[215]【実例③】25年ぶりに漫画を描いた人が、本当に取り戻したもの。
心の揺れを数値化することで、その人が何を失い、何を取り戻しつつあるのかまで見えてきた実例です。
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こぐまパパです。
今日の心の揺れの実例は、前回、前々回に引き続き、とりはらさんです。
とりはらさんは、20代で少女漫画家としてプロデビューし、その後、長く漫画から離れていました。
そのとりはらさんが、25年ぶりに漫画を描き、完成させ、公開されました。
今日は、「読者は理解できないから、それっぽく書けばいい」で失った“面白い”のハンドルを、もう一度握る話です。
とりはらさん実例の最終回です。
▼とりはらさんの記事はこちら
前回の記事では、とりはらさんの「夢中時mck」を見ました。
漫画に向かっているとき、とりはらさんの心は、本人史上、最も心の摩擦の少ない運転に入っていました。

mは下がる。
cは残る。
kは作品へ向かう。
心の摩擦が下がり、集中が深くなり、作品の違和感を拾いながら、形にしていく。
そして、漫画を完成させるところまで進めた。
でも、とりはらさんにとって、夢中で漫画を作れることと、それを外に出せることは、同じではありませんでした。
完成が近づく。
人に見せる。
外に出す。
その直前で、心の揺れ方が変わる。
作品へ向かっていた感度が、自分自身を疑う方向へ向きはじめる。
今回の記事では、そこを見ていきます。
テーマは、
自分の“面白い”のハンドルを、誰が握っているのか
です。
■ 1. 夢中で描けても、外に出せるとは限らない
とりはらさんは、漫画に入ると、心の摩擦が下がる人でした。
夢中時mckは、そのことを示していました。
始動抵抗(m)は下がる。
心を整える力(c)は残る。
違和感を拾う力(k)は、作品へ向かう。
ただ、作品を外に出す段階になると、言葉の温度が変わりました。
完成が近づいたとき。
人に見せる直前。
公開する直前。
とりはらさんの中から、こんな言葉が出てきました。
「これを面白いと思っているのは、自分だけかもしれない」
「客観的に見たら、陳腐なのかもしれない」
この言葉は、作品の出来だけを疑っている言葉ではないと思いました。
とりはらさん自身、才能については、こう話していました。
「才能に関してはさすがにもうないと思っています」
今は、自分の努力、これまでやり続けてきたこと、後から身に付けたスキルで描いている。
そう話していました。
この場面で起きていたのは、「自分に才能がないかもしれない」という不安ではなく、
もっと奥です。
自分が本気で面白いと思ったものを、外に出してもいいのか。
自分の“面白い”を、自分で信じていいのか。
漫画を描いているとき作品へ向かっていた感度が、完成が近づいた瞬間、自分を疑う方向へ反転する。
この作品は面白いのか。
自分だけが面白いと思っているのではないか。
人から見たら陳腐なのではないか。
その問いは、作品への確認に見えて、実際には、自分の感覚そのものへの確認だったのだと思います。
■ 2. 完成が近づくと、感度は自分へ向いた
漫画を描いている最中、とりはらさんのkは作品へ向かっていました。
kは、違和感やズレを拾う力です。
このセリフで伝わるか。
この表情で届くか。
この順番で読者はどう受け取るか。
この見せ方で反転が起きるか。
そういう方向へ感度が向いているとき、とりはらさんの心は作品の中で動いていました。
ところが、完成が近づくと、その感度が自分へ向きます。
これで本当に面白いのか。
面白いと思っているのは自分だけではないか。
人に見せたら、陳腐に見えるのではないか。
作品をよくするための感度が、自分を疑う感度に変わる。
ここで、とりはらさんの運転は濁ります。
これは、漫画を本気で面白いと思って描いているからこそ起きた心の揺れです。
本気で面白いと思ったものを外に出すから、怖い。
自分の感覚を差し出すことになるから、怖い。
とりはらさんが外に出そうとしていたのは、単なる完成原稿ではなかったのです。
「私はこれを面白いと思っている」
その感覚そのものを、外に出そうとしていた。
だから、完成前に心が止まりかけた。
ここで見えてきたのは、自分の“面白い”を、外の世界に置けるかどうか。
そこにある心の揺れでした。
■ 3. 怖かったのは、編集者ではなかった
とりはらさんは、自分の中にある怖さについて、最初は「編集者に否定される怖さ」として言葉にしていました。
そこには、20代の頃の記憶がありました。
大学生の頃、少女漫画家としてプロデビューしたこと。
いきなりプロの舞台に立つことになったこと。
当時は「こういうものが描きたい」という自分の中の軸がなかったこと。
編集者に修正を入れられても抵抗がなかったこと。
言われたことをただ鵜呑みにして、ネームを直しては描いて、直しては描いて、その繰り返しの中で、結局ダメになってしまったこと。
とりはらさんは、こう書いていました。
「最終的には、自分が何が面白くて描いているのかすらわからなくなって、やめてしまったんです」
漫画が嫌いになったのではない。
描く力が消えたのでもない。
才能がなかったと諦めたのでもない。
自分が何を面白いと思っているのかが、わからなくなった。
ここに、とりはらさんの停止点がありました。
その後、とりはらさんはこう返してくれました。
「私が恐れていたのは、編集者という存在そのものではなく、また自分の『面白い』がわからなくなって、描くのがつまらなくなってしまう事だと思いました」
怖かったのは、編集者そのものではない。
否定されることだけでもない。
本当に怖かったのは、また、自分の「面白い」がわからなくなること。
また、描くのがつまらなくなること。
自分が何を面白いと思っているのかわからないまま描くことだったのです。
前には進む。
形にもなる。
それっぽく見える。
でも、どこへ向かっているのかが、自分でわからない。
その状態で描き続けると、作品より先に、自分の中の火が消えていく。
とりはらさんが本当に怖がっていたのは、そこだったのだと思います。
■ 4. 「それっぽく書けばいい」で失ったもの
とりはらさんが、面白さのハンドルを手放してしまった決定的なきっかけとして挙げてくれた言葉があります。
当時の担当編集者から言われた言葉です。
「読者は漫画をそこまで理解できないから、それっぽく書けばいい」
読者は、そこまで理解できない。
だから、それっぽく書けばいい。
読者は、深く受け取らない。
だから、形だけ寄せればいい。
読者は、細かい構造まで見ない。
だから、それらしく見えればいい。
この言葉は、とりはらさんが今感じている面白さと、真逆にありました。
今、とりはらさんが漫画を描いていて面白いと感じているのは、「読者の考え方を先読みしてコントロールする」ところだと言います。
たとえば、1ページ目は「よくある男女の会話だけのシーン」から始まる。
でも、ページが進むと、実は男女が逆転している構成になっている。
「男のセリフだと思ってたでしょ?でも実は女の子が言ってたんだよ」
そういう仕掛けです。
これは、読者を雑に扱う作り方ではありません。
読者が最初にどう受け取るか。
どこで思い込むか。
どこで違和感を持つか。
どこで「あ、そういうことか」と認識が反転するか。
そこまで考えて、読者の頭の中に仕掛けを置いている。
とりはらさんが面白いと感じているのは、読者が理解できない前提でごまかすことではありません。
読者がどう受け取るかを予測して、その認識を設計し、途中でひっくり返すことです。
昔の編集者の言葉は、読者の理解を低く見積もる。
今のとりはらさんの面白さは、読者の理解を信じて、読者の頭の中に仕掛けを置く。
この二つは、真逆です。
だから、あの言葉は、とりはらさんの「面白い」の方向そのものを、逆へ向けてしまったのだと思います。
とりはらさんは、当時のことを振り返って、こう書いていました。
「でも、私はその『それっぽいもの』すら書けませんでした」
この言葉は、自分のエンジンと逆方向へ走ろうとしていた記録に見えます。
読者は理解できない。
だから、それっぽく書く。
この前提に乗った瞬間、とりはらさんの中の面白さのエンジンは噛み合わなくなる。
読者は理解できないから、雑に寄せる。
この運転では、とりはらさんの面白さは立ち上がらない。
読者はこう受け取るはずだ。
だから、ここでこう見せる。
そのあとで、こうひっくり返す。
この運転で、とりはらさんの面白さは動き出す。
だから、「それっぽいものすら書けなかった」とは、自分の面白さのエンジンと逆向きに走ろうとしていた、ということなのだと思います。
そう読むと、見え方が変わります。
とりはらさんは、さらにこう書いていました。
「小手先で描いたものは全然面白くないし、結局人気も出なくて、アンケートも取れませんでした」
そして、
「でも、描いている自分自身が『つまんないな』と思っているのだから、読者に伝わらないのは当たり前ですよね」
自分がつまらないと思っているものを、外側の正解に合わせて描く。
すると、形は整うかもしれない。
でも、描いている本人の中には火がない。
火がないものは、読者にも届かない。
外側の正解に合わせ続けると、間違いは減るかもしれない。
でも、自分の中の「これをやりたい」が消える。
そうすると、形は整っているのに、どこか空っぽになる。
それっぽいのに、届かない。
上手に見えるのに、残らない。
とりはらさんは、その構造を25年越しに見つけたのだと思います。
■ 5. 取り戻していたのは、“面白い”の判定権だった
20代の頃、とりはらさんが失ったのは、漫画を描く力ではなかった。
才能でもなかった。
失ったのは、自分が面白いと思うものを、自分で面白いと信じる力だったのだと思います。
もっと言えば、自分の“面白い”の判定権です。
これは面白い。
これは違う。
ここは残したい。
この関係性を描きたい。
この会話のズレが気になる。
この人物の情けなさが面白い。
この認識の反転を読者に味わってほしい。
そういう内側の基準です。
その基準が育つ前に、外から「それっぽく書けばいい」と言われる。
すると、
編集者がどう見るか。
読者がどう見るか。
アンケートが取れるか。
ジャンルとして正しいか。
それっぽく見えるか。
そこに合わせて直す。
直しては描く。
直しては描く。
そのうち、自分が何を面白くて描いているのかがわからなくなる。
これは、面白さの判定権が、少しずつ外へ移っていく過程です。
そして、判定権が外に出た作品は、自分のものなのに、自分のものではなくなっていく。
だから、つまらなくなる。
だから、続かなくなる。
だから、離れる。
とりはらさんは、漫画から離れたのではなく、自分の面白いを握れない状態から離れたのかもしれません。
とりはらさんは、今漫画を描いていて、こう感じていると話してくれました。
「今描くのはすごく楽しいです。10代の頃に戻ったみたい」
この言葉は、ただ懐かしいという意味ではないと思います。
高校生の頃、とりはらさんは投稿作を描いていた。
まだプロではない。
担当編集者もいない。
市場の正解も、アンケートも、連載の圧も、今ほど近くにはない。
その頃には、「これ、面白いかもしれない」と自分で思い込める感覚があった。
とりはらさん自身も、そういう気持ちで描けていたのは高校生くらいまでだったと振り返っていました。
つまり、「10代の頃に戻ったみたい」とは、若い頃に戻ったという話ではありません。
自分の“面白い”を、自分の手元に置いたまま描けていた場所に戻った。
ということなのだと思います。
20代のプロデビュー後に失ったものは、自分の面白さを自分で信じて描く感覚だったのかもしれません。
そして今、25年ぶりに漫画を描く中で、とりはらさんは、その感覚をもう一度手元に戻している。
海外のシットコムが好きだった自分。
読者の考え方を先読みしてコントロールする面白さ。
男女が逆転して見えてくる構成。
「男のセリフだと思ってたでしょ?でも実は女の子が言ってたんだよ」という仕掛け。
自分の好きな要素や面白さを、やっと今の漫画に反映させることができている。
だから、描いていて本当に面白い。
この「本当に面白い」は、20代の頃に失ったハンドルが、少しずつ手元に戻ってきていることなのだと思います。
■ 6. 評価は地図であって、羅針盤ではない
自分が本気で面白いと思ったものを、そのまま人に見せていいのか。
そこで、20代の頃の記憶が顔を出した。
「読者は漫画をそこまで理解できないから、それっぽく書けばいい」
でも、今回のとりはらさんは、そこで止まりませんでした。
自分の中の過去の記憶と、今の感覚を言葉にしてくれました。
そして、最後にこう書いてくれました。
「外に見せる前に、まずは自分が『この作品のここが面白いんだ』というハンドルをしっかりと握りたいと思います」
昔は、編集者の言葉をただ鵜呑みにしていた。
ネームを直しては描いて、直しては描いて、自分が何を面白くて描いているのかがわからなくなった。
でも今は違う。
外の言葉を全部拒絶するわけではない。
かといって、全部を鵜呑みにするわけでもない。
自分の「面白い」の核を持ったまま、外の反応を材料として使う。
どこを直すか。
どこは譲らないか。
どの反応は取り入れるか。
どの違和感は、自分の核として残すか。
それを、自分の手で選び直す。
これが、ハンドルを握り直すということなのだと思います。
評価も大切です。
読者に届く形にすること。
伝わらない部分を直すこと。
作品の弱さを知ること。
外から見たときのズレを受け取ること。
それは、創作にとって必要なことです。
でも、評価を受け取ることと、ハンドルを渡すことは違う。
外の反応を聞く。
直すところは直す。
届き方も考える。
でも、最後に、この作品のどこを面白いと思っているのか。
どこを残したいのか。
何を描きたいのか。
どうありたいのか。
そこまで外に渡してしまうと、自分の作品なのに、自分の運転ではなくなる。
評価は、地図の一部です。
でも、羅針盤ではない。
地図は、現在地や周囲の状況を教えてくれる。
でも、どちらへ進みたいのかは、自分の中の羅針盤がないと決められない。
■ 7. 外の地図を読みながら、自分の羅針盤を残す
夢中を追っていくと、ただ好きなものが見えるだけではありません。
その人が本当は何を失いたくなかったのか。
どんな自分でありたかったのか。
どのハンドルだけは、他人に渡したくなかったのか。
そこまで見えてきました。
とりはらさんにとって、漫画はその入口でした。
夢中で描く。
完成させる。
外に出す。
心が揺れる。
疑う。
それでも、また作品へ戻る。
その一連の過程の中で、とりはらさんは自分の“面白い”のハンドルを、もう一度、自分の手に戻していたのだと思います。
25年ぶりの漫画公開。
それは、過去の続きを描いた話ではありません。
「読者は漫画をそこまで理解できないから、それっぽく書けばいい」
その言葉で外へ持っていかれた“面白い”のハンドルを、もう一度、自分の手で握り直す話だった。
そして、そのハンドルは今、仕事、編集者、連載会議、原稿料、読者の反応という現実の中へ入っていこうとしています。
ここから先は、夢中だけでは進めない場面も出てくると思います。
外の意見を聞く。
市場を見る。
直す。
譲る。
別案を考える。
そのたびに、心は揺れる。
でも、その現実の中でも、ハンドルを全部渡さない。
評価は地図として読む。
羅針盤は、自分の“面白い”の中に残す。
とりはらさんはその後、「感度0」シリーズが連載会議に通らず、別案で進むことになったと書いていました。
これは、まさに外の地図が入ってきた場面です。
好きなものだけでは仕事にならない。
でも、好きだったものが消えたわけではない。
外の地図を読みながら、自分の羅針盤を手放さない。
25年ぶりに漫画を描いた人が、本当に取り戻したもの。
それは、漫画を描く時間だけではなく、
自分の“面白い”を、自分の手で握る感覚だったのだと思います。
とりはらさんの漫画公開は、
そのことを教えてくれました。
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「なんでこんな質問で、そこまで分かるの?」
問いはシンプル。
でも、測っている場所は深い。
自分の心の構造を知ることは、
自分を責めるためではなく、
自分との付き合い方を取り戻すためのものです。
そしてこの上記mck診断は、まだ入り口にすぎません。
🧭上記診断後、さらに深く、あなたの心の揺れを紐解くために
ここから先は、
「世界に一つだけのオーダーメイド報告書」として、
詳細解析を行っていきます。
機械的な自動生成や、流れ作業ではありません。
お一人おひとりの心の揺れと真剣に向き合い、
人生の羅針盤となる言葉を真っ直ぐにお届けするため、
【毎週先着2名様限定】の受付とさせていただきます。
読む側にもそれなりのエネルギーが必要です。
本気で心の構造を知りたい方だけ受け取ってください。
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