いベンチ、床で寝ている人、コンセント争奪戦
同じ飛行機に乗っているのに、この景色は、
「あなたはそっち側、あなたはこっち側」
という“位”の違いを、身体レベルで叩き込んでくる。
ここでも、
• 差異:所得、職種、ライフスタイル
• 序列化:金持ちが“上”、貧しい側が“下”
• 差別:サービス・空間・時間の質を変えることで、
階級差を体感レベルで刻み込む
という構図が出てくる。
4-3. 法律上は「OKな区別」、倫理的には「階級的差別」
法や制度の世界では、ふつう、
• 人種・性・宗教を理由にした排除 → 差別としてアウト
• 金額や会員ランクによるサービス差 → 合法な「サービス格差」
として扱われる。
でも、倫理や社会哲学の目線から見ると、
「稼ぐ機会の不平等 → 所得の差 → 座る場所の差 → 自己イメージ → さらに機会の差」
というループを回す装置になっている。
その意味で、VIPラウンジは、
“広い意味での差別”を、非常に分かりやすい形で可視化している空間
と言っていいと思う。
5. 人は「差」で感情を発火させる生き物
ここで、冒頭の一文が戻ってくる。
人は差を感じることで感情を発生させる生き物なんだ。
神経科学や心理学の言葉で言えば、
• 人の脳は「絶対値」より「ギャップ」に反応する
• 過去の自分 vs 今の自分
• 期待した結果 vs 実際の結果
• となりの他人 vs 自分
この「差」が検出された瞬間に、
• 喜び
• 嫉妬
• 悔しさ
• 安心
• 不安
が立ち上がる。
差異 → 比較 → 感情
この流れは、人間の標準仕様に近い。
だから、
差を感じなければ生きられない一方で、
差を感じるとすぐ「序列」と「差別」に傾いていく
という、めんどくさい癖を抱えている。
ここで、見える差異も、感じる序列も、ぜんぶひっくるめて「差別」と呼んでしまうと、
世界が真っ黒になって、何も動かせなくなる。
重要なのは、
• 差異そのものは止められない
• 序列化もかなり自動で起きる
• ただし、「差別(扱いと権利の格差)」のところだけは、
制度設計の問題としていじれる
と切り分けておくことだと思う。
6. 資本主義と差別:「論理として」と「現実として」
ここで、話は資本主義に接続する。
そもそも資本主義が、差別がなければ成り立たないんじゃないか。
そこには必ず勝者と敗者が出てくるんだから。
この問いも、そのまま飲み込まずに分解してみたい。
6-1. ミニマルな資本主義のルール
極限までそぎ落とすと、資本主義の核は、
• 私有財産(資本)を持てる
• 市場でモノや労働を売買できる
• 利益が出れば資本を増やしてゲーム続行
• 赤字なら市場から退場
このくらいだ。
このルールを敷けば、必ず起きるのは、
誰かは儲かり、誰かは損をする。
「勝者」と「敗者」が構造的に発生する。
ここまではまだ、
• 数字のゲームとしての「選別」
• 人種も性別も本来は関係ない
というレベルの話だ。
6-2. 「差別なしの資本主義」は、論理上はあり得る
教科書的な資本主義は、こう言っている。
ルールは全員に同じで、
誰でも市場に参加できて、
結果だけが違います。
つまり、
• 「結果の不平等(勝者/敗者)」はシステムの本質
• ただし、「スタートラインやルールに人種・性別のバイアスを入れるのは反則」
という建前になっている。
この建前どおりであれば、
差別のない資本主義(でも格差はある)
という状態は、論理上は一応あり得る。
6-3. でも現実の資本主義は、差別を徹底利用してきた
とはいえ、歴史を振り返ると、現実の資本主義はずっと、
• 奴隷制・植民地支配
• 女性の無償家事労働
• 移民・マイノリティへの低賃金労働
• 「底辺職」を特定の階層に押しつける構造
を、安いコスト構造として組み込んできた。
つまり、
差別によって「安くこき使える人」「リスクを押しつけられる人」を作り、
その上に「効率の良い市場」を乗せる
という二階建て構造だ。
• 上の階:
自由競争、自己責任、公平な市場というきれいな物語
• 下の階:
そもそもスタートラインに立てていない人たち
世襲されていく貧困
構造的に弱い側にリスクを押しつける仕組み
この意味で、
「資本主義+差別」は、歴史的には相性抜群だった
と言わざるを得ない。
7. 差で感情を動かし、差別を別の名前で続ける
さらに資本主義は、人間の、
「差を感じることで感情が発火する」
という性質を全力で利用している。
• 隣の人よりいい車
• 同級生より高い年収
• SNSでより“映える”暮らし
こうした相対的な差が、そのまま、
• 儲けたい
• 負けたくない
• 追いつきたい
という欲望の燃料になる。
広告やブランドは、
• 「あなたはまだ足りない」と不安を煽り
• 「これを買えば“上の側”に行ける」と幻想を売る
そうやって、
差異 → 序列 → 劣等感・優越感 → 消費・競争
というループを回す。
一方で、表向きには、
「人種差別・性差別はダメです」
「すべての人にチャンスを」
と語る。
だからこそ、
差別は悪いと言いながら、
差別を「市場価値」「自己責任」「努力の差」というラベルに埋め込んで続けている
という感覚が生まれてくる。
8. 差異を殺さずに、差別だけを弱めることはできるか
ここまでを乱暴にまとめると、
• 差異 → 止められない
• 序列 → かなり自動で起きる
• 差別 → 設計次第で「マシ」にする余地がある
という構図になる。
「差をなくそう」とすると、人間の感情そのものまで絞め殺しにかかる。
逆に、「差があるのは当然」とだけ言ってしまうと、
差別を全部“自己責任”に流し込める。
現実的なのは、たぶんこういう方向だ。
• 差異そのものは残したまま
• 序列が「人間の尊厳」や「生存権」「基本的な安全」に
直結しないように設計し直す
たとえば、
• どれだけ負けても、最低限の医療と教育にはアクセスできるようにする
• 座る椅子のランクは違っても、「人としての扱い」は変えない
• ジョークとしての記号が、歴史的に誰を傷つけてきたのかだけは忘れない
そういう方向でしか、
「差はあるけれど、差別は少しマシな社会」
というラインには近づけないのだと思う。
9. DNA・恋愛・「知らなければ差別にならない」という問題
ここで、もう少し生物寄りの視点を足してみる。
自分の得意分野と、好きなものは違う。
結果が努力により得たものか、運で得た物かは見ていない。
人は、他人を評価するときに、
その人がどれだけ努力したか、どれだけ運が良かったか、いちいち計算していない。
ただ「差」だけを見る。
• こいつはできる/できない
• こいつはモテる/モテない
• こいつは稼いでいる/稼いでいない
その差を起点に、感情が動く。
差があるから人は努力する。
差があるから人は恋愛をする。
これも、たしかにそうだと思う。
• 「あの人には敵わない」と感じるから、追いつこうとして努力する
• 「自分にないものを持っている相手」に惹かれるから、恋愛が発生する
生物学的に見ても、
生物として自分にない DNA を欲しがるのは、生存戦略に近い。
似た DNA で固まりすぎると、
特定の病気や環境変化に、集団として極端に弱くなる。
だから、「自分とは違うもの」を本能レベルで探しにいく。
この「違いへの欲望」は、そもそも悪ではない。
ただし、ここにも落とし穴がある。
それが差別だと知らなければ、差別にはなり得ない。
自分はただ「好み」や「安心感」で選んでいるつもりでも、
その選び方が、
• ある属性を一方的に避ける
• ある属性にだけ、無意識に低い価値をつける
形になっていることがある。
そして、人はよく知らないものを恐れる。
• 触れたことがない文化
• 見慣れない肌の色
• 聞いたことのない名前の宗教
そこに、自分の不安や恐怖を投影する。
白人から見たら、白人以外は全て黒人じゃないのか。
この一言もかなり刺さっていて、
• 「自分たち」 vs 「それ以外」
• 「われわれ」 vs 「彼ら」
という大雑把なくくり方の危うさをついている。
細かい違いを全部「よく知らないもの」として一括りにし、
そこに恐怖や劣等扱いを貼っていくとき、
本人の主観としては「ただの違和感」や「好み」であっても、
構造としてはじゅうぶん差別になりうる。
逆に言えば、
「これは差別の構造なんだ」と言語化されるまでは、
当人も周囲も、それを差別だと認識できない
という問題もある。
だから、「知らなければ差別ではない」というより、
知らなければ、“差別として気づかれない差別”になり続ける
と言った方が近いのかもしれない。
おわりに:「差を感じる生き物」として、どこまでやれるか
人間は、「差」を感じることで感情が立ち上がる生き物だ。
差があるからこそ、喜びも、悔しさも、嫉妬も、憧れも生まれる。
恋愛も、努力も、野心も、かなりの部分は「差」を燃料にしている。
そのエンジンを完全に止めることは、たぶんできない。
そして資本主義は、そのエンジンを最も効率よく回してきたシステムの一つでもある。
だからこそ、
「差別がない理想社会」を夢見るよりも、
「差異を残したまま、どこで線を引き直すか」
を考える方が、現実的なのかもしれない。
• どこまでが「勝ち負けゲーム」の範囲で
• どこから先は「人としての最低ライン」としてゲームの外に出すのか
• どんな記号を笑いにしてよくて、どこからが「殴る側の冗談」になってしまうのか
差別の話は、結局いつもそこへ戻ってくる。
「差別はいけない」と言うこと自体は、きっと誰にでもできる。
けれど、
差別を別のものに埋め込んで続けてしまう自分たち
を直視するところからしか、何も始まらない。
補章1:努力しても差が埋まらないと感じたとき、人はなぜ止まってしまうのか
「努力しても、どうせ埋まらない差なんじゃないか」
この感覚が強くなったとき、人はどこかでふっと手を止める。
まるで、これ以上コマンドを受け付けないゲーム機みたいに。
ここで起きているのは、単純な「怠け」ではなくて、
「この差は、自分の手では動かせない」
という感覚の蓄積だと思う。
少し細かく見ると、「埋まらない差」を見せつけられた人は、大きく三つの方向に分かれる。
1-1. 完全停止モード:「どうせ無理」が心を凍らせる
一つ目は、わかりやすい「停止」
• 何度挑戦しても受からない試験
• どれだけ働いても、上がらない給料
• どれだけ頑張っても「才能ある人」の背中が遠ざかる感覚
こういうものが積み重なると、
「自分が動いても、世界は動かない」
という学習が成立する。
心理学で「学習性無力感」と呼ばれるものに近い。
• 何度試しても失敗する
• 成功/失敗が、自分の行動と結びつかない
このコンボが続くと、人は「試すこと」そのものをやめてしまう。
ここで重要なのは、
差が大きいから止まるのではなく、
「自分の行動が、その差に影響しない」
と感じた瞬間に止まる、という点だ。
同じ「大きな差」でも、
• 「時間はかかるけど、少しずつ近づいている」と感じる人は動き続ける
• 「まったく動いていない」と感じる人は、ある日ふっと止まる
差の“大きさ”よりも、
差に対する「手応え」の有無が、生死を分けている。
1-2. ルールごとひっくり返すモード:「そんなゲーム、やる意味がない」
二つ目は、完全停止ではなく「ルールのすり替え」だ。
「このゲームでは勝てない」
→ 「じゃあ、そのゲーム自体を否定しよう」
という動き。
• 勉強で勝てない → 「勉強なんて意味ない」と言い出す
• お金で勝てない → 「金持ちは心が貧しい」と言ってみる
• 恋愛で勝てない → 「恋愛なんてくだらない」と切り捨てる
ここでは、
• 自分が負けているゲーム
• そもそも埋められない差がある領域
に対して、
「そこは競う価値のない場所だ」
と意味づけを変えることで、自分を守ろうとしている。
これは、怠けでも嘘でもなく、
自己防衛としてはかなり合理的な動きでもある。
ただし、問題は、
「本当はやりたかったのに、
傷つかないために“やりたくないこと”に変えている」
ときだ。
欲望そのものを殺すことで、差から身を守る。
これは、心が静かになる代わりに、世界が少しずつ狭くなる方法でもある。
1-3. 差の種類を変えるモード:「この差は埋まらない。でも、別の差を取りに行く」
三つ目は、もう少ししなやかなパターンだ。
「この差は埋まらない」
→ 「じゃあ、別の種類の差で勝負しよう」
という切り替え。
• 足の速さでは勝てない → 文章や思考で勝負する
• 学歴では勝てない → 現場力や人間関係の方に全振りする
• 顔面偏差値では勝てない → 会話やユーモアで魅力を作る
ここでは、
• A:差そのものを埋めようとする
• B:差があるゲームを丸ごと否定する
• C:どの「差」を問題にするかを変える
のうち、C を選んでいる。
このモードでは、
「差がある」ことは認めた上で、
「自分が擦り切れずに生きていけるゲーム」を探し直す
という動きになっている。
この「差の種類を変える」という発想が持てるかどうかで、
「努力しても埋まらない差を見た瞬間、完全停止するかどうか」がかなり変わる。
1-4. 資本主義は「A(停止)」と「B(すり替え)」を量産しがち
資本主義の世界では、そもそものスタートラインから差がついている。
• 家庭の資産
• 教育環境
• 健康状態
• 生まれた地域
これらが、本人の努力以前に「差」を作ってしまう。
それでも、
「努力すれば報われる」
という物語だけは流れ続ける。
結果として、
• 本気でやっても報われない人 → A(停止モード)へ
• その構造ごと嫌になった人 → B(ルールごと否定モード)へ
と流れていく。
「努力しても差を埋められないと感じた時に人は行動しなくなるのでは」という問いは、
単に「人間は弱いから」という話ではなくて、
「差をどう設計し、どう見せる社会か」にも関わっている。
どんな差なら「まだ遊べる」と感じられて、
どんな差なら「もう無理だ」と心が折れるのか。
それを見ずに、「やる気がない」「自己責任だ」とだけ言い続けると、
停止する人は増えていく。
補章2:利権と団体は、どんな「安心」を守ろうとしているのか
人が利権だの団体だのを作るのは、
本人たちが安心を得るためなんじゃないのか。
利権も、団体も、言葉として出てくるだけでどこか嫌な匂いがする。
けれど、その出発点にはかなり素朴な欲求がある。
「この世界で、明日すぐには首を切られない場所が欲しい」
という、ごくまっとうな不安への対処だ。
2-1. 利権・団体がくれる「二種類の安心」
人が一人でいるときに感じる不安は、だいたいこんなものだ。
• 自分の生活が、明日どうなるかわからない
• 上のルール変更一発で、全部吹き飛ぶかもしれない
• 権力や資本を持つ側の都合に、いつでも振り回される
そこで生まれるのが、団体や利権だ。
ここには、少なくとも二種類の「安心」が混ざっている。
1. 理不尽から身を守るための安心
• 不当解雇を避けるための労働組合
• 過剰な競争で品質が下がらないようにする専門職団体
• マイノリティが迫害されないように声を上げる市民団体
これは、「守るための安心」
2. 他人よりも“上”にい続けるための安心
• 業界参入に高い資格や許認可を要求して、新規参入を防ぐ
• 既存団体にだけ補助金や利権が落ちる仕組みを維持する
• ポストや予算を「うちの派閥の取り分」として囲い込む
こちらは、「優位を固定するための安心」。
前者は、まだ「生存のためのシールド」に近い。
後者は、「序列を固める装置」に近い。
問題は、この二つが時間とともにどんどん混ざっていくことだ。
2-2. 守るために作った団体が、いつの間にか「囲い込み」に変わる
同じ団体が、
• メンバーを守る
• 外の人を締め出す
を同時にやってしまうのは、むしろ普通だ。
たとえば、労働組合
• 良い顔:
• 不当解雇を防ぐ
• 賃金や労働環境を改善する
• もう一つの顔:
• 非正規やフリーランスは守備範囲外のまま
• 新しい働き方や外部の人間には冷たい
とか、業界団体
• 表の顔:
• 業界の品質基準を保つ
• 消費者を守る安全基準を作る
• 裏の顔:
• 規制で競争を減らし、価格や地位を守る
という二面性。
ここでもやっぱり、
• 内側:安心+既得権
• 外側:不安+参入障壁
という構図が立ち上がる。
出発点が「安心」であっても、
それが時間によって「利権」に変わっていくのは、ほぼお約束の流れでもある。
2-3. 利権とは、「動かない安心」になってしまったもの
利権を乱暴に定義し直すと、
「一度手に入れた安心を、
どんなに世界が変わっても、手放さないように固めたもの」
とも言える。
• かつては必要だった制度や補助金が、
もはや時代に合っていないのに、消えない
• 新しい技術や新しいプレイヤーが出てきても、
古い仕組みを守るために、わざと出鼻をくじく
ここまでくると、
• 初期:理不尽から身を守るための安心
• 末期:自分の取り分を守るための安心
へと、目的がすり替わっている。
安心そのものが悪いのではなく、
「変わる余地を失った安心」
が、利権というかたちで固まってしまう。
2-4. 「安心のための団体」全部を否定すると、別の意味で地獄になる
じゃあ、
「利権や団体なんて全部なくせばいい」
かというと、それも極端だと思う。
• 労働者が完全にバラバラなら、資本側の暴走は止めづらい
• マイノリティが一人ひとりで声を上げても、簡単につぶされる
• 医療や教育など、専門性が高い領域は、「専門職の集団」がゆるくルールを作らないとカオスになる
つまり、
「安心を求めること」自体は、
個人としても社会としても、必要な本能だ。
問題は、
「守るための安心」が、
いつの間にか「他人を押しのけるための安心」に変わる
その境目が、うやむやのまま進行してしまうこと。
2-5. 何を確認しないといけないのか
だから、本当に問うべきなのは、
「その団体/その利権は、
誰のどんな不安を和らげていて、
代わりに誰のどんな不安を増やしているのか」
というポイントだと思う。
• 本当に守りたいのは「最低限の生活」なのか
• それとも、「自分たちだけが美味しいポジションを維持すること」なのか
• 外側にいる人にとって、その団体は「シールド」なのか「壁」なのか
ここを言語化しておかないと、
最初は「安心のための集まり」だったものが、
いつの間にか「差別と格差の固定装置」に変わっていく。
2-6. 安心と差別は、かならずどこかで接触してしまう
利権や団体の話は、差別ともつながる。
• 「俺たちの安心ゾーン」を守る
• その結果として、「外側」の誰かが閉め出される
この構図は、
「われわれ」と「彼ら」を分けることそのもの
と重なっている。
人が団体を作るのは、たしかに安心のためだ。
けれど、その安心はいつだって、
• 内側の安心
• 外側の不安
とセットで立ち上がる。
だから、
「利権や団体を全部悪とみなす」のではなく、
「その安心が、誰をどこまで巻き込んで守っているのか」
を、常に問い直す必要がある。
安心がゼロの社会は、たぶん誰も生き残れない。
でも、「動かない安心」だけで固めた社会も、同じくらい行き止まりに近い。
その中間で、
• 揺らぎを許しながら
• それでも最低限の安心を残す
そんな設計ができるかどうかが、
利権・団体・差別・資本主義をごちゃっとまとめて考えるときの、大きな分岐点になっている気がする。
補章3:「若者の◯◯離れ」は、“埋まらない差からの集団的撤退”ではないか
「若者の車離れ」「恋愛離れ」「結婚離れ」「酒離れ」「テレビ離れ」──
ここ十数年で、やたらと「◯◯離れ」という言葉が増えた。
でも、このラベルはほとんどの場合、
若者が自分で名乗っているわけではない。
たいていは、
「俺たちの世代では当たり前だった◯◯を、
なぜお前らはやらなくなったんだ?」
と不思議がる側が貼っている名前だ。
ここでもう一度、さっきまでの話を持ち込んでみる。
若者の◯◯離れは、“埋まらない差からの集団的撤退”なんじゃないか。
こう仮定して眺め直すと、景色がけっこう変わる。
車離れを例にするとわかりやすい。
• かつては、「マイカーを持つ」ことが
大人の象徴であり、モテ・自由・ステータスのチケットだった。
• それは、「車を持つ側/持たない側」という差を
“埋められるもの”として提示していた。
頑張って稼いでローンを組めば、自分もそっち側に行ける、というゲームだ。
でも今の若者からすると、
• 維持費は高い
• 給料は伸びない
• 都市部なら徒歩+電車+シェアで困らない
冷静に計算すると、
「車で埋められるはずの差」が、
実は埋まらないどころか、生活を圧迫するリスクになっている
と見えてしまう。
結婚や恋愛についても、構造は似ている。
• 昔は、「結婚して家庭を持てば、とりあえず中流」という物語が一応あった。
• それは、「今は不安定でも、結婚というイベントを通過すれば安定側へ移行できる」という
“差を跨ぐルート”として機能していた。
でも、非正規雇用・共働き前提・子育てコスト・離婚リスク…が見えている世代からすると、
「そこに飛び込んでも、本当に差は埋まるのか?」
「むしろリスクだけ増えて、差はそのままか、もっと開くのでは?」
という疑いの方が先に立つ。
酒、テレビ、大企業、持ち家──
いろんな「◯◯離れ」が挙げられるけれど、
どれも少し引いて見ると、
以前の世代が「ここに乗れば差を埋められる」と信じていたルートを、
今の世代が「そこはもう埋まらない」と判断している
という構図になっている。
離れているのではなく、
「撤退」を選んでいる。
それも、一人ひとりの気分ではなく、
世代単位での集団的撤退として。
このとき、「若者の◯◯離れ」と嘆いている側は、
こんな風に見えているのかもしれない。
「俺たちが命がけで作った“差を埋める階段”から、
なぜお前らは降りてしまうんだ?」
でも、若い側からすれば、
「その階段、もう上に繋がってないですよ。
途中で途切れてるの、こっちからは見えてますよ」
という話だったりする。
ここに、「世代間の価値観の違い」が生まれる。
• 上の世代にとっては、「安心を与えてくれたルート」
• 下の世代にとっては、「コスパの悪い、埋まらない差のルート」
同じ制度、同じ文化、同じ選択肢を前にしていながら、
それを「梯子」と見るか、「罠」と見るかが違ってくる。
その違いが、十年、二十年、三十年と蓄積していくと、
価値観の層が年輪みたいに増えていく。
「車は男のロマンだ」と育った年輪
「車はただの負債だ」と感じる年輪
「結婚して一人前」と教えられた年輪。
「結婚は人生コストが高すぎる」と見ている年輪。
同じ幹に、違う色のリングが刻まれていく。
そう考えると、
若者の◯◯離れは、“埋まらない差からの集団的撤退”であり、
そして、この作用を含めて世代間の価値観の違いが生まれて、
その違いが年輪のように積み重なったものが歴史なのだと思う。
歴史は、英雄や戦争や技術革新の物語だけじゃなくて、
「このゲームはもう割に合わない」と感じた人たちが
静かに卓から立ち上がっていく、その積み重ねでもある。
誰かが「離れ」と呼んだその行為は、
実は、
「埋まらない差を、埋めようとするのをやめる」
という、とてもラディカルな選択の連鎖なのかもしれない。
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