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救済が多すぎる |掌編

緑は、物語に向いていない女だった。

婚約者は浮気をしていた。相手は妊娠していた。慰謝料は払えないと言った。緑はすでに寿退社をしていた。式場の予約も、退職の挨拶も、親戚への連絡も、だいたい済んでいた。

こういうとき、物語なら雨が降る。

けれど空は晴れていた。風は乾いていて、洗濯物がよく乾きそうだった。緑はそれが気に入らなかった。自分の不幸に、天気がまるで協力していない。

駅前に占い師がいた。

「あなた、いま人生の分岐点にいますね」

緑は立ち止まらなかった。

人生の分岐点にいる人間は、たいてい見ればわかる。髪は乱れ、靴のかかとは潰れ、背中が丸い。あれを占いと呼ぶなら、駅前の鳩にもできる。

少し先で、元同僚に会った。

顔のよすぎる男だった。顔のよすぎる人間は、こちらが疲れているとき、ほとんど暴力である。

「緑さん。実は、ずっと好きでした」

緑は男の顔を見た。

傷ついた女の前に、前から彼女を見ていた男が現れる。しかも見目がよく、金もある。元婚約者とその相手はそれを知って悔しがり、読者は少し安心する。そういう段取りなのだろう、と緑は思った。

「気持ち悪いです」

男はそこで物語から脱落した。

さらに歩くと、石があった。

「緑」

石が喋った。

「お前には前世から続く呪いが――」

緑は石を蹴った。

石は排水溝の縁に当たって、乾いた音を立てた。前世はそれきり黙った。

家に帰ると、大家がいた。

「都市計画でね。立退料が出るの。だから今月でここ閉めるから、明後日中に出ていって」

緑は壁を見た。

「明後日」

「結婚したら退去するって言ってたでしょ」

言った。たしかに言った。人生が予定どおりに進むと思っていたころの緑が、たしかに言った。

大家はにこにこしていた。にこにこしながら人を追い出せる人間が、この世にはいる。物語より現実のほうが、よほど手際がいい。

緑は部屋に戻って荷物を詰めた。

途中で卒業アルバムが出てきた。初恋の人の写真を見つける。まだ世界がこんなふうに雑ではなかったころの顔だった。

スマホが鳴った。

「結婚式、黒田くんも来たいって言ってるよー」

一瞬だけ胸が鳴った。

次の瞬間、思い出した。
結婚式は、もうない。

緑はスマホを伏せた。

逃げるようにゲームアプリを開くと、画面に表示された。

〈おめでとうございます! 一億円当選!〉

緑は三秒で閉じた。

詐欺だった。

そういうものは見抜けるのだ、と緑は思った。
なのに、毎晩となりで眠っていた人間の嘘は、見抜けなかった。

隣室から物音がした。

苛立ってドアを開ける。

「うるさ――」

そこにいたのは、細身の探偵だった。声は女のようでもあり、少年のようでもあった。整いすぎた顔は、かえって職業を曖昧にしていた。

「調査中です」

「何の」

「隣の男の」

隣には、見知らぬ男が住んでいた。緑は一度だけ、深夜に階段ですれ違ったことがある。柔軟剤の匂いのする、所在の薄い男だった。

緑は黙った。

物語はまだ諦めていないらしかった。

「あなた、さっき詐欺を見抜きましたね」

あなたが詐欺師?

「見ればわかります」

「では、働きませんか」

緑は笑いそうになった。

ここで職が手に入るのか。ここで居場所が用意されるのか。あまりに都合がよすぎる。

けれど探偵は言った。

「住み込みです。給料は安いです。依頼はほとんど猫です」

緑は少し考えた。

「なら、いいです」

救済にしては、みすぼらしかった。
だから信用できた。



探偵事務所には、事件が来なかった。

来るのは猫だった。

白猫。三毛猫。太ったキジトラ。ときどき浮気。だいたい猫。それと崇拝者。探偵はたいていソファで寝ているので、薔薇だけが増える。

緑は町を歩いた。

八百屋に聞き、クリーニング屋に聞き、犬を連れた老人に聞いた。猫は見つかったり、見つからなかったりした。誰かが泣いたり、誰も泣かなかったりした。

緑の看破力は、役に立つ日もあれば、まるで役に立たない日もあった。

人間の嘘は、猫より難しい。
自分の願望は、人間の嘘よりさらに難しい。

ある夕方、商店街の端で、探していた猫を見つけた。猫は逃げなかった。ただこちらを見ていた。

緑はしゃがんだ。

「帰る?」

猫は返事をしなかった。

石より賢い、と緑は思った。

その日、緑は猫を抱いて事務所へ戻った。探偵はソファで寝ていた。机の上には未払いの請求書が積まれていた。救済は今日も来ていなかった。

緑は猫を降ろし、窓を開けた。

外から、誰かが緑の名を呼んだ。

運命ではなかった。
奇跡でもなかった。
まして前世からの因縁でもなかった。

ただ、何度か通った道で、何度か言葉を交わした人が、彼女を覚えていただけだった。

緑は返事をした。

物語はそこで、ようやく少し黙った。





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