学問論:学問について(3) 学問における「規範」
またもや間が空いてしまいましたが、前回は、学問を構成する3要素として「規範」「実践」「真理」を挙げ、それぞれについて簡単に説明しました。今回からは、これらの各々についてより詳しく考えてみることにします。まずは学問にとっての「規範」についてです。
専門用語の規範性
前回もちょっと書きましたが、ふだん学問と関わることのない人がいきなり学術論文や専門書を見ると、難しい言葉がいっぱい出てきて、何が何だかわからないと感じるだろうと思います。
実際にネット上からそれっぽい文章を適当に選んでみました。『心理学評論』(2015年58巻2号)に掲載された、髙本真寛と服部環による「国内の心理尺度作成論文における信頼性係数の利用動向」という論文の冒頭です。
本論文では,国内の心理尺度の作成論文における信頼性係数の利用動向をまとめ,今後の心理尺度の作成論文における信頼性係数の報告に関する一考察を行う。
心理学は心的構成概念を研究対象とするため,構成概念を測定するための心理尺度が多く作成され,使用されている(日本テスト学会,2007)。構成概念を測定する心理尺度を議論する際には,信頼性(reliability)と妥当性(validity)に関する議論が必要不可欠であるが,二つを比較すると,信頼性の方が妥当性よりも数理的要素が大きい1) (岡田,2011; Sijtsma, 2009)。信頼性の低さは,相関分析において希薄化(attenuation)を生じさせ,平均値差の検定において検定力を低めるなど,その後の統計的分析にも大きな影響を及ぼす(Furr, 2011 ; 池田,2008)。
いかにも学術論文、という感じの小難しい文章です。しかし一つ一つの言葉を取り出してみると、日常的にも使われている言葉が案外多く、意味の見当がある程度まではつきそうにも見えます。とはいえ「信頼性(reliability)」などと該当する英単語をわざわざ付け加えているのはどういうことなのか。「かっこつけてるだけじゃない?」と思う方もいるかもしれません。
上記の文章は心理学の学術誌に掲載されていますが、心理テストの結果の分析に関わる内容なので、使われている専門用語は主に心理学用語というより統計学の専門用語です(統計学を利用する学問すべてにとっての専門用語ともいえます)。そして英単語が併記されている「信頼性」「妥当性」「希薄化」は、日常的にも使われている言葉ですが、ここではあくまで専門用語としての意味で使われています。専門用語というのは、その学問の文脈の中でのみ使われるように定義され、これらを学ぶことはその学問を学ぶことに直結しています。
ですから、日常的に使われている「信頼性」には "authenticity" "credibility" などの英訳もありえますが、統計用語としての「信頼性」には "reliability" という英訳以外ありません。逆に統計用語としての "reliability" は、「確実性」などと訳さず、「信頼性」と訳さなければなりません。細かいことをいうといろいろあるのかもしれませんが、大まかなレベルではそういう理解でいいかと思います。
言語学者のフェルナン・ド・ソシュールは人間の言語活動を構成するものとして「ラング」と「パロール」の2つを考えました。これまでの私の文脈でいうと、ラングは言語活動の「規範」であり、パロールは言語活動の「実践」です。言語活動の規範というのは、英語やフランス語といった単位でいえば、音韻規則とか文法とか辞書に載っている言葉の意味とかが該当します。しかし「国語」や「公用語」として使われているような言語に限らず、地域の方言や社会的方言(階層・階級による言葉の違いや業界用語、若者言葉など)にもそれぞれのラングが存在します。
学問の専門用語は、学者の世界の業界用語ともいえますが、この業界は世界レベルで広がっているものがほとんどです。学者たちはふだん自分が話している言語における専門用語を使うわけですが、上に示したように学問上のある概念がそれぞれの言語でどういうかが決まっているので、他言語を話す学者とその概念の意味をたやすく共有できます。
例えば、ある学生が日本の大学で統計学における「信頼性」を学び、別の学生がイギリスの大学で 統計学における "reliability" を学んだ場合、2人は違う言語を通じて同じ「言葉」を学んだことになるのです。このようにしてある学問を学ぶ人は、どの言語を通じてであろうと、共通のラングを習得するのだといえます(あくまで大まかなレベルでの話ですが)。
ある言語の規範を共有する集団を、言語学では「言語共同体」と呼びます。ですから、何らかの学問に携わる人たちも、特殊な意味合いでではありますが、「言語共同体」を形成しているといえます。
もちろん、学者たちが共有しているのは専門用語だけではありません。前回説明した、さまざまな「専門知」を彼らは共有しています。それらの共有によって学者たちは学問の領域内に「共同体」を成しているのです。
よく学者たちが不特定多数の聴衆に対して、例えば「皆様ご存じのように、カントは空間と時間を完成のアプリオリな形式と考えておりまして…」みたいな言い方をします。確かに哲学に詳しい人からすれば初歩的な知識なのでしょうけれども、哲学に詳しくない大方の人は「そんなこと全然ご存じじゃないぞ!」とツッコミを入れたくなります。
しかし、この場合の「皆様」は、目の前にいる聴衆のことではなくて、学者たちの共同体を指していると考えればいいかと思います。職業的な学者というのは、自分たちの間では常識に属する事柄を口にする際には、どうしても自分が属する学者共同体の存在を意識してしまうものなのかもしれません。
クーンのパラダイム理論
もちろん、この「学者の共同体」というアイデアは私独自のものではありません。有名なのはマイケル・ポランニーとトーマス・クーンの所説ですが、ポランニーについては次回にまわすことにして、ここではトーマス・クーンの言っていることを見てみましょう。
トーマス・クーンといえば「パラダイム」という言葉が有名です。今ではビジネス書やジャーナリスティックな文章でも「パラダイム・シフト」などという言い方を見かけますが、多くの場合、「古い考えや仕組み」という程度の意味で使われているようです。
クーンがパラダイムという概念を唱えたのは『科学革命の構造』という本においてでした。クーンは科学(主に自然科学、中でも理論科学ですが)の歴史を直線的・連続的な進歩、つまりたくさんのわからないことが一つずつ解明されていくという単純な流れと考えず、時折起こる「科学革命」によって断続的に変化するものと考えています。
クーンによれば、どの時代の科学にも、その時代の科学者たちが彼らの研究を基礎づけるものと見なす「科学的成果」が存在します。この「科学的成果」は、単に何が真理であるかを表しているだけでなく、その学問に関わる概念や現象の意味を規定し、研究者たちにとって模範的なモデルとなっています。この模範的なモデルとしての科学的成果が「パラダイム」です。クーンの表現を引用すると、
パラダイムという言葉を選ぶことで私が示唆したいと思うのは、実際の科学実践の例として受容されたものの中には――そこには、法則、理論、応用、研究器具が含まれる――、内的に調和した特定の科学研究の全体を生じさせるためのモデルになるものがあるということだ。
そしてこのパラダイムに従属している状態の科学をクーンは「通常科学」と呼びます。科学者たちはこの通常科学において、「パズル解き」としての研究を続けます。「パズル解き」というのは研究の成果が正解かどうかをパラダイムによって判定できるということです。
ところが、やがて従来のパラダイムでは解けない謎が現れ出します。例えばニュートンの理論に従う限り、エネルギーは連続した値をとるはずなのですが、黒体放射という現象では電磁波のエネルギーが飛び飛びの値になる(量子仮説)ことをマックス・プランクが発見しました。しかしこれはニュートン理論のパラダイムに反するため、発表当初は相手にされなかったのですが、アインシュタインがプランクの理論を使って光電効果を説明したり、原子の構造の安定性がこの理論でうまく説明できる、などといった発見が続くことで、科学者たちは「量子力学」を新しいパラダイムとして受け入れました。
このように古い理論がパラダイムとしては棄却され、異なるモデルが新しいパラダイムとして科学者の共同体に受け入れられる、というのがクーンのいう「科学革命」です。
以上がクーンの理論の中心的な部分なのですが、正直なところ彼の説明はさまざまな例を断片的に次から次へと持ち出すばかりで、具体的な事例を緻密にたどって自身の理論と細かく照合してくれてはいないので、科学史についてそんなに詳しいわけではない私にはピンと来ないところが多々あります(回りくどい言い回しが多いし)。ですから、上記の説明はもしかすると不正確かもしれません。
とはいえ、ここでの私の目的はクーンの理論の正確な説明ではありませんから、以下、クーンの所説の中で私の関心と関わるポイントを拾い出してみることにします。
「模範」としてのパラダイム
クーンの理論における「パラダイム」は、研究のあり方や理論面でも実践面でも規定するという点で、規範としての機能を持っているように思えます。
しかしクーンによれば、パラダイムは規範そのものではありません。「パラダイム」という言葉はギリシア語で「模範」や「手本」を意味する「パラディグマ」に由来しています。確かに「模範」と「規範」とでは、意味が似ているようでちょっと違います。
小学生のとき、習字の授業で「永」という字には漢字の書き方の基本となる8つのポイントが全て備わっていると教わりました。「永」という字を「模範」、「点」や「払い」などのそれぞれの書き方を「規範」と見なすなら、学校や書道教室では「点」や「払い」などの書き方(=規範)を一つずつ教えるのではなく、「永」という一字(模範)を書くことで漢字の書き方のポイント(規範)がいっぺんに身につくようにしています。
科学者たちも同じように、研究のルールを一つずつ学んでから研究に着手するのではなく、パラダイムに従った研究(パズル解き)の実践を通してルールを身につけている、というのがクーンの考えです。
彼によれば、科学者たちはパラダイムの中から規範を抽出することをしません。先ほどの引用にもありましたように、パラダイムには「法則、理論、応用、研究器具」など、研究に関わるものがすべて揃っているので、理論についての説明や実験の実習授業を継続的に受けてさえいれば、学生たちは研究や理論的考察を秩序だったやり方で行えるようになり、研究の規範そのものを意識することが必ずしも必要とされない、とクーンはいいます。
ここまでは、多くの科学者に受け入れられやすい話になっていると思います。といっても私は科学者ではないのでよくはわからないのですが、クーンはもともと物理学を学んだ後に科学史に転向した人なので、科学者の現場感覚を理解していた人だったようです。
しかし科学革命によって新しいパラダイムが古いパラダイムに代わった場合、新旧のパラダイムがどういう関係にあるかという点になると、果たして科学者たちに受け入れられるかどうか、話は問題含みになってきます。
一般的に科学は進歩していると見なされています。実際にそのとおりだとすれば、過去のパラダイムは誤りであって現在のパラダイムこそが正しい、少なくともより正しいことになります。
しかしクーンは、異なるパラダイムの間には「通約不可能性」があって、どちらが正しいかは比較できない、といっています。
「通約」は小学校の算数で習う「約分」のことで、分子と分母に共通の約数があれば両者をそれで割ります。つまり共通なものを取り出すのが「通約」です。
それが「不可能」だというのですから、異なるパラダイム間には共有しているものがないとクーンはいっているのです。「時間」とか「質量」とか同じものを扱っているように見えても、それらの概念規定が異なっているため、比較の基準が存在しないわけです。
このような考えは歴史相対主義と見なせそうですし、実際に哲学者のカール・ポパーらからその点について激しい非難を浴びました。歴史相対主義というのは、真理というものは時代時代で異なるものであり、歴史を超越した真理なるものは存在しない、という考え方です。
しかしクーンは『科学革命の構造』の第Ⅱ版から収録されている「追記」で、「科学の進展は、生物の進化と同じく、一方向的で不可逆的なプロセス」であるとし、自身を「科学の進歩を信じて疑わない人間」としています。
歴史相対主義というのは難しい、というか、はっきりいうと、怒り出しちゃう人がたくさんいる、ややこしい話題です。私には積極的にこれについて論じることはできませんが、もしもアリストテレスやニュートンが現代にタイムスリップしてきて現代の物理学について説明を受けたら、なんてことを考えると、その説明に対して彼らは、ずいぶん進歩したもんだ、と感じるかとうか。むしろ、同じ宇宙について話していると信じられないかもしれません。
また、クーンのいうパラダイムの変化は上記のように、科学者の共同体に受容されなければ成り立ちません。クーンの議論は科学の領域の外部について一切捨象しているので、科学者の共同体が社会の中でどんな存在の仕方をしているかについては全く触れていないのですが、人間の集まりなのですから、やはり歴史やその時代の社会の影響を受けるのではないか、とは思います。もっとも後に見るように、普遍性は科学者にとって重要な規範ですから、少なくとも彼らの意識の上では、彼らが受け入れている「真理」は歴史を超越したものであるはずだ、ともいえます。
科学の歴史を紐解くと、パラダイムを変えるような理論や発見が、同じ時期に複数の学者によって独立に考え出された、ということがしばしばあります。万有引力(ニュートンとフック)、微積分法(ニュートンとライプニッツ)、非ユークリッド幾何学(ロバチェフスキーとボヤイとガウス)、自然淘汰による進化(ダーウィンとウォレス)、特殊相対性理論(アインシュタインとポアンカレ)……。中には盗用だと片方が言い出してもめたケースもあります。
こういうことがよく起こりうるのも科学に歴史的条件が関与しているためなのかもしれません。ただしこの場合は歴史相対主義というのとは少し違うかもしれませんが。
科学の4つの規範
難しい話に手を出してしまったせいで、だいぶ長くなってしまいましたが、最後に学問全体の規範について考えてみようと思います。
コロナ禍の間にもよく耳にしましたが、「科学的に考えなければならない」と主張する人がよくいます。つまり「科学的に考える」ことが現代においては重要な規範だというわけです。
この場合の「科学」も、主に自然科学がイメージされていると思いますが、この規範としての「科学」は当然ですが科学者たちにとっても規範になっているはずです。
社会学者のロバート・マートンは、1949年に刊行された『社会理論と社会構造』所収の「科学と民主的社会構造」という論文の中で、科学者が従うべき規範を4つの項目にまとめています。現在では「マートン・ノルム」、または各項目の頭文字をとって「CUDOS」と呼ばれていますが、私はマートンの本を読んでいないので、ここでは野家啓一の文章を引用します。
第一は「公有性(Communality)」であり、これは知識の私的所有の禁止を意味する。つまり、知識は万人に共有されるべきものであり、それを個人的に隠しておいてはならない、という規範である。
第二は「普遍性(Universality)」である。これは、科学知識はいつどこでも普遍的に成立するものであり、科学理論の真理性は科学者の人種、性別、国籍、宗教などとは無関係である、という考え方を指す。今日ではあまりにも当然の規範と思われるが、戦前にはアインシュタインの相対性理論がユダヤ人によって発見されたという理由だけで排斥され、ナチスによって「アーリア科学」が唱導されたり、旧ソ連ではメンデルの意伝子説が「ブルジョア遺伝学」として否定され、環境因子を強調するルイセンコ学説が称揚されるといった事実が存在したのである。
第三は「無私性(Disinterestedness)」である。これは、科学者は個人的利害に囚われて不正を行ってはならず、常に個人的利害を超越した立場に立たなければならないという規範を表している。
最後の第四は「組織的懐疑主義(Organized Skepticism)」である。これは科学者が保有すべき精神態度であり、ドグマに基づく判断に禁止を意味している。つまり、科学者は特定の宗教的・政治的ドグマを信奉してそれが絶対に正しいという態度を取ってはならず、常に懐疑の眼差しをもって物事に対処しなければならない、という規範である。
マートン・ノルムの性格の一つとして、論文のタイトルを見てもわかるように、これらの規範は民主主義の理念をベースとしていることが挙げられます。『社会理論と社会構造』の刊行が1949年ですから、第二次大戦が終わり冷戦が始まったころで、ナチス・ドイツやソ連の全体主義に抗する意図もあったのかもしれません。
もっとも上記の引用では第一・第二の規範が「公有性(Communality)」「普遍性(Universality)」となっていますが、念のため他の資料で調べてみると「公有主義(Communism)」「普遍主義(Universalism)」となっているものが多く、どうも原文では後者の表現を使っているようです。つまり第一の規範を「コミュニズム」としており、確かに内容は共産主義に近い考え方ではあります。
それはともかく、民主主義の理念と民主主義国家の現実が必ずも一致しないように、現実の科学がマートン・ノルムに忠実がかというと、必ずしもそうとは言い切れません。野家氏も「科学の産業化や国家プロジェクト化が進展し、巨額の予算獲得や知的所有権が問題になっている現代においては、科学者がこのマートン・ノルムに象徴される行動規範を遵守しているとは必ずしも言えず、また守りにくい社会状況にもなっている」といっています。
マートン・ノルムのもう一つの性格は、科学者の共同体を前提にしていることです。つまりこの規範は科学者個人個人が意識すべきことというより、科学者全体が一つのまとまり、つまり共同体として独立性や自律性を持つことを条件としています。
ですからマートン・ノルムを「守りにくい社会状況」というのは、政治や経済が科学に介入し、科学者の共同体が独立性を保てない状況とも言い換えられます。
だから「科学的に考えること」が社会全体の規範とならなければならないのでしょうか。科学の独立性を社会全体で守ろうという……。
しかし「科学的に考えなければならない」という言葉は、往々にして「科学は国益に貢献すべき」と主張する人によって唱えられているように思えます。なぜなのでしょう?
そういう現実にどこまで踏み込めるかはやってみなければわかりませんが、次回は科学の「実践」について考えみたいと思います。
◎参考・引用文献
髙本真寛・服部環「国内の心理尺度作成論文における信頼性係数の利用動向」『心理学評論』 心理学評論刊行会、2015年58巻2号 ウェブサイト「J-STAGE」 https://www.jstage.jst.go.jp/article/sjpr/58/2/58_220/_pdf/-char/ja
トーマス・クーン(イアン・ハッキング序説)、青木薫訳『新版 科学革命の構造』 みすず書房、2023年
野家啓一『科学哲学への招待』 ちくま学芸文庫、2015年
須藤靖・伊勢田哲治『科学を語るとはどういうことか 科学者、哲学者にモノ申す 増補版』 河出書房新社、2021年
金森修『科学の危機』 集英社新書、2015年
上記の他、多くのウェブサイトを参考にしました。
