私の考える日本的なるもの(3) 雪見/私が光ると、私は見えなくなるんです
この記事は下記2記事の続編・完結編です。
※私の学生レポートに加筆修正を行なったものであり、ドンデコルテのM-1ネタに関する解説ではありません。
※今年の目標が「旬を大事に」のため雪が降った2日後に書き上げました。
写真/名古屋ルーセントタワー ライトアップ(中央)とイルミネーション(右) 併用は珍しい。
雪見
雪は視覚情報を削ぎ落とす。
金沢という街が雪で「白黒」になってるんだが、どれくらい彩度を失ってるか写真で実証してみたら想像以上だった
— ちーくゎーさー (@citrus_NaCl) January 2, 2026
どちらかが彩度0です pic.twitter.com/aZw0bmdqta
雪見は、花見や月見と異なり鑑賞対象が消失する。全てを白に染める寂びの世界では、見る者の「想像力」はもちろん、雪に覆われても埋もれない設計士の「創造力」も求められる。例えば、日本庭園。秋の紅葉とは一転、冬の季節は広葉樹の葉は落ち、幹と枝だけの姿となる。園路は雪に覆われると、地は一面白色になり、図として木の枝振りだけがハッキリと映し出される。
花見では地であった幹枝が雪見では図となる。
庭師は、春から秋の散策最盛期の美しさはもちろん、冬の枝振りにも気を配って植樹を行う。むしろ、冬季のプロポーションが美しく成り立っていれば、その他の季節も美しさが保証されていると言ってもいい。松、石組み、灯篭、庭園計画の構造、全てがプロポーションだけで決まる。冬は庭園を一糸纏わぬ彫刻へと変える。
また、雪は聴覚情報も削ぎ落とす。
雪で人が出歩かないということでは無い。物理法則によるものだ。厚く積もった雪は、多孔質吸音材と同じ原理によって、同レベルの吸音能力を発揮する。それゆえ、雪の日はいつにも増して辺りに静けさが漂うこととなる。雪は視覚的な情報を削ぎ落とし、聴覚情報も削ぎ落とす。
これで、人間にとって大事な視覚と聴覚が雪によって削ぎ落とされた。
平時に比して視覚と聴覚を削いでいる状態とは、坐禅や瞑想の状態に近い。意図してテレビをつけたり音楽を流したり友達を呼んだりしなければ、雪見とは雑念を取り除く瞑想の時間であるとも言える。雪国はそうもいかないことは承知の上だが、我々東京人の中には雪が降ると心洗われるという意見の人もいるのではないかと思う。
雪によって視覚、聴覚、雑念が取り除かれると述べてきた。欲を煽ることで消費を促す商業主義の都会はこれを良しとしない。街路樹に電飾を巻き付け、11月からクリスマスソングを流し、クリスマスでは飽き足らずブラックフライデーを作る。これが雪見を忘れた現代日本人の姿だ。
彼らは、池に張り出す臥龍松の頑強さにも、色が無くなることによって浮かび上がる石組みや雪見灯籠の造形にも美も商機も見出せないのである。
イルミネーションとライトアップ
M-1グランプリ2025ドンデコルテの漫才にこんな一節がある。
「私が光ると、私は見えなくなるんです」
「イルミネーションを見る時に木を見ますか? 見ませんよね。そう、私が光ると、私という意味からも逸脱できるんですね!」
この一節については、さまざまなnote記事で哲学者を引用したりして議論されているが、私は建築を修めた者として樹木と電飾と人間の視覚、そして空間の関係性から語らせてほしい。(今年の目標は旬に乗っかるなので、堂々と乗っかっていきます)
自己発光するクリスマスイルミネーションは、眩さで樹木の線をボヤけさせる。空間や樹木の線形が美しければ、日本庭園のように面照射のライトアップで十分だ。ボディビルダーがイルミネーションを纏っても筋肉のカットは見えない。ライトアップでは無くイルミネーションを選択する空間とは、その空間が素の造形美で勝負できないことの裏返しである。
日本庭園でたくましく生きる名木にボディビルダーと同じ造形美があるのは先述した通りだ。一方、イルミネーションが巻かれる樹木というのは道路や公園街路樹、商業施設である。特に道路においてはメンテナンス性や道路線形(上下左右にうねらないこと)、見通しの確保(枝が下に伸びないこと)が優先される。その為、道路樹木とは規格に忠実な凡庸であるほど良く、個性があってはならない。
特に東京は顕著で、戦後復興のスピード感と経済性の観点から明治神宮や皇居等の大規模庭園を除き、新規の公園や道路は道路規格(道路法に準拠)や公園企画(都市公園法に準拠)まで同じでどの街に行っても同じに見えてしまう事態となっている。(京都周辺の街路樹、一般公園とは比較にならない)。
私庭では庭に合わせて庭師や施主が植木を植木屋で選ぶということをするが、道路や公園等では計画に合う規格の品を納品してもらうだけだ。私庭では法基準がないから規格外や予定外、予算外が個性として許され、愛着へとつながる。しかし、道路や公園ではそうはいかない。この違いが、樹形の個性や空間品質に影響し、ライトアップ(愛着)となるかイルミネーション(没個性)となるかを決定する。
本文は学生レポートの引用なので名木をボディビルダーに例え、その個性と力強さに目を向けた。雪見で幹枝が地から図に変わるのも同じだ。
一方でドンデコルテのネタに街路樹を重ねると、イルミネーションによって街路樹は木という意味から逸脱され、より存在しない存在へと認識が変わる。現代人はただでさえ樹木を見ないので、おじさんがイルミネーションを巻いて「私は見えなくなるんです」と主張することの何倍以上も見えなくなる。(おじさんは人間なので図だが、木は冬以外地である)。
私はこの状況を変えたい。逆説的に言えば、イルミネーションを巻かれていない木は名木なのだと、伝えたい。
ライトアップは樹木が主役、イルミネーションは樹木が消失。
私たちは普段この違いを全く意識しないが、実は樹木の側からすればアイデンティティを揺るがす真逆の行為である。
イルミネーションについて同じことを私が語っても片手ほどの人にしか届かないのでこれは素直に嬉しい。宇野さんの『庭の話』でも同様のことが言える。あの本で、庭というものを見直した人は多いと思う。同じように、ドンデコルテのネタをきっかけにイルミネーションとライトアップについて考える機会が生まれれば幸いである。この記事を読んでくださった皆様には是非、冬の時期にも日本庭園を訪ね、木の生きる姿を見てあげて欲しい。
まとめ
授業内では、「日本的なるもの」として結界や見立てといった表現手法を多く取り扱ったが、それらの手法に根ざす本質とは主体と環境との相対的関係性であると私は考える。桜を立てる風のように、月を立てる酒のように、樹形を立てる雪のように、ゆらゆらと揺らめく自然の演出家(媒介装置)が主体と環境との距離を常に変化させ、それが雪、月、花という世界各地にあるものを「日本的なるもの」へと昇華させたのだ。
参考文献:三好和義『桂離宮』
