照射|傘の花にまつわるえとせとら|あわいの掌編集2|風まかせ文芸部《傘》
水無月の雨は苦手である。雨の描写が上手くできないから。そのせいか、わたしの書き物には雨の日が少ない。
その半面、雨の出てくる創作を読むのは好きである。中でも印象的だったのは、今井美樹の「雨にキッスの花束を」だ。その頃、わたしは馴染みのない環境で鬱屈とした日々を過ごしていた。それは湿度の高い灰色だけが支配する世界だった。
──幼馴染みなのか職場の同期なのか、これまで付かず離れずの仲のまま、妙に風通しのよい関係でいたヒロインが、スクランブル交差点の真ん中で、思いがけなくプロポーズされる内容である。
アニメ版「YAWARA!!」のオープニング曲。勝ち気で素直になれない歌詞のヒロインが、柔道着の白と枯草色の畳に囲まれた、天才だけど恋には不器用な柔道少女とも重なる。
この主題歌のバージョンにはないが、アルバム版では今井美樹の肉声で「やっと言ったなコイツ。もう離れないから」というモノローグが入る。ツンデレさんの完堕ち宣言。これがまたよい。否、だからよい。
歌詞の後半には、ヒロインの手から離れ、傘が転がっていく描写がある。傘が風にあおられただけの、ありふれた風景にすぎない。しかし、その風は、わたしの胸の奥をそっと撫で、わたしの中には、刹那にその映像が鮮明に浮かんだ。
交差点のど真ん中。白いペンキの線。濃い灰色に乾いた舗装素材に、ぽつぽつと黒い染みを作っていく雨粒。
如何にもしごできな都会の乙女(ここではアーティストに倣って“ミキ”とでもしておこう)。黒いビジネススーツにベージュのスプリングコート。少しだけ緩んだ長い腰ベルト。肩には黒革のビジネスバッグが提げられている。必要以上に高くない踵。黒髪は機能重視のポニテ一択。紅はわずかに褪せ、雨空の下でほとんど沈んで見える。
信号の色が変わる。クラクションの音。ビルの谷風。そうして、その上を転がっていく鮮烈な紅い花の色。時間が止まる。静寂。
モノトーンの日常が、思いがけなく紅の閃光に射抜かれ、ヒロインの感情が制御不能に陥った瞬間が切り取られている。
その映像を見たわけではない。すべては空想の世界である。しかし、わたしの心の奥底には、この架空の雨の日の光景が、はっきり焼き付けられた。そして、そこから何ともいえない青春の奔流が湧き上がってくるのを意識した。
行く先の分からない客車の片隅にひとり腰を下ろし、煤煙が烟るよう不愉快な、下等な、退屈な、うらぶれて、死んだやうに目を瞑って、うつらうつらしているだけの人生から、わたしはようやく目を覚ました。それから、あの紅の残影は、胸のどこかを転がり続けている。
わたしはこの時はじめて、言いようのないむず痒さと萌えとを自覚し、不可解で、理不尽で、制御不能で、気まぐれな黒猫のようなツンデレさんも、悪くないと思う事が出来たのである。
#エッセイ #文学実験 #雨 #傘の花 #色彩 #芥川パロディ #だめな蜜柑 #ツンデレ完堕ち #萌え #わたくさす節 #雨にキッスの花束を #風まかせ文芸部 #傘 #あわい #照射 #創作大賞2026 #オールカテゴリ部門
いいなと思ったら応援しよう!
最後までお付き合いいただきありがとうございました。皆様からのサポートは、登山の際の安全装備の調達に使わせていただきます。登山はわたしの創作の源──応援よろしくお願いいたします。