1000文字掌編「返事の遅さ」
「またか……」
私は、先週送ったはずの業務連絡メールの送信履歴を睨みつけた。窓口を閉めたあとの事務所は静かで、天井の蛍光灯が鳴らす微かなジーという音まで聞こえる。
下町のうらぶれた私立大学では、夜はどこよりも早く来る。
宛先は竹中。東大卒の元官僚という輝かしい肩書きを持つ、週三回の非常勤講師だ。彼への連絡は、下手くそなブーメランを放つのに似ている。――奇跡でも起こらない限り素直に戻ってこない。先週送ったメールは、たぶん、まだ開封されていない。
私は重いため息をつき、来期のシラバス案の提出を促す督促メールを作成した。期日は二週間後だが、今から追い詰めておかなければ手遅れになる。「送信」ボタンをクリックし、乾いた喉を潤そうと席を立った、その瞬間だった。
『ピコン』
電子の安っぽい通知音が響いた。
【送信者:竹中】
【件名:Re:来期のシラバス案について】
【本文:承知しました。】
私の指先が、マグカップの取っ手の上で凍りついた。送信から、わずか三秒。
「……おい、ちょっと見てくれ」
私はパーテーション越しに隣の席の佐藤を呼んだ。佐藤は淹れかけの緑茶の手を止め、声を潜めた。
「……本当にちゃんと読んだんですかね? 内容も見ずに、Outlookの定型返信候補を押しちゃっただけでは?」
ありえる、と思った。直接、確認するしかない。
私は引きずられるような足取りで薄暗い廊下を渡った。腕時計はまもなく十九時。また残業だ。妻はもう、何時に帰るの、と問わなくなっていた。
講師控室の重い木の扉を、数センチだけ押し開けた。 竹中さんは、こちらに背を向けてデスクにいた。パソコンを凝視しているように見える。よく見れば、デスクの下に垂らした右手に、スマートフォンの青白い光が灯っていた。エアコンの風を受けて、頭頂部の癖っ毛がそよいでいる。
「……竹中先生」
「ヒャい!」
裏返った声とともに、スマートフォンが右手から滑り、床を打った。
「あっ」
私は足元に転がった端末を拾った。ただ、そこに表示された写真を見て、指が止まった。制服姿の女の子だった。まだ中学生くらいだろう。校舎らしい建物を背に、カメラから少し目をそらして、ぎこちなく笑っている。
まさか。……そういえば、こないだそんな事件が。
ないな。ないだろう。
私は「どうぞ」とスマートフォンを差し出した。 竹中さんは私の視線の意味を察したらしい。慌てて端末を受け取り、画面側を胸元へ押し当てた。
「娘です」
「え?」
「離れて暮らしていましてね。母親と一緒に」
竹中さんは眼鏡を押し上げた。先ほどまでの狼狽とは違う、どこか気恥ずかしそうな顔だった。
「普段は、LINEを送ってもなかなか返事が来ないんです。一週間とか、二週間とか。既読もつかないことがある」
彼はスマートフォンを見下ろした。
「でも、さっき来たんですよ。ハピバ、って。スタンプだけですけどね」
――あ、今日、誕生日か。
「いつも返事が遅くてすみません。シラバスは明日提出しますね」
竹中さんはそう言って、スマホを胸ポケットにしまった。遠くで電話が鳴っている。事務所の方だ。切れた。佐藤がとったのだろう。
私は「おめでとうございます。シラバスよろしくお願いいたします」とだけ告げ、静かに扉を閉めた。廊下でふうっと息を吐く。
妻の険しい顔を思い出した。たまには私から、帰るコールをしたら、喜んでくれるだろうか。
1000字掌編30日チャレンジ、20日目。
AIに、30日分のタイトルを作ってもらいました。一時間以内に制作という自主条件で、挑戦中です。
今回は「返事の遅さ」というお題でした。いつもと違う行動には、その人なりの理由があるという話を書きました。
1日目「鍵の行方」
2日目「氷の入ったコップ」
3日目「母の字」
4日目「朝の電車」
5日目「塩の量」
6日目「隣の声」
7日目「写真の整理」
8日目「友人の幸福」
9日目「傘の骨」
10日目「時間の貸し借り」
11日目「声の高さ」
12日目「週末の約束」
13日目「名前を呼ぶ練習」
14日目「コーヒーカップの欠け」
15日目「雨の夜の帰宅」
16日目「窓の外の木」
17日目「忘れた約束」
18日目「口紅の蓋」
19日目「二つの傘立て」
★20日目「返事の遅さ」
21日目「砂糖の位置」
22日目「走る練習」
23日目「先に寝る」
24日目「知らない町の地図」
25日目「誕生日の電話」
26日目「夏と嘘」
27日目「図書館の予約」
28日目「夕方と影」
29日目「手紙の封」
30日目「ぬるいお茶」
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