「山城国淀城と山崎の戦いの明智光秀の陣を巡る」の下見 その1(2025年12月3日(水))
2026年2月18日(水)に計画されている城郭探訪OB会第98回例会の下見として、京都市伏見区の徳川の時代の淀城址(近世)と淀殿で有名な淀古城跡、並びに大山崎町・長岡京市にまたがる山崎の戦いの明智光秀の陣を下記地図に従い巡りました。歩行歩数は総計17,000歩でした。
訪問地点が多かったことから、ここでは、前半に訪問した京都市伏見区の淀城址と淀古城跡について報告します。前半は下の地図の右側になります。
本日のコース全体を下図に示します。図のタイトル部分はクリックするとGoogleマップにリンクしています。

元和9年(1623)8月、2代将軍徳川秀忠からの命で松平定綱が淀藩へ所領3万5千石で入部を命じられました。その後『淀下津町記録』によると淀中島の河村右衛門の屋敷跡に江戸幕府の援助によって、淀城(近世)が築城され、松平定綱は淀城の最初の城主となりました。

淀城址(近世)
淀城(近世)は桂川と宇治川に挟まれた低湿地に立地しており、本丸と二ノ丸を中心に回字形に三ノ丸、西ノ丸が取り巻き、三ノ丸東外方には東曲輪が巨大な角馬出として設けられています。
北面は桂川が外堀となり、淀小橋が架けられていました(南の木津川に淀大橋)。
淀城で最も注目されるのは本丸南東隅の天守です。『淀古今真佐子』によると、廃城となった伏見城の資材を転用、二条城の天守を移築し約3年をかけて3川合流地点の中島に築かれたと伝えられています。
以降は京都守護の拠点となり、松平氏や稲葉氏など諸国の譜代大名が居城し、明治維新まで存続しました。現在は本丸・天守台の石垣と内堀の一部が残り、公園として整備されています。

京阪淀駅を出発して、最初に淀城址(近世)を訪問しました。
駅のすぐ先に城址が見えています。淀城址(近世)の発掘調査は数多く行われ、京阪電気鉄道淀駅の移転と高架化に伴っても行われました。
本日訪問の淀城址(近世)に関連する遺構が多数見つかり、当時の城の様子が明らかになってきています。

まず、駅側からすぐの入口には與杼神社(よどじんじゃ)の鳥居がありましたので、立ち寄りました。淀城址(近世)には、明治時代の桂川河川敷の拡幅工事により淀の鎮守である與杼神社(よどじんじゃ)が遷座しています。

ちょうど、紅葉の時期で銀杏の落ち葉が黄色の美しいカーペットを形作っていました。

與杼神社本殿です。與杼神社は京都市伏見区淀に鎮座する産土神で、元の鎮座地は、今の宮前橋の下流、桂川右岸の川原になっているあたりで、桂川河川敷の拡幅工事が実施されることになったことから、本殿以下すべての建物が、明治35年(1902)6月21日、現在の淀城址内に遷座されています。

この與杼神社には、幕府に取り潰されはしましたが、大阪淀屋橋を架けて有名な大坂の豪商淀屋寄進の高灯籠(写真両側)があります。淀屋初代がこの地の出身であったことから寄進されたものです。
中央に見える石は、旧與杼神社跡の宮前橋下、大下津側桂川右岸辺りにおいて約1000年ぶりに発見された「旧與杼神社基礎石」です。京都市埋蔵文化財保護課の支援により移されました。
與杼神社は西暦960年頃千勧內供という学問僧が佐賀県佐賀郡川上村鎮座の與杼日女(よどひめ)神社の御魂を氏神として勧請したのに始まります。

稲葉神社: 3代将軍徳川家光の乳母 春日局の夫で、稲葉氏の家祖の『稲葉正成』が御祭神として祀られる神社で、與杼神社のとなりにあります。


桂川、宇治川、木津川が合流する地に築かれた淀城は、全て水に囲まれて「水に浮かぶ城」の様でした。 以降、京都守護の拠点となり、西国の抑えとして歴代、松平氏、永井氏、石川氏など譜代大名が淀藩主に任じられました。享保8年(1723)に稲葉正知が10万2000石で藩主となって以後は、明治維新まで稲葉家が藩主を務めました。
廃藩置県により廃城となり、本丸・天守台の石垣と内堀の一部が残り、公園として整備されています。
伏見宿から、わずか4kmしか離れていないにもかかわらず、東海道五十七次の55番目の宿場町がおかれたのは、京都守護の拠点であった淀城が築城され、城下町が形成されたことが要因と考えられます。

江戸時代になって徳川幕府の一国一城令により、京都の幕府拠点を二条城とし、豊臣秀吉が築城した伏見城(京都市伏見区)を廃城とした代わりに、京都守護の城として、徳川2代将軍の秀忠が松平定綱に命じて新たに築かせたのが淀城です(次に訪問の淀古城跡とは別の場所)。廃城となった伏見城の石垣などの資材と二条城の天守が移築され、城郭は寛永2年(1625)にほぼ完成しました。
当初、淀城(近世)は、伏見城の天守を移築する計画で天守台を築いたところ、その伏見城の天守が二条城へ移され、代わって小さな二条城の天守(五重五階の望楼型天守)が淀城へ移されたとのことです。
その結果、天守台に比べ天守が小ぶりで、天守台に空地が生じたので天守台四隅に架け造りの小さな櫓を配し、その間を多聞櫓で連結し、中央に天守を載せるという特異な連立天守であったと説明されています。
なお、この情報に中井均先生は以下の理由で疑問を呈しておられます。
①二条城天守移築の根拠は、築城後1世紀以上を経た渡辺善右衛門の著作にしか認められない。
②発掘調査で出土した瓦に、伏見城出土瓦と同笵瓦が存在する。
③そもそも天守を移築する場合、その構造のまま移すのではなく、大津城の天守を移築した彦根城の天守のように、用材や瓦などを転用して築くのであって、移した天守が小さかったので四隅に櫓を付けたなどということはありえない。
④徳川幕府の作事方であった中井家が淀城築城に関わっており、中井家に『山州淀御城御天守木口指図』という図面が存在している。


ということは、中井家は最初からこうした特異な形状の天守を造ろうという意図があったのではないか。

東面を正面に描いたものだが、天守は東面ではなく南面が描かれている。
『徳川実紀』には、伏見城の天守や殿舎を移築して淀城を築くということが記されていますが、淀藩家老であった渡辺善右衛門が、自身作図の『山城国淀天守之図』や、著作『古今淀眞佐子』の中に記したことにより、淀城の天守は、当初、伏見城の天守を移築するはずであったが、伏見城の天守は二条城へ、二条城の天守を淀城へ移築したとされていて、淀城の天守が特異な構造となったのは、二条城天守と淀城の天守台の大きさが合わなかったための苦肉の策であったとされています。



しかし、この天守は宝暦6年(1756)の落雷で焼失しました。
昭和62年(1987)の発掘調査では、落雷に伴うとみられる火災痕跡を確認しています。また、調査により上述の特異な連立天守の形状が裏付けられたとともに、穴蔵形式であったことも判明しました。


下の写真は府道13号に面した本丸石垣と内堀です。

淀古城跡
城のあった淀・納所(のうそ)地域は、桂川、宇治川、木津川の3つの河川が合流する三角洲であり、かつては「与渡津」と呼ばれ京都盆地の南の出入り口にあたり、標高も約10mと低く、盆地内の河川が全てこのあたりで合流しています。
地理的に京と大坂(阪)や西国方面を繋ぐ舟運の中継地で、大阪からの京街道と京へと続く「鳥羽街道」の合流点でもあり、交通の要衝の地でした。
地名の納所(のうそ)は品物を納める所を意味し、軍事的にも重要な場所であったことがわかります。
ここに、上述の淀城の以前の室町時代から豊臣秀吉の時代、旧宇治川北岸の納所辺りに豊臣秀吉の側室の淀殿で有名な淀古城が設けられていました。
淀古城の史料での初見は文明10年(1478)で、山城国守護がここに入部するとの記事があり、山城国下5郡(山城国北半部)の守護所が置かれたといわれます。

(京都市内遺跡詳細分布調査報告令和4年度130983_3より)
淀古城は天正10年(1582)6月の本能寺の変の後、『兼見卿記』によれば明智光秀が淀古城を改修したと記録され、山崎の戦い(その2参照)でも利用されました。光秀が羽柴軍の中国大返しの報を受けて、軍が船で淀川を遡ってきた場合に備えたものです。
秀吉の天下となってからは、天正17年(1589)3月に、秀吉の弟 豊臣秀長が秀吉の命令により淀古城を改修し、秀吉が側室茶々に与えて産所としました。淀殿の居城であることから、鶴松誕生後を想定した改修工事です。
豊臣秀長の大和郡山への帰還は5月12日。その約2週間後に鶴松は誕生しました。淀古城は秀吉の側室・茶々が鶴松を出産した城であったことから、茶々は「淀の方」と呼ばれることになりました。

『駒井日記』によると淀古城には、天守も存在していたことがわかります。
この淀古城で生まれた長男鶴松は3歳で病死し、秀吉は文禄3年(1594)に淀古城を破却し、資材の多くは伏見城建築に使用されました。
下図は江戸時代初期の様子を描いた屏風絵ですが、それが作成された時点で淀城は描かれていますが、淀古城は地名が記載されているだけです。

妙教寺(みょうきょうじ)は京都市伏見区納所北城堀にあり、寛永3年(1626)大坂の富豪商人、法華又左衛門尉貞清の発願により、豊臣秀吉の側室・淀殿の産所となった淀古城下の一角に建立された法華宗真門流の寺院です。ここに淀古城址の石碑があります。
慶応4年(1868)の鳥羽・伏見の戦いで激戦地となり、本堂には砲弾の貫通跡が残されています。


妙教寺の南側にある水路(納所川)は、この水路を境にして「納所南城堀」「納所北城堀」と地名が変わることから、淀古城跡の堀跡とされます。
さらに周辺には、「納所薬師堂」など城に係る地名*が残り城址であることを示しています。
*「薬師堂」は、岩成友通(?-1573)が淀古城鎮護のために建てた堂宇があった地とみられています。また、城の鬼門除けとして、薬師如来が安置されていたともいわれます。

この後、桂川の宮前橋を渡り、山崎の戦いの場所(大山崎町、長岡京市)へと移動しました。この後の話はブログその2に続きます。
なお、城郭探訪OB会の第98回例会本番は、2026年2月18日(水)に実施されました。 以上
