ZINEへの愛が大きすぎる(番外編 ZINEフェスレビュー)
5月23日、
浅草で開催されたZINEフェスに行ってきた。
先日の文学フリマで、私は何も準備せずに会場へ乗り込み、かなり痛い目にあった。あれはイベント参加というより、無装備で知らないダンジョンに入った人間の末路だった。
だから今回は、まず準備した。
noteで出展者を事前に調べ、気になるクリエイターさんをチェックする。これで前回のように、各ブースをお化け屋敷みたいな気持ちで回らなくて済む。
さらに、ZINEを入れるための折りたたみエコバッグを二枚用意した。サイズの違う冊子にも、販促の紙にも対応できる。週末なので、帰りにスーパーへ寄ることまで想定していた。
完璧だった。
家を出るまでは。
会場へ向かう途中、最近なくした帽子を買い直そうとNEW ERAに寄った。そこで「袋いりません」と言い忘れ、帽子用の少し大きな紙袋を受け取った。まあ、これも使えるかと思ったのが間違いだった。
最初にebinaさん(後述)のZINEを買った時点で、その袋はすぐぱんぱんになった。その後も、それを見たブースの方々のやさしさで袋をいくつかいただき、最終的に私は鞄を含むと七つの袋を持っていた。
前回の反省を生かしたはずなのに、見た目は完全に「また袋を忘れて現地調達した人」である。
最後の小林エマさんのブースで、私は「今回はちゃんとカバンを持ってきましたよ!」と得意げに言った。だが、NEW ERAのキャップを被り、NEW ERAの袋をぱんぱんにして立っている私を見て、エマさんは内心こう思っていたかもしれない。
こいつ、今回も袋忘れたな。
ebinaさん「甘い作家、自分に」

ebinaさんのZINEは、大きかった。
比喩ではない。本当に大きい。
ZINEフェスに行く前、私はあらかじめ気になるフォロワーさんを何人かチェックしていた。前回の文学フリマで、会場に入ってから「全部見ればいいだろう」と思った結果、情報量に殴られ、視界が白くなった反省がある。今回は事前に目星をつけておこう。
そう思って見ていた中で、私の変人感知センサーが火災報知器くらいの速度で反応したのが、ebinaさんだった。
まず、開幕でアキレス腱が断裂している。
もう掴みが強い。自己紹介の最初のパンチとしては、だいぶ骨に響く。実際に会場でお会いすると、足にはガンダムの外装みたいなギブスが装着されていた。
私はつい最近、似たようなものを見ている。知り合いの総合格闘家がサブミッションで膝の靭帯を断裂した時の装備である。
一体、何をしたら同じ景色にたどり着くのか?
ebinaさんはまだ27歳らしい。27歳でこの疾走感。カート・コバーンくらい生き急いでいないか心配になる。
そしてZINEの作り方も、かなり特殊だった。
noteの投稿を印刷した紙を、ノートにそのまま糊で貼る。手作り感という言葉では足りない。これはもう、製本というより移植手術である。文章を紙に印刷し、それを別のノートへ一枚ずつ貼っていく。おそらく、とんでもない手間がかかっている。
しかも、見せていただいた本はどれも一冊ずつしかなかった。増産という概念が、最初から設計図に入っていない。
私はこの本を目当てに行ったのだが、
ひとつ、大きな勘違いをしていた。
ネットで見た時、A4のノートに印刷物を貼っているのだと思っていた。違った。A4だったのは貼られる紙の方で、ノートはさらに一回り大きかった。見た目はノートなのに、存在感はほぼ画用紙である。

結果、会場に入ってかなり早い段階で、私の大きめのNEW ERAの袋は、ebinaさんのZINE一冊でほぼ埋まった。
心配したebinaさんが紙袋をくれたのだが、それがさらに一回り大きい。元の用途が分からないくらい横に大きい。
混雑した会場で持ち歩くには、もはや小規模な引っ越しである。結局、その紙袋もNEW ERAの袋の中に入れた。袋の中に袋。もはや私は、読者というより搬入業者だった。
ただ、ebinaさんのすごさは、こういう奇抜なエピソードだけでは終わらないところにある。
経歴だけ見ると、波瀾万丈すぎる。令和の若者というより、昭和の文豪がWi-Fi環境だけ整えて転生してきたような感じがある。けれど、読んでいると、奇行や経歴の強さ以上に、文章そのものが強い。
話し言葉に近い。話題もよく飛ぶ。なのに、不思議と散らからない。目的地を決めずに歩いているように見えて、ちゃんと最後には着いている。雑談のように進むのに、読後には一本の線が残る。
特に好きだったのは、「受験に成功して、楽しすぎるキャンパスライフを送りたいものの、勉強に手をつけられない君へ」だった。
タイトルだけで、もう少し息切れしている。でも本文は妙に切実で、妙に論理的で、妙に読ませる。早稲田卒の経歴は伊達では無い。ページの始まりに挟まっていた栞でも何でもない謎のebinaさんの似顔絵が気にならないくらい、ちゃんと面白かった。いや、やはり少し気にはなった。

その日、会場の全ブースを回ってみた。
結論から言うと、ebinaさんのZINEがぶっちぎりで大きかった。
物理的にも、熱量的にも。
川成 灯さん「すりーあいあとらす」

前回の文学フリマで、川成さんと谷浦さんの合作
『作戦会議』を買った。
これが面白かった。
だから今回、川成さんが出店されると知って、私はけっこう楽しみにしていた。前回はちょうど離席中でお会いできなかったので、今回ようやくご本人に会うことができた。
今回購入したのは、川成さんのエッセイ集
『すりーあいあとらす』。
タイトルの「3I/ATLAS」は、2025年に発見された恒星間天体の名前らしい。太陽系の外からやってきて、近づいて、離れて、もう二度と戻らないかもしれない彗星。まず設定が良すぎる。エッセイ集のタイトルにそれを持ってくる時点で、もうこちらは少し負けている。
読んでいて印象的だったのは、文章のあちこちに星や宇宙の言葉が散りばめられていることだった。
ひとつひとつは違う題材の話なのに、バラバラに見えない。生活の話をしているはずなのに、どこか同じ星図の上に置かれている感じがする。日記でもなく、詩でもなく、生活の中にたまたま落ちていた光を、あとからそっと名前で呼び直しているような文章だった。
それにしても言葉選びがうまい。
部屋の内観を説明するのに「コズミックラテ」という言葉を持ってくる人がいるらしい。何を食べて、どんな照明の下で暮らしていれば、そんな単語が日常の引き出しから出てくるのか。私の部屋の洗濯機は屋外に置かれていて、最近、日焼けで変色し、偶然コズミックラテに近づきつつある。今度誰かが来たら、さりげなく言ってみたい。
個人的に一番好きだったのは「地球防衛アルバイト」だった。 さようなら、ゴリラ🦍
気になる人は是非読んでみて欲しい。
そして本の世界観、デザイン、文章、さらに実際に会った川成さんご本人まで、全部に隙がなかった。
なんというか、羊文学とかリーガルリリーとか、そのあたりのバンドにいそうな雰囲気のあるかっこいい人だった。思い返せば谷浦さんも少しバンドマンっぽい風貌だったので、二人並べて8ミリフィルムで撮って、ナンバーガールのPVみたいに太字ゴシックの白文字タイトルを入れたくなる。
ただ、あまりに様になりすぎている。
こちらとしても、ただ「素敵でした」とだけ言って終わるのは悔しい。世界観、装丁、文章、本人の雰囲気。すべてが揃っている。そんなことが許されていいのか。
なので、バランスを取るために、せめて背後に何か、残念な死因の背後霊くらいは憑いていてほしい。
目野さん「ごはんたべて、お風呂はいって寝たら100点満点」

今回のZINEフェスで、初めて目野さんを知った。
きっかけはタイトルだった。
完全にタイトルに惹かれて購入したエッセイ本である。
実際にお会いした印象は、とてもきちんとされた方だった。名刺のデザインまで凝っていて、受付のお姉さんとして座っていても何の違和感もなさそうな、清潔感と整い方があった。
だからこそ、本の内容とのギャップが大きかった。
30ページほどの短い本なのに、私の中の「おもしれぇポイント」が次々と加算されていく。
ページをめくるたびに、脳内のレジが勝手にピッ、ピッ、と反応する。
なんとなくだけれど、実際にお会いした雰囲気も含めて、私のnoteを観て頂いている方なら、先日書いたTさんをイメージして頂ければ近いかもしれない。
短い内容なので、あまり説明しすぎるとネタバレになってしまいそうで難しい。
ただ、個人的に特に好きだったのは、お弁当のバランのワッペンキーホルダーを持ち歩く話だった。
あれはかなり共感した。
私もリモートワークで暑い時期、下半身だけムエタイのトランクス姿で会議のファシリテーターをしていたことがある。
たぶん、あのときの私も同じ気持ちだったのだと思う。
目野さんの文章には、そういう「きちんとしていそうな人の中にある、少し変な大事なもの」が見える。
noteでもその片鱗が見えるので、気になった方はぜひ読んでみてほしい。
小林エマさん 「見えないものに流されて」

前回の文学フリマでは私のキャパ問題によって惜しくも購入できなかった、小林エマさんの『見えないものに流されて』を購入した。
読んでいて何度も、これは他人の人生の話なのに、
他人事として置いておけない、と思った。
私は就職氷河期の当事者ではない。けれど、先輩方の世代が就活や会社の中で浴びてきた、「外れたら終わり」という空気は、身近な背中を通してなんとなく知っている。
昇進すること。働き続けること。家族のことを引き受けること。
どれも外から見れば立派な言葉に見える。けれど、その内側には、本人にしか持てない重さがある。特に最後のお父様の話は、現在、私自身も父の体調があまり良くないこともあり、自分の足元にそのまま置かれたように感じた。
この本は、その重さを大げさに飾らない。けれど、軽くも扱わない。
だから余計に、読んだあと、自分がいま何に流されていて、どこに立っているのかを考えてしまった。
この本を読んだのは日曜日の夜だったが
113P以降の展開と、前日見た元気そうなエマさんの姿を知らないまま月曜日を迎えていたらメンタルを持って行かれたかもしれない。
すずひらさん「考働」

小林エマさん繋がりで知り、隣で出展されていた、すずひらさんの『考働』も購入した。
こちらは、「働く」という言葉をきれいに磨いて飾る本ではなかった。それぞれの人が、現場で削られたり、踏みとどまったり、少しずつ向きを変えたりしてきた記録として読んだ。
特にあまねこさんの、理学療法士として主任に昇格してからの話が刺さった。私自身も二十代前半から管理職を続けていたので、立場が変わった瞬間に、周囲の見え方も、自分の気持ちも、急に変わってしまう感じにはかなり身に覚えがあった。
ぬるいぬさんのデザイン事務所の話も、職種的に近いものがあり、明確な正解のないデザインの修正を延々と続けるしんどさに、胃の奥が反応した。
あと、メンタルが死んでいるときに銀杏を聴くのは、たぶん人類共通なのだと思う。
ちなみに私は「あの子は綾波レイが好き」を聴いていた。
『考働』は、働くことについて考える本というより、働いてしまった人たちの体温が残っている本だった。
そして、先輩方がこんなにも真剣に労働について考え、ZINEフェスの準備をしている時に、私は仕事のマニュアルを作るために示現流をググっていた。
良い歳をして、「示現流、鬼つええ!」みたいなテンションで文章を書いていた自分が今更恥ずかしくなった。
同じ仕事の話なのに、温度差がすごい。
読後、無性に懺悔したくなった。
どうして日本には懺悔室がないのだろう?
つい先日、下北沢で見つけた古民家カフェ風の食器棚が、かなり懺悔室っぽかった。あれを少し改造すればいける気がする。
番外編、心音さん
心音さんは、今回のZINEフェスには出店されていなかった。
けれど、個人的にどうしてもどこかで紹介したいと思っていたので、このタイミングで入れさせてもらうことにした。
きっかけは、フォローさせていただいているうどじょさんのマガジンだった。先日、うどじょさんが新しくマガジンを作成され、ありがたいことに私の記事も追加していただいた。その流れで、同じマガジンに入っていた心音さんの記事を覗きに行った。
いきなり説明するのも野暮なので、
まず読んでほしい。
読めばわかる、という言い方はかなり乱暴なのだけれど、心音さんの文章に関しては、かなり本気でそう思っている。
少し読んだだけで、引き込まれる。
文章の形式としては、noteでは少し珍しいタイプかもしれない。改行が少なく、話し言葉のまま地続きに進んでいく。普通なら読みづらくなってもおかしくない。文章がぎゅっと詰まっていると、こちらの目が先に降参してしまうこともある。
でも、心音さんの文章は読めてしまう。
むしろ、その詰まり方が呼吸みたいに感じる。整えられた文章というより、いま目の前で本人が話しているような文章なのだ。
先程紹介したebinaさんの文章にも、実際に語りかけられているような強さを感じたけれど、心音さんの文章にもそれに近い引力がある。ただ、方向は少し違う。面白さで連れていかれるというより、気づいたら胸ぐらをつかまれている感じに近い。
しかも、不思議なのは自己紹介の文章なのに、心音さん自身の具体的な情報はそこまで多くないことだ。
何歳で、どこに住んでいて、どんな仕事をしていて、どんな経歴があって、という情報が細かく並んでいるわけではない。プロフィール帳的な意味での情報量は、むしろ少ない。
それなのに、どういう人なのかが伝わってくる。
何を大切にしていて、何に傷ついてきて、それでも何を手放したくないと思っている人なのかが、文章の奥から伝わってくる。
うまく表現出来ないが、自分の身を少しずつ削って、それを文章に変換しているように見えた。
私は今年の二月にnoteを始めるまで、恥ずかしながら、日記やエッセイのような文章を書いたことがなかった。
本は好きなので、有名な小説やエッセイはそれなりに読んできた。文章を読むことには、昔から抵抗がなかった。でも、自分で書くとなると話は別だった。
noteを始め、イベントに行き、いろいろな人の文章やZINEに触れるようになって、ひとつ気づいたことがある。
文章を書くこと自体は、極論、誰にでもできる。
もちろん、うまく書くことは難しい。読まれる文章を書くのも難しい。続けることはさらに難しい。けれど、文章を書くという行為そのものに、明確な資格はない。
絵を描くこと、楽器を演奏すること、スポーツをすることには、ある程度の技術や身体感覚が必要になる。スタート地点に立つまでに、すでに大きな差がある世界も多い。
でも文章は、スマホを開いて、文字を打てば始められてしまう。この間口の広さは、文章の良さでもあり、怖さでもある。
誰でも書ける。
だからこそ、誰が書いているのかが問われる。
何者かである人は強い。すでに肩書きがある人、特殊な経験がある人、語れる実績がある人。そういう人の文章には、読む前から看板が立っている。
「この人の話なら聞いてみたい」と思わせるものが、文章の外側にもう用意されている。
逆に、まだ何者でもない人間が文章で読まれようとすると、どうしても別の武器が欲しくなる。
わかりやすいキャラクター。
強い肩書き。
目を引くテーマ。
SNSで拾われやすい言葉。
場合によっては、AIに整えてもらった文章。
それらは別に悪いことではない。
むしろ合理的だと思う。
自分の前にワンクッション置くことは、自分の身を守る盾にもなる。キャラクターや肩書きは、文章を読んでもらうための入口になるし、書き手が傷つきすぎないための防具にもなる。
私自身、noteを始めたばかりの頃の自己紹介を読み返すと、まさにそういうものが並んでいる。
何が好きで、何を書いていて、どういう立場で、どんなことをしている人間なのか。自分を説明するために、記号を並べていた。
それはそれで必要だったと思う。知らない人に読んでもらう以上、何かしらの入口は必要だ。
でも、記号が前に出れば出るほど、その人自身の感情の芯のようなものは見えづらくなるのかもしれない。
安全な文章は書ける。整った文章も書ける。
それっぽい文章も、今ならいくらでも作れる。
でも、本当に人の感情を動かす文章は、もっと危ない場所から来るのではないか。
心音さんの文章を読んで、そんなことを考えてしまった。
もちろん、身を削ればいい文章になる、という単純な話ではない。痛みを出せば読まれるわけでもないし、苦しさをそのまま置けば作品になるわけでもない。
けれど、心音さんの文章には、整える前の感情を、それでも言葉にしようとする力がある。
自分をよく見せるためではなく、誰かに勝つためでもなく、ただ「ここにいる」と言うために書かれているように見える。
その切実さは、たぶん技術だけでは作れない。
note歴四ヶ月程度のド素人が偉そうに言うことではないのだけれど、それでも読んでいて考えさせられた。
心音さんが、これから書くことを仕事にしたいと思っているのか、どこまで本気で文章の道に進もうとしているのかは全然分からない。
ただ、もしこのまま書くことを嫌いにならずに続けていかれたら。
いつか、その文章が一冊の本になったら。
私はたぶん、それが心音さんだと気付かなくても、かなり自然に買ってしまうと思う。
ZINEフェスに来て、もう一つ気づいたことがある。
今回は、前回の文学フリマとは違い、
顔見知りが増えた。
これは本来、とてもありがたいことである。
noteで読んでくださっている方と直接お会いできる。感想を言っていただける。
かなり嬉しい。
ただし、ひとつだけ大きな問題がある。
作家さんたちは、
当然のように私をペンネームで呼ぶのだ。
今さらながら、私はかなり後悔している。
noteで交流のある方に呼ばれる時、
私の名前はだいたい三種類に分かれる。
フルネーム(?)。小麦粉さん。舐め太郎さん。
小麦粉さんなら、まだいい。
ぎりぎり、作家っぽく聞こえないこともない。
燃え殻さん、みたいな名前の並びで受け取れば、
まだどこかワンチャン文学らしい湿度がある。
問題は、舐め太郎である。
"舐め太郎さん"
この四文字が現実の空気に放たれた瞬間、
急にジャンルが変わる。脳内に風俗ルポライターか、水木しげるの妖怪みたいな映像が立ち上がる。
始めた頃は、
こんなにnoteで交流が増えると思っていなかった。
まさかイベントで人と会い、ちゃんとした感想を言い合うようになるとは想像していなかった。
だから適当に名乗った。
その結果、今、私はリアルの場で「舐め太郎さん」と呼ばれる人生を歩んでいる。
しかも、今さら改名するタイミングもない。
少しずつ読んでくれる人が増え、名前を覚えてもらい、気づけばこの名前ごと認識されてしまった。
完全に詰んでいる。
もし私にタイムリープの能力があるなら、
四ヶ月前の自分に会いに行きたい。
そしてnoteの登録画面を開いている私の肩をつかみ、こう言う。
お前は今、
とんでもない間違いを起こそうとしている。
おわり。
最後に、今回の文章が気に入った方や、初めて私の記事を読んで頂いた方へ、自己紹介のエッセイを書きました。 私の人となりが伝わるように、頑張って書きましたので読んでいただけたらうれしいです。
自己紹介エッセイ
今までの弁当とエッセイをまとめた
「弁当記録」というマガジンもあります。
マガジン|弁当記録
