「婚活エルフ、目指すはポラリス」第一部:様々な人間との接触 第四話:上村三和
1
上野駅の喧騒を抜け、昭和通り沿いに立つ築四十年の雑居ビルへと入る。湿ったコンクリートの匂いが漂うエレベーターに揺られ、四階で降りると、そこには『世界樹の縁』の曇りガラスの扉があった。
オフィスの中は、いつ訪れても変わらない。
蛍光灯の微かなハミング。何台ものノートパソコンから発せられる熱気と、低く響くタイピング音。
壁一面に並んだスチールキャビネットには、この国に放り出された何百人もの異世界人の人生が、記号と数字に変換されて収められている。
ノエルは紺色のパンツスーツの膝の上に両手を置き、面談室のパイプ椅子に腰掛けていた。
対面に座るアドバイザーの上村三和は、細いスクエア型の眼鏡のブリッジを中指で押し上げながら、手元の液晶画面を見つめている。
几帳面に一つ結びにされた黒髪には一切の乱れがなく、アイロンが隙なく当たったグレーのシャツが、彼女のどこか突き放したような冷徹さを際立たせていた。化粧っ気のない顔立ちに、無駄な感情を削ぎ落としたような薄い唇。控えめに言っても、とっつきやすいという印象は抱けない。
彼女のデスクの上には、先日のお見合いの報告書が置かれている。「日原 裕和」の氏名の横に、赤字で無機質に捺された「破談」の二文字が、白地の上でひどく浮き上がって見える。
「日原さんから、正式にお断りの連絡が来ています」
三和の声には、怒りも失望もなく、ただ事実を伝える言葉だけが吐き出されていた。朝の天気予報を読み上げる気象予報士のような淡々とした口調、という形容が相応しいと思える。
「彼は『身の程知らずな人形だった。あそこまで傲慢だとは思わなかった』と、随分とお怒りでした。当相談所のレーティングにも響く案件だと言えるでしょう」
「……申し訳ありません」
ノエルは小さく頭を下げたが、その声に後悔の色はなかった。
あのまま金の籠に収まっていれば、豪華な邸宅の庭で優雅に紅茶でも飲んでいたかもしれない。
だが、それはノエルという個人の死を意味していた。それだけは譲れないという感情だけが、ノエルの背筋を伸ばしている。
三和はキーボードを一際強く叩くと、画面から目を離してノエルを正面から見据える。その瞳は、恋愛相談を受けるカウンセラーのそれではなく、倒産寸前の企業の財務表を睨みつける税理士のそれだと思えた。
「ノエルさん、私はあなたのプライドを非難するつもりはありません。でも、現実を見ていただきたいのです」
三和は手元の複合機から数枚の書類を出力して、ノエルの前に滑らせる。
「これは、大召喚以降にこの国へやってきたエルフたちの、現在における追跡データです」
渡された紙には、びっしりとグラフが並んでいる。ノエルはそれを一枚ずつ、めくっていた。
「日原さんのような資産家、あるいはそれなりの経済力を持つ日本人男性と婚姻関係を結び、速やかに帰化申請へと漕ぎ着けたケースは全体の約一割。そして――」
三和はペン先で、グラフの急激に落ち込んでいる部分を指す。
「自分のアイデンティティや自立にこだわり、お見合いを断り続けた結果、就労ビザの更新に失敗して不法滞在となり、入国管理施設に収容されたケースが、全体の四割を占めています」
三和はそう言って、法務省の発行した『帰化許可申請のしおり』のコピーを重ねた。そこには、日本の国籍法が定める条件が、冷酷なチェックリストのように並んでいる。
「日本国籍を得るための法的な基本条件は六つ。ひとつ、五年以上の在留。ふたつ、十八歳以上。みっつ、元の国籍を失うこと。よっつ、日本政府を暴力で破壊しないこと。いつつ、税金や年金を遅れなく収め続けること」
三和のペン先が、太字で書かれた項目を強く叩く。
「最大の壁はこれです。『生計条件』。自分、または配偶者の資産や技能によって、独立して安定した生計を営むことができること」
三和の眼鏡の奥の細い瞳が、ノエルを射抜くように見つめる。
「いまのあなたの園芸アルバイトの細い稼ぎじゃ、法務省の審査官に『一人で生きていけない漂流者』とみなされて一発で落とされます。だからあなたには、二人分を養えるだけの安定した配偶者をハントしてもらう必要があるの。日原さんは、あなたのその致命的な生計能力のなさを、資産だけでチャラにできる特級チケットだったのだけど……あなたは破り捨てた。それがどれほど無謀なことか、理解していますか?」
書類の文字が、ノエルの視界の中で冷たく明滅する。
「エルフは約千年と寿命が長い。それは人間側から見れば、『いつまでも若い労働力』か『永遠に衰えないコレクション』のどちらかでしか、ないんです。あなたがいくら一流の狩人だったとしても、魔法も王権も、精霊の加護も通用しない。ただの書類と法律、そして数字が支配する世界なんです」
バッグの中から、オンブルがウゥ、と喉を鳴らす気配が伝わってきた。主人の尊厳を数字だけで切り売りするこの人間に、不信感を抱いているのだろう。だが、ノエルはバッグの口を軽く手で押さえ、オンブルをなだめた。
三和の言葉は残酷だが、紛れもないこの世界の真実だったからだ。
「日原さんは、あなたの条件からすれば、その四割の絶望から一瞬で抜け出せる特級チケットだった。それを、あなたは感情論で破り捨てた。それがどれほど無謀なことか、理解していますか?」
三和の鋭い問いは、刃のようにノエルの胸に突き刺さる。
自由が丘で会ったリナの、あの怯えた瞳が脳裏によぎる。彼女は正しかったのだ。
この数字の濁流に飲み込まれ、跡形もなく消えてしまう恐怖を知っていたからこそ、彼女は「誰でもいいから飼われたい」と言っていたのだ。
「――理解して、おりますわ」
ノエルは静かに、書類をテーブルに置く。
「それでも、私は人形にはなれませんでした。それだけのことです」
2
三和は小さくため息をつき、椅子の背もたれに身体を預けた。
常にさばさばとした態度を崩さないが、その瞳の奥には異世界人たちの生々しい破滅をいくつも見てきた者の、乾いた諦念があった。
「そこまでして、なぜ『日本国籍』にこだわるの?」
三和は肘を突き、組んだ指の上に顎を乗せる。
「そんなに自分の誇りが大事なら、婚活なんかやめて他の国へ密航でもすればいい。あなたがここまで、日本国籍というたった一枚の書類に執着する本当の理由はなに?」
本当の理由。
ノエルは瞳を閉じて、深く息を吸い込んだ。
窓の外からは、上野駅を行き交う電車の金属音が微かに聞こえてくる。この世界の音だ。
あの日、大召喚の光の中で、ノエルは故郷の森のすべてを失った。
将来を誓い合い、ともに次の季節を迎えるはずだった婚約者の手の温もりも、瞬きをする間に永遠の彼方に消え去った。
魔導の理が異なるこの世界では、どんな追跡の魔法も機能しない。
彼はもう、別の時間の中で生きているか、あるいは――。
「私は」
ノエルは瞳を開いて、三和の乾いた瞳を見つめ返した。プラチナブロンドの髪が、蛍光灯の下で白磁のような光を放つ。
「この世界において、自分が『いつ消えても文句の言えない漂流物』のままでいるのが、耐えられないのです」
その言葉は誰に宛てたものでもない。ノエル自身の魂の告白だった。
帰るべき場所は、もう世界のどこにも存在しないのだ。
「国籍がないということは、この社会のシステムにおいて存在していないのと同じ。誰かの善意や、気まぐれな所有欲によってのみ、生存を許される存在です。日原様のような方に金の籠に入れられ、気まぐれに餌を与えられる生き方は、私にとっては漂流しているのと変わりありません」
ノエルの言葉に、三和は表情を崩さない。ただその言葉を聴いて、小さく頷くだけだった。
「私は……誰かのペットとしてではなく、一人の市民として、自分の足でこの世界に存在しているという確証が欲しい。日本国籍は、私がこの大地を踏みしめて生きるための、唯一の刻印なのです」
言葉にして、声に出したことで、ノエル自身の中で霧が晴れていくような感覚があった。
自分が求めているのは、単なる安全な生活ではない。
エルフとしての、そしてノエルという個人としての、尊厳の証明なのだ。
3
面談室に、しばしの沈黙が流れた。
三和は表情を変えず、手に持ったボールペンを指先でくるりと一回転させた。その横顔に、ほんの少しだけ、生真面目な関心が浮かんだように見える。
「……なるほど。ただの現実逃避や、甘ったれたシンデレラストーリーを求めているわけじゃない、と」
三和は手元のキーボードを再び叩き始める。それから、いつもより強めの口調で、次の言葉を続けた。
「誰かに寄生して楽をしたいわけじゃないなら、ここからのアプローチはもっと泥臭いものになりますよ。日本流のお見合いというのは、お互いの妥協と打算の作法なんです。ロマンスなんてものは、最初から期待してはいけない」
画面を見つめたまま、三和は淡々と言葉を続ける。
「あなたのその強すぎる野生と高いプライト。それらをへし折るのではなく、どうにか上手く折り合いをつけられそうな男性のデータを、もう一度洗い直してみます。年収やステータスは格段に落ちる、家事や労働を折半することになるかもしれない。それでもいいですか?」
「ええ。対等であるならば、いくらでも泥を啜りましょう」
ノエルが応えると、三和は画面から目を離さずに、ふっと口元を緩めた。
「……いい返事です。今日の面談はここまでにしましょう。次の紹介まで、目黒の植物たちを可愛がっておいてください」
「ありがとうございます。上村様」
ノエルは立ち上がり、一礼して面談室を後にした。
雑居ビルを出ると、上野の街には夕暮れの冷たい風が吹き抜けていた。家路を急ぐ人間たちの波が、ノエルの身体をかすめていく。
ふと、バッグの中から、オンブルがそっと顔を出した。
「……あの女、気に入らんが、言うことは一理ある。まったく、厄介な場所に落とされたもんだな」
「そうね。でも……少しだけ、戦い方が分かってきた気がする」
ノエルは紺色のスーツの襟を正して、駅の改札へと向かった。
胸の奥にある執着は、いまや迷いではなく確かな武器へと変わっていた。国籍という名の勝利を掴み取るまで、彼女の弓が眠ることはない。
注記
この物語は筆者の想像に基づいたフィクションであり、登場する人物、団体、および物語上の設定はすべて架空のものです。作中に登場する名称などは物語を彩るための舞台装置として用いており、現実の出来事や人物とは関係がありません。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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また次の作品でお会いできることを楽しみにしております。
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