硝子の靴異譚09|誰がそんな話を?|風まかせ文芸部《予感の味》
その夜、予定よりも幾分か早くにその兆候がはじまった。わたしたち王付薬師は、医局(兼記録院)に設えられた部屋に、少し緊張した面持ちで待機している。
その部屋は、宮廷の最奥部にあって、普段は落ち着いた気配が漂う一角ながら、今日ばかりは張り詰めた空気に支配されていた。わたしは、主席薬師を拝命しながら、その場に携わった経験はない。さらに、王族子女のことともなれば、自然に力が入ろうというものである。
わたしは努めて冷静な介助者であらねばならない。そして、わたしは努めて正確な記録者であらねばならない。わたしは、そう心を引き締めて、──大きなお腹を抱えたわたしと、その隣の柔らかな視線を、ぽわわんと思い浮かべた。おくるみは淡いコーラルピンクね。名前は……。その未来の情景は、舌の奥にほのかに残る予感の味のように、わたしの意識を甘くくすぐった。
◇
……と、緊張しているのか弛緩し切っているのか分からない独白を垂れ流しているこの娘には、今宵は語りを任せてなどおけぬ。この一大事には、もとより集中してもらわねば困る。わらわの老夫には、今日ばかりは出てこぬようきつく申しつけておいた。孫娘にも、むろんそのような余裕などないであろう。
──つまりは、今日の独占放映権はわらわにある。
いや、何かしてやりたい。だが現実には、わらわの血脈に幸あれと祈ることしかできない。──われ思う。されどわれなし。
扉の外では、靴音が行ったり来たりしている。我が孫のケイザリオン王子は、緊張すると足並みが硬く一定になる。さらには、息子、国王陛下が立ったり座ったりする気配まで感じられる。見ずとも分かる。はじめてのことなれば、男たちも落ち着かぬのであろう。
その、かっかっかっというリズムによって、本人が集中を乱しはしないかと慮って、その顔をそっと見遣る。そばにおらずとも、心は常に共にあるなどという甘っちょろい戯れ言は云わぬ。断言する、本人は、今それどころではない。
息子の時などは……と、思いかけて、わらわは口をつぐんだ。思い出すことはできても、触れることはできぬ。あの痛みも、恐怖も、喜びも、はじめて掻き抱いた温もりも──もうすべてわらわの手元にはない。
部屋は白く清潔に設えられており、灯りは、いつもより少し暖かい色合いであった。心根次第で空間の温度を変えるとは、昨今の発光ダイオード式照明器具はまこと便利であるな。
「ミ・キノ、手が、震えているわよ」
少し波が静まったとき、ミナ王女が、静かな口調で言った。強い娘じゃ。このような時も、無意識に皆を和ませようとしておるとは。
「震えてなどおりません。これは、筋肉の不随意運動です」
まあ、世の中ではそれを震えと言っておる。少しだけ場の糸が緩んだあと、波がまた大きくなっていく。
規則的な波に合わせるように、彼女は必死に息を整えておられる。進行は順調。医学的には問題ない。だが──観測とは、まったく厄介なものだ。
「ミ・キノ、深呼吸しなさい。あなたが倒れたら困るわ」
その声は、いったい誰のものであったか。
「大丈夫です。わたしは主席薬師です」
その根拠が些か不明ではある。伸びた手が、ミ・キノの手を強く握った。その手は力強くもわずかに震えていた。
その時、部屋の奥から、生命の息吹が聞こえた。
ひと声、ふた声、み声──、広い世界を少しずつ確かめるように、徐々に力強くなっていく。それは今のわらわにはないもの。けれど、その声が世界を震わせた瞬間、冷えきった胸の奥に未来の予感が広がった。それは、朝の空気みたいに澄みきっていて、ほんの少し甘い味がした。
マキ王妃の唸り。薬師たちのざわめき。感極まった王子の吠え声。駆け込んで来る国王陛下。──思い返せば、あの人もそうだった。だが、静かにしてあげて欲しい。
王女の掌の温度。
そして、新しい生命が、自らの生を高らかに主張する声。
「……ミ・キノ。記録、お願い」
事を成し遂げた後の王女の声は、驚くほど静かだった。
ミ・キノは、深く息を吸い込むと、記録板を手に取った。
「王暦ダイアンサスとマリノールの結ばれし月六日、午前三時一二分──ダイアンサス家第一王女がお生まれになりました」
……その言葉が部屋に広がった後、空気がふっとほどけたの。わたしは、そこでようやく語りの主導権を取り戻したわ。
ミ・キノが百通りも名前を準備していて、その王女の名前は、祖霊から精霊から親兄弟まで、満場一致で決まったの。
ランジミーナ・ダイアンサス第一王女。
わたしの名前もちゃんと受け継いでいるのよ。はじめてできた、わたしの──
◇
わたしの──義妹ちゃん。いや従姉妹ちゃん?
わたしは、「おばちゃんの手を握りしめている」という仕事を終えて、もう、すっごい感動しました。
ええ、わたしたちの娘だと思った?誰がそんな話にしたのよ?
──ざんねん、「○×▼」の件で、おじちゃんとおばちゃんの娘でした。
でも、わたしによく似ている。──両方で半分ちょっとわたしの血って言い過ぎ?
「王女様、足し合わせてはなりません。叔母様からの八分の一相当です」
ミ・キちゃん、わたしだってそれぐらいの知識は持ち合わせているのよ(照)。
この年にもなると、夜更かしは堪える。特にこのような折は、衰えが沁みるものよ。……ところで義孫娘よ、そなたはもう少し情緒というものを。
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