私の考える日本的なるもの 媒介装置としてのゆらぎ(2)月見/雪月花(月見バーガー)
この記事は(1)の続きとなります。まだの方は先にこちらをご覧ください。
月見
お月見の起源は月読尊への豊穣祈願から始まる。古来日本では太陰暦を採用し、月を読むことが農耕の要であった。月読尊が夜の神であると同時に豊穣の神と見做される所以である。大勢で華やかに楽しむことを主目的とした花見とはまた違った趣を見ていこうと思う。
桂離宮
桂離宮は月を見ることに特にこだわりがあった。それは、「月波楼」、「月見橋」、松琴亭の「月見窓」など月の名を冠した空間が複数存在することからもわかる。今回は、桂離宮全体のプラニングとその中心となる月波楼を紹介しよう。
桂離宮のプラニング
桂離宮の月見へのこだわりは全体のプランにも及ぶ。笑意軒、園林堂、梅の馬場は春分の日に月が正面を向き、月波楼月見台は中秋の名月が正面に来る。冬至の月は松琴亭と紅葉の馬場で正面に見える。
桂離宮は西洋宮殿の前庭のようなメインの視点場から絵画のように唯一絶対の景色を作るのではなく、その日その時の最高の場所で柔軟に風流を感じようコンセプトが伺える。
月波楼
月波楼について、授業内では月見台や船底天井を紹介していた。ここで、この船底天井と月の関係について私なりに考察したいと思う。
桂離宮の建築された1600年代は、当然現代と違い電灯などない。電灯のない中での満月は星座観察の邪魔にもなるほどに明るく見える。ゆらゆらと揺れる水面を照らした月光は、反射・拡散し、月波楼の中に間接光として注がれる。その様子はまるで水中に潜っているかように水面とそこに浮かぶ船が私たちの頭上にあるか、あるいは部屋にいながらに船遊びをしているかのように錯覚させるのである。
ここで思い出したのが浄土寺浄土堂で、こちらは堂内ヒノキ床の西日反射光を阿弥陀三尊立像の後光として下から上に拡散照射する演出を行なっている。桂離宮では月光で同じ手法を取り入れたのではないかと私は思う。
月波楼で見る月はまず月見台と言いたいところであるが、敢えて月を隠して天井に揺らめく光を眺めるのも粋な遊び方だと感じる。茶室、庇、御簾など、日本建築の日本らしさとは直接光の採光ではなく間接光による空間演出に重きを置いている点だと考えられる。これは、石造建築でどれだけ採光できるかを目指した西洋と対をなす概念である。
月見酒
盃はさかづきと読み逆月とも書ける。何が言いたいのかと言うと、盃は月を逆さに映す道具にもなるということである。水面に映る月については先ほど紹介したが、この月見酒は盃に月を映しているのである。
月光照らす夜、盃という小さな器にはゆらゆらと波を立てる酒と反射する幻の月だけが見える。そこにそれ以外ものは何も映らない、月対自分の一対一の概念空間である。盃に浮かぶ月とそれを飲む自分という一対一の関係は月を飲み干すまで続き、月見酒をした人間は狂気に惑わされるとも言われている。
決して手の届かない月を手中に収めたがる人間は、月を求めて池に落ちる危うさを孕んでいる。桂離宮の灯籠が低く作られているのは、「手の届かない幻ばかり追い求めず、しっかりと足元を見よ」と忠告しているからではないかと私は思ってしまう。
月見の空間
以上、桂離宮の庭という空間と月見酒というシチュエーションを見てきた。二つに共通するのは月光を演出装置として反射する水の存在である。
月見と水の相性がいいのは一つに花や雪と違い観賞対象が一つであること。二つに、必ず夜であるため水が暗闇に溶け存在感が日中よりも薄くなること。そして三つに、水面にプラスして風による水面の揺らぎも加わり月の表情をより複雑にすることであろう。
月見を体現した月見蕎麦と月を隠した月見バーガー
現代日本人の月見に対する感覚は、(中秋の名月も月食も問わず)望遠された月をSNSやニュースで眺めるかカキ氷とハロウィンの中継ぎとしての月見商品である。
月は毎日出ているものであるし、花見と違って映えない。映えるために皆カメラを望遠にし、映えるために既存商品に卵をのっける。特に、月見バーガーなど商業主義の権化のようなもので、卵が見えなくても月見バーガーと名乗り出す始末である。
いわゆる月見商品の初出は月見蕎麦だと思うのだがこちらは月となる黄身がしっかりと見えている上、闇夜のように暗いつゆ=水の上に浮かんでいる。さらに、白身が先述の風による揺らぎも演出していて白く固まった部分は雲のようにも見える。朧月夜(おぼろづきよ)というやつである。私は、月見バーガーに対しては微塵も評価しないが、この月見蕎麦に関しては月見の粋な部分を的確に再現しており、かなり評価している。
月見蕎麦の誕生は明治以降だと検索で出てきたが、少なくともこの頃はこうした粋な感性はまだ日本人に残されていた。(この後、徐々に陰翳礼讃に批評されるような社会を辿っていく)
私は、新しい月見商品を開発すること自体には反対しないし、何なら現代的表現方法で月見の本質をもう一度日本人に叩き込むようなビッグバンが起きて欲しいと思っている。私は、神籬という主催イベントでインスタレーション的に月見の本質を暗に示してきたという自負があるが、今はこうしてnoteに書いたりバーでグダグダ説教するぐらいしかできないおじさんになってしまった。
ただ、こうして文章化して紹介することも大切だと感じさせられることもnoteを始めてから多い。以上の話を読んで、「偽りの月を本物以上に楽しむ」そして「その表現力や工夫、哲学を楽しむ」という日本人的感性を取り戻したいと共感してくれる人がいると私は救われる思いである。
次回、雪見に続く。
