便利屋修行1年生 ⑯タチの悪いキス 連載恋愛小説
男の人がひとり、大股でこちらへやってきた。沢口の胸ぐらをつかんだかと思うと、荒っぽく離す。
「下手すりゃ暴行罪だぞ」
「お世話おかけします。林田さん」
手は出してない、とばかりに沢口は両手を軽く上げる。
生活安全課に相談に行ったときの担当者だったので、綾は会釈をした。
「災難でしたね。コイツが元凶の気がするけど」
自分たちは民事専門だから、刑事事件化すると彼にお任せコースだと、沢口は説明する。
「任せんな、ボケ」
息ぴったりなので、親戚かと思った。
「こっちはコトが起こらないと動けないけど、おまえはコト起こしすぎだ」
林田の殴るジェスチャーをかわす沢口。
GPSつきの防犯ブザーを警察から支給されていたっけ、と綾は今になって思い出す。
体も頭も、だるくて重い。
こまかいことは記憶があいまいで、前後関係がよくわからない.。わかっているのは、沢口と男がもみ合いになって、パトカーやら見物人やらで大騒ぎになったことだけ。
「野次馬引き寄せたんで、証言たっぷりとれると思いますよ」
「手慣れてんのが、腹立つわー」
警察署の冷たい廊下で、やっと声が出た。
「なんで」
首を鳴らしていた沢口が、こちらを向く。
「あー、逃げられたら困るし、時間稼ぎ」
「なんで?」
頭いいくせにバカなのかと、綾はぶつけるように言った。
「通報したんだから、警察待ってよ。なんで応戦すんの」
さすがに2本目のナイフにはビビったと、緊張感のない声が返ってくる。
悪運が強いのか本人はかすり傷ひとつなく、コートの袖口を切られただけで済んだ。デニム生地だし、逆に味になっていい、とうそぶいている。仕事柄、恨みを買うことも多く、イザコザに巻き込まれやすい体質だと、あっけらかん。
「逃げてよ。お願いだから」
綾は生きた心地がしなかった。
大切なものは、ある日突然消えてなくなる。そして、二度と戻らない。
もっとなじりたいのに、息ができなくなって続かない。空気が変なところに入って、むせてしまう。
「もう同じ空気吸っていたくない」
言い終わる前に、綾は口をふさがれていた。
「……おかしい」
ん?と声をもらし、沢口が唇をはずす。
「おかしいから。いろいろ」
「そっか」
抗議を示そうと長椅子の端まで逃げたのに、読まれたみたいに背中に腕をまわされる。
「意味ないなら、手はなして」
「意味ないなんて、だれが言った?」
勝手に動かず、もっと周りを頼ってほしいこと。危ない橋は渡らないでほしい。
言いたいことは数えきれないくらいあったのに、今のキスでバラバラに飛んでいってしまった。
「で、続きは?」
「……わかんなくなった!」
キレぎみに認めたとたん、沢口がかみついてきた。
下唇を甘くかんだあと、ゆっくりと上へ吸いつく。頭を抱え込まれる深いキスに感覚がしびれたようになり、現実味がなくなる。
「危なっかしいのは、そっちだから」
額を合わせ、彼はしずかに長く息を吐く。綾の頭にあごをのせた姿勢のまま、沢口はしばらく動かなかった。
すぐ横のドアが開いて、林田が顔をのぞかせる。
「依頼人食うなよ、おまえ」
「まだです。あと身内です」
「余計タチ悪いわ」
やっぱり仲がいいなあ、と綾はぼんやり思った。
(つづく)

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