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「婚活エルフ、目指すはポラリス」第一部:様々な人間との接触 第五話:おにぎりと約束

1

 昭和通りの冷たい夕暮れから地下鉄に揺られ、辿り着いた最寄り駅の下町の路地裏。
 使い込まれた縄のれんをくぐると、外の世界の無機質な喧騒が嘘のように遠のいた。『酒処 灯』の店内には、出汁の香りと炭火の温かな匂いが満ちている。

 営業時間が終わり、最後の客だったドワーフが千鳥足で出て行った後、ノエルはカウンターのいつもの定位置、一番奥の席に座り直した。

 ふと見ると、いつもは酒瓶やグラスが整然と並んでいる厨房の棚の片隅に、見慣れないものが置かれていることに気づく。
 それは、小さな木製の弦楽器だった。異世界の王宮で広く使われていた「リュート」のようだ。

「今日もお疲れ様」
 アンナが、湯気の立つ熱いほうじ茶をノエルの前に置きながら、優しく微笑んだ。
 カウンターの中では、半袖Tシャツ姿のルミエールが、明日の仕込みのために大根の皮を剥いている。シュルシュルと規則正しい音を立てて剥がれていく白い皮を見つめながら、ノエルは先ほどの上村三和との面談を思い返していた。

『日本流のお見合いというのは、お互いの妥協と打算の作法なんです』
『年収やステータスは格段に落ちる、家事や労働を折半することになるかもしれない』

 対等であるなら泥を啜る、と三和の前では大見得を切った。
 だが、具体的に「人間と生活を折半する」という泥臭い日常のイメージが、狩人だったノエルにはどうしても浮かばない。

「……ルミエール、アンナ。少し、伺ってもいいかしら」
 ノエルは湯呑を両手で包み込み、その温かさに縋るように問いかけた。
「あなたたちは、どうして……かつての身分も、元の世界に置いてきてしまったはずの過去の記憶にも区切りをつけて、この国で夫婦になることを選べたの?」
 ルミエールの剥く包丁の手が、一瞬だけ止まった。だが、彼はなにも言わず、再び黙々と大根に向き合い始めた。
 代わりに、アンナがノエルの隣の席に静かに腰掛け、遠い目をして語り出した。

2

「私たちが初めて出会ったのはね、大召喚の直後。異世界人たちが一時的に集められた、冷たいコンクリートの収容所だったのよ」
 アンナの言葉に、カウンターの上で煮干しを食べていたオンブルが、ピクリと耳を動かした。
「あそこは酷い場所だったわ。言葉も通じない、理も違う。毎日、日本の役所の人たちが四角いプラスチックの箱に入った冷たい食事を配ってくれたけれど、私たちの口にはまったく合わなかった。多くの同胞たちが心を病んで、衰弱していったわ」

 言って、アンナは棚の上のリュートを見つめた。
「ルミエールはね、王宮の楽士だったの。彼の奏でる旋律は、精霊を踊らせるほど美しかった。でも、その繊細な指先じゃ、お腹は膨らまない」
 アンナは無理に口角を上げながら笑顔を作って話すが、その言葉の調子は硬く、淡々と言葉を紡いでいる。
「……ある日、彼はそのリュートを静かにケースに仕舞うと、収容所の調理場へ向かっていったの」
 ルミエールは相変わらず背中を向けたまま、大根をトントンと一定の調子で切り刻んでいる。

「彼はね、プライドなんて全部かなぐり捨てて、人間の料理人たちに頭を下げたの。『生きるために、この世界の米の炊き方を教えてくれ』って。楽士としての細い指を火傷で水膨れだらけにしながら、必死に大きな鍋を振るっていたわ」
 アンナは少し遠い目になって、なにかを思い出すように話を続ける。
「……そうして、彼が最初に私のところに持ってきてくれたのが、これだったの」

 アンナは、自分の両手で丸を作って、ノエルに見せた。
「形が歪で、ひどく不格好な、握りたての熱々のおにぎり。……それを一口食べたときね、涙が止まらなくなっちゃって」
 彼女の瞳に、優しい光が宿る。
「過去にすがりついて、高貴なエルフのまま飢えて死ぬか。それとも、不格好なおにぎりを泥臭く頬張って、この世界で生きていくか。ルミエールは、そのおにぎりで私に『生きる』ということを、教えてくれたのよ」

 アンナはいつもの笑顔になる。それにノエルも、反射的に微笑みを返していた。
「お互いに、元の世界には将来を約束した人がいた。でも、その過去はもう、どこにもない。本当に必要なのは、いまここで隣にいて、一緒に不格好なおにぎりを分け合える誰かなんだって、そのとき心の底から思えたの」

3

 とん、と小気味いい音がして、ルミエールが包丁を置いた。
 彼は振り返り、太い腕を組んでノエルに視線を向ける。その指先には、かつて王宮楽士だった影など微塵もなく、料理人としての硬い包丁ダコが刻まれている。

「王宮で鳴らす音楽は、確かに美しかった。だが、宙に浮いた音は腹を満たしちゃくれない」
 ルミエールのぶっきらぼうな声が、静かな店内に響いた。
「この国で包丁を握り、泥のついた大根を洗うようになって、俺は初めて自分の足が地面についたんだと感じた。アンナの横で、今日食うための飯を作っているときだけ、俺は自分が漂流物じゃないと思えるんだ」

 ルミエールはどこか照れくさそうに、頭を掻きながら続けた。
「お前が探してる国籍っていう書類が、お前を市民にしてくれるんじゃない。お前が誰かと生きると決めたその日常が、お前をこの世界の住人にするんだよ」
 アンナはルミエールの言葉に深く頷いてから、ノエルの手をそっと包み込む。

「国籍は、あなたを守ってくれる大切な盾。それは間違いないわ。でもね、ノエル」
 彼女の言葉は、いちいち優しい。ノエルの瞳を覗き込みながら、続けた。
「結婚は国と交わす契約じゃない。毎日一緒に御飯を食べて、明日も一緒にいようって笑い合える、目の前の相手との約束なの。あなたが書類の数字ばかりを見て、相手の条件ばかりを狩ろうとしていたら、本当にあなたを探している伴侶を見落としてしまうわ」

 目の前の相手との、約束。
 ノエルの胸の中で、三和の突き放すような言葉と、アンナの温かな言葉が同時に溶け合っていく。

 ――自分が求めていたのは、生存のための利己的な帰化だった。
 相手がどんな人間であれ、国籍さえ手に入ればいい。
 そう考えていたからこそ、宍倉のような男を引き寄せ、日原のような男に支配されそうになったのだ。

 対等に泥を啜るということは、相手の条件を値踏みすることではない。相手の不器用さも、泥臭い生活も、すべてを等身大の自分として受け入れ、ともに歩むということなのだ。

4

「……お喋りはこれぐらいにしておこう。身体が冷えるぞ」
 ルミエールはカウンター越しに、小さな土鍋を差し出した。
 促されるままに蓋を開けると、ふわりと出汁の香りと、異世界の乾燥ハーブの爽やかな香りが立ち上がった。

「日本の味噌と、故郷の銀葉草を合わせたスープだ。こいつを飲むと、少しは腹が据わるだろう」
「……ありがとう、ルミエール」
 ノエルはスプーンを取り、スープを一口、口に運んだ。
 濃厚な味噌のコクの奥に、かつて故郷の森で嗅いだ、懐かしい風の味がする。異なる二つの世界の理が、この小さな土鍋の中で、不思議な調和を保って共存していた。

 オンブルも、貰った銀鱈の皮の歯切れを、満足そうにモグモグと噛み締めている。
 その丸い背中を見つめながら、ノエルは温かいスープをゆっくりと飲み進めた。スープの熱が、三和の面談室で冷え切っていた彼女の輪郭を、内側からじんわりと温めていく。

「美味いか?」
 ルミエールの問いにノエルは顔を上げ、完璧に貼り付けたエルフの微笑ではなく、心からの笑顔を浮かべて、頷いた。
「ええ……最高に、力強い味がしますわ」

 ……国籍を勝ち取るための戦いは、まだ始まったばかりだ。
 三和が言う通り、ここからの道はもっと泥臭く、ロマンスなどない打算と妥協の連続かもしれない。
 けれど、ノエルが求めるべき伴侶の姿は、霧が晴れるように少しずつ、その解像度を上げていた。

 ――私は、私の飼い主を探しているのではない。
 この世界の土に触れながら、いつか一緒に、不格好なおにぎりを美味いと笑い合える、そんな対等な魂を探しているのだ。

 ノエルはスーツの袖を少し捲り、温かなスープを最後の一滴まで飲み干した。


注記
この物語は筆者の想像に基づいたフィクションであり、登場する人物、団体、および物語上の設定はすべて架空のものです。作中に登場する名称などは物語を彩るための舞台装置として用いており、現実の出来事や人物とは関係がありません。


最後までお読みいただきありがとうございました。
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また次の作品でお会いできることを楽しみにしております。

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