学問論:学問について(7) 【応用編】『土偶を読む』と『土偶を読むを読む』を読む②
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前回は竹倉和人『土偶を読む』(以下、『読む』)について書きましたが、今回はこの本に対する批判書である縄文ZINE編『土偶を読むを読む』(以下、『読むを読む』)について書きます。
『読む』はツッコミどころが多いため、ついついツッコミを入れたい誘惑に負けてしまいました。深く反省しています。といいつつ、今になってもっと根本的な問題点を書き逃していたことに気づいてしまい、結局加筆したのですが……。しかし『読むを読む』は、ツッコミどころといえる箇所はほとんどないため、今回は前回より学問論の応用編らしく書けそうです。
そういえば、竹倉氏の新著『世界の土偶を読む』が出たようですが、版元の晶文社による紹介文を見るとアブダクションがキー・コンセプトになっているようです。私も前回「アブダクション」を説明に用いました。もしかすると竹倉氏と私は気が合うのかもしれません。
しかしこの本、Xで検索してみた限り、全然話題になってないようです。話題になっていないことを話題にする人がいるくらいで。もう済んだ話、ということなのでしょうか。
ほんの一時とはいえ、深いお付き合いをしたお相手ですので、何だかんだいっても気にかかります。といっても私自身、彼の新著を読む気が全くないのですが。
さて、『読むを読む』についてですが、まずは率直な感想を言うと、土偶について、想像以上にいろいろなことがわかってるんだなあと感心しました。
特に本書のキータームの一つである編年に関しては、私が土偶についてあまりにも無知だったせいもありますが、こんなふうに類別できてそれを時系列に並べられるのかと驚きました。昔の円谷プロの怪獣ものに出てきそうな土偶も、確かに目が遮光器土偶に似てる!
私はかつてパノフスキーにも関心をもったことのある者なので、こういう土偶の編年が、西洋美術史でいうルネサンス様式とかバロック様式とか、あるいは日本の仏像彫刻なら白鳳様式とか天平様式とか、そういう様式概念を当てはまることが可能なのか、興味を感じます。
以上が『読むを読む』についての私の主な感想ですが、私が論じたいのはあくまで学問論、専門知論です。早速考察を始めたいと思います。

『読むを読む』の3つのテーマ
『読むを読む』の基本テーマはいうまでもなく『読む』に対する批判なのですが、この基本テーマからさらに風呂敷を広げて、以下のような3つのテーマを含んでいます。
①土偶について
②考古学について
③専門性・専門知について
本の中身としては、当然ことながら①と②が多くを占めています。しかし刊行後の書評やインタビューでは③の専門性の問題がクローズアップされているように見えます。
こういう展開は『読む』の刊行後にもあったかと思います。『読む』の中では、巻末の「おわりに」以外、それほどは専門家批判が書かれているわけではないのですが、NHKをはじめとしたメディアの紹介にしろ、サントリー学芸賞を受賞した際の審査員たちのコメントにしろ、竹倉氏が『読む』で展開した考察についてより、専ら彼が専門家の権威に立ち向かって独創的な方法論により土偶の謎を解明した(と主張している)ことを評価しているよう見えます。『読むを読む』の編著者である望月昭秀もJBpressのインタビュー記事で「(…)竹倉さんの本の中には、専門知批判といったことはそれほど強く書いていないんです。でも、出版後のインタビューなどで徐々に強く主張されるようになっていき、サンtリー学芸賞ではなぜかその点が大きく評価されたようです」と言っています。
おそらく一般向けのメディアでは、取材する人も情報の受け手も土偶に詳しくない人が多いはずなので、土偶についてより本を出したことの社会的意義のほうが注目されやすいということなのでしょう。『読む』も『読むを読む』も、その出版の社会的な意義が専門性についての問題提起だったと一般的に認識されている点では同じなんだろうと思います。
私自身、土偶についても考古学についても初歩的な知識すらあやしいのですが、専門性については(学問の専門家というわけではありませんが)これまで自分なりに考えを進めてきました。ですから『読むを読む』について考えるにあたっては、③のテーマを対象にするしかありません、
しかし先ほども書いたとおり、『読むを読む』の中で「専門性」というテーマに割かれているスペースはそんなに多くはありません。掲載されている9つの文章(インタビューを含む)のうち「専門性」をテーマにしていると見なせるのは、松井実「物語の語り手を信用するな。だが私たちは信用してしまう」と菅豊「知の「鑑定人」」の2つです。
『読む』は「物語」だからダメなのか
まず、松井氏の文章を見ていきたいと思います。
もっともこの文章はコラムの扱いになっていて、分量も扉1ページ+文章2ページ(「引用・参考文献」を含む)という短さです。しかも文中に「専門」という言葉は出てきません。しかし専門知を持つ者の目から見ると『読む』は実証性という点であまりにもずさんであると批判していますから、先ほど挙げた3つのうちでは専門性をテーマにしたものとみていいでしょう。
ところでこの文章の長いタイトル「物語の語り手を信用するな。だが私たちは信用してしまう」は、J・ゴットシャルの『ストーリーが世界を滅ぼす 物語があなたの脳を操作する』(以下、『ストーリー』)という、オドロオドロしいタイトルの本からとられています。下の画像のように、表紙も赤地にグランジふうな飛沫が散ってたりする、いかにもホラーっぽいデザインです。

この本のオドロオドロしい日本語タイトルは、多分訳者か編集者がつけたのでしょう。原著のタイトルは "The Story Paradox: How Our Love of Storytelling Builds Societies and Tears Them Down"、日本語に訳せば「物語の逆説:物語を語ることへの私たちの愛着がいかに社会を構築しかつ破壊するか」です。「物語」には社会を構築する側面と破壊する側面の両方があってそれが逆説的、ということなのでしょう。日本語版のタイトルと違って「世界を滅ぼす」だの「脳を操作する」なんていう、ディストピア小説ふうな言い回しはしていません。
だったら、実際の本の中身もそんなにオドロオドロしいものではないのかもと思い、目次を見てみると、見出し・小見出しには世界を支配とか闇とか悪魔とか、あるいは罪、感染症、陰謀、戦争、終焉……。やっぱり、ディストピア小説好きなら涎をたらしそうな言葉が並んでいます。「物語」を批判している本らしいのに、どうしてなのでしょう。もちろん見出し・小見出しも訳者が自由につけた可能性はありますが、本文から全く逸脱しているとも考えにくいです。
で、実際に読んでみたのですが――といっても時間上の制約などもあって、残念ながら今回もつまみ食い的な読み方をせざるを得なかったのですが――やっぱり私にはこの本自体がオドロオドロしい「物語」としか思えませんでした。
確かに、SNSを含めたさまざまなメディアを通じて根も葉もない煽情的な物語がばらまかれて政治すら動かすという、非常にリアリティを感じさせる話が書いてあります(「物語」にリアリティは欠かせません)。しかし、そういった現実を論じるにあたって盛んに用いられるのが、善玉と悪役の二項対立の図式です。第6章のタイトルになっている「現実」vs.「虚構」のほか、科学的研究vs.ストーリーテリングとか、合理的論証vs.感情的愛着とか、プラトンの『国家』の詩人追放論(繰り返し言及されています)における哲学者vs.詩人とか……。
そういう図式を著者は繰り返し利用しているのですが、それにもかかわらず不思議なことに、彼は再三にわたって勧善懲悪的な物語のパターンを攻撃しています。
道徳的な罪と正義の追及についてのワンパターンな話を人は飽くことなく求める。物語が盛り上げやがて解放する、手に汗握る感情の緊張をもたらすのは、結局は私たちの勧善懲悪への願望だ。
露骨なまでに勧善懲悪的な「物語」を語っているのに、著者は自分が書いていることは「物語」ではないと本気で考えてるのでしょうか? ちょっと信じられない気もします。
もしかすると原題の "The Story Paradox"は、この本自体がパラドキシカルな本であることを指していて、 結末に近い辺りで「この本自体も「物語」だから鵜呑みにしちゃダメだよ、自分の力でイチから考えようね」みたいなことが書いてあるんじゃないか? そう思って、特におしまいのほうを注意深く読んでみたのですが、以下のようなことしか書いてありません。
本書の出だしで私が「物語の語り手を絶対に信用するな」と声を大にして訴えたとき、私はあなたに呼びかけていただけではない。あなたのことを言っていたのだ。私たちは皆ストーリーテラーであり、だから信用してはいけない――誰よりも私たち自身が。
「あなた」(You)や「私たち」(We)ではあっても、決して「私」(I)=著者ではないようです。上の文章に続けて「自分が語る物語についても、道徳主義的に単純化されてはいないかと疑う心を育てなければならない」とか「他人の口臭に気づくのは簡単でも、自分の口臭にはなかなか気づけないものだ」とか書いているのは何なんでしょう。やっぱり一種の記述トリックなのでしょうか。
著者がどの程度自覚しているかはともかくとして、何でこんな本になってしまったのかを考えると、おそらくは「物語」というたった1つの切り口にこだわったせいだろうと思います。私たちの思考が「物語」になってしまうという指摘は、決して「的外れ」なわけではありません。しかし批判の「矢」があまりにも大きすぎるので、「的」を射抜くのではなくただドカーンとぶつかってるだけになっている、といえばいいでしょうか。
要するに「物語」と言ってしまえば何だって「物語」です。科学だってもちろん「物語」です。
文学理論の世界では「話の筋書き」を意味する2つの言葉、プロットとストーリーを区別します。「プロット」が出来事の単なる羅列なのに対し、「ストーリー」は出来事の間の連関も含みます。例えば「AがBを罵った。Bがバットを振った。バットがAの頭部に当たった。Aが死んだ」ならプロットで、「Aに罵られたためカッとなったBは思わずバットでAの頭部を殴ってしまい、その結果Aは死んだ」ならストーリーです。つまり出来事の間に原因と結果などの関連付けがなされていれば、それは物語なのです。ただし、「ストーリー」イコール「フィクション」ではありません。
もっとも、著者のゴットシャル氏にそんなことをいうと「私がいう「物語」とは、感情に訴えかけて人間の脳を操作するような物語であって、何でもかんでも「物語」だというのではない」と反論されるかもしれません。しかしこの本の参考文献にはアントニオ・ダマシオの『デカルトの誤り』も含まれていて引用もあるのですが、ダマシオ氏がこの本で主張しているのは「人間が合理的な思考をするためには感情が不可欠である」ということです。ダマシオ氏によれば、合理的思考と感情は対立するものではありません。
ところで、このゴットシャル氏の専門は物語の科学的研究なのだそうです。そして、そういう立場から著者は「歴史的ナラティブ」(歴史的な出来事についての体験者の「語り」)に執拗な攻撃を加えています。
なるほど、広島・長崎の被爆者の不確かな体験談を聞かされるより、太平洋戦争で日本が降伏せず本土での地上戦に至った場合の死傷者の推計値を科学的に算出するほうが、アメリカ人の心は慰められるんだろうな、と思います。
いいかげん、『読むを読む』の松井氏の文章に戻りましょう。
この文章を普通に読めば、松井氏は『ストーリー』の内容を正しいと見なしているようです。しかし私には『ストーリー』が『読む』を批判するために持ち出すのにはふさわしい本であるとは思えません。両者はむしろ、いろいろな点で似たもの同士だと思います。例えば『ストーリー』の次の一節は、『読む』を読んだ者に既読感を与えずにはいられません。
学術界のイデオロギー的な同質性は、特にジェンダー、人種、性的志向などアイデンティティの問題をめぐる不可侵で議論の余地のない心情に関して問答無用の権威主義的な傾向が高まることにより、拍車がかかっている。禁じられた問いを発すると、寄ってたかって非難し、発言の機会を与えず、キャンセルし、排斥する――恐怖によって順応させる知識界の空気は、でかメガホン主義と同じくらいポスト真実の世界に加担している。
もちろん松井氏が『ストーリー』という本の内容すべてについて賛同しているとは限りません。しかし『読む』という本の中身がゴットシャルの批判する「物語」である、とは確かに言っています。
本書(=『読む』:引用者注)は(中略)私にはゴットシャルのいう「闇の芸術としての物語」に思える。土偶の謎にせまる試行錯誤の物語が面白さを、面白さがわかりやすさを、わかりやすさが説得力をうむように設計されているが、そういった面白さに惑わされないよう訓練された学術の民には空虚に響く。
試行錯誤の物語というより、試行(仮説)が気持ちいいくらいズバズバ当たって錯誤しなかったという物語じゃないかと思いますが、それはともかくとして、果たして、『読む』の問題点は、面白い「物語」であるということなのでしょうか? そもそも面白い物語であることと内容に論理的な整合性があることとは決して両立しないことなのでしょうか?
ですから『読む』が物語として面白いとしても(私は面白く感じなかったのですが)、そこが問題だというわではありません。十分に科学的な内容でしかも話として面白い本はいくらでもあります。『読む』の問題点は、前回見たように(そして松井氏も私よりずっとスマートに指摘しているとおり)、仮説の検証がずさんであることです。相関と因果関係の混同とか、十分条件としての妥当性に欠けることを十分条件にしてしまうとか、よくある論理的な誤謬が多いために納得してしまった人がたくさんいたのでしょう。「物語」とわざわざ関連づける必要がそんなにあるとは思えません。
また、ゴットシャル氏のような形での物語批判は、「物語」を語る邪悪な奴らと論理的に語るまともな人々という対立の構図にどうしても帰着してしまいます。そのために、物語批判のはずが勧善懲悪の物語になってしまうのです。それは『読む』が、頑なな考古学者と自由な人類学者を対立させているのとよく似ています、
ですから、もしも「物語」という切り口にこだわるのなら、問題とすべきは「物語を語ること」よりも「物語を読み取ること」なんじゃないかと私は思います。物語が問題になるのは、複雑な現実を単純化したり既存の枠にはめたりということが生じるからであって、そういうことは物語を語ることよりも、読むことにおいて起きるのではないでしょうか。
つまり、重要なのは物語だからダメとかいうことではなく、それがどういう物語として読まれたのかではないかということです。もしかしたら『読む』は(著者の意図とは関係なしに)著者の真理発見に至る「冒険」の物語として読まれた(そう読んだ人が多かった)のかもしれません。同じように『読むを読む』もまた、デタラメな説を主張するフェイク野郎を考古学の専門知によって懲らしめてやったという勧善懲悪の物語として読まれてしまったのかもしれません。だから両書が扱った土偶の問題は済んだ話と見なされ、竹倉氏の新著が刊行されても話題にならないのではないか――。
『読むを読む』所収の吉田泰幸「考古学・人類学の関係史と『土偶を読む』」は「知恵を絞り感性を解放し、正解から遠く外れようとしても掠ってしまう、これは考古学者、人類学者を問わず遠い過去に興味を持つ全ての人々の希望を示している。どんな穴だらけの説でも、遠い過去についての何かをつかむことはありうる」という言葉で締めくくられています。
おそらくそのとおりでしょう。遠い過去についてだけでなく今の時代について図らずも語っていることだってあるかもしれません。ですから、正しいか間違ってるかとか、著者や版元や賞が信頼できるとかできないとかといったことを問題にして終わるのではなく、より柔軟にテキストを読むことが重要なんだろうと思います。
パブリック・ヒストリーとは何か
松井氏の短い文章について、ずいぶん長々しく書いてしまいました。もう一つの文章である菅豊「知の「鑑定人」」に話を移しましょう。
この文章はパブリック・ヒストリーとその考古学版であるパブリック・アーケオロジーの観点から『読む』の問題点と、この問題にどう対応すべきかが書かれています。
ところで、そのパブリック・ヒストリーというのはいったい何なのでしょう。私には初耳の言葉です。「知の「鑑定人」」の中では、この言葉を以下のように説明しています。
(…)パブリック・ヒストリーでは、専門家としての歴史学者や非専門家である普通の市民など、多様な人びとが多元的な価値を尊重すると共に、同じ立場で協働して民主的に歴史をめぐって交渉し合う点に主たる眼目が置かれておりに、さらに歴史表象や歴史叙述、歴史構築などのさまざまなれk石実践の場面で、それに関わる権威や権能、権限を歴史家が独占するのではなく、普通の人びとと共有することの重要性が強く主張されている。その権限は、「共有された権限(shared authority)」と呼ばれている。
ちょっと難しい文章で、具体的にイメージがわきません。そこで菅氏が共同編集に携わっている『パブリック・ヒストリー入門』(以下、『入門』)という本を図書館で借りて読んでみたところ、少なくとも私の理解では、パブリック・ヒストリーというのはだいたい次のようなもののようです。
まず、上の引用にも出てきますが、歴史実践という概念が重要です。歴史を実践する、といっても、別にちょんまげのカツラをかぶって「拙者侍でござるぞ」などとすごむことではありません。ここでいう「歴史」は単なる過去全般を指していて、例えば学生時代の同級生が集まって思い出話に花を咲かせたり、家族で昔の写真を眺めたりすることも歴史実践です。あるいは大河ドラマや時代劇や戦国ゲームを楽しむことも歴史実践です。つまり過去に起きたこと全般に関わる人間の営為はすべて歴史実践といえます。歴史学者たちの研究も、そういうたくさんある歴史実践の一つです。
この「歴史実践」を踏まえたうえで、『入門』では「パブリック・ヒストリー」を以下のように定義しています。
それ(=パブリック・ヒストリー:引用者注)は専門的な歴史学者が非専門的な普通の人びと、すなわち「公衆(the public)」と交わり、その歴史や歴史の考え方に意識的、能動的に関与する研究や実践である。パブリック・ヒストリーとは、人びとの日常的歴史実践を理解するだけではなく、その歴史実践過程に歴史学者が積極的にかかわることを志向するラディカルな動きであることを、ここではまず確認しておきたい。
私がここまで書いてきた学問論の文脈に沿って考えると、パブリックヒストリーとは、歴史学者が専門知を携えて専門領域(専門の「門」の中)から外に出て、その外にいる人たちといっしょに何らかの歴史実践をすることだ、ということかと思います。ただし「パブリック」という言葉を冠していますので、個人的な付き合いよりは社会的な実践ということになるのでしょう。
『入門』では実例として主にアーカイブの設置やコミュニティの構築への関与について詳しく解説されていますが、先に挙げた時代劇や戦国ゲームのようなエンタメ作品の例でいうなら、こういった作品の歴史考証や監修もパブリック・ヒストリーに含まれるのでしょう。この場合、歴史学者が関与することでその作品が歴史的なリアリティという点で質の高いものになることが「オーソリティの共有」になるんだろうと思います。
ところで先に『ストーリー』の中で歴史的ナラティブが批判されていることを見ました。確かに、例えば戦争体験者が自身の戦争体験について語る場合、記憶に誤りや無意識の歪曲があって客観性を損ねていることは珍しくありません。
しかしこのような場合にも、既存の研究成果とつき合わせたり、いろいろな立場の複数の人にも聞き取りを行ったりすることで、誤りや歪曲を是正するだけでなく、無意識的な歪曲の原因についても歴史的な文脈で考察できるんじゃないかと思います。もちろんそれでも除去しきれない誤りは存在するでしょうが、生身の歴史的体験には情報としての正しさに還元できないものがあるはずです。そもそも歴史や社会のように人間が主体的に関与するものについては、主観的とか客観的とかの区別は決して自明じゃないだろうとも思います。
専門家と非専門家の間にはどんな関係がありうるか
パブリック・ヒストリーでは、歴史学者が歴史学の外部の人たちといっしょになって一つの歴史実践を行うわけですが、先に見た「知の「鑑定人」」からの引用にもあるように、菅氏はこれを協働と呼んでいます。
このような専門家と非専門家の「協働」は、歴史学に限らず様々な専門領域に関してあると思います。例えば企業の商品開発にバイオテクノロジーの研究者が協力するとか、学校運営に教育学者が関与するとか、環境保護運動に生態学者が関わるとか、いろいろな形が考えられます。
しかし専門家と非専門家の間に成り立つ関係が協働だけとは限らないので、このような関係のしかたを特に協働モデルと呼ぶことにします。「モデル」というのは、一般的な形式としてそのような関係が成り立っていることを指します。
菅氏は『歴史評論』という学術誌の2024年6月号に寄せた「パブリック・ヒストリーと非専門家」という論文で『読むを読む』をこのような「協働」がうまくいった例として挙げているのですが、その中で氏はこのようなことを言っています。
パブリック・ヒストリーの実践では、「歴史の非専門家は何かの専門家である」というテーゼを認めるべきであろう。
これも歴史学に限ったことでなく、さまざまな学問分野に妥当することでしょう。つまり誰だって何かしらの専門家であると考えられる……というのは、どこかで聞いたことのある言葉じゃないか――、と思ってよく考えたら、私がこの学問論の初めのほうで書いていたことでした。私は菅氏とも気が合うのかもしれません。
それはともかく、協働モデルにおいては非専門家の側も他の何らかの専門性を持った存在である、ということが重要だと思います。つまり両者の専門性が掛け合わされる形で一つの実践が行われるのが協働なのです。
しかし協働モデル以外に、専門家と非専門家が関係をもつことはないのでしょうか。そうだとすると、世の中の多くの人にとって専門家は無縁な存在になってしまいそうです。だけど、例えば非専門家が専門家の書いた本文章を読んだり、何らかの媒体を通して話を聞くことも「関係」をもったことになるのではないかと思います。そこで両者の間にはどんな関係がありうるだろうかを考えてみます。
まず「全くの無関係」というのがありますが、これはおいとくとして、他にどんなものがあるだろう……、そう思いながら菅氏の前掲論文に再び目を通していると、以下のような一節が目を引きました。
そしてその構図(専門家/非専門家)では、一般の人々に歴史学者が「正しい」知識を授け、合理的な考え方をするように教え導く啓蒙や、また非専門家の歴史観や過去の把握の仕方に専門家が独善的に、そして一方的に介入したり干渉したりするパターナリズム(温情主義)に陥ることもある。
つまり、歴史なら歴史について、何が「正しい」かを知っているのは専門家だけであり、非専門家は無知であるか、さもなければ誤った知識を信じ込んでしまっている、だから専門家は非専門家に正しい知識をもたらさねばならないし、非専門家はそれを四の五の言わず受け取るべきである――、そのような前提のもとに成り立つ、一方的な関係もまた存在します。このような関係を啓蒙モデルと呼ぶことにします。
啓蒙モデルにおいて、非専門家は「無知蒙昧の輩」であり、しかも往々にしてそうであることに自足しています。彼らは本当に「正しいこと」が何かを知りたいなどとは別に思ってはいません。しかし啓蒙モデルの専門家たちにとっては、非専門家どもがその学問に関心をもっているかなんてことは関係ありません。このような専門家たちにとっては「正しいことを知っている」イコール「善」であり、自分たちの専門知を無知蒙昧の輩に授けることは。倫理的に当然のことなのです。これに対して非専門家側は受動的でいるしかありません。
この啓蒙モデルでは、しばしば「通説」「俗説」をひっくり返すということがうたわれます。もちろん通説・俗説が誤っていたり不充分な知識であることはよくあることで、そういう誤謬が退けられて正しい「真理」が授けられれば、本当に啓蒙がなされたといってもいいでしょう。しかし啓蒙モデルはあくまで関係の形式なので、実際には啓蒙になっていなくても、形の上では啓蒙モデルになっているということがありえます。
そう考えると『読む』は形としては啓蒙モデルをとった本のように見えます。もちろん氏は考古学の専門家ではないのですが、『通説』に凝り固まった「専門家」どもには気づきようもない「真理」を俺が君たちに授けてやろう、という構えをとっています。
同じようにカルト宗教も勧誘のテクニックとして啓蒙モデルを使います。そして勧誘した相手が入信すれば、宗教活動を共にする協働モデルとなります。もちろん外目から見れば、彼らの啓蒙も協働も人々を誤謬へと導いているのですが。
このように、菅氏の書いていることをもとにして専門家と非専門家の関係を形式面で考えると、啓蒙モデルと協働モデルという対立的な2つのモデルがまずは考えられます。それでは、両モデルの中間に当たるか、もしくは全く別のモデルというのは存在しないでしょうか。
ここで私が前々回に考察したことを振り返ってみたいと思います。私はその際、学問領域内で生産された「真理」が「情報」となることで学者たちの実践から分離して領域外に解き放たれ、それをキャッチした門外漢たちの生活実践に着地することで「真理」が「教養」になる、というプロセスを考えました。
このプロセスにおいては、専門家と非専門家の間はそれぞれの領域の中に留まって交わることがありませんから協働モデルには当てはまりません。知識の移動が専門家→非専門家という一方向であるところは啓蒙モデルに似ています。しかし非専門家の側が能動的にこの真理をキャッチして自身の生活実践に着地させているので、両者の関係自体は啓蒙モデルのように一方的でなく、相互的です。したがって啓蒙モデルともいえません。
説明が抽象的になってしまったかもしれませんが、「真理」が「情報」になった例として、学者が一般向けに書いた本を思い浮かべればわかりやすいでしょう。著者である学者は、自分がもつ専門知に関心のある人を読者として想定しながら、その本を書くはずです。本は商品であり、商品は需要を見込んで供給されます。そしてその学問に関心のある非専門家は、読みたければその本を自分の意志で買うわけです。
このように非専門家が能動的に専門知を求め、専門家がその要求に応えて専門知を提供するという関係は前に見た2つのモデルと異なりますので教養モデルと呼ぶことにします。
このモデルでは、専門家の立場はある意味では啓蒙的なままなのですが、非専門家の態度は全く違っています。そしてその違いによって、専門家側の啓蒙的な立場も啓蒙モデルのように権威的ではなく、むしろ「奉仕的」あるいは「サービス的」なものとなります。
しかし非専門家が能動的に専門知を求めるといっても、その動機や能動性の度合いはいろいろ考えられます。この「いろいろ」によって教養モデルをさらに細分化できますが、あまり細かく分けるのはめんどくさいので、非専門家側の主体性と専門知への忠実度の違いに応じて、以下のように4つの下位分類を立ててみます。
・雑学モデル(主体性=弱/忠実度=弱)
・愛好モデル(主体性=弱/忠実度=強)
・応用モデル(主体性=強/忠実度=強)
・思想モデル(主体性=強/忠実度=弱)
ここでいう「主体性」は、非専門家の側にやりたいことや考えたいことが具体的にあって、専門知をそれに利用しようという態度を指します(もう少し適切な言い方がないかと思っているのですが)。一方「専門知への忠実度」は、求める専門知を専門家たちが理解しているとおりに理解しようという態度を指します。
ですから主体性が弱い2つのモデルでは、その知識を得ること自体が目的になっていて、その知識を使って何かをしようという強い意志があるわけではありません。
そういう態度のうち、専門家たちの研究成果をつまみ食い的に情報としてため込むだけで、その専門知を他の専門知や専門家たちの実践と関連付けようとしないのが雑学モデルです。「吊り橋効果」なんていう話を心理学全体と関連づけずに会話のネタにしたりなどして楽しむような場合です。
逆に個々の専門知だけでなく、その専門領域全体への関心によって本を読んだりしているのが愛好モデルといえます。「××学入門」というタイトルがついた本やサイトで興味を感じ、だんだんと専門家向けの本を読むようになってさらに深い知識を吸収しようというのがこれに当たります。
一方、主体性の強い2つのモデルでは、非専門家が自らの実践のために自分がそこに属さない専門領域の生産物を利用するという形をとります。
その中で、当該の専門知をきっちり勉強したうえで利用する場合が応用モデルです。会社の経営者が統計学や産業心理学を勉強して経営に生かしたり、小説などの創作のためにある時代についての歴史学者の研究を読み漁るといった場合が考えられます。
一方、生活や社会の問題などについて非専門家が考えるに際し、ヒントになりそうな何らかの専門知をピックアップし、その専門知を自身の問題意識に合わせて解釈するような場合が思想モデルです。理想的な社会を実現するにはどうすればいいかを考えるために、異なる時代の社会や人間以外の動物が形成する集団についての研究を読み込むような例があるかと思います。このような場合、専門家から見ると「わかっちゃいない」と思える場合もあるのですが、非専門家にとって重要なのは自身の思想のほうなので、間違っていると指摘されても、あら、そうなの、ぐらいの反応しかしないこともあります。
私がモデルと呼んでいるのはあくまで理念型なので、実際には中間的なケースや複数のモデルに当てはまる場合など、いろいろあるかと思います。また、本人は愛好モデルのつもりなのに、他人から見ると雑学モデルでしかない、なんていう場合もあるかもしれません。
本当は具体例をもっと細かく描き出せればわかりやすいのでしょうけど、それをやり出すとかなりな長さになりそうなので、その代わりここまで私の考えた、専門家と非専門家の関係のモデルを下のように表にまとめてみました。

この図はあくまで一つの専門領域に関して2次元的に表したものですので、図中の非専門家は、他の専門領域では専門家のほうに回るかもしれません。例えば心理学の研究で統計学を応用する場合は応用モデルに当てはまりますし、社会学に進化論の考え方を取り込むような場合は、その取り込み方によって応用モデルと見なせたり思想モデルと見なせたりするでしょう。
ところで『読む』と『読むを読む』は、この図の中でどこに位置づけられるでしょうか。先に私は『読む』が啓蒙モデルのように見えると書きましたが、竹倉氏が読むを書くのに考古学や認知科学を参照した仕方についていうなら、本人は応用モデルと思想モデルの中間のつもりなのかもしれません。しかし実際には思想モデルのいちばん下、つまり専門家から離れたところにあるといえそうです(思想としての質はともかく)。『読むを読む』については、菅氏の論文に従えば、これまで愛好おモデルにいた編著者の望月氏が考古学者たちと協働モデルをとって作った本だ、ということになります。
ただ両者とも、本を出版して自身の知識を読者に提供するという形をとったのですから、教養モデルにおける専門家の啓蒙的/奉仕的な立場に立ったのだとも見なせます。特に『読むを読む』は専門家にインタビューしたり寄稿してもらったりしているのですから、本自体は専門家の側に位置しているといえます。
ちなみに私の「バカ学」は、愛好モデルと思想モデルを斜めに横切るものにしたいと自分では思っているのですが、はたして上手くいきますかどうか。
結局のところ、学問とは何か
話を菅氏の「知の「鑑定人」」に戻します。
この菅氏の文章のタイトルは、専門家が非専門家と協働して何らかの実践を行う場合に、専門家が担うべき役割を意味しています。
専門知を尊重することは、その社会が健全であるための必須条件である。もちろん、かつてのように専門家が、知やそれをめぐる制度、決定権を独占するような尊大な専門家主義を復活させろ、と主張しているのではない。多様な人びとがフラットにつながり、協働しながら多様な知の鑑定をする「知のガバナンス」において、専門知という観点から確からしい知の鑑定を行う役割を専門家は十全に果たさなければならない、と主張しているのである。
つまり専門家こそが、例えば歴史学者なら歴史についての、心理学者なら心理学についての知の品質保証ができると言っています。
しかしそれでは個々の専門家にしろ専門家全体にしろ、彼らの「鑑定人」としての信頼性を保証するものは何かという話となります。その保証の基準自体が専門知に属しているのなら、私たちは専門の「門」の中に入らない限りその質を判断できません。竹倉氏なりサントリー学芸賞の審査員なりが問題にしたのも「専門知の品質保証なんて自己申告でしかないだろう」ということだったように思います。
また竹倉氏がインタビューの中で東日本大震災の際に原発の専門家たちが安全性を強調したことが専門家不信を招いているということを主張し、そのことについて菅氏も言及しているのですが、両者とも詳しくは論じていません。
そもそも専門家たちが専門知をもっているといっても、その「専門知」の具体的な内容は必ずしもみんな一緒というわけではありません。専門の細分化という最近の学問業界の傾向もありますが、それだけでなく多くの分野で学説や方法論の対立があり喧々諤々の議論があって、ときには醜悪な喧嘩やいやがらせに発展することさえあります。
また学問の歴史をひもとけば多くの学問分野で異端説がたびたび出現し、学界で嘲笑を浴びせられたり黙殺されたりしてきました。その多くは嘲笑されても仕方がないものだったり、結果的には反証が示されたりしてきたようですが、中には大陸移動説のように後になって「真理」と認められたものも少なくはありません。
前回も書いたように、学問の世界ではしばしばアブダクションという推論方法が用いられていますが、この方法では絶対的な確実性には到達しません。そして学問が生産する「真理」には「反証可能性」をもつことがむしろ求められており、実際に後になって反証されることもあるわけです。学者のいうことはすべて中間報告という言い方もしばしば耳にします。しかしそうだとすれば、門外漢である私たちは専門家から間違っているかもしれない話ばかりを聞かされていることにならないでしょうか。
学問が生産する「真理」はその学問の「実践」と不可分です。「真理」自体が「中間報告」であったり反証可能性を潜ませているにしても、あるいはときに誤りであることが後にわかったとしても、それを生産した「実践」が存在したことは確実です。生物学者のS・J・グールドも『ダーウィン以来』という本の中で「科学とは結局、(われわれはときたまこのことを忘れるけれども)人間によって実践されるものなのである」と言っています。学問にとって「真理」は目的ではありますが、学問というものの本質はあくまで人間による営みである、ということなんだろうと思います。
しかし人間のやることには常に不確実性がつきまとっています。もちろん学者はその不確実性に陥らないための訓練を受けているわけですが、それでも不確実性をゼロにできるとは限りません。
そこで重要なポイントとなるのが、学問が単に人間の営みであるというだけでなく、複数の人間による営みだということです。複数の人間が携わることで、個人レベルで起こりうる誤りや偏り、歪みがチェックされますし、また異なる見方や考え方が提示されて比較検討されたりもします。このことは、学会の結成や学術誌の査読といった形で制度化されてもいます。
私はこのような、学問に携わる人の複数性こそが学問の専門性を信頼に足るものにしていると思います。ただしこの場合の「信頼」とは「正しさ」への信頼というよりもむしろ、限られた条件の中で専門家たちがやるべきことをやっていることへの信頼といったほうがいいでしょう。
学者たちの社会の中では、いったん生産された「真理」も複数の人たちのチェックを受け、必要があれば修正されたり異なる観点からとらえ直されたりといったことが期待されますし、実際に行われています。この点では、教養モデルにおける非専門家はどうしたって太刀打ちができません。せいぜいのところ思想モデルにおいて何かの学問の専門知をいいかげんに持ち込むと怒られたりバカにされたりするぐらいでしょう。
とはいえ以前にも書きましたように、学問の実践は必ずしも真理の追及にのみ捧げられているわけではありません。学問が「業界」を形成している以上、業界内の立場の優位を争ったり、××先生の言うことには逆らえなかったり、研究費を確保しやすそうな研究テーマを選んだり、政府の援助を得るため現政権に不都合な研究を避けたり、といった「学問業界内の政治経済」、ありていにいえば大人の事情がどうしても生じてしまい、それが「真理」の生産に影響しないわけにいきません。
こういう「大人の事情」が生じるのは、学問が複数の人による営みだからでもあるのでしょう。しかしそれだけでなく、学問が1つの領域を、つまり専門の「門」の中で内輪を形成していることにもよるのだろうと思います。このような「内輪」の利害は外部の非専門家たちの利害と必ずしも一致しません。だから、非専門家たちの不信感を呼び起こしてしまうのです。
そういう次第で、学問を複数の人の営みとして見る限りでは学問は信頼に足るものなのですが、学問の世界を単一の利害共同体として見るならば信頼できないものになるわけです。同じようなことは、政治や医療や教育や、ときにはビジネスでも、公共性が求められる領域ならどこであれいえることだろうと思いますが、学問の場合にはこれが「真理」の信頼性に関わってくることが重要です。
しかしそうだとすれば、学問が「内輪」を形成しないようにできればいいという話になるのですが、そんなことは可能でしょうか。
おそらくこの問いに対する理想的な回答は、学問の専門家と非専門家が協働しあえる関係を作ることでより広い範囲の複数性を構築するというものになるのだろうと思います。菅氏も「知の「鑑定人」」の中で、最近の科学論でしばしばいわれる「知のガバナンス」という考え方に触れ、次のようにいっています。
ガバナンスとは、水平的で分散的で協働的な物事の決め方、運用の仕方のことである。知のガバナンスの担い手は、専門家に限らず秘奥に多様なアクターが想定されており、当然、非専門家、そして一般市民なども含まれる。それらが対等な関係で結ばれたネットワークでつながり、ときに協働し、ときに競い合いながら知を管理していくのである(平川秀幸『科学は誰のものか』四四―五二頁)。子のガバナンスというありかたから専門知の品質管理を考えれば、そこにも多様な人びとが関わるべきである、ということになる。
ですから、竹倉氏のような非専門家が専門領域に乗り込んできて自説を披露しても、そのこと自体が悪いわけではありません。悪いと考える人もいるかもしれませんが、私は違うと思います。
実際、『読むを読む』所収の山田康弘へのインタビュー「今、縄文研究は?」によると、竹倉氏が『読む』の元になる原稿を持ち込んで学術誌に載せてほしいと言ってきたのに対し、山田氏は「学術的には難しいところは多々あるけれど、発想はすごく面白かった」ので、「相当叩かれるだろうなと」思いつつも「論文じゃなくても、研究ノートとか、そういった形でも、この発想を世に出すのは面白いかなと」考えた、と語っています(結局、あまり愉快とは言えない経緯で話が立ち消えになったそうですが)。
また、『読むを読む』の編著者の望月氏も『読む』の検証を締めくくる文章の中で次のように言っています。
『土偶を読む』は専門家でないことが問題視されていると、いくつかのメディアは喧伝するが、それはまったくもって事実ではない。この言説がどこから発生したかわからないが、これはただの風評被害である。どんなジャンルのどんな人物でも縄文時代や土偶を研究し、それをまとめることに制限はない。が、こと学問になると厳しく精査されるのは当たり前だろう。
ですから『読む』でマズかったのは、決して本を出版したこと自体ではなく、『読む』の出版前にしろ出版後にしろ、竹倉氏が自説への批判に謙虚に耳を傾けてもう一度考え直してみようとしなかったことだろうと私は思います。氏は『読む』の「おわりに」の中で、自身の研究成果を考古学者たちのところへ持ち込んで見てもらったところ、「誠実な対応をしてくれたのはごくわずか」だったと書いているのですが、その「ごくわずか」な考古学者に対して彼はどのような対応をしたのでしょうか。
最近、SNSなどで有名人が政治や社会問題について意見を述べてそれが批判されると、その有名人が「言論の自由」や「民主主義」という言葉を持ち出して批判を退けている、という話をネットニュースでよく見かけます。しかし言うまでもないことですが、意見を言うのも批判するのも自由なのが民主主義というものです。
SNSでは礼儀をわきまえない匿名の輩が束になって無礼なことを言ってくるので弾圧と感じてしまうことがあるのは仕方がないのかもしれません。しかし基本的には、意見が言いっ放しのままになるよりはリアクションがあってさらにそれに応える、というようになるほうが理想的でしょう。もちろん、相手にするだけ時間の無駄という場合はいっぱいあるでしょうし、討議すれば必ず世の中がよくなるなどと楽観的なことをいうつもりもありません。言論の力の不均衡という問題もあります。しかし、少なくともこの社会が自由に討議しあえる社会であってほしいとは思います、言論の自由とはもともと、国の支配者などによる力を持った言説に対する批判の自由を指していたはずなのですから。
合理的思考と感情はなぜ対立するように見えるのか
もうだいぶ文章が長くなってしまいましたが、最後にもう一つ。
この文章のはじめのほうに書きましたが、現代の神経生理学や認知科学では、合理的思考と感情は対立するものではないとされているようです。しかし一般的には、合理的思考と感情が対立的なものと見なされているのも確かです。「感情的になるなよ、もっと論理的に話せよ」などと言ったりもします。
しかし、なぜ合理的思考と感情は対立しているように見えるのでしょう? この問題もやはり、複数と単数ということが関係しているのではないか、と私は思います。
合理的思考とはもちろん論理に従って考えることなのですが、論理というのは誰もがそのとおりだと思えるような考えの筋道のことです。「犬は犬でないものではない」という矛盾律や「すべての人間は死ぬ、ソクラテスは人間である、ゆえにソクラテスは死ぬ」という三段論法は論理の中でも基本的なものですが、これらはどんな人にも否定できません。つまり、論理は複数の人に通じるものと普通は見なされています。ですから、「論理的に話せ」というのは「誰にでもわかるように話せ」という意味になります。
それに対し、感情は個々人が持つ身体の反応に従って心の内に生じるものと考えられます。身体的に心地いいと楽しいと感じるし、身体的に不愉快だと不快感を覚えます。感情と身体の因果関係を逆に考えている人もいるでしょうけど、この両者の間で完結している点では変わらないでしょう。つまり感情というのは、一人ひとりの内なるものだと考えられていると思います。他人の感情というものは推察するしかなく、わかったと思っても本当にそのとおりとは断言できません。
このように、合理的思考は複数の人に通じるものであるのに対し、感情は一人の人の中で完結するもの、と考えられているところから、両者は対立するものと見なされているのだろうと私は今のところ考えています。しかし、世の中のすべての人がこのように考えているのか――。そう問うてみると、どうもあやしい、というのが最近の状況のように思います。。
というのも、先日の参議員選挙でも問題になったように、最近は日本でも海外でもポピュリズムが席巻しているといわれていますが、現在のポピュリズム的な状況の中では、むしろ合理的思考のほうが個人(特に頭がいい人)の頭の中で完結する個人的なものであって、感情のほうがむしろ、身体をもっているという点では人間はみな同じなのですから、人々の間で共有しうるものと見なされているのではないか、と思われるからです。そういえば、よく考えて発言したことが「あなたの感想」と切り捨てられる一方で、違和感や不快感を表明しただけで他人への批判になっているかのように見なされるという現状があります。これは合理的思考と感情に対する人々の認識が変化したことによるのではないでしょうか――。
ところで20年以上前に、このような新しい(と私には思える)認識を語った本がベストセラーになったことがあります。養老孟司の『バカの壁』です。
養老氏は、人間の言葉による思考が脳内で完結するものであり、そのような言語的な思考に基づいて形成された現代の都市文明を「脳化社会」と呼んでいます。そしてこの「脳化社会」が身体という自然を喪失していると言って現代社会を批判しました。
もちろん養老氏のせいでポピュリズムが日本にも広まったなどと言いたいわけではありません。養老氏は身体=自然の復権というところで『読む』を肯定的に評価していますが、氏は科学者(解剖学者)ですし合理的思考を全否定しているわけではないでしょう。ただ、『バカの壁』と今のポピュリズム的状況には対応関係があるように私には思えるのです。
『バカの壁』については、いずれバカ学本論でじっくり考察したいと思っています。ともかく、ここでようやく話が「バカ」につながりました。私の学問論をひとまずはおしまいといたします。
次回からは、やーっとのことですが、バカ学の本論に戻ることにいたします。
◎参考・引用文献
縄文ZINE編『土偶を読むを読む』 文学通信、2023年
・望月昭秀「検証 土偶を読む」
・山田康弘(聞き手:望月昭秀)「今、土偶研究は?」
・松井実「物語の語り手を信用するな。だが私たちは信用してしまう」
・菅豊「知の「鑑定人」」
竹倉和人『土偶を読む 130年間解かれなかった縄文神話の謎』 晶文社、2021年
J・ゴットシャル、月谷真紀訳『ストーリーが世界を滅ぼす 物語があなたの脳を操作する』 東洋経済新報社、2022年
アントニオ・R・ダマシオ、田中三彦訳『デカルトの誤り 情動、理性、人間の脳』 ちくま学芸文庫、2010年
菅豊・北條勝貴編『パブリック・ヒストリー入門 開かれた歴史学への挑戦』勉誠出版、2019年
菅豊「パブリック・ヒストリーと非専門家」『歴史評論』2024年6月号 一般財団法人歴史科学協議会
スティーブン・J・グールド『ダーウィン以来 進化論への招待』 ハヤカワ文庫、1995年
養老孟司『バカの壁』 新潮新書、2003年
その他、多数の書籍やウェブサイトを参考にしました
