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城郭OB第98回例会「淀城址・山崎合戦明智光秀本陣跡」(京都市伏見区、大山崎町、長岡京市)(2026年2月18日(水))

城郭OB第98回例会が2月18日(水)に開催され、城郭探訪OB会員73名が参加しました。総歩行歩数は13,000歩でした。
なお、本例会については筆者は下見を実施しており、訪問した京都市伏見区域大山崎町・長岡京市区域につき、2つのブログに分けて報告をしております。特に歴史面を調査して記載しておりますので、興味ある方はリンク先をご覧ください。

京阪淀駅淀駅前で例会開催の挨拶とコースの説明を行い出発しました。参加人数が多かったことから3班に別れて行動しました。

淀駅前での参加者集合

以下に本日の例会のコースを示します。京阪淀駅からスタートし、JR長岡京駅がゴールです。

第98回例会コース(Googleマップより)

最初の目的地の淀城址は駅に隣接していることから、すぐに第一目的地に到着です。まず、淀城址本丸内に鎮座する與杼(よど)神社と稲葉神社、次に、本丸内の天守台と櫓台を見学しました。
淀の鎮守である與杼神社は桂川に架かる宮前橋の袂に鎮座していましたが、明治後半に河川敷拡幅工事により現在の地に遷座しました。與杼神社の特徴は、拝殿が豊臣秀頼により再建された重要文化財の建物(本殿もでしたが焼失・再建)ということです。
また、稲葉神社(写真省略)は明治まで続いた淀藩主稲葉氏の家祖で、春日局の夫「稲葉正成」を御祭神として祀った神社です。

與杼神社本殿(奥)と拝殿(手前)

淀城址は逸話が満載で、徳川秀忠の命で築城され、天守台は築城のきっかけである伏見城廃城後の大型天守の受入のために築かれました。しかし、伏見城天守の移築先が二条城に計画変更され、二条城で余り行き場を失った小ぶりの二条城五重天守(元来は大和郡山城天守であったといわれています)が、玉突き式にこちらに移築され、淀城天守となりました(下図中央)。

淀城縄張図
洛外図屏風笹井家本淀城部分(淀城跡発掘調査現地説明会資料より)
江戸初期の風景

現地での天守台の解説中に石垣様式につき質問が出されましたが、江戸時代初めの様式(打込接)です。石垣には築城に係わった藩の刻印のあるものもありました。

淀城天守台跡

淀城築城資材には廃城となった伏見城のものが用いられたことから、伏見城の石垣も多数存在するでしょう。天守は宝暦6年(1756)の落雷により焼失したことから、天守の姿をイメージできる江戸時代に描かれた絵図を示します。

山城国淀城天守之図(二条城から移築)(江戸時代)

この後、本丸石垣を巡り、櫓台を確認後、本丸西側石垣を背景に集合写真を撮影しました。

本丸石垣上を南から西へと巡って丹波櫓台(北西)横から下りる
丹波櫓台(北西隅櫓台)
淀城址本丸跡西側石垣を背景にした集合写真(1班)

この後、淀古城跡(現妙教寺)へと移動しました。

府道13号を妙教寺に向かう

妙教寺は淀古城域のほぼ中心にあり、訪問当日はお寺の事情により境内に立入れませんでしたが、境内の淀古城跡を示す石碑を遠目で確認しました。

妙教寺

淀古城は山崎合戦の陣城として明智光秀により、また、淀殿の産所として豊臣秀長により改修を受け、生まれた豊臣秀吉の長子鶴松が幼くして亡くなったことから廃城とされた城です。ここには、天守があったようです。

明智光秀

廃城後、部材は伏見城(指月城)築城に使われ、現地には堀跡であったという納所川と、周囲に「城」の名残の地名(下図)しか残っていませんでした。

淀古城跡と淀城址の範囲
淀古城の堀跡と言われる納所川

淀古城跡訪問後、宮前橋を通って桂川を渡り、大山崎町小泉川沿い山崎合戦古戦場を訪問しました。光秀軍と秀吉軍が対峙した地点であったことから、川沿いに平地が広がっていました。

山崎合戦古戦場跡(石碑付近)
小泉川と天王山

次に、明智光秀の本陣「御坊塚(おんぼうがづか)」であろうといわれる2つの古墳(境野一号墳と恵解山古墳)を訪問しました。

境野一号墳での説明風景

2つ目の恵解山(いげのやま)古墳で昼食を取り、古墳上に登って、明智光秀自身も眺めたであろう秀吉軍が布陣した天王山の眺望を楽しみました。

恵解山古墳での集合写真(1班)
恵解山古墳に登り天王山の眺望を楽しむ

山崎合戦は、夕刻戦闘開始後3時間で決着が付き、明智光秀とその敗軍は近くの勝龍寺城に逃込みました。私たちも光秀の足跡を辿り勝龍寺城を訪問しました。
往時には、坂本城や安土城に先立って日本で最初の殿主(てんしゅ)が建てられ、本丸内は堀で区切られていたようです。

勝龍寺城想像図(千田嘉博先生の「勝龍寺城」現地レクチャーで使用された図)

本丸内では、坂本城や本能寺のものと同笵の大量の瓦が出土し、本丸の建物はすべて瓦葺であったようです。
他方、城内の資料展示室に殿主(てんしゅ)想像図(下図)が展示され、それからすると、殿主の屋根は檜皮葺きであったかもしれませんが、実際には明確なことはわからないようです(瓦葺だったかもしれません)。というのは、この想像図の櫓台(殿主台)の部分は後世に削られた様子があり、明確な遺構(瓦など)が出土していないからです。

勝龍寺城殿主(天主)想像図(千田嘉博先生による)

勝龍寺城に撤退した光秀軍の士気は、秀吉軍による包囲の中低下し、光秀は夜陰と脱走兵に紛れ、居城坂本城に向け、勝龍寺城北門から脱出しますが、小栗栖で落武者狩りにあい落命します。私たちは落ち延びる光秀の気持ちで、北門から城を後にしました。

勝龍寺城址北門跡外枡形
勝龍寺城址北門跡城外

例会も終盤となり、明智光秀も勝龍寺城脱出時に当然通過したに違いない神足神社西側に残る勝龍寺城惣構の土塁に立寄り、最終ゴールのJR長岡京駅に向かいました。

勝龍寺城惣構の土塁

本日は、歴史の有名な一場面を実地体験するため、城郭訪問に加え、交通量の多い町中を散策するという例会でしたが、参加会員のご協力で事故なく無事に完了することができました。ありがとうございました。
                            以上

次回は、2026年3月17日(火)に奈良県高取町高取城址探訪が計画されています。

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