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獅子の仔 Ⅰ 006 ハーウッド Ⅱ


ハーウッド Ⅱ


1 泥の洗礼

 ラニスポート北区画の北東部「獅子の丘」にはラニスター公家の別邸群を中心に、西部ウェスタ―ランズの旗主諸侯や商業貴族、豪商たちの贅を尽くした邸宅が建ち並ぶ。その一角に在る『四の獅子の城館』は、数十年にわたり放置され、周辺の邸宅とは明らかに異なる雰囲気を漂わせていた。
 石造りの三棟の城館は、いずれも屋根は破れて肋骨を晒し、床板は腐り落ちていた。邸宅を囲む塀は一部が崩れ、広い中庭は背丈ほどの雑草の海となっていた。かつては優雅な姿をしていたと思われる東屋(あずまや)は、今や蔦で覆われた巨大な鳥籠のようだった。

「……ここが、私が仕える主の邸宅だと?」
 苛立ちを隠そうともしない声が響いた。声の主は、練色(ねりいろ)の下地に極彩色の羽を広げた孔雀があしらわれた刺繍外套を羽織った長身の若い騎士、ヴァルター=セレット卿だ。裕福な「銀の丘陵の城」シルバーヒルの嫡流の次男坊は、草が伸び放題の庭園など足を踏み入れたこともないのだろう。

「これは、やりがいがありますなぁ」
 間の伸びた声でぼやいたのは、茶色の草臥れた硬化皮革ボイルドレザーの鎧を着た頑健な体格の騎士、デュラン=ドゲット卿だ。白い一角獣と黒い鴉が象嵌された真鍮の胸章が胸当てに打ち付けられている。若いにも関わらず、人を喰ったような態度で戯けて見せていた。

「話が違う! 私はエストレン卿から斧槍ハルバードの指導を受けられると聞いたから入隊を志願したのだ」
 興奮して怒鳴っている長い顎の長身の大男は、トルド=ヤーウィック卿だ。白地に赤い二重枠、その中で交差する青銅の斧槍が描かれた紋章外衣を着ている。手には背丈ほどもある長大な斧槍が握られていた。一目見ただけで実践的ではない作りだと分かった。

「騎士だろうが、戦のないときは働けということだ。平時の我らはお荷物だからな」
 皮肉な笑みを浮かべ、さっさと赤茶色と緑色に左右で染め分けられた紋章外衣を脱ぎ始めたのは、ペスト=モアランド卿だ。濃い茶色の髪と、大柄で横幅のある体に、樽のような胸板をしていた。

「これは我が家への侮辱ですか。父上に報告させて頂く!」
 震える声で叫んだのは、神経質そうな痩せた騎士、ドネル=ドロックス卿。色あせて黄ばんだ地に三つの黒い弩が描かれた古い紋章外衣は、彼の細い体には大きすぎるように見えた。

 タイトス公が「我が息子のために」と派手な布告を出して掻き集めた、まだ十代の青臭い若造どもだ。流石に跡取り息子を差し出すような名家は無いが、一丁前にも、それぞれ一名ずつ従士を従えていた。
 その後ろには二十五人の兵士たちが整列している。兵士たちもタイトス公の布告に応じて集められた兵士たちで、キャスタリーロックの衛兵やラニスポート市警備衛兵隊シティウォッチ、地方の兵士が集められた。若手が中心であるが、それなりに経験のある兵士たちだ。
 彼らの目には明らかな困惑と失望の色が浮かんでいた。無理もない。お目当ての「斧槍のハーウッド」は今、こうして、擦り切れた麻の作業着姿に無精髭を生やしており、どう見ても山から下りてきた熊にしか見えないだろう。
 ハーウッドは彼らを見渡してその反応を観察した。

「不服か?」
 不満げな若い騎士たちの視線に対して腕組みをして彼らを見返す。

「グードン。点呼は済んだか」
 従士になって三日目の副官に確認した。

「はい。騎士五名、従士五名、歩兵二十五名。志願兵が十名。全員揃っております」
 答えたグードン兵士長は三十半ばの、背は中背だが、がっちりした陽に焼けた樫の木のような男だ。石工上がりの輜重兵で、べリアンの推薦でハーウッドが従士として採用した副官だ。騎士たちとは対照的に、泥に汚れたブーツを履き、腰には剣ではなく工具を下げていた。

 一歩前へ出て、盛り土の上に立って四十五人の男を見下ろした 。
「私がハーウッド=エストレン。ティルト=ラニスター様に代わり隊の編成の栄誉を担う者だ。見ての通り、我々の主の住まいはこの有様だ」

 荒れ果てた庭、崩れた城館と石塀を指差した。
「任務を与える。全員、作業着に着替えろ。グードン、道具を配れ。まずは中庭の雑草を刈り、崩れた石を運び出す。陣地造成の輜重(しちょう)の訓練と思え」

「エストレン卿! 冗談にもほどがありますぞ。我々は騎士。鎌や槌を持てと言うのですか!」
 ヴァルター=セレット卿が端正な顔を真っ赤にして進み出た。すらりとした長身に、華麗な孔雀の刺繍外套が御伽話の王子様のようで、何とも言えず、場違いだった。

「そ、そうだ! これは侮辱ですぞ」
 ドロックス卿も抗議の声を上げた。神経質な目つきに癇癪を起したように金切り声で叫んだ。

 並んだ兵士たちも、騒めき、困惑したように顔を見合わせていた。

 ハーウッドは冷ややかに言った。
「侮辱、か。戦場では、陣地の構築も飲み水の確保も自分たちでやる。自分の居場所も作れない奴が、どうやって戦うのだ?」

「それは輜重兵や人夫の仕事だ! 騎士は兵を指揮し、命令を与える立場だ!」
 孔雀の刺繍外套の若造が食い下がった。

「知らないことは、指示できない。そんな世間知らずの馬鹿に指示される兵の身にもなれ」
 歯を剥くようにして笑って、はねつけた。

 孔雀の刺繍外套のヴァルターはむくれて明後日の方向を向き、大きすぎる紋章外衣のドネルは無駄に親の威光を語った。
どうやら、こいつのお父様は輜重官の幹部らしい。気だるげな態度のデュランは欠伸をしながら、様子を見ている。他人に関心の無いペストはさっさと作業着に着替えて、腰の紐を締め直していた。そのなかで、背の高いヤーウィック卿が進み出た。

「エストレン卿、ぜひ、お手合わせ願いたい」
 ……こいつは目の前の揉め事などお構いなしに絡んでくる。これ以上、言葉で伝えるのも面倒になった。訓練用の刃を潰した鉄剣をグードン兵士長から受け取る。


 草むらにのびて転がっている顎の長い大男を後目に、二人の騎士と、二十八人の兵士、十人の募集兵は作業着に着替えた。残りの二人の騎士とその従士二人は後ろで粛然と立っていた。

「やりたくない奴はやらなくていい。別の任務を与える」
 ハーウッドは懐から紙を取り出し、孔雀の刺繍外套の若造に押し付けた。

「南西港湾へ行け。大規模な城壁工事の真っ最中だ。次席輜重官のベリアン=ボウマ卿に城壁の外の農地の巡回の仕事を準備してもらっている。お前らの言う騎士としての仕事をさせてやる」
 セレット卿は紙を引ったくると、鼻を鳴らして出て行った。

「私も失礼する! ベリアン卿は父の盟友だ」
 ドロックス卿も慌てて後を追った。

 陽が中天に差し掛かるなか、荒れ果てた庭園では四十三人の男たちが休まず働いていた。

 「草刈りと瓦礫撤去そして水源の確保。これらを並行して行う」
 全体を三つに分けて指示をだし、瓦礫撤去では先頭にたって汗をかき、陣頭指揮を執った。
 戦場では短時間で陣地を作らねばならない。塹壕を掘り、柵を打ち、盛土をする。輜重兵の数は限られている。騎士も兵士もなく、陽が沈むまでに全員で協力して、寝床を作らねば、その軍隊は敵におびえて野宿するしかない。

 募集兵の十人は、自ら「西部」ウェスターランズ北西部の漁村や採石場に赴いて骨格や目つきを見込んで拾い上げてきた若者たちだ。騎士の小倅(こせがれ)たちとは違い、太い腕を泥だらけにして、黙々と巨大な石材を担ぎ上げている。野暮ったいが、時間をかけて戦のやり方を叩き込めば、いずれ使い物になるだろう。その他の二十八人の従士と兵士も、作業着を着て概ね順調に働いていた。

 ペスト=モアランドの采配は悪くなかった。兵たちを二人一組に分け、持ち場を細かく区切ることで、休むことなく鉄鎌を振るわせていた。庭の中央にはむせ返るような青臭い草の山が築かれ、輜重部から引いてきたラバたちがのんびりとそれを食(は)んでいた。

 デュラン=ドゲットは、数人の兵士に泥まみれの円匙スコップ(えんし)を振るわせ、石造りの水路に詰まった苔と黒泥を掻き出させていた。「獅子の丘」には上水路が引かれており、錆びついた鉄の水門をこじ開けると、勢いよく新鮮な水が邸内に流れ込んだ。水は庭園の中央にある淀んだ池の泥を押し流し、やがて池は底の石が見渡せるほどに澄み切った。

 だが、三棟の城館へ繋がる水路は途中で瓦解し、水が届かない。床下を通る石組みを組み直すには、まずあの山のような瓦礫の撤去を終わらせるしかない。庭の隅にある古井戸の底も覗き込んでみたが、干からびた土が転がっているだけで、水気は微塵もなかった。
 グードンとともに、三棟の城館と塀や門の検分を終えた後、率先して瓦礫の撤去に取り組んだ。いつの間にか目を覚ましたトルド=ヤーウィックも、首をさすりながら、大人しく撤去作業に加わっていた。
 巨大な梁(はり)を担いでいると、門の方からとぼとぼと歩いてくる二人の人影がみえた。ドロックス卿とその若い従士だ。先ほどまでの威勢はどこへやら、顔色は幽霊のように青白く、脂汗を浮かべていた。

ドロックス卿は蚊の鳴くような声で言った。
「ここで輜重の経験をするのも、大事だと思い直しました」

 ハーウッドは内心で苦笑したが、表情には出さなかった。ベリアンの盟友だという彼の父を直接知らないが、息子をこの隊に預けた理由はよくわかった。自立の時にしてはやや遅いが、それは誰にでも訪れる。

「着替えろ。時間が惜しい」
短く言うと、ドロックス卿とその従士はその場で着替え始めた。

 空を見上げる。すでに陽は西に傾きつつあった。
 泥に塗れた四十四人の男たちを見回し、ハーウッドは低く通る声で命じた。
「瓦礫の撤去はここまでだ。残る草刈りは、天幕を張るための場割りを優先する。今夜は、この庭園で夜営訓練を行う。一時間で夜営の準備を整える」

「ドネル。夜営の支度はお前に任せる。輜重(しちょう)の荷車から天幕を下ろして張れ。糞尿の穴を掘るのも忘れるな、垂れ流すことは許さん」
 ドロックス卿は、顔の泥を拭いもせずに素直に頷いた。

「トルド。お前は城館の躯体(くたい)の確認を続けてくれ。三棟の石組みがどこまで傷んでいるか、グードンと相談して、残された時間でできうる限り確かめろ。可能なら、修繕に必要な石と材木の算段(さんだん)を出せ」  顎の長いヤーウィック卿は、無言で首を垂れた。

「デュラン、次は下水道の水路に詰まった泥を浚(さら)い、崩れた箇所を洗い出してくれ。直すための手配書きも要る。枯れ井戸の底の泥浚いは明日以降でいい」
デュランは目を閉じて頷いた。

「ペスト。間もなく輜重から薪と食い物、毛布が届く。天幕を張れる場所を確保してくれ。もう一つ、庭の石炉の灰を掻き出し、火を起こしてくれ。豚肉の燻製の塊、新鮮な蕪、大蒜、玉葱、葱、人参、豆、ライ麦の黒パン、チーズもある。楽しみにしておけ」
 モアランド卿は眉を上げて軽く頷いた。

「日が落ちるまでが勝負だ。泥の上に寝るか、多少はマシな状況で寝るか。戦地で泥仕事をできない奴は、震えて寝ることになる。よし、かかれ」

 ハーウッドは泥のついた革手袋をはめ直した。むせ返るような汗と土、そして古い鉄の匂い。「キャスタリーロックの騎士」の本分とは何か、未だに分からないが、つまらない揉め事の仲裁よりは、こちらの方がよほど生きた心地がした。

2 建設

 鑿(のみ)が石を打つ乾いた音が、静まり返った中庭に響き続ける。

「石の合わせが甘い! 泥で誤魔化すな、削り直せ!」
 ヤーウィック卿の胴間声が飛んだ。本人は不本意だろうが、どうやら斧槍を振り回すより、石を相手にする方が余程、才覚があるようだ。
 もと石工のグードンから、目地の取り方や石の切り出し方を教わると、器用な兵士十人ほどを顎で使い、みるみるうちに崩れた石壁の面(つら)を揃えていく。

「この煉瓦の泥土、一山(ひとやま)の値が高すぎる。馬車引きの駄賃を二重にふんだくる気か!」
 木陰に据えた粗末な卓で声をひっくり返しているのは、ドロックス卿だ。 
 父親のつてで引き抜いてきたという皺枯れた老官吏と頭を突き合わせ、商人相手にがなり立てて、算段書(さんだんがき)の数字を削り落としている。多少の読み書きができる兵士三人を集めて、中古材の点検や台帳への記載を指示している。
 庭には、ドロックス卿と老官吏が安価でかき集めてきた中古材や、ヤーウィック卿が選別した、まだ再利用できる廃材や瓦礫が積まれていた。

 庭園の様子は一変していた。木蔦の強情な蔓が取り外されると、庭園の中央には、青銅製の瀟洒(しょうしゃ)な東屋が姿を現した。数十年ぶりに「四の獅子の城館」に陽光と風が通り抜けていく。
 雑草が刈り取られた後に根も引き抜かれ、一面は土が露出している。殺風景ではあるが、庭師が芝生や薬草を植えるのはまだ先の話だ。
 三棟の城館は、石造りの躯体のみにされており、床下の水路も露出している。割れた粘板岩スレートの上板は外され、詰まりも除去されている。
 基礎部分はさすがに頑丈に作られており、修理は必要ないが、床下を通る上水路と下水路は一部傷んでいた。順次、壊れた部分の石材の交換とモルタル塗りに取り掛かる予定だ。
 城館を囲む石壁は一部崩壊していたため、基礎も含めて傷んでいる箇所は取り壊されて板が張られている。

 「四の獅子の城館」の建築資材については順次、見積もりと発注を重ねているが、資材が揃うまでは、中古資材や廃材の再利用の範囲の作業になる。

 この作業のなかで、それぞれの得意分野や性格も概ね把握できた。この部隊は、汎用性に優れた、敵地で長期間の単独行動のできる部隊としたい。 ハーウッドは、見積りと工程作成は彼らに任せて、残りの二人の騎士と二人の従士と二十二人の兵士を率い、南西部の港湾区画へと向かった。

 一行は、閑静な「獅子の丘」を下り、喧騒に満ちた市街地を抜ける。泥まみれの作業着に身を包み、愛嬌のあるラバの背に揺られる自分たちの姿は、ラニスポートの住人たちの目には、ただの薄汚い人夫の群れにしか映らないだろう。
 だが、じきに違和感はなくなる。次第に潮の香りに泥と腐臭が混じり始め、風景がうらぶれたものへと変わっていった。目的の港湾が近づくにつれ、その寂れきった空気を打ち破るような重い地鳴りが風に乗って響いてきた。

 「曇天の埠頭」クラウディ・ピア周辺は、すでに土埃と異様な活気に包まれていた。ベリアンが手回しした「城壁の補修工事」は大規模なもので、百人を超える石工や大工、人夫が日差しの下で汗を流している。

 護岸工事の状況を見下ろしていると、本部と思しき高台の天幕の傍らに、禿頭の大男の姿を見つけた。小柄な官吏と赤毛の従士を交え、図面らしきものを指さして何事か相談している。こちらに気づいたベリアンは獰猛な笑みを浮かべ、黒い鉄木の六角棒を振ってこちらへ来いと招いた。

 ハーウッドは部隊に小休止を命じ、一人で高台を上る。

「ドロックスの倅(せがれ)は送り返してやったぞ。今にも泣き出しそうな顔をしていたがな」
 ベリアンは口の端を歪め、愉快そうに鼻を鳴らした。

「孔雀の王子はどこへ?」
 ハーウッドは辺りを見回したが、あの極彩色の刺繍外套を羽織った若造と従士の姿が見当たらない。

 べリアンは顔をしかめた。
「お前に追い出されたのが堪えたのか、集落群の巡回は真面目にしている。あいつはセレット家の嫡流でセレット公のお気に入りの次男坊だ。お前に憧れている。戻ってきたら何も言わず受け入れてやれ」
六角の棒杖の先で胸を小突かれた。

「お優しいですな。それより、護岸の石の組み替えからやるのですか」
 ベリアンの壮大な計画は聞いていたが、どこまでやる気なのか。

「この岸の状態では資材を陸揚げできん。議長からも了解頂いている」
 禿頭の大男は肩をすくめてみせた。

「なるほど」
(既にラニスポート評議会には根回し済みか)

「アーウィン老から、少しばかり耳障りな話を聞いた」
 ベリアンは六角の棒杖で足元の地面を突きながら、独り言のように低い声で呟いた。

「評議会から何か要求でも?」
 ラニスポート評議会にとって、タイトス=ラニスター公は評議会の運営に文句を言わない扱いやすい主君であり、大きな不満はないはずだ。

「いや、高利貸したち……港の金座(きんざ)を牛耳る連中が、肥え太りすぎている。あいつらの金回りが良すぎるとのことだ」
 苦々しい声だった。

「キャスタリーロックの黄金が市井に流れていないと?」
 眉間に思わず皺が寄る。本来、「西部」ウェスタ―ランズの黄金の元締めは、他でもないラニスター家の黄金である。

「うむ。我々の手に余るが……まあいい。今から、「塩の吹き溜まり」ソルティ ボトムだな」
 べリアンは、小門「塩の門」の方角を六角の棒杖で指し示して、出発を促した。

「宿舎は建てといたぞ。この工事の人夫たちの宿舎の隣だ。あと、貧民どもを刺激するな」

「ありがたい。キャスタリーロックの練兵場では目立ちすぎる」
 軽く会釈して、台地を下り、鉄色芦毛のラバに跨り、待機させていた小隊に号令をかけた。

 小隊は、ラニスポートの城壁を抜ける小門「塩の門」を通り、貧民街「塩の吹き溜まり」ソルティ ボトムへと足を踏み入れた。何度か来たことはあるが、相変わらず鼻をつく腐った魚の悪臭と、泥と汚水が混じり合った陰鬱な風景だ。
 集落を横切り、西へと抜ける。かつての塩田である荒地が広がる郊外には、ベリアンの言葉通り、城壁補修の人夫たちが寝泊まりする粗末な長屋がいくつか建っていた。外見は無骨だが造りは大きく、小隊が寝泊まりする環境としては十分に整備されている。

 そこには既に、キャスタリーロックの練兵所から払い下げられた、使い込まれた分厚い防具や傷だらけの盾、刃を潰した訓練用の剣や斧槍などが運び込まれていた。

 すぐさま兵舎となる長屋の周りを整地させ、訓練場と馬場を急ごしらえで準備させる。これから、この宿営地が小隊の拠点となる。
 その日の午後には、巡回任務を終えたセレット卿が兵舎に姿を現した。

「……只今、戻りました」
 報告はそれだけだったが、孔雀の刺繍外套ではなく、浅黄色の実用的な外套を羽織り、顔は赤く日焼けしていた。

「巡回ご苦労。すぐ隊に戻れ」
 騎士と従士はやや気まずそうにしていたが、何も言わず復帰を許した。

 翌日、邸宅の整備に残していたドロックス卿やヤーウィック卿、グードン兵士長も宿営地に合流した。 部隊の全容が揃い、若造どもは「いよいよ騎士の稽古が始まる」と期待に鼻を膨らませていたようだった。だが、彼らを待っていたのは、朝から晩までひたすら土を運び、泥にまみれる土木作業の苦役だった。  日の出と共に港の護岸普請(ふしん)に駆り出され、短い微睡(まどろみ)を挟んだ午後には、泥濘(ぬかるみ)の中を息が絶えるまで走らされる。夕刻には鉛のように重くなった手が震え、木椀の豆汁をこぼす者もいた。剣を振らせてもらえないただの泥仕事への不満が、いよいよ彼らの口から漏れ聞こえ始めた頃。
 ハーウッドは、そろそろ奴らに剣を握らせてやる潮時だと判断した。

「さて、訓練をはじめようか」
 泥まみれで息を上げる一同を見渡し、低く呼びかける。どこまでできるのか、ようやく見る時が来た。

 栄光に飢えた若い騎士たちは、このときを待っていたようだ。朝からの土木作業で疲れ切った体に鞭打ち、訓練用の刃を潰した鉄剣を握って挑みかかってきた。
 だが、わずかな期待はすぐに消えた。話にならない。

「手首だけで剣を回すな、ヴァルター! 見せ物じゃない、一撃に体重を載せろ!」
 セレット卿の敏捷だが軽い連撃を、鉄剣の腹で弾き飛ばして、肩を当てて吹き飛ばす。

「ドネル! ひ弱な腕で長い剣を振り回すな!」
 体格に合わない長剣を持て余すドロックス卿の腕を掴み、その細い体を投げ飛ばす。
「距離を取れ、小兵なら、動き回れ。相手が疲れるまでだ」

「ペスト、動きが大きすぎる! 腕力だけで叩きつけるな、振りは小さく体重を載せろ!」
 モアランド卿の大振りの一撃を躱(かわ)しながら、その無防備な胴体に容赦ない蹴りを入れる。

「トルド! 無駄な力みだ、手の長さをもっと生かせ、踏み込め」
 バランスを崩したヤーウィック卿の足を払い、泥の中に転がす。

「デュラン! 亀のように縮こまっていつ攻める気だ!」
 ドゲット卿の堅い守りを、盾で強引に押し込んで、崩してみせた。

 どいつもこいつも簡単にあしらえる程度の力量しかない。目についた欠点をそのまま怒号とともに浴びせかける。
 全く話にならない。自分の体格に合わない得物を使い、合わない対人戦術を用い、駆け引きもできていない。息の保ち方、踏み込みの強さ、刃の筋立て、体の捌き方。何一つ基礎すらなっていない。挙句に打ち合いに負けたら終わりだと思い込んでいる。「闘争」の基礎から叩き直す必要がある。

 ハーウッドは訓練用の鉄剣を捨て、盛土に上がって、泥まみれで息を上げる騎士たちを見下ろした。
「お前たちがこれまでやってきたのは、人に喝采を浴びるための見せ物だ。馬上槍試合、一対一の決闘、規則の決められた集団模擬戦……結構なご身分だな」

 冷ややかな声が訓練場に響きわたる。
「戦場では、相手は分厚い甲冑や鎖帷子を着ている。真正面から一人ずつ向かってくるとは限らない。三人に囲まれたらどうする? 剣が折れたらどうする? 馬から引きずり落とされたらどうする? ――どうやって敵を殺す?」

低い姿勢からの体当たりで相手の体勢を崩し、鎧下へ短剣を差し込む動きを実演してみせた。

「甲冑をつけた者同士の戦いの決着をつけるのは、敵を窒息させる組討ち、相手を抑え込み、制圧するための体力だ。この部隊に、馬上からふんぞり返るだけの騎士は要らん」

 次第に感情が高ぶり、怒鳴り声になる。
「戦場にルールなどない! これは闘争だ、殺し合いだ!」

 突如、脳裏に、凄惨な初陣の記憶が鮮明に蘇る。ぬかるんだ大地、血と排泄物の臭い、泥に沈んだ死顔、そして腹を割かれて飛び出る腸を抑えて泣き叫ぶ友の声――。

 過去の恐怖と絶望の感覚が腹の底から這いあがり、戦場での狂気を連れてくる。

「負ければ死ぬ! 見栄えや家柄など死ねばクソほどの価値もない! どうすれば生き残れるか、そのための武器と戦術を死に物狂いで考え抜け! そして実践するために体を鍛え上げろ! 日頃から殺し合いの準備をしろ、常に剣を抜く準備をしろ! それが俺の騎士道だ!」

 怒気に当てられ、騎士も従士も兵士たちも言葉を失い、ただ呆然とこちらを見上げていた。

「若い奴らの憧れの眼差しが不愉快で仕方がない。夏の蝿のように飛び回り、冬には死んで忘れ去られるクソども、武勲を夢見ながら、憧れだけで時間を無為に過ごし、戦場でお荷物になる「純真な」馬鹿にはうんざりしてきた。うんざりしてきたんだ、俺は!」

 肩で息をしながら、彼らを睨みつけた。
「いいか。生き残るために全力を尽くせ。恥も外聞も捨てて、生き残るため、相手を殺す、そのことだけに集中しろ! 言い訳は認めん。死力を尽くして生き残る準備をしろ……以上だ」

 泥まみれの訓練場には、重苦しい静寂が落ちていた。
 若い騎士たちは呆然と、圧倒された顔で立ち尽くし、誰一人として口を開こうとしない。聞こえるのは、彼らの荒い息遣いと夏の風の音だけだ。

 頭に上っていた血が徐々に引いていく。腹の底にはまだ熱い怒りの火がくすぶっているというのに、自分の心の奥底にある戦争への怯えと焦燥をひけらかしてしまったような、ひどい気まずさが肌を這い上がってきた。

「今日の訓練はこれまでとする。……全員休め」
 足元の訓練用の鉄剣を拾い上げる気にもなれず、低く短く告げた。

「俺はこれから出かける。グードン、来い」
 彼らに背を向けると、待機させていた鉄色芦毛のラバに跨り、足早に宿営地を後にした。

 この一週間、泥にまみれて働く彼らを見て情が移っていたのだろう。自分の声が微かに震え、涙声になっていることに、自身が驚いていた。
 だが、このまま戦場に出れば、こいつらは確実に死ぬ。その確信だけが在った。

3 張り子

 夕暮れ時。土埃の舞う訓練場を後にして、小門「塩の門」からラニスポートの市街地へと入っていく。

「……感情的になり過ぎた」
ハーウッドは渋い顔で呟きながら、ラバを並足で進めた。

「……卿の言葉を受け止めなければ、彼らは戦場で死ぬだけです」
 斑毛の汎用馬に乗って並走するグードン兵士長が切って捨てた。

「戦場の経験が?」
 この「石工上がりの従士」の素性をほとんど知らないことに気づく。

「嵐の地」ストームランズの戦役に従軍しました。『薊の丘の砦』に残された兵士の一人です」
 八年前の戦役の激戦地を思い出す。敵中を突破して、残された騎士と兵士二十人を救出したのは、若き日のハーウッドだった。この兵士長が自分に寄せる献身の正体が分かった。

「なるほど」
 短く頷く。べリアンが推薦してくれたのは単なる石工あがりではなかったようだ。

(我が公子の部隊は、指揮官一人とその従士一人、騎士五人とその従士五人、兵士二十五人と新兵が十人で、四十七人か)

 公妃から「百人扶持」の割り当ての権限を与えられている。当面は、残り五十三人分は日雇いの土木人夫の名前で埋めるが、いずれ百人の剣を揃えねばならない。
 部隊には斥候も、弓兵もいない。そして何より――。
 海からの潮風が鼻腔をくすぐる。
 このラニスポートを拠点とする以上、船を操り、波の上で戦える「水兵」が絶対に必要だった。 

 ベリアンの構想によれば、ラニスポート南西の「寂れた波止場」ダルワーフを拠点化し、小規模な艦隊を配備するという。ハーウッドも水練の訓練を受けており、苦手ではないが、陸戦の経験しかなく、海のことは門外漢だった。

 ハーウッドは、グードンを連れて、ラニスポートの南部港湾を訪れ、ラニスポート市警備衛兵隊シティウォッチの港湾巡視隊の官舎の門を叩いた。既に幹部のヴァラー=ラネット卿の紹介状があったため、面会はできた。

「水兵を出せと?」
 巡視艇の揚船場で担当の兵士長は、迷惑そうに帳簿をめくった。

「小型の巡視船はありますが、あくまで港内の警備用です。外洋に出る訓練はしておりません。ラニスポート艦隊を尋ねてはいかがですか」

 ラニスポート市警備衛兵隊シティウオッチの巡視対象は湾内に限定されており、中型の軍船すら持っていない。水兵たちも人員に余裕がなく、巡視艇十隻を動かせるギリギリの人員しかいない。しかも今は人員不足だと言う。

 次に、四十隻の軍船を抱えるラニスポート艦隊の本部庁舎の門を叩いた。公妃の威光が通じたのか、白い石造りの官舎の奥へ通されるのは早かったが、出迎えに現れた初老の騎士、バーナード=ラニスター卿の顔を見た瞬間、ハーウッドは早くもがっかりした。上品な身なりはしているが、その目には戦場の覇気など微塵もなく、ただ事務仕事にすり減った疲労の色だけが色濃く張り付いていた。

「優秀な船乗りは皆、フェアアイルや船持ちの商会が引き抜いていく」
 腕の立つ船乗りほど、海軍に見切りをつけて流れてしまうのだと、老幹部は溜息交じりに語った。嘆いてはいるが、その顔に逼迫した危機感はない。 
 無理もない、タイトス公自身が西部の海防に微塵も関心がないことを、皆が知っているのだ。

(これでは話にならんな)
老士官に丁寧に礼を言って、話を切り上げた。

 最後に、船員が集う酒場が密集する区画を回ることにした。
「黒い海獅子」亭では、数人の顔役の船乗りの会合に上等なドーン産の葡萄酒を持ちこんで話ができた。ラニスポートの船乗りたちは荒っぽく、腕には自信がありそうだった。だが、ハーウッドが水兵を募集している話をすると、鼻で笑った。

「ご免だね、旦那」
 五十半ばぐらいの白髭に日焼けした長身の船長は率直に断ってきた。武装商船の顔役の一人だ。ハーウッドの注ぐドーン産の葡萄酒を飲みながら、続ける。
「ラニスター家の仕事は金払いはいい。だが、直で雇われるのは、割に合わねえ。水兵どもは、船長を見て決める。命を左右するからな。給金が良くても、信用できない人間の船には乗らん」

 隣に座っている赤髪で隻腕の船長もうなずいた。今度はその男の盃に葡萄酒を注ぐ。
「船長は、信用できる商人や手配人のよく練られた仕事しか受けない。自分を信じて集まった船員を危険に晒せば、信用を失う。信用を失えば船長として終わりだ」

 隣に座ってきた髏と龍の鱗の刺青をした巨漢の船長は酒瓶をハーウッドの手からもぎ取ると、自分の盃に自分で注ぐ。
 「鉄諸島の私掠船だけでなく、「跳び石諸島」ステップストーンの海賊まではるばるやって来る始末だ。命を張りたい奴もいるが、そんな奴は「麗しの島」フェアアイルのファーマン公に仕える。あそこなら戦える軍用船と熟練の船長がいるからな」

(……やはり、「麗しの島」フェアアイルのファーマン家か)
 西部最強の海軍を擁するあの家は、常に鉄人との戦いを強いられてきた。当主のアンドロウ公は、鉄人に対して弱腰のタイトス公を深く軽蔑しており、大事な熟練の水兵をその四男坊の玩具として差し出すことなど鼻で笑って一蹴するだろう。

刺青の男は、まだ絡んでくる。
「自前の水兵なんざ必要ないだろ。俺たちに大金払って、その都度、雇うんだな」

 ハーウッドが杯を置くより早く、この粗暴な大男を制して、油と臓物の焦げた匂いを纏った巨大な影が割って入ってきた。
「旦那、いい方法があるよ」

 汚れた前掛けを腹で揺らす大柄な女亭主だ。彼女が置いた粗末な木杯に、ハーウッドは黙って二本目の酒瓶を傾けた。赤黒い葡萄酒の水面が、勢いよくせり上がり、杯を満たす。

「数人の向こう見ずな若造が、小さな水兵団を組んだりするんだよ。若いし未熟だが、奴らを集めて育てるのはどうだい。そいつらをどっかの海軍に預けてもいい。こいつらみたいに出来上がった水兵どもは割高だ」

 若い駆け出しの水兵団そのものを隊に組み入れる。悪くない考えだ。

「時間を取らせた、助言痛み入る」
 まだ中身の残っている酒瓶を置いて席を立った。

 さらに数軒の酒場を巡り、小規模な船乗りの集団を探した。
宿屋「海の底」で馴染みの亭主に聞くと、酒場の端の三人組を顎で指す。

 目立つ三人組だった。金髪の鋭い目つきの少年は、使い込んだ硬化皮革鎧に、長剣を二本腰にさしていた。横にいる茶色の髪の少年はやや小柄で、帽子に皮革の短衣、銛の様な短い槍を抱えていた。やや緑がかった短髪の大柄な青年は短剣と海兵刀を腰に差していた。三人とも旅支度をしていた。

 迷わず話しかけた。
「これから、どこへ行く? 腕の立つ男を探している」

 金髪の少年は、突然話しかけてきた大男に動じることもなく答えた。
「東方のエッソス大陸へ渡る。ここじゃなければどこでもいい」

「ラニスター家に仕える気はないか? 新しい水兵隊を作る」
間髪入れずに勧誘する、何かただならぬ雰囲気を纏った三人の青年が気に入った。

 金髪の少年は鼻で笑った。
「あの『張り子の獅子』の尻拭いか? 御免だね。俺たちは血の匂いのする本物の戦場に行きたいんだ。旦那も、そんな泥舟には乗らない方が長生きできるぜ」

 表から、出港を知らせる銅鑼(どら)の音が響いた。若者たちは「古き都」オールドタウン行きの船に乗るらしく、そう言い捨てると荷物を掴んで迷いなく立ち上がった。
 ハーウッドは残った葡萄酒を一本、餞別(せんべつ)に渡した。
「命を粗末にするんじゃないぞ。ラニスポートに帰って来たら連絡をくれ。俺はハーウッド=エストレン、キャスタリーロックの騎士だ」

 三人の青年たちはその名乗りに驚いたが、時間におされて、礼を言ってから去っていった。

 夕暮れ時。成果なしで「塩の吹き溜まり」ソルティ ボトムの宿営地へ戻る道すがら、グードンが馬上で吐き捨てるように言った。
「……どいつもこいつも、陸(おか)に打ち上げられた魚ですな」

 ハーウッドは顎を撫でた。自前の軍船を所有するには、水兵がどうしても必要だ。水兵を集めるのもハーウッドの任務になるが、今の部下は、泥だらけの歩兵と、青臭い騎士たちだけだ。

「すぐという訳にはいかんな。時間をかけて集めて、育てるしかない」

 「塩の吹き溜まり」ソルティ ボトムの西の宿営地に戻ると、兵士たちがべリアンの指導のもと、集団模擬戦を行っていた。剣呑な雰囲気を察して仲介に来てくれたのだろうが、血が騒いだのか、輜重官の立場を忘れて、禿頭を真っ赤にして、大声で叱咤していた。
 盾の並べ方、多勢で獲物を追い詰める足運び。その指示は的確で見事なものだった。ハーウッドには懐かしい風景だが、管轄外の規律違反だ。
兵士たちは、動きはぎこちないが、泥だらけの顔には生気が宿っていた。

(こいつらに水練を課してみるか。何人かは使えるかもしれん)

 海への道は遠い。だが、まだ始まったばかりだ。ハーウッドは、訓練用の刃を潰した鉄剣を強く握りしめた。

(006 ハーウッド Ⅱ 完)


煤けた石 第一部 獅子の仔 第一編 ゆりかごの宣誓
ハーウッドⅡ(006 血の記憶)
248 AC・夏(末期) / 西部・ラニスポート「四の獅子の城館」~
POV:ハーウッド=エストレン (Harwood Estren)


【本作は「氷と炎の歌」のファンフィクションです】
 原作者のジョージ・R・R・マーティン氏、および関連する出版社・映像製作会社等の権利者様とは一切関係がありません。
 本作は「氷と炎の歌(A Song of Ice and Fire)」の世界観をベースにした非公式のスピンオフ作品であり、原作の五十年前の時代(征服暦248年以降)の七王国西部ウェスターランズを独自の解釈で描いています。


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