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「山城国淀城と山崎の戦いの明智光秀の陣を巡る」の下見 その2(2025年12月3日(水))

2026年2月18日(水)に計画されている城郭探訪OB会第98回例会の下見として、京都市伏見区の徳川時代の淀城跡(近世)と淀殿で有名な淀古城跡、並びに大山崎町・長岡京市にまたがる山崎の戦いの明智光秀の陣を下記地図に従い巡りました。総歩行歩数は総計17,000歩でした。
本日のコース全体を下図に示します。図のタイトル部分はクリックするとGoogleマップにリンクしています。

淀城址と山崎合戦明智光秀の陣を巡るコース(Googleマップより)

訪問地点が多かったことから、ここでは、伏見区淀より桂川を渡った後で、後半巡った京都府大山崎町・長岡京市にまたがる山崎の戦い明智光秀の陣について報告します。
前半の報告はこちら。今回の報告は上地図コースの左側部分です。

明智光秀は天正10年(1582)6月2日未明の本能寺の変で、織田信長を急襲し討ち果たします。その後、明智光秀は変後の京の治安維持に当たり、武田元明京極高次らの軍を近江に派遣して、京以東の地盤固めを急ぎました。
それは光秀の居城である坂本城や織田家の本拠地であった安土城の周辺を押さえると共に、当時の織田家中筆頭で最強の柴田勝家北之庄への備えを最優先したためです。明智光秀のこの対応は功を奏し、柴田勝家は北之庄より一歩も先に進むことができませんでした。
しかし、光秀の予想を裏切って、羽柴秀吉の中国大返しが始まります。

明智光秀

本能寺の変に驚いた茨城城主中川清秀は、直ちに備中高松城を囲んでいた羽柴秀吉のもとに知らせを送りました。しかし、その知らせに対する秀吉からの返事は、「信長、信忠父子は本能寺の囲みを無事に切抜け、膳所(大津市)で生きている」とまったく出鱈目な嘘の文書(6月5日、梅林寺文書)でした。これは、そもそも明智側であった中川清秀がそのまま明智につくのを抑えて、秀吉の味方にしようとしたためだといわれています。
以下、時系列で明智光秀と羽柴秀吉・柴田勝家の動きをまとめます。

      明智光秀                      羽柴秀吉        柴田勝家
6月2日未明 本能寺の変。
6月3日 細川父子喪に服す。 本能寺の変の報入手。
6月4日 筒井順慶と結ぶ   中国大返しを開始。
    近江をほぼ平定。
6月5日 安土城陥落。    中川清秀に信長・信忠無事
             の偽書状(梅林寺文書)を送る。
6月6日                         越後・越中境で
                          変を知り夜中撤退
6月8日 坂本城に帰還。    細川藤孝と連絡をとる。       約200km走破
    秀吉行軍情報を入手。
6月9日 朝廷に銀子を献上  姫路城を出発。明石に到着。  越前北之庄城
    下鳥羽に出陣。    別働隊、淡路洲本城を占拠。  帰城。その
                            後、動けず。
6月10日  筒井順慶に出陣要請 兵庫に到着。      信澄殺害情報入手
6月11日  順慶の洞ヶ峠(日和見)  尼崎に到着。
6月12日   紀伊惣国一揆に          富田に到着。作戦会議。  9日付丹羽長秀
                出陣要請。                   書状受領
6月13日 山崎の戦い敗北          山崎に到着。夕刻勝利。
     勝龍寺城より坂本城    淀古城で宿営。
               へ向かい落命。

6月13日の山崎の戦い決戦時の兵力は、羽柴軍2万7千人(4万人の説もある)に対し明智軍1万7千人(1万人余りとするの説もある)で、兵数は秀吉軍が勝っていました。しかし、羽柴軍の主力は中国大返しで疲弊しており、羽柴軍は高山右近(高槻城主で光秀の与力大名)や中川清秀(茨木城主で光秀の与力大名)等、現地合流兵の活躍に期待する他はなかったという不利な条件もありました。
明智光秀は、羽柴秀吉を、京都の出入口で迎撃しようと考え、当時、天王山と淀川の間の狭い地域には沼地が広がっていたことから、両軍とも3千人程度しか展開できない山崎の地を選び、明智軍がその出口に蓋をする形となるよう待ち構えています。戦力差があっても、戦いさえ長引けば、明智軍に好影響も予想され、羽柴軍も楽観できる状況ではありませんでした。
明智・羽柴両軍は小泉川(旧円明寺川)を挟んで対峙します。

山崎合戦図 寛文5年(1665) (上が北、黒の軍勢は明智軍、赤の軍勢は羽柴軍)
山崎合戦における秀吉、光秀の布陣を後世に考証した古地図。
ほぼ小泉川をはさんで両軍が戦ったことと推定されている。
注記に「芦浦観音寺備」とある。
山崎の戦い想定布陣図(勝龍寺城パンフレットより)
上掲の寛文5年(1665) の山崎合戦図に描かれた両軍の陣を、地形分類した明治25年の地図に書き表したものです。軍記物語に光秀は「おんばう (御坊) が塚」に本陣を置いたとあり、青く描かれた川の氾濫原や低湿地帯が一帯に広がる中、小高い古墳に本陣を置いたと考えられています。

これから訪問する地点の航空写真が掲示されていましたので示します。
小泉川(旧円明寺川)を挟んで両軍が対峙しましたが、ここに最初に訪問する「山崎合戦古戦場」の碑が建てられています。
明智光秀の本陣は「御坊(おんばうが)塚」と呼ばれますが、それはこの後訪問する境野1号墳或いは恵解山古墳と考えられています。


山崎の戦いの地(明智軍側の陣)
北側から南を見ています。

まず、小泉川(旧円明寺川)沿いの「天王山夢ほたる公園」に建てられた「山崎合戦古戦場」の碑を最初に訪れました。

山崎合戦古戦場の碑

光秀・秀吉両軍は山崎の戦いの前日6月12日頃から碑のすぐ西側を流れる小泉川(旧円明寺川)を挟んで対陣しました。この日には、後に訪問する光秀の陣側の勝龍寺の西で光秀方と秀吉方の足軽の間で鉄砲の撃ち合いがありました。

小泉川(旧 円明寺川)の土手

翌日の6月13日、明智先鋒隊(伊勢貞興隊)が小泉川(旧円明寺川)よりさらに天王山側(西側)の大山崎まで進み、大山崎の東黒門(今回訪問していません)を激しく叩いて高山右近隊を挑発したといいます。たまらず東黒門は開かれ、午後4時過ぎ(申の刻)に3時間余に及ぶ山崎の戦いが開始されました。

東黒門で明智軍が高山軍に攻めかかった

大山崎は日本における製油発祥の地で大山崎油座があり、全国の荏胡麻(えごま)油を独占販売して栄えていました。この大山崎の町並みの被害を避けるために、主戦場は東に少し離れた小泉川(旧円明寺川)あたりとなりました。
戦いが始まり、膠着状態の中、淀川沿いの細道を進んだ川手(右翼)の池田恒興隊と加藤光泰隊が、小泉川を渡河しました。そして、最も淀川寄りに布陣していた津田信春を奇襲して明智陣内に入り、突破口を開きました。この功績から池田恒興は後の清須会議に招かれたものと思われます。

天王山山崎合戦図 画 岩井弘(図の中央を上下に流れる川が円明寺川)
上が南(淀川)で上方中央の池は鏡田池、下が北で、右(西)に天王山・大山崎の町や東黒門、
左(東)には御坊塚(明智光秀本陣)と勝龍寺城の一部が描かれています。

明智光秀本陣の「おんばうが塚」(御坊塚)
『太閤記』は、光秀が勝龍寺城(長岡京市)から出て「おんばうが塚」(御坊塚)に陣取ったと記しています。この「おんばうが塚」は古墳と推定されます。
羽柴勢の先陣は大山崎の東黒門に陣取ったことから、そこから勝龍寺城までの間の境野一号墳と恵解山古墳(長岡京市) が本陣の候補地となります。

境野一号墳の可能性
候補のひとつと考えられており、標高25.2mで、大山崎方面に視界が開け、進軍路となる西国街道や久我畷(こがなわて)から一定の距離をおいた絶好の立地です。発掘調査により空堀跡と思われる地形が複数発見され、鉄砲玉に使用されたと考えられる鉛玉が出土しています。
境野一号墳は、古墳時代前期後半(4世紀後半)の前方後円墳で、現在まで九次にわたる調査の結果、全長58m、後円部径32mの規模に復原されます。
現在は大部分が墓地となっており、当時の遺構は存在しません。
この周辺は、周辺の人々が境野古墳群を「おんぼう塚」と呼んでいることから、天正10年(1582)6月13日の山崎の戦いの際、明智光秀が陣取ったところと伝えられます。しかし、平坦地がなく最前線の小泉川には近すぎる点から疑問も残ります。
戦いでは、兵力に勝る羽柴勢が明智勢を圧倒し、光秀は、狼狽して勝龍寺城への退却路を見失い、何とか城に戻りました。もし、次に可能性が指摘されている恵解山古墳であるならば、そこから勝龍寺城はすぐ見え、見失うには近すぎることから、この境野一号墳が「おんばうが塚」ではないかと考えられます。

境野1号墳

②恵解山(いげのやま)古墳の可能性
最新の研究では、境野古墳群の北側にある恵解山古墳が本陣であった可能性が高いと指摘されています。古墳は恵解山古墳西側から続く標高約16m の低い台地の縁に築かれています。
発掘調査で土器片とともに、恵解山古墳の西100mの立命館高校建設時構内から平成23年(2011)に、大規模な急ごしらえの南北の濠(SX09、長さ約400m、幅4m、深さ2m)が巡らされているのが見つかました。

立命館高校構内の濠 SX09の発掘調査

また、以下のように前方後円墳のくびれ部分や墳丘の西側から多数の火縄銃の鉛弾が出土しています。中には破裂した状態の鉛弾もあったようです。

戦国期?-発掘第4次調査で前方部周濠内からすり鉢状の落込みを並んで検出。
第8次調査では西側くびれ部葺石付近から火縄銃の鉛弾が出土。

出土した土器と火縄銃鉛弾

第9次調査で後円部が大きく改変され、三段の曲輪状に整形されていることが判明。
第10次調査で前方部を階段状段差と堀状の落ち込みを確認。
砦のような施設が作られていた可能性があり、遺物は極めて少ない。
江戸時代には墓地(現在の墓地以外の土葬墓)として利用。

以上、光秀本陣の特定に至る確証は持たれていないものの、境野一号墳・恵解山古墳ともに陣城遺構であることは疑いありません。

恵解山古墳の後円部と西側西側くびれ部分

恵解山古墳から見ましたが、戦いが行われた天王山や、住宅がなければ小泉川(旧 円明寺川)方面の眺望は良好です。
山崎の戦いに戻りますが、池田恒興隊に続くように丹羽長秀隊・織田信孝隊も羽柴軍右翼(下写真では左側)から一斉に押し寄せ、明智光秀本隊の側面を突き、総崩れとなり、勝龍寺城に退却を余儀なくされます。

恵解山古墳から見た天王山

退却地の勝龍寺城に行く前に、城の名称の由来となった恵解山(えげさん)勝龍寺も訪問しました。
大同元年(806)空海(弘法大師)の開基で、山崎の戦いで焼失したと伝わります。応仁・文明の乱の頃に勝龍寺城が築城されるまでは、国衆の拠点として戦の際に臨時的な砦として使用されました。

勝龍寺

山崎の戦いで、明智光秀が撤退した先が勝龍寺城(関連情報はこちら)です。

勝龍寺城は、細川藤孝が元亀2年(1571)織田信長の命を受け、京都防衛の軍事拠点として、それまでにあった城を大規模に改修しました。本丸および西側に隣接する沼田丸は、 昭和63年(1988)から発掘調査が実施され、「瓦・礎石建物(殿主)・石垣」という当時の最新技術を取り入れた城であったことが判明しています。
本丸は東西約120m・南北約80mの長方形で、周囲は高さ4~5m の土塁で囲まれ、外側には堀を巡らせています。堀は幅10~15m・ 深さ約3mで、本丸側の堀裾には石垣を築いていました。石垣の下には、沈み込みを防ぐ木の土台(胴木)が据えられ、石垣の築造には自然石のほか、石仏や五輪塔なども使われ、織田期の特徴を示しています。
本丸南側中央と北西隅(北口)には、城道を屈曲させた枡形状の虎口も確認されました。
瓦も大量に出土し、軒丸瓦・軒平瓦の一部は、明智光秀の坂本城(滋賀県大津市) や佐々成政の小丸城 (福井県越前市) の瓦と同じ木型で作られた可能性が高いものでした。これは織田家の家臣の城に支配下の瓦造り工人が派遣されたことによるとみられます。
本丸周辺は、平成4年(1992)に近世城郭風の管理棟などが並ぶ都市公園として整備されています。

勝龍寺城想像図(千田嘉博先生の「勝龍寺城」現地レクチャーで使用された図)

山崎の戦いに戻りますと、勝利した羽柴軍も前線部隊の消耗は激しく、日没が迫ったこともあり、勝龍寺城への追撃は散発的なものに留まりました。しかし、明智軍はそれ以上に士気の低下が著しく、勝龍寺城が大軍を収容できない平城であったこともあり、兵の脱走・離散が相次ぎ、その数は700余にまで減衰しました。

勝龍寺城

明智光秀は勝龍寺城の枡形虎口の北門(下写真)を、夜陰に紛れて密かに脱出して、居城坂本城を目指したと伝わります。勝龍寺城の北門には、出撃性にも優れた、本丸から張り出す外枡形虎口が構築されていました。北門の石垣には当時のものも残されており、礎石も確認できます。
そして落ち延びる途中、小栗栖の藪(京都市伏見区、現在は「明智藪」と呼ばれる)で農民の落ち武者狩りに遭い竹槍で刺されて殺害されたとも、その場は何とか逃れたものの致命傷を負ったことで、力尽きて家臣の介錯により自害したとも伝えられます。
光秀の首は翌日の6月14日には羽柴軍に届き、京都の本能寺、次いで粟田口で晒されました。

勝龍寺城「本丸」から張り出す北口(北門)枡形
北門復元想像図

ところで、勝龍寺城の北門の付近には、城の石垣に転用された石仏・五輪塔・板碑などがまとめられて展示されていました。発掘調査で出土したものです。勝龍寺城築城当時、石垣を備えた城はまだ珍しく、石材の供給体制も整っていなかったことから、身近にある石造りのものを転用したと考えられています。

石垣の転用石

下縄張図の赤丸で示した部分の門も、秀吉の包囲を避けるために通過したと考えられます。現在この場所は、流通会社の私有地内にあたる場所で、直接訪問はできません。

勝龍寺城縄張

明智光秀の足跡を辿るため、まず、勝龍寺城本丸の「北門」を出た後、城域の「北口」に近い神足(こうたり)神社の土塁も訪問しました。それは勝龍寺城の惣構の土塁です。
現神足神社は、細川藤孝によって勝龍寺城に取り込まれた西岡の有力国人「神足氏」の居館で、神足屋敷と呼ばれた神足城のあった地に鎮座しています。
神社は明治5年(1872)の東海道本線施設時に現在の地に遷座して来ています。

神足神社本殿

外郭線の北東隅にあたる神足神社周辺には、堀の底から土塁の頂部までの高さが6mを超える、大規模な土塁・空堀跡が発掘で確認されました。神足・勝龍寺の集落を含む勝龍寺城の惣構に当たります。土橋と虎口も伴っており、織田期の遺構としては非常に稀少な存在です。
しかも、土塁はクランク状に曲げられており(写真奥)、土橋を渡る敵兵に横矢が掛かるようにしていたことも読み取れます。
この部分は、旧来の姿に近づける形で復元され平成26年(2014)度に公園化されました。

勝龍寺城土塁、空堀と土橋

上述のように、明智光秀は、勝龍寺城から逃れ、小栗栖の藪で落ち武者狩りにあい最期を遂げました。
羽柴秀吉は、この戦いを機に清須会議を開いて全国統一を目指すことになります。

勝龍寺城の土塁見学後、本日のゴールのJR長岡京駅が近いことを示す高層ビルが見えてきました。お疲れさまでした。

JR長岡京駅

なお、例会本番は2026年2月18日(水)に実施されました。      以上


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