唐古鍵遺跡
私は奈良県在住で主に地図から古代史を読み解いてみようと試みる、ただの素人おじさんです。でも、素人だからこその自由な視点があり、それが歴史の解明につながる部分があるのではないかと思っています。
前回の記事では出雲大社=纒向を検証しましたが、今回は唐古鍵遺跡を考えましょう。
唐古鍵遺跡と洪水
大国主は三輪山に祀られていますが、どのような力があったのでしょうか。
周辺で最も栄えたと思われる場所が田原本町にある弥生遺跡の唐古鍵遺跡です。
唐古鍵遺跡は弥生時代に何度も洪水にあったと言われています。地元民ならよくわかることですが、田原本町は河川の合流地点が近く、標高が低いため洪水が起こりやすい場所です。
洪水対策の祈祷場所として古くから三輪山があったのではないかと思っています。
周辺で最も標高の高いのが龍王山です。龍王山と呼ばれる場所は吉備に多く存在し、雨乞いの場所ともいわれているようです。
前回の検証で纒向遺跡建物群の場所は冬至の日の出が三輪山、夏至の日の出が龍王山方向を指す場所にあることを述べましたが、雨の少ない冬至の時期に洪水対策、雨の多い夏至の時期に干ばつ対策の祈祷を行っていたのではないかと推測できます。
そして、三輪山に大国主が祀られてからは大国主の力が洪水の原因になるとみられたのではないかと考えます。
(洪水をもたらす→雨を呼ぶ→雲が出るでイズモと読むようになったのではないか)
大国主の力が強すぎるが故に視界に入ると洪水になるという風に大和の人々は考えたのではないでしょうか。
さらに、それらの対策を強化すべく太陽信仰のシャーマンが必要となったのではないでしょうか。うってつけの人物が宇佐にいたのでわざわざ呼び寄せたため、前々回の検証のとおり、宇佐神宮を大和に再現し、太陽信仰にまつわる人物であることを示しているのでないでしょうか。


唐古鍵遺跡は重要地点
三輪山の大国主の右前方向に別天津神と思われる5基の纒向型前方後円墳があります。一番古いとされる纒向石塚古墳の中心軸は三輪山に向いていることから、三輪山を強く意識した古墳であると言えます。
私は5基の古墳は、三輪山から見て、その方向にある重要なものを大国主=洪水から守るためにあるのではないかと考えました。それが唐古鍵遺跡で、おそらく首都であったから重要だったのだと思います。

唐古鍵遺跡は冬至の日の出が三輪山から昇ってくる場所に置かれています。
そういう特別な場所だったこと、龍王山の西で大和三山の耳成山の北という目印があることなどの要因があるため、洪水にあっても同じ場所に再建されたのでしょう。
唐古鍵遺跡は観測して見た目に日の出が昇る場所を設定したものに対し、纒向遺跡建物群は計算上地平線に日の出が昇るような地点を設定しているので、高度な技術により祈祷場所を改めたものであると考えます。
前方後円墳の成立
前々回の検証で箸墓古墳=宇佐神宮を検証しました。そうすると、箸墓古墳築造時には宇佐が大和の勢力圏に入っているということになります。
前回の出雲大社=纒向の検証から、纒向型前方後円墳が築造されたときには三輪山に大国主が祀られていることになり、最も古いとされる纒向石塚古墳は2世紀後半と言われている楯築墳丘墓との関連が深く、3世紀前半の築造とされ、3世紀初頭の可能性もあります。
そうすると、3世紀前半には三輪山=大国主であったとなり、そのころには出雲が大和の勢力圏に入っており、国譲りはそれより少し前ということになります。
つまり、大国主の国譲りが行われたのは2世紀後半の魏志倭人伝にある倭国大乱の時期であった可能性が高くなります。
倭国大乱の時期には出雲が大和の勢力圏にあるということは大和・吉備・出雲の連合体が成立していたということになり、その王は文字通り大国主だったということです。
そうすると、2世紀後半に築造された吉備にある楯築墳丘墓の双方中円墳は連合成立のモニュメント的存在なのではないかと考えられます。
中円部分は大和、双方部分は吉備と出雲を表し、そこから大和の円と出雲の四隅突出型の特徴を撥型で表し、特殊器台などの様式に吉備を落とし込む形で纒向型前方後円墳に発展したのではないでしょうか。
纒向型前方後円墳が大和・吉備・出雲の連合体の象徴であって、そこに宇佐の要素としてサイズを取り入れたことで九州を含む大連合の象徴として箸墓古墳が誕生したのではないかと考えます。
こう考えると、連合体に後から九州の宇佐が加わった形が前方後円墳から読み取れます。つまり、大国主の国譲りが実際に行われた可能性があることを示唆しています。譲られた宇佐の王は天照大神であり、共立により卑弥呼が王として迎えられた魏志倭人伝の記述の時期に国譲りが行われていることになるから、天照大神に対して国を譲り、大国主が身を引いたという古事記の記述の整合性が取れます。
このような考えに至ったので、私は出雲大社の大国主神が大和側に閉じ込められているという考えには賛同できません。時にはその強大な力に恐れつつも、丁重にお祀りしていると考えるべきですし、そもそも元となる三輪山が閉じ込められているような環境では無い上、人々の厚い信仰を集める聖地中の聖地です。そんな場所に閉じ込めるという発想自体がおかしいと思います。

三輪から西向きの風景です。閉じ込めているどころか、むしろ国を見渡せますね。
箸墓古墳のサイズはそれまでの古墳に比べ長さ3倍、幅3倍、高さ3倍とすると体積では27倍の規模となるとてつもない大きさです。さらに宇佐の亀山と全く同じ大きさのため、その築造には測量・土木とも高い技術を必要とします。やはり魏の技術が導入されたと考えるのが自然な気がします。
唐古鍵遺跡は邪馬台国か
唐古鍵遺跡が邪馬台国であり、纒向遺跡に卑弥呼がいたと考えると
・唐古鍵遺跡は環濠集落である
・纒向遺跡建物群は唐古から徒歩1.5時間の郊外にあり、そこを祭祀場所として籠っていたのであれば、卑弥呼が人前に姿を見せないという記述に説明がつく
・往復3時間かかるので連絡役(弟)が必要となる
・太陽信仰が必要な理由が洪水対策であることが説明できる
宇佐まで勢力圏であったと考えると
・箸墓古墳の被葬者の出身地とみられる宇佐を女王国とすると、その距離や東に海があるという記述などが魏志倭人伝のとおりとなる
「南」の記述について
・方角の概念が魏と当時の日本で一致していなかった可能性がある(現に距離の記述が突然日数に変わっているので同様のことが方角にも言えるのではないか)
・魏の使者が日本人から聞き取ったときに東西南北を知らない者が「太陽の方向に舟で20日かかる」といった答え方をしたとすれば、中国人や現代人は「南」と捉えるが、当時の日本人は「東」を指していた可能性がある。(纒向遺跡建物群の配置が冬至と夏至の日の出の方向を意識しており、夜の闇の世界と昼の光の世界が入れ替わる瞬間である日の出の方向が太陽の方向という認識だったのではないか)
といったことが言え、纒向を邪馬台国と考えるよりは纒向を含む一帯が邪馬台国であり、ピンポイントで言うのであれば唐古鍵遺跡だと考える方が合理的だと思います。
女王国は宇佐であると推定し、九州の出来事は宇佐が統括する立場で連合体から半独立、あるいは地方分権の上に全国区の祭祀王を掲げる体制だったのではないかと考えていますが、そのあたりは別の記事で書ければと思います。
