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学問論:学問について(6) 【応用編】『土偶を読む』と『土偶を読むを読む』を読む①

学問論:学問について(5) 学問における「真理」

多分「応用編」というほどの内容にはならないと思いますが、一応今まで学問について考えてきたことを念頭に、竹倉史人著『土偶を読む』(以下、『読む』)と縄文ZINE編『土偶を読むを読む』(以下、『読むを読む』)について書いてみたいと思います。
『読む』が刊行されたのが2021年、テレビや新聞に紹介されたり、有名文化人が推奨したり、サントリー学芸賞をとったりと注目されたのですが、翌々年にその批判書である『読むを読む』が出版されてこれがまた話題になりました。
私は『読むを読む』のほうを先に知って(noteのトップページを見てだったと思います)から、『読む』の存在も知り、一昨年末ぐらいには両書を読みまして、ぜひ自分の学問論に絡めて論じたいと思っていたのですが、前にも書いたようにキーボードがなかなか進まず、1年半近くも経ってようやく着手することになった次第です。
まずは『読む』について書いてみたいのですが、何でも「世界の土偶」を扱った続編がもうすぐ出るようです。もしかするとその本には『読むを読む』への反論も書いてあるかもしれないのですが、そっちも読んでから書くとなるとさらに時間がかかってしまいますので、以下の文章は、あくまで『読む』のみについて書くことにします(すでに出ている『土偶を読む図鑑』も対象にしません)。厳しいことを書くことなりますが、もしかすると続編では改善されているかもしれない、ということをあらかじめお断りしておきたいと思います。

『読む』は本当に面白いのか

のっけから身もふたもないこと言っているように思われるかもしれませんが、そうではありません。
『読むを読む』の「おわりに」の冒頭で、編著者の望月昭秀(『縄文ZINE』編集長)はこう書いています。

『土偶を読む』は面白い本だった。謎解きはサクサクと進み、知的好奇心が刺激され、頑迷固陋で閉じた世界の古い住人を、何にも縛られない独立研究者が軽やかに打ち負かしたように見える様は爽快感がある。

望月昭秀「おわりに」『土偶を読むを湯む』

もちろん望月氏の率直な感想ではなく、考古学についての専門知識がなくて『読む』に感銘を受けた人はきっとこう感じたのだろうと推察しているのかと思います。
またX(旧ツイッター、いいかげん元に戻してほしい…)上で両書について書かれたポストを調べてみても、「面白い学説というだけでそれが真実であるかのようにいうのはけしからん」といったような『読む』への非難が多くみられれます。
しかし、だからこそ問いたいのです。『読む』って本当に面白い? どこが面白いの?

正直なところ、私には『読む』の面白さがよっくわかりませんでした。批判書が存在するから『読む』を面白く感じなかった、というわけではありません。それでは、なぜ面白くなかったのか。
もちろん何を面白いと思うかは人それぞれですから、『読む』を面白いと思った人をバカにするつもりはないのですが、ともかくなぜ私には面白くなかったのかを考えてみます。

『読む』は「130年間解かれなかった縄文神話の謎」という副題を持ち、「はじめに」の冒頭には「ついに土偶の正体を解明しました」とあります。つまりはこの本は謎解きをしているわけです。
「謎解き」というと、まず頭に浮かぶのは推理小説です。推理小説はいうまでもなく多くのファンがいる、人気の高いジャンルで、出来のいい作品には読みだすとやめられない面白さがあります。
推理小説の面白さにはさまざまな要因がありますが、その一つとして、まず犯人の意外性が挙げられます。容疑者が全員犯人なんていう有名な作品もあります。果たして『読む』が解明した土偶の正体は意外でしょうか。
『読む』では、土偶の正体は植物(正確には食用植物プラス貝類)の精霊とされています。
先史時代やいわゆる未開社会の宗教といえば、まず「アニミズム」という言葉が頭に浮かびます。「アニマ」は日本語に訳すと「精霊」ですから、土偶が精霊であるというのは意外ではありません。「(食用)植物の」というのは確かに初めて聞きますが、縄文時代の社会は狩猟・採集社会とよく聞きますから、木の実が生活の中で重要であり、身近なものだったんだろうなと思います。ですから、少なくとも考古学に詳しくない私は「土偶が(食用)植物の精霊」と聞いても、「ふーん」としか感じません。何せ幼いころに、遮光器土偶の姿をした宇宙人がUFOから降りてきて縄文人たちを驚かしているイラストを見て衝撃を受けた私であります。
Xで見ても、日ユ同租論や陰謀論や歴史修正主義など、政治的に危なっかしいものやおどろおどろしいヤバいものと同等であるかのように非難しているポストも見かけましたが、そんなヤバさは感じませんでした。『読む』の終盤のスピリチュアル系っぽい大言壮語についても、私は大昔、この方面の本を読みかじっていたことがありましたので、ちょっと懐かしいとして感じませんでした。「トンデモ本」という感じもありません。
ともかく、結論の意外性を『読む』に感じることは、私にはありませんでした。

結論の意外性のほかに推理小説の面白いところというと、一つの仮説を立てることでいくつもの謎が次々と解き明かされていく快感があります。
「犯人は密室にどうやって入りどうやって抜け出したのか」「被害者が遺したダイイングメッセージは何を意味しているのか」「被害者はなぜ犯行当日に限っていつもの時間に散歩に出なかったのか」などなどといった謎が名推理よって、まるでオセロゲームの駒がたったの一手で一気にぱたぱたと裏返っていくように、あれよあれよと解かれていくのはとても気持ちがよいです。
こういう快感は『読む』にあるでしょうか。
この本の読者の中には「そういう快感はあるじゃないか」と言う方がいるかもしれません。確かに「土偶は植物の精霊を表している」という一つの仮定から「ハート形土偶はオニグルミ」「合唱土偶と中空土偶はクリ」「椎塚土偶はハマグリ」…というふうに土偶のカテゴリーの範囲内で当てはまるものが次々と見つかっていきます。オセロゲームの1列分はひっくり返った感じがします。
しかし縄文時代の遺跡から出土しているのは土偶だけではないはずです。土器や遺骨や副葬品や貝塚や…考古学に詳しくない私でもこれくらいは思いつきます。名探偵ならルーペでしげしげと観察せずにはいられない遺留品が現場にいくらでも転がっているはずです。例えば火焔型土器なんて、何であんな奇怪なものを縄文人は作ったのでしょう。
こういう謎まで解けたのなら「すげぇ~!」と私にも思えるのですが、そういう話の広がりが『読む』には感じられません。

ひょっとして『読む』の面白さは謎解き以外のところにあるのでしょうか。
この本には、土偶の造形の発想を説明するのに現代のキャラクターデザインをいくつか引用しているところがあります。つまり「土偶はゆるキャラと同じ発想でデザインされてるんだよ!」というわけです。
こんなふうに現代の私たちに身近なものと土偶を対照させているのが面白いと感じる人がいるのかもしれません。みうらじゅん賞をとっているのもそういうことなのでしょうか。
こういう点は確かにこの本の長所かと覆います。このやり方をもっと徹底させれば、私にも面白く感じられたかもしれません。だけど、残念ながら、不徹底かなと思います。

というわけで、私にはどうしても『読む』の面白さがわかりません。
もっとも、面白さといっていいかどうかはわかりませんが、『読む』の読後、植物の精霊かはともかく、縄文時代の造形は植物的な感覚が確かに強いかなと感じました。そういえば、火焔型土器をアールヌーボーのデザインと類比した人がいたと思います。そういう感じを受けたことは、この本のいいところだったと思います。

以上はあくまで私の個人的な感想ですが、私は感想文が書きたいわけではありません。
前置きが長くなってしまいましたが、ここからが本論です。
『読む』が考古学的に正しいといえるかについては『読むを読む』が十分に検証しています。私が言うことはありません。
私が考えてみたいのは、『読む』で用いられている方法であり、『読む』におけう学問の「実践」です。

『読む』の方法は本当にイコノロジーか

『読む』の著者である竹倉氏は、自身の方法を「イコノロジー×考古学」と呼んでいます。しかし「考古学」についてはまるでなっちゃいない、というのが『読むを読む』の論旨でした。
それでは「イコノロジー」についてはどうでしょうか。

実は私、イコノロジーについてはまあまあ知識があります。大学生のときにE・パノフスキーの『イコノロジー研究』を読んでいます。
そこでまずは、私のイコノロジーについての知識をひけらかしたいと思います。

「イコノロジー」は美術史学の用語で「図像解釈学」と訳されます。この言葉自体はかなり昔からあったようなのですが、美術史学で「イコノロジー」といえば、通常は先ほど名前を出したパノフスキーの理論をまずは指します。
彼は『イコノロジー研究』の中で美術作品の主題や意味を3つの「段階」に分けています。
①第一段階的・自然的主題
ちょっと違和感のある訳語ですが、気にしないでおきましょう。「自然的」とありますが、人工物も含みます。描かれた「物」「動作」「出来事」が日常的にもつ意味を指します。例えば老人、犬、バラ、雨、スカーフ、自動車、納屋、歩く人、飛ぶ鳥、枝にとまっている鳥、地面に倒れている鳥、などです。哀しげな表情、とか、すがすがしい空、みたいなのもこれに含みます。
②第二段階的・伝習的主題
これはある時代のある社会の中で共有されている、ある物が持つシンボリックな意味です。
これのわかりやすい例に「花言葉」があります。花言葉の知識によって、バラが描かれていれば「愛情」を表しているとか、オリーブが描かれていれば「平和」を意味しているとか解釈ができます。
美術史に即した例ですと、キリスト教美術では、ハトが「聖霊」を、魚が「イエス・キリスト」を意味しています。また、最高裁判所など法律関係の建物の前に、目隠しをして天秤と剣を持っている女神の像がよく立っていますが、これは古代ギリシアの女神テミスの像で、「正義」を象徴しています。この場合、「テミス」と「正義」の両方が「伝習的主題」に属します。
このような「物」と「観念」の組み合わせについての研究をパノフスキーは「イコノグラフィー」と呼んでいます。「イコノグラフィー」も昔からある言葉(日本では「図像学」と訳されます)ですが、「イコノロジー」とあまり区別されていませんでした(というか、「イコノグラフィー」のほうが多く使われていたかと思います)。パノフスキーはこれをはっきりと区別しています。
③内的意味・内容
これは特定の作品が持つ意味のことです。鑑賞者は自然的主題と伝習的主題に基づいて、その作品の内的意味を解釈します。
ここでも花言葉を例にしましょう。例えばここに、女性と男性が描かれた絵があるとします。女性はバラを男性に差し出し、男性はうつむいて手にしたユリをじっと見つめています。バラの花言葉は「愛情」、ユリの花言葉は「自己愛」ですから、この絵の意味は、男性が女性の愛に気づかず自己愛にふけっている、と解釈できます。
パノフスキーは、このように特定の美術作品の意味を解釈する方法を「イコノロジー」と呼んでいます。

パノフスキーのいう意味での「イコノロジー」は近代以降の風景画や静物画などには適用できないとされていて、パノフスキー自身、近代芸術を研究の対象から外していました。
しかし近年では社会学や文化人類学の成果を取り入れ、現代にいたるまでのさまざまな時代や社会においてジェンダー、人種・民族、戦争、テクノロジーなどについてどんなイメージが人々に共有されているか、という観点から視覚芸術や広告などの視覚的媒体のもつ「意味」を解釈する方法も「イコノロジー」と呼ばれています。

私のイコノロジーについての知識をまとめると、こんな感じになります。
だいたいオーソドックスな説明かと思うのですが、竹倉氏は「イコノロジー」をどのように説明しているのでしょうか。氏の説明は75ページの脚注にあります。

イコノロジーは「図像解釈学」と訳されることもあるが、古代、中世、近代と時代を経るにつれてその意味を拡張させてきた。古代におけるイコノロジーは、「イコン(εικών=肖像)の学」の字義通り、肖像画や彫像のモチーフとなった神々や人物を同定する技法であった。中世になると、キリスト教美術における寓意や象徴を図像化するための技術を指すようになり、現代では美術作品に表現された無意識的な表象を解釈するための技法も意味するようになった。本書における「イコノロジー」は古代的な技法に近く、「モチーフの同定方法」といった程度のシンプルかつ狭義の意味で用いている。

竹倉和人『土偶を読む』

あれっ? パノフスキーはどこに行っちゃったの? 普通、「狭義の意味」(「骨折が折れた」みたいな言い方ですが)での「イコノロジー」は、パノフスキー以後の理論を指すはずなのですが。
それに現代に関しても「無意識的な表象を解釈」って、イコノロジーは精神分析ではありません。もっとも、異なるジェンダーや人種に対して作者は偏見がないつもりなのに、無意識に偏りのあるステレオタイプな表現をしていることはあります。しかしその場合でも、イコノロジーにとって重要なのは作者の無意識ではなく、ステレオタイプの社会的な性格です。
少し不安になってきたので、ウィキペディアで「イコノロジー」を調べてみましょう。

イコノロジー(英語: iconology)あるいは図像解釈学(ずぞうかいしゃくがく)は図像を記述・解釈する技術だが、とくに20世紀の美術史学において、図像を生み出した社会や文化全体と関連づけて解釈するために発展した研究手法を指す。

「イコノロジー」『ウィキペディア 日本版』(太字は○△□)

ウィキペディアはこの定義の後、イコノロジーの歴史について記しています。古代や中世に関しては竹倉氏の記述とだいたい同じ内容です(パクリというほどではありません。参考にしたか、同じ参考資料を使ったかという気はしますが)。
図書館でいくつかの事典を見てみましたが、古代・中世については「イコノグラフィー」の項目に書かれていることが多いようです。「イコノロジー」と「イコノグラフィー」はパノフスキーの文脈から外れれば、必ずしも区別されていませんので(ルネサンス時代のイタリアで出版された有名な図像学事典のタイトルは『イコノロギア』ですし)、細かいことは言わないでおきましょう。
古代には肖像(メダルも含みます)のモデルの同定方法を指した、といのはだいたいそのとおりのようなのですが、どういう方法だったのか具体的にはよくわかりませんでした。そこで久しぶりにAIに訊いてみたところ、質問のしかたにだいぶ苦労したのですが、どうやらモデルがわかっている過去の作品と照合して、似ていれば「同じモデルだ」ということになったようです。
翻って竹倉氏が『読む』で用いている、モチーフの同定方法を見てみましょう。ハート形土偶はオニグルミの断面に似ているからオニグルミの精霊である、ミミズク土偶(余山貝塚土偶)は頭部がオオツタノハに似ているからオオツタノハの精霊である、遮光器土偶は腕がサトイモに似ているからサトイモの精霊である……。確かに似ているものがモチーフになっていると書いています。
なるほど、竹倉氏がいうように「古代的な技法に近く、「モチーフの同定方法」といった程度のシンプル」な意味(「狭義の意味」じゃないけど)でのイコノロジー(あるいはイコノグラフィー)になっている……。
そう結論づけていいのでしょうか。

もちろん、古代のイコノグラフィーが本当に「似てればOK」というものだったか、私にはわかりません。筆跡鑑定や骨董品の鑑定のように何かしらのテクニックがあったのかもしれません。
また、そもそも本当に似てるか? とか、似て見える写真を使ってるだけじゃないの? とかありますが、これについては『読むを読む』で編著者の望月氏が詳細に検討しているので、私が言うことは何もありません。

ところで竹倉氏は本文内にこうも書いています。

イコノロジー研究の最大の問題点はここにある。モチーフ推定において、イコノロジーだけでは「偶然による類似」という可能性を排除できないのである。

竹倉和人『土偶を読む』(太字は著者)

これはまったくそのとおりで、パノフスキー以後のイコノロジーに対しても同様の批判があります。詳細なイコノグラフィーの検討を行ったうえでも、複数の解釈が可能であることが多いからです。
日本におけるイコノロジーの第一人者だった若桑みどりの『イメージを読む』(あっ、これも「読む」だ!)によると、イタリア・ルネサンスの画家ジョルジョーネの「テンペスタ」という作品には、正解っぽく思える解釈が30以上もあるそうです。
関連する膨大な歴史資料をいくら綿密に研究してもこんなに解釈が分かれるのですから、「似てる」だけでは間違えるのは当然だと思います。何か別の方法で補う必要があるはずです。
前述のように竹倉氏は自身の方法を「イコノロジー×考古学」と呼び、「「見た目の類似」に依拠するイコノロジーの脆弱性が、考古学の実証データを組み合わせることで十分克服可能」としています。
竹倉氏が「考古学の実証データ」として持ち出しているのは、主に縄文時代の植生についての研究成果です。「ハート形土偶の出土地域にはオニグルミが繁茂していたからこれはオニグルミの精霊だ」というわけです。

ここでまず気になるのは、ハート形土偶の頭部が仮にオニグルミを模したものだとしても、なぜこれが「精霊」だといえるのでしょうか。
『読む』の序章では、現在のところ縄文遺跡からは植物霊祭祀の痕跡が発見されていないが、実は土偶がその痕跡なのかもしれない、と言って、さあ、検証してみよう、というふうに話を進めています。つまり植物霊祭祀はこれから検証すべき仮説だったはずです。
ところがハート形土偶の頭部はオニグルミだ、というだけで、もうそれがオニグルミの精霊であることになっています。
しかし仮にハート形土偶の頭部がオニグルミを│象《かたど》っているとして、この土偶を作った縄文社会でオニグルミに何らかの象徴的な意味があったとしたらどうなのでしょう。文字のない時代において何か抽象的な観念を表す「文字」だったとか、ある一族のシンボルとして表札のように住居の前に置かれていたとか、具体的にどんな可能性があるのかわかりませんが、ともかくいきなり「精霊」であるというのは論理の飛躍があります。
そう考えると(仮に著者の考古学資料の読みが正しいとして)植生から直ちにオニグルミの精霊を作ったと結論づけるのもまた短絡的と思えます。可能性としてあったくらいには言えても、植生が証拠だとは言えないと思います。
「イコノロジー」をあくまでパノフスキーの意味で考えるなら、『読む』のイコノロジーはイコノグラフィーなきイコノロジーといえます。つまり、作品(土偶)が意味を持つ条件を抜きにして作品(土偶)の意味を解釈しようとしている、ということです。

『読む』には「認知」という言葉が何度も出てきます。認知科学の用語も散見され、科学的真理を持ち出すことで「見た目の類似」が偶然ではないと主張ているようにも見えます。著者からすれば、これが私にとっての「イコノグラフィー」だ、という反論があるかもしれません。
しかしこの本での認知科学の扱いは、うまくいっていると思えません。
例えば「顔パレイドリア」について触れているところがあります。パレイドリアは、ネット上で調べてみたところ、ある物の形状や部分が別の物に見える現象のようです(雲が綿菓子に見えるとか、岩が亀に見えるとか)。「顔パレイドリア」はその中で何かが顔に見える場合を指します。自動車を正面から見ると顔に見えるアレです。
竹倉氏はオニグルミの断面やトチノミの表面が顔パレイドリアを引き起こし、土偶において顔として形象化されている、と言いたいようです。オニグルミの上端やトチノミの表面にある「カモメライン」(マクドナルドのロゴマークを平たくしたような形状)が眉に見えるとか、オニグルミに関してはその下の垂線が鼻に見えると言っています。ここまではそう思い込めばそう思えなくはないのですが、その両側の窪みが眼窩というのは全く理解できません。トチノミに至ってはそもそも「カモメライン」の下に目鼻口に見えるものが全くありません。「顔パレイドリア」なんて全く生じません。
そもそもパレイドリアについて知っているなら、ハート形土偶の頭部がオニグルミに見えるのはパレイドリアではないか、となぜ疑わないのでしょう。パレイドリアという現象こそ、見た目の類似があてにならない理由じゃないかと思うのですが。

ちなみに「カモメライン」という竹倉氏による呼称ですが、これはこの本の「白眉」だと思います。掛け値なしに上手い表現です。「見た目の類似」が産み出した表現という点で、氏の「思想」にも適っています。氏もお気に入りのようで、縄文のビーナスを「カモメライン土偶」と呼んでいますが、これはやりすぎです。
話が逸れついでにもう一つ。この本の中で遮光器土偶は縦横比が「白銀比」になっているから美しいと書いているところがあります。これに対して『読むを読む』で望月氏が、「黄金比」や「白銀比」という言葉は、デザイナーがクライアントをケムにまくのに使う言葉、と言っているのがとても面白いです。「黄金比」や「白銀比」の美しさは視覚的な美しさではなく数学的な美しさです。白銀比がコピー用紙に使われているのは、見た目的に美しいからではなく、真ん中で裁断しても縦横比が変わらないからです(2:√2=√2:1)。数学的な美しさというのはそういうことです。

結局のところ「見た目が似てる」ということだけが『読む』の「方法」であって、著者のいうイコノロジーの欠陥を全く克服できていません。そう結論づけていいと思います。

『読む』は文化人類学か

『読む』のプロフィールによると、著者の竹倉氏は「人類学者」なのだそうです。
 人類学には「形質人類学(または自然人類学)」と「文化人類学」があります。辞書的な定義でいうと、前者は生物学の(中の霊長類学の)一分野で、例えば骨格の歴史的な変化などが研究対象です。後者は社会学に近く「民族学」とも呼ばれます。昔は特に「近代化」されていない非西洋社会の文化(生活形態とか神話とか)が研究対象になっていましたが、最近は科学研究や医療の現場のフィールドワークもやっていて、社会学と(ときには哲学とも)区別がつきにくくなっています。
竹倉氏は上記の分類でいうと明らかに文化人類学者かと思います。しかし自身の肩書を「人類学者」としている。このことは『読む』を一読すると、理解できる気がします。この本には「文化」の観念がないからです。

前にも言及しましたが『読む』の副題は「130年間解かれなかった縄文神話の謎」です。
しかし「縄文神話」って何なのでしょう。解かれなかったも何も、そんなものは聞いたことがありません。
もちろん竹倉氏も『読む』の序章で「「縄文時代の神話」という言葉自体、ほとんど聞いたことがない」と書いています。縄文社会は無文字社会だったはずですから当然です。
しかし縄文時代にも神話があったはずだ、と竹倉氏は言います。そのカギを握るのが土偶ではないか、というわけです。
ここから竹倉氏は、文化人類学のパイオニア的存在であるJ・G・フレイザーの著書『金枝篇』に触れます。
『金枝篇』はネミの森の「祭司殺し」についての伝承から始まり、世界じゅうの神話や伝説や信仰を集めて理論的に研究した、非常に大部の書物です。残念ながら私はダイジェスト版である『図説 金枝篇』をつまみ食い的にしか読んでいないので、偉そうなことは何もいえないのですが、この本で特に重要なのが、タイトルからも察せられるように、植物に対するさまざまな信仰や祭祀です。
竹倉氏は『金枝篇』に書かれているようなような「植物霊祭祀」が縄文時代にも存在し、その痕跡が土偶なのではないか、と考えます。
ここまではとても壮大な構想に思えます。読者としては期待が持てます。

ところが実際に土偶の検証を始めると、まず植物は「食用植物」に限定されます。『金枝篇』が描き出した聖なる森、美しい花、オークの神、などといったものはすべて吹き飛んでしまいます。
そして竹倉氏の関心はもっぱら土偶のモチーフが食用植物(プラス貝)であると証明することに向けられます。しかも証明の仕方はひたすら土偶と食用植物(プラス貝)の「見た目の類似」性を指摘して植生でそれを確認するというやり方です。縄文時代の信仰が土器や葬制にも反映していたのではないか調べることもありません。
結局、導き出した結論は「縄文時代には(食用)植物霊祭祀があったはずだ」、ただそれだけです。植物霊祭祀が具体的にどのように行われていたかについてはほとんど考察していません。これでは、縄文時代にどんな神話があったのかイメージのしようがありません。せめて『古事記』とか民間伝承とかに、土偶に表された精霊が出てくるものがいくつもあって、それと土偶を関連づけられれば、これはもしかしてと思えるかもしれませんが、そういう検証はありません。

竹倉氏は、最後の章で次のように書いています。

私の土偶研究には三つのテーマがある。すなわち、

①土偶は何をかたどっていたのか(what)
②なぜ造られたのか(why)
③どのように使われたのか(how)

である。
①がわからない限り、②と③の解明は困難であるという認識から、本書では特に①のテーマに絞って論じることにした。ただし遮光器土偶に限っては、モチーフの検証プロセスに必要であると思われたため、②(貯蔵サトイモを守護するため)と③(仰臥でサトイモとともに土中に安置された)という考察についても本書に含めることにした。

竹倉和人『土偶を読む』

ここで私がいぶかしく思うのは、土偶のwhatが「何をかたどっていたのか」だとされていることです。しかしある物の「何」は、その形状なのでしょうか。
自然界に存在するものならまだ、例えばサクラなら木の幹はこんなで、花はこんな色と形で、葉っぱはこんな形で…でも説明になるかもしれません。
しかし人工物のwhatはhowと切り離せないのではないでしょうか。例えば椅子が何かを説明しようとすれば、いろいろな形状があるので大変です。何かしら脚になるものがあって、その上に平たいところがあって…。しかしこれでも例外が見つかりそうです。椅子のwhatは椅子をどのように(how)使うかと不可分です。哲学者のL・ヴィトゲンシュタインも言っているように、人は「椅子」という言葉を、ただ椅子を眺めて学ぶのではなく、椅子に座ることを通して習得するのです。
もっとも、先ほどの引用の4ページほど後に、土偶全体に関して「本義」は植物霊祭祀での使用だったが、「その一方で、土偶が呪符(お守り)として携行されたり、時には病気治療に用いられたこともあっただろう」し、また「特定の個人や集団の権威を示す威信財」「あるいは共同体の紐帯を強化する植物トーテムのような象徴材(原文ママ)」などの機能をもつこともあっただろうと書いています。それはそうかもと思う一方、神像や偶像の一般的な使い道を並べただけようにも見えます。
本来の意味は植物霊だけど、後に他の使い方をされたのなら、縄文の後のほうになるほどはじめからお守りとか威信財として作られたものもたくさんあったんじゃないの? という疑問もわきます。慣習として植物のモチーフが残ったということなのでしょうか。それならちょっと「文化」な感じはしますが、論証されているわけではありません。

『読む』では土偶を「プロファイリング」する中で、さかんに植生や地形の変化についての資料を「検証」し、木の実や貝の性状に注目しています。
この本を読む限り、竹倉氏は自然環境への人間の適応について強い関心を持っていて、その適応の仕方が信仰という形で表れると考えているように思えます。自らを「人類学者」といい「文化人類学者」といわないのは「自然」と「文化」を二項対立的に考えたくないからかもしれません(氏のデフォルメに対する異様な反発もその「自然主義」からきているのかもしれません)。
もしもそうだとすれば、そのこと自体について否定的なことをいうつもりは私にはありません。ただ『読むを読む』によれば、縄文時代の自然環境に関する考古学者の研究資料をちゃんと読めていないとのことで、私にはよくわかりませんが、まあ、困ったもんだ、という感じです。
また、筆者は「自然」と「文化」を分けて考えないために、「クリに似て見える」ことと「クリに似せて作る」ことをごっちゃにしてしまってはいないか、とも思います。この2つの間に文化があり、神話があるのだと思うのですが、そこを無媒介につないでいるから、クリに似ているという理由だけでクリの精霊だ、ということになってしまうのではないのか。

そして、さらにもう一つ。竹倉氏は、縄文人たちが植物をかたどった土偶を作ることで植物の精霊を祀っていたといい、それを認知科学のような一般性の高い理論で説明しようとするのですが、それならば縄文時代に限らず古今東西のさまざまな文化に類例が見つかるのではないかと思うのですが、どうなんでしょう。
この本では現代のキャラクターデザインが類例、ということになっているのかもしれませんが、造形的発想の類似が指摘されているだけで、制作動機の違いについては触れられていません。精霊を表すとまではいわないにしても、儀礼に用いたり崇拝の対象にしたりというような世界中の類例をいくつか提示してくれれば、なるほど、同じようなことを縄文人たちもやってたんだろうなあ、と納得できるかと思うのですが。
もしかすると今度の続編で世界中の類例を示すつもりなのかもしれませんが、そうだとしてもおそらくそれは『読む』と同じように竹倉氏独自の仮説なのでしょう。それ以前に、偶像を作った当事者たちが「これはクリの精霊だよ。ほら、頭がクリに似てるだろ」みたいに語っている例はあるのかないのか。あるのであれば、いちいちいろんな理屈をつけるよりそれを提示してくれればいいのですが、ないのなら、何でないの、という話になります。
先ほど名前が出たフレイザーは、比較研究という手法を用いていることで知られています。これは植物祭祀なら植物祭祀の類例を世界中から集めてそれらの共通点を抽出したり分類したりするという手法です。竹倉氏はフレイザーに心酔しているようなのに、どうして自身の土偶研究でこの手法を用いないのでしょう。
私は氏の前著『輪廻転生』という本を読んではいないのですが、気になって目次だけ調べてみました。すると、いろいろな輪廻転生信仰を3パターンに類別しており、つまりこちらでは比較研究を行っているようです。だったら土偶研究も同じようにやればいいのにと思います。

ところで『読むを読む』の264ページには、秋田県の三升刈遺跡で出土した、どうみても女性器をかたどったらしき造形物の写真が掲載されています。顔がポッと赤らむほどよくできています。まさか大人のおもちゃとして使用したとは思えないので、何かしらの儀礼に用いられたのでしょう。
このような性器(男女を問わず)をかたどったものが儀礼に使われたり崇拝の対象になっている例は古今東西、世界中のいたるところに存在しています。みうらじゅんの『とんまつり』という本にも、佐渡島の「つぶろさし」という奇祭が紹介されています。
よく考えてみれば、このような例こそ、フレイザーの「類似の法則」の実例ではないでしょうか。
ですから、縄文人たちがフレイザーのいう「類似の法則」によって造形物を作ったことは確かなんだろうと思います。植物については確たる証拠がないようですが、性器についてなら、世界中に類例もあることですし、縄文人もそういうものを作ったを考えていいのでしょう。竹倉氏は感覚の復権によって「身体性と精神性を統合する」全体性を日本人に取り戻してもらいたいと思っているらしいのですが、それならこっち方面を研究すればいいのではないでしょうか。決してふざけて言っているのではありません。ただ、こっち方面の研究には先達がたくさんいると思いますが。
それにしてもなぜ竹倉氏は、乳房や性器とおぼしきものをもつ土偶が女性をかたどっていると見なすことを嫌うのでしょう。「類似」というのは形状だけでなく、位置関係も含めるはずなのに……。まさかミソジニー? よくわかりませんが、もしかすると『読む』が受けたのは、性的なものを忌避する最近の風潮にマッチしたというのもあったのかもしれません。

なぜ「謎解き」なのか

この文章のはじめのほうで私が指摘したように、『読む』は「謎解き本」です。
歴史関係の「謎解き」本や「歴史ミステリー」本はとても人気があります。邪馬台国、本能寺の変、写楽など、真相や正体をめぐってさまざまな説を主張する本が常に書店に並んでいます。書籍だけでなく、テレビ番組やウェブサイト、動画でもよくあると思います。
私はこういう本をあまり読みたいとは思うのですが、それでも何度かパラパラとめくってみたことはあります。こういう本には読みにくそうな文献の引用とか写真や表や説明図などの図版とかが豊富に散りばめられていて、これだけ証拠を並べれば間違いないだろうと言わんばかりです。
『読む』は、文献の引用は少ないものの、図版が豊富です。「見た目」を重視しているのですから当然です。そして実際に読んでみると、確かにいろいろな資料を持ち出して自説を証明しようとしています。
しかし不思議なのは、このように証明に懸命になりながら、竹倉氏が実証主義に対して否定的なことです。複数の個所で「実証主義を標榜する昭和期以降の考古研究者」によって研究から「感覚」が排除された、というような意味のことを言っています。

実証主義に対しては、すでにたくさんの批判があります。私は前回、J・ハーバーマスによる学問と社会という観点からの実証主義批判を紹介しました。また認識論的な点では「学問論:学問について(3) 学問における「規範」」で取り上げたT・クーンのパラダイム論が実証主義批判の性格をもちます。
竹倉氏は、実証主義が研究から「感覚」を排除した、といいます。つまり、もっと感覚を重視することで実証主義を超える研究方法が可能になる、と言いたいのでしょう。私の「イコノロジー」はそういう研究方法なのだ、と。
もしもそうなら、そのこと自体は大いに結構なことだと思います。頑張ってほしいと思います。しかし「謎解き」は実証主義でなければなりません。謎解きに必要なのはあくまでエビデンス、実証性だからです。

世界中の誰もが認める謎解きの天才、シャーロック・ホームズは次のように言っています。

ぼくはけっして当て推量はしない。当て推量なんて、とんでもない悪習だよ――論理的な能力を損なうだけのものさ。

アーサー・コナン・ドイル『四人の署名』(深町眞理子訳)

シャーロック・ホームズのシリーズが書かれた19世紀後半は実証主義が大輪の花を咲かせた時代でした。自然科学とその応用であるテクノロジーが発展し(そのせいでロンドンはとんでもなく空気が汚かったようですが)、歴史学の世界で史料批判(史料の信頼性などを検証すること)の方法が確立されたのもこのころだったかと思います。ホームズはそういう時代の申し子だったといえます。
ミステリーの面白さは、犯人やそのトリックが必ず解き明かされるところです。ミステリー仕立ての不条理小説では犯人がわからないままというのがありますが、通常の推理小説では必ず謎が解明されます。
探偵たちは犯人の犯行を立証するだけでなく、犯人でない人のアリバイなど、反証も確かめます。

ぼくは以前からひとつの公理をもっていますが、それは、あり得べからざることを除去してしまえば、あとに残るものが、いかに信じがたいものであろうと、真実にちがいない、というのです。

アーサー・コナン・ドイル「緑柱石宝冠事件」『シャーロック・ホームズの冒険』(阿部知二訳)

『読む』では「犯人」の「プロファイリング」の前に、序章で「通説」という「他の容疑者たち」の「アリバイ」を調べるのに土偶の出土指数と縄文時代の推計人口についての統計資料を用います。しかし素人の頭でも、土偶の数が人口の増減としか相関していないってどうしていえるの? と感じます。例えば製造技術の改良で土偶が作りやすくなったとか、信仰形態の変化とか、いろいろな事情が絡んでそうです。
「統計にだまされるな」的な本を読むと、「相関」については一見もっともらしい理屈が通っていても気をつけたほうがいい、という説明をよく見かけます。確かに鵜呑みにすると「風が吹けば桶屋が儲かる」と本気で信じることになりそうな怪しげなことを言う人は結構います。
そもそもほんとうに「他の容疑者たち」は序章であげた3名だけでしょうか。『読むを読む』所収の白鳥兄弟「「土偶とは何か」の研究史」を見ると、まだまだたくさん「容疑者たち」がいるようです。

しかしさらなるそもそも論として、なぜ「謎解き」でなければいけなかったのでしょうか。
「謎解き」は、論理学の用語でいうとアブダクションという推論法を用います。アブダクションとは、簡単にいえば結果から原因を推理する方法で、まさに推理小説で探偵がやっていることです。証拠を集めて殺人犯を特定するやり方です。
ところがアブダクションには難点があって、論理上は絶対的な正解に辿り着けない推論方法といわれています。アブダクションでどんなにそれらしい結論に到達しても、常に反証可能性がまとわりついてるのです。
もっとも殺人事件のような場合では、論理的可能性だけにこだわると「幽霊が犯人」という突拍子もない可能性まで含んでしまうので、限られた現実的可能性だけを考慮すればだいたい犯人に到達します。推理小説であれば「動かぬ証拠」を突き付けられれば犯人は犯行を認めます。しかし現実の犯罪では、警察や検察が間違いないと主張しても、容疑者が否認していれば裁判で弁護士は冤罪を主張し、裁判官たちは両者の主張を慎重に聞いて審理しなければいけません。そして有罪判決が出ても冤罪の可能性はゼロになりません。だから死刑制度は廃止すべき、という人もいます。
歴史の「謎解き」はもっと厄介なはずです。何せ「容疑者」(「謎」の当事者たち)を直接「取り調べる」ことができません。邪馬台国のように現場がどこかがそもそも謎の場合もありますし、何が証拠になるのか何が反証になるかも自明ではありません。オカルトが入り込む余地も十分あります。伝奇小説ファンやサブカル好きにはありがたいことです。
結果として歴史の「謎解き」においては、1つの謎に対していくつもの「真相」が産み出され、論争が巻き起こります。美術史学のイコノロジーにおいても事は同様という話はすでにしました。
美術史学に限らず、学問の世界でもアブダクションは一般的に使われている論証方法です。哲学者のK・ポパーは仮説が科学的であることの条件を反証可能性としました。もっともこれにはいろいろ批判があって、例えばかつては反証不可能だった仮説が実験機器の開発によって反証可能性を得るという場合もありえます。となると「科学性」や「真理性」という観念はますます不確実になっていきます。
それなら学問的な研究は無意味なのか、というとそうは思いません。殺人事件の場合と同様、論理的な確実性は100%でなくても現実的あるいは学者の経験的な判断としては「真理」と見なしてOKということもあるでしょうし、もちろん応用可能性を満たしていればいいことも多いと思います。
しかしこの「真理」には論理的なすき間があることに変わりはありません。専門知・暗黙知をもった学者たちが扱ううちは問題にならなかったこの「すき間」が、門外漢たちの間に「情報」の形で「真理」が流通する際に(「学問論:学問について(5) 学問における「真理」」参照)、そのときどきの社会状況によって不安を引き起こし「信頼の危機」を引き起こすのではないか。
実際、陰謀論者たちは学問的な「真理」が誤りであることのわずかな論理的な可能性をこじ開けて自説を展開しているように思えます。もっとも時として、学者たちが主張する「真理」に現実的かつ社会にとって深刻なレベルの「すき間」や「瑕疵」があって、ほんとうに社会の側で声を上げたほうがいい場合もあるのでしょうけど。

話を『読む』に戻します。
「土偶の謎」を解く、ということに関して言うと、さらにさらに根本的な疑問が湧いてきます。
「土偶の謎」なんて、ほんとうにあるのでしょうか。
先に見たように『読む』の中でも、土偶の「本義」は植物霊祭祀だが、他の使い方をされることもあっただろうと書かれています。だったら、最初から他の使い方のために作られた土偶も存在したと考えられないか、という指摘はすでにしました。
著者が土偶の「本義」が植物霊祭祀であることを譲れないのは、その造形に植物との類似がある、という自分の「感覚」を絶対に否定できないからなのでしょう。どうもこれは、フレイザーが「未開人」の呪術について唱えた「類似の法則」を何としてでも土偶に適用しなければならない、と竹倉氏が考えているからじゃないか、と思います。竹倉氏のいう「感覚」が、この本の中では視覚しか指していないのもそのためでしょう。
これに対しては、私が偉そうなことを言ってもしょうがないので、フレイザー自身の言葉を引用します。

仮説をどこまでも拡大しすぎる危険、首尾一貫しないさまざまな細かい一つの事項を狭い公式にあてはめてしまう危険、非常に複雑な、いや、それどころか想像もつかないほど複雑な自然と歴史を、一見まぎらわしくも単純に見える理論でひとくくりにしてしまう危険は、誰よりも私がいちばんよく知っている。このことでは私はこれまで何度となく誤りを繰り返してきているのだ。

J・G・フレーザー『図説 金枝篇(上)』(吉岡昌子訳)

で、「土偶の謎」はほんとうに存在するのでしょうか?
もしかして「遮光器土偶の謎」や「縄文のビーナスの謎」は存在しても、「土偶の謎」は、あるとしても作り方とか技術的な事柄だけなんじゃないか、という気がします。もちろん本当にそうなのかどうかはわかりませんが、少なくとも「謎」を解きたければ、「謎」が存在しない可能性まで検討の範囲に含めるべきでしょう。

そして――今度は問いではなく反語として――なぜ「謎解き」でなければいけなかったのでしょうか
「謎解き」なんてしなくていいじゃん、と思います。どうせ完璧な結論になんか到達しないんだし。土偶の「謎」=「意味」を理屈つけて「読む」より、今ここにある造形物として向き合えばいいんじゃないでしょうか。
実はパノフスキーに対する最大の批判もそれでした。芸術作品を言葉で表せる「意味」に還元するのは芸術の理解の仕方として間違っているんじゃないか。
もちろん土偶は元々は芸術作品として作られたものではないでしょうし、その元々の在り方を探ることの楽しみもあるでしょうから、「謎解き」をしてはいけないなどと僭越なことを言う気はありませんが、下手に「謎」にこだわり、否定的に思っていたはずの実証主義にはまって、扱いなれない考古学資料を利用したせいで批判されるよりは、もはや元々の使われ方をされていない目の前の土偶を、「縄文脳」なんかインストールするのではなく、今のこの私としてじっと見つめて、それで感じた言葉にならない感覚を(それは人によって違うでしょうけど)土偶の「意味」として受け取ってもいいのではないでしょうか。
……とものすごく偉そうなことを書いてしまいましたが、よく考えたら、私にはこんなことを言う資格はありませんでした。私は土偶の実物を観たことがありません。

最初のほうに書きましたが、私は竹倉氏の文章は『土偶を読む』しか読んでおらず、他の著作も、竹倉氏の文章や発言が掲載されているサイトも、全く読んでおりません。これは人の著作に関して(否定的に)論じるのには失礼だったかもしれません(匿名ですし)。しかし時間と体力の都合上、仕方ありませんでした。
『読む』が含むさまざまな問題点は、もしかするともうすぐ発売されるという竹倉氏の新刊では克服されているかもしれません。そうだとすれば、それは大変結構なことだと思います。私は氏個人を叩いたつもりはありませんし、論破しようとしたつもりもありません(いや、ちょっとあったかな…)。また、わざわざ言うことではありませんが、私が『読む』について読み違えをしている可能性はあります(じっくり考えて書いたつもりですが)。
……と書いてはみましたが、だけど、だけどさあ、と思うところはやはり正直言ってあります。私が言うと角が立つかもしれませんので、すでに名前を出した日本のイコノロジーの専門家の言葉で締めくくりたいと思います。

傲慢な大学教師がいたら、警戒してください。未知のことがこんなにも多い学問にたずさわっている人間ならば謙虚であるのが当然なのです。

若桑みどり『イメージを読む』


◎参考・引用文献
竹倉和人『土偶を読む 130年間解かれなかった縄文神話の謎』 晶文社、2021年
縄文ZINE編『土偶を読むを読む』 文学通信、2023年
エルヴィン・パノフスキー、浅野徹ほか訳『イコノロジー研究』 美術出版社、1987年
若桑みどり『イメージを読む 美術史入門』 ちくま学芸文庫、2005年
「イコノロジー」「パレイドリア」「ウィキペディア 日本語版」 https://ja.wikipedia.org/
アーサー・コナン・ドイル、深町眞理子訳『四人の署名』 創元推理文庫、2011年
アーサー・コナン・ドイル、阿部知二訳「緑柱石宝冠事件」『シャーロック・ホームズの冒険』 創元推理文庫、1960年
ジェームズ・G・フレーザー、メアリー・ダグラス監修、サビーヌ・マコーマック編集、吉岡昌子訳『図説 金枝篇(上)』 講談社学術文庫、2011年
その他、多数の書籍やウェブサイトを参考にしました。

学問論:学問について(7) 【応用編】『土偶を読む』と『土偶を読むを読む』を読む②


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