見出し画像

穴 |掌編小説

冷蔵庫を手前に引き出して、コンセントを抜いた。 壁とのあいだに、ひどい埃が溜まっている。

「お父さん、掃除機で吸っちゃっていい?」

「頼む」

「中身はもう出したの?」

「あー……なんか入ってるか、ついでに見てくれ」

「コンセント抜く前に、なんで中身を確認しないの? 父さんって本当に……いや、もういいや」

花柄のエプロンをつけた雪が、鼻歌まじりに掃除機をかけはじめる。 私は手を洗ってから、本を段ボールに詰めた。仕事の専門書、自己啓発本、岩波の文庫本、経済誌、科学誌。前もって処分しておかなかったせいで、こうして箱に押し込むしかない。

本を縦に並べ、高さをそろえ、隙間に残りを差し込んでいく。 うまく収まると、口元がゆるむ。段ボール一箱に、だいたい二十冊。四箱で八十冊。本棚には何冊あったんだろう、と思う。 ハードカバーのジャズの解説本は、今の時代なかなか手に入れられない貴重本である。背表紙を撫でてから、並んだ本の一番上に置いた。

「デスクの引き出しの中身も、適当に段ボールに入れちゃっていい?」

もう引き出しを開けながら、雪が言う。

「いいよ。入れちゃって」

そのとき、建物がみしりと鳴った。 床の下から、短く突き上げるような揺れが来る。

「お父さん、地震」

「伏せて。デスクの下へ」

私たちはそれぞれの場所で身をかがめた。玄関まで何歩か。ドアを開けて、靴は、あるか。 揺れはすぐに収まった。

雪がスマホを取り出し、地震情報の画面を開く。 何度か指で更新する。

「……でない。絶対、震度3はあったのに」

こういうとき、つくづく世代が違うと思う。 揺れた、では終わらず、まず画面の中に答えを探しにいく。

「お父さん、地震情報が出ない」

「地震じゃなかったんだろ」

「じゃ、あれ何?」

「トラックでも通ったのかもな」

それなら最初からそう言ってよ、と雪が私を軽く睨んだ。ごめん、と答えて、私は作業に戻った。本当に地震だと思ったのだが。雪が叫んだから、そう思ったのかもしれない。

「父さん、これ終わったら、約束のステーキ絶対だよ。私、休みを潰して手伝ってるんだからね。——これ、母さんの免許証じゃん。うわ、かなり若い。二十代?」

雪がそれをつまんで、こちらへかざした。 青い帯の入った免許証。穴がひとつ空いている。

「なんでこれ、父さんが持ってるの? 母さん、免許証持たずに車乗ってるの?」

「違うよ。更新したあとのやつ。古いのを、母さんがくれたんだ」

「ほんとだ。パンチ穴みたい。じゃあ、これ、もう使えないんだね」

「使えない」

雪はしげしげと眺めた。

「こんなの、なんのためにもらったの?」

「どうだったかな」

「わからないの? あ、母さんが綺麗だったから手元に置いておきたかったとか? この母さん、めっちゃ綺麗だし」

「違うよ」

「じゃあ、なんで?」

私は免許証を受け取らず、本を詰める手を動かしたまま言った。

「母さんが、古いのどうしようって言ってたから。じゃあ父さんがもらうよ、って」

「もらってどうするつもりだったの?」

「別に」

雪は少し黙ってから、引き出しの中を覗き込んだまま言った。

「じゃ、ここに入ってたミニカードとか、インク切れてそうなボールペンとか、使いかけのシールとか、チケットの半券とか、ああいうのも母さんの?」

「どうだったかな。もう覚えてない。とにかく段ボールに入れておいてくれないか」

「覚えてないレベルなら、ゴミ袋でよくない?」

「いや。全部入れておいて。新しい家に行ってから整理するから」

「ほんとに整理するの?」

「する」

雪は、ふうん、とだけ言って、引き出しを机から抜き出した。 それを段ボールの上で逆さにする。中身が一度に落ちて、鈍い音を立てた。

「乱暴だな」

「母さんに似たんだよ」

その目が、まっすぐこちらを見た。

大きな目だった。 睫毛が長い。白い肌。黒いTシャツの上に、花柄のエプロン。 あれは妻のものだっただろうかと思う。

「なあ、母さん、再婚しないのか」

雪はすぐには答えなかった。 次の引き出しに手をかけたまま、少ししてから言った。

「……しないんじゃないかな」

「そうか」

「今、幸せそうだもん。好きなことして、毎日のびのびしてるし」

「じゃあ、もう父さんなんていらないかな」

雪は手を止めて、私を見た。

「……いらないことはないと思うけど」

それから、段ボールの口を折りながら言った。

「でも、もっと楽しいことがあるんじゃないの。父さんも、楽しいこと見つければいいのに」

私はスマホを手に取り、ジャズを流した。 サックスの音が、埃の舞う部屋に広がっていく。

さっき雪が引き出しの中身をあけた段ボールに近づき、妻の免許証を探した。 すぐに見つかった。青い帯。まだ眼鏡をかけていない顔。化粧は少しぎこちなく、左の口角がわずかに引きつっている。白いシャツ。肩のあたりでゆるく巻いた黒い髪。雪に、似ている。

「その花柄のエプロン、母さんのか?」

「花柄じゃないってさっきも言ったじゃん。北欧デザインのテキスタイルっていって……」

「とにかく花柄だろ」

雪が小さくため息をついた。

「父さん、それ、やっぱり私が捨てようか」

次の引き出しに手をかけたまま、雪がこちらを見る。

私は首を振った。 免許証を指先で持ち直す。親指が、穴の縁にかかった。ハイデガーだったか——過去は過ぎ去るのではなく、現在に居座り続ける、みたいなことを言っていた気がする。免許証の中の妻は、確か二十三。それなのに、しっかりした顔をしている。

「もう少しだけ、持っていたいんだ」



いいなと思ったら応援しよう!

佐藤りぷ よろしければ応援お願いします。いただいたチップは、創作時のコーヒー豆のグレードアップに使わせていただきます。