隙間 |掌編小説
急に暑くなった。
午前中はまだましだったが、昼を過ぎると空気が重くなった。四人でちょうど埋まる事務所には、紙の匂いとインクの残りがこもりやすい。窓は開いているのに、風は入ってこない。隣の工場では、今日も輪転機が低く唸っている。
「暑いっすね」
石川が言って、椅子を少し引き、首元をつまんだ。
「扇風機、ないんですか」
「あるな」と斉木が言う。「倉庫に三台」
パソコンをスリープにして、現金類を金庫にしまってから、倉庫に向かった三人を追いかけた。奥に、ビニールをかぶせたままの箱があった。引っ張り出して事務所に戻る。
「扇風機って、分解できるんすか」
石川が網を持ち上げながら言う。
「できるやつもある」と斉木が答える。「外せば洗える」
ビニールを外した瞬間、石川が顔をしかめた。
「うわ、なんでこれ、こんな汚いまましまってあるんすか」
斉木の手が一瞬止まる。
「……年末、忙しかったんだよ」
少し置いてから言う。
「君はまだ知らないだろうが、今年も忙しいぞ」
「はは……すみません」
石川は笑って、網を外しにかかる。外せるものは流しへ持っていき、土台は雑巾で拭くことになった。
一台だけ、網の根元が外れないものがあった。
「これ、外れないやつだな」
斉木が覗き込む。
石川が網を寄せて、人差し指を隙間に入れようとした。すぐに引っ込める。
「入んないっす」
私は土台を拭きながら、その指を横目で見た。若い指だ。いきなり隙間に突っ込んで、押し通そうとしている。扇風機がかわいそうになるほど。
「貸してみろ。お前より俺の方がまだ入るかも」
斉木がそう言って、石川と代わる。網を押さえ、指先を隙間に寄せる。その動きを、私はまた見た。
思ったより手がきれいだった。甲にうっすら毛があって、爪は短い。普段は断定口調が多いのに、指を差し込むのはやたら慎重だ。何がそんなに怖いんですか、と聞いてみたくなった。もちろん聞かない。
「だめだな」
斉木が言って手を離す。親指で、突っ込んだ自分の指の爪を擦っている。
「じゃあ俺やりますよ」
伊藤が言って、デスクからボールペンを持ってくる。網の隙間に差し込んで、埃を寄せる。
「綿棒あります?」
「ありますよ」
引き出しから出して渡す。
伊藤は綿棒の先を少し潰し、網の内側へ押し込んだ。ゆっくり、なぞるように動かす。
石川が横から覗き込む。
「すげえ、埃取れてる。綿棒神」
伊藤が少し笑って、「んー……でもこれだと時間かかるな。埃が隙間に残っちゃうし。やっぱ指がいいかも」
伊藤は、水道に行った。一瞬だけ手に水をかけてから、また戻る。
「濡れた指なら、埃がくっついてくるはず……やっぱ人差し指は無理か」
言いながら、伊藤は、小指を差し入れる。隙間に、かろうじて触れる。
押しつけるようにして、少しだけ中に分入り、右から左、また次の右から左、となぞった。
その動きを見ていた。
小指が網の内側をなぞる。引っかかって、少し止まり、また動く。
嬉しそうな伊藤を見ていて、急に彼の奥さんを思い出した。体は細いが、芯の強い女性だ。笑顔が明るい。目がなくなるようにして笑う人。
「奥さん、お元気ですか」
気づくと、そう聞いていた。
伊藤が顔を上げる。
「ああ、元気です。最近、課長になって忙しそうで」
「じゃあ、家のことは伊藤さんが?」
「いやあ、そういうのはあんまり」
言いながら、また網へ目を戻す。小指が、内側でわずかに擦れる。
「私、やりましょうか」
気づくと、また言っていた。
「あ、じゃあ、よかったら」
伊藤の横に座って、扇風機を受け取る。指先が触れたかどうかは、わからない。
網に小指を差し入れる。 するりと入った。 内側に触れる。ざらついた感触がある。 上下からの圧がきつい。さらに押し込んだところ、網の方が撓んで、指はきつくてやや痛いのに、もっと押し込みたくなった。
何度か、なぞる。埃が指先に集まる。
伊藤の声が近い。
「すごいですね。鈴木さんってなんでもできるんだなあ。いつも数字もぴったり合ってるし。昔から細かいこと、得意だったんですか」
「細かいことは、ほんとは苦手ですよ」
「そうですか?」
「ええ。かなり雑です。でも、雑だといけないところだけ、気をつけてるんです」
「そうは見えないけどなあ」
私は何も言わず、もう一度、奥へ指を入れた。
「ふう、疲れた。あ、そっち、終わりました?」
石川が戻ってくる。
「こっちは終わったよ」と斉木が言う。「設置するか」
「あ、じゃあ伊藤さんも手伝ってくださいよー。俺と斉木さんだけじゃ手が足りない」
「二台で二人なら、ちょうどいいだろうが」と斉木。
「いやいや、俺も行きますよ、斉木さん。ほら、石川さんはどこに置いていいかわからないでしょうし」
伊藤が立ち上がる。
「鈴木さん、あとお願いします」
振り返ってそう言う。
「はい」
三人の足音が遠ざかる。 部屋が少し静かになる。輪転機の音だけが、変わらず続いている。
小指を引き抜くと、先がうっすら灰色になっていた。 廊下の方を、一度見た。 指じゃ埒が明かない。デスクの引き出しを開ける。ゼムクリップがあった。端を持って、伸ばす。「く」の字になった。力が足りない。バインダーの背表紙に押しつける。「U」になる。それを両手の親指でしごく。歪んではいるが、一応「1」っぽくなった。
せっかく作ったのに、と思いながら、扇風機に差し込む。真っ直ぐにした分、かえって力が入らない。奥に固まったものがあるのはわかる。先が触れる。でも動かせない。
伊藤の奥さんの手を思った。細い手だ。筋張った、きれいな手。あの二人は家でどんなふうに——食卓で向かい合って——どんな親密な——
「おい、石川、洗剤落ちてないじゃないか」斉木の声がした。
少し間があって、石川の言い訳らしき声。それから斉木の笑い声が響いた。
私はゼムクリップを動かす。届くが、うまくいかない。
「ごめん、結局やらせちゃって」
声がして、顔を上げる。
伊藤が戻ってきていた。手に歯ブラシを持っている。
「掃除箱にこんなのありましたよ。こっちのほうがやりやすいかと思って」
私は手元のゼムクリップを見た。伊藤もそれに気づいて、少し笑う。
「あ、もう工夫してたんだ」
「いえ、これじゃ細すぎて、逆にうまくいかなくて」
そう言ってから、私は伊藤の手の中の歯ブラシを見た。手の中の歪んだゼムクリップを、ぐっと二つに曲げた。
「それ、いただいていいですか」
伊藤は、歯ブラシを差し出した。私はヘッドだけを持って受け取った。毛先がまだらに、黒い。向こうの部屋で、扇風機が回り始めた。
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