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使用する語彙は、その人間の棲む世界を映す。

副題  
日常語から存在の階層を読むために

はじめに|人は、何を話しているのか


人は、言葉で世界を生きている。

腹が減った。  
眠い。  
ムカつく。  
好き。  
仕事がある。  
責任がある。  
自由とは何か。  
愛とは何か。  
死とは何か。

これらは、どれも言葉である。

だが、同じ言葉でも、それが指している世界は同じではない。

「飯」と言うとき、人は身体の世界にいる。  
「ムカつく」と言うとき、人は感情の世界にいる。  
「上司」と言うとき、人は関係の世界にいる。  
「契約」と言うとき、人は制度の世界にいる。  
「意味」と言うとき、人は抽象の世界に立ち上がっている。

つまり、語彙とは単なる道具ではない。

その人が今、どの世界に沈んでいるのか。  
どの世界から世界を見ているのか。  
どの高さで現実を読んでいるのか。

それが、語彙にはにじむ。

この記事では、語彙を「意味を伝える単位」としてではなく、  
人間が棲んでいる世界階層を映すものとして考えてみたい。


第1章|言葉は意味ではなく、居場所を示す


ふつう、言葉は意味を伝えるものだと思われている。

「水」と言えば水を指す。  
「仕事」と言えば仕事を指す。  
「愛」と言えば愛を指す。

けれど、本当にそうだろうか。

同じ「水」という言葉でも、喉が渇いた人が言う水と、化学者が言う水と、詩人が言う水は違う。

喉が渇いた人にとって、水は生存である。  
化学者にとって、水は物質である。  
詩人にとって、水は比喩である。

同じ語彙でも、どの世界から発されるかによって、その言葉の重さは変わる。

言葉は、辞書の中にあるときは平面である。

しかし、人間の口から出た瞬間、立体になる。

それは、その人の身体、感情、関係、制度、思想を背負って発されるからだ。

だから、語彙を読むとは、単語の意味を読むことではない。

その言葉が、どの層から出てきたのかを見ることだ。


第2章|世界認識の五つの層


人間の語彙は、大きく五つの層に分けて考えることができる。

第一の層は、本能である。

飯、眠い、だるい、痛い、暑い、寒い、疲れた、うまい、まずい。

ここで人間は、まず身体として世界にいる。

この層では、世界は「快か不快か」として現れる。  
食べたい。寝たい。逃げたい。楽になりたい。  
人間が動物であることを、もっとも率直に示す語彙である。

第二の層は、感情である。

嬉しい、悲しい、ムカつく、好き、嫌い、不安、怖い、しんどい、安心する。

ここで世界は、自己状態として現れる。

出来事そのものではなく、出来事によって揺れた自分が語られる。

感情語が多い人は、世界を事実としてではなく、自分の反応として受け取っている場合が多い。

第三の層は、社会である。

俺、私、あの人、友達、親、上司、部下、彼女、彼氏、同僚、関係、立場。

ここで人間は、自分ひとりではなく、他者との距離の中に置かれる。

誰が上か。  
誰と近いか。  
誰にどう見られるか。  
誰とどんな関係なのか。

社会語彙は、人間が群れの中で生きていることを示す。

第四の層は、制度である。

仕事、会社、契約、法律、義務、責任、税金、保険、手続き、評価、査定。

ここでは、世界は個人の感情を超えた仕組みとして現れる。

したいかどうかではなく、しなければならない。  
好きか嫌いかではなく、責任がある。  
気分ではなく、手続きがある。

制度語彙は、人間が社会をただ感じるだけでなく、構造として読む段階に入ったことを示す。

第五の層は、抽象である。

自由、愛、死、真理、意味、存在、正義、誠実、倫理、孤独、信仰、無、矛盾、永遠。

ここで世界は、目の前の出来事を超えて問われる。

なぜ生きるのか。  
何を信じるのか。  
正しさとは何か。  
愛とは所有なのか。  
自由とは選択なのか。  
死は終わりなのか。

抽象語彙は、人間が世界をただ生きるだけでなく、世界そのものを問い返している状態を示す。


第3章|語彙の偏りは、その人の世界重心である


人がどんな語彙を多く使うかを見ると、その人の世界重心が見えてくる。

本能語彙が多い人は、身体の快不快に強く引かれている。  

感情語彙が多い人は、出来事を情動として受け取りやすい。  

社会語彙が多い人は、人間関係や立場に意識が向きやすい。  

制度語彙が多い人は、責任やルールの中で世界を読んでいる。  

抽象語彙が多い人は、現実を概念として捉え直そうとしている。

もちろん、これは優劣ではない。

本能語彙が多いから低い人間だという話ではない。  

抽象語彙が多いから優れているという話でもない。

腹が減っているときに「存在とは何か」と言い続ける人間は、むしろ壊れている。

現実には、どの層も必要である。

身体を失えば、生きられない。  
感情を失えば、人間味が消える。  
社会を失えば、関係が壊れる。  
制度を失えば、責任が崩れる。  
抽象を失えば、意味が痩せる。

問題は、どの層にいるかではない。

ひとつの層に閉じ込められていることだ。


第4章|低層語彙と高層語彙の誤解


ここで注意したいのは、低層と高層という言い方である。

本能が低く、抽象が高いと言うと、すぐに価値判断のように聞こえてしまう。

けれど、ここで言う階層は、偉さではない。

水の中、地上、空、宇宙のようなものである。

魚にとって水中は低い場所ではない。  

鳥にとって空は偉い場所ではない。  

それぞれ、生きる場所が違うだけである。

ただし、人間は複数の層を行き来できる。

飯を食べ、怒り、誰かと関係を結び、仕事の責任を背負い、最後には生きる意味を考える。

人間の面白さは、ここにある。

人は動物であり、感情体であり、社会的存在であり、制度の住人であり、抽象を問う存在でもある。

だから語彙を見ると、人間がどの層に固定されているかだけでなく、どの層を移動できるかも見えてくる。


第5章|語彙は本性そのものではない


ただし、語彙を見ればその人のすべてが分かる、という話ではない。

言葉はいくらでも飾れる。

抽象語を使う人間が、必ず深いわけではない。  

優しい言葉を使う人間が、必ず優しいわけではない。  

制度語を使う人間が、必ず責任を取るわけではない。

語彙は本性そのものではない。

むしろ語彙は、その人がどのように見られたいかを含んでいる。

だから語彙だけで人間を断定してはいけない。

見るべきなのは、語彙と行動の一致である。

愛を語る人が、実際に何を守ったのか。  

誠実を語る人が、面倒な場面でどう振る舞ったのか。  

責任を語る人が、不利なときに何を引き受けたのか。  

自由を語る人が、他者の自由をどこまで許したのか。

語彙は地図である。

だが、行動は足跡である。

その人が本当にどこにいたのかは、地図ではなく足跡に残る。


終章|語彙は、棲んでいる世界の影である


人は、自分がいる世界の言葉を使う。

身体に沈んでいるとき、人は身体の言葉を使う。  

感情に呑まれているとき、人は感情の言葉を使う。  

群れの中にいるとき、人は関係の言葉を使う。  

制度に縛られているとき、人は責任の言葉を使う。  

意味を探しているとき、人は抽象の言葉を使う。

語彙とは、世界の影である。

その人が何を見ているのか。  

どこに立っているのか。  

何に囚われているのか。  

どこへ立ち上がろうとしているのか。

それらは、言葉の選び方ににじむ。

言葉は本性そのものではない。

だが、語彙は人間が棲んでいる世界を映す。

そして、人間を深く見るとは、  
その人が何を言ったかだけでなく、  
どの世界からその言葉が出てきたのかを観ることなのだと思う。


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