「婚活エルフ、目指すはポラリス」第一部:様々な人間との接触 第三話:CASE 02 日原 裕和の場合
1
上野の雑居ビルにある結婚相談所『世界樹の縁』の面談室。
事務的な白さに包まれたその部屋で、アドバイザーの上村 三和(うえむら みわ)は、一枚のプロフィールシートをノエルの前に滑らせた。
「日原 裕和(ひはら ひろかず)さん、四十八歳。実家は古くから続く資産家で、彼自身も複数の不動産を管理するオーナーです。条件としては、これ以上ないものですよ」
三和の声は、感情を排した機械のような響きだった。ただ淡々と、事実だけを述べていく。
「彼は『エルフ特有の美しさと気品を尊重したい』と仰っています。結婚後は仕事を辞めて、都内にある邸宅で専業主婦として過ごすことを強く望んでおられる。……ノエルさん、これはあなたが求める日本国籍への最短ルートになり得るかもしれません」
ノエルはエントリーシートに貼られた写真を見る。穏やかな、育ちの良さを感じさせる微笑みを浮かべた中年男性。前回の宍倉のような、獲物を値踏みするような、ぎらついた欲望は見えない。
(……専業主婦。外に出なくていい、保護された生活……)
脳裏に、自由が丘で消え入るような声を漏らしたリナの姿が浮かぶ。
『私を飼ってくれる人なら、もう誰でもいいの』
エルフにとって、この島国で個として生きることは、想像を絶する摩耗を強いる。法的な地位も、守ってくれる親族もいないこの地で強固な盾となってくれる夫を得ることは、生存戦略として極めて正しい。
「……お会いしてみますわ」
ノエルは自分の指先を見つめながら答えた。紺色のスーツに身を包み、自立を目指してパートタイムで土を弄る日々。
それは誇り高いが、明日をも知れぬ危うさと隣り合わせだ。
もし、そのすべてを肩代わりしてくれる存在がいるのなら、一度はその誘惑に身を任せてみるのも、悪くはないのかもしれない。
「……ノエル、お前の影が揺れているぞ。迷いは獲物を逃がすこと、忘れたのか」
バッグの中からオンブルの念話が届く。
ノエルはそれをわざと無視して、立ち上がった。
2
お見合いの場所として指定されたのは、日比谷公園を臨む超高級フレンチレストランだった。
案内された個室は、銀座のラウンジのような開かれた場所とは違い、厚い壁と重厚な扉に守られた完全な密室だった。
テーブルの中央には、ノエルが勤める代理店でも扱っているような、手入れの行き届いた希少な蘭が飾られている。
「初めまして、ノエルさん。こうしてお会いできて光栄です」
現れた日原 裕和は、写真の印象通り穏やかな人物だった。仕立ての良いチャコールグレーのスーツを纏い、所作の一つひとつに余裕と教養が滲み出ている。
「エルフの方々が召喚されてから、私はずっと心を痛めていたんです。君たちのような繊細で美しい種族が、この荒々しい現代社会で人間と同じように働かされ、摩耗していく姿を見るのは……実にもったいない」
日原の声は、羽毛のように優しくノエルの耳を撫でた。
「ノエルさん、君のプロフィールを拝見しました。元は高貴な身分で、いまは植物の輸入販売の手伝いをしているとか。……もう、そんなことはしなくていいんですよ。君のその白い指は、土を弄るためのものではない」
運ばれてきた前菜は、芸術品のように美しかった。トリュフの香りが鼻腔をくすぐり、最高級の食材が皿の上で調和を奏でている。
「私の家には、君のために用意した特別な庭があります。外の世界の喧騒から隔離された、静かな空間だ。そこで好きな本を読み、好きな香りを焚き、ただ美しく笑っていてくれればいい」
日原は両肘をテーブルについて身を乗り出すと、眼前で両の手のひらを合わせて、拝むような姿勢になる。
「身の回りの世話はすべて家政婦がやりますし、帰化申請の手続きも顧問弁護士にすべて任せます。君は……なにも考えなくていい」
――なにも考えなくていい。
その言葉は、連日の労働と将来への不安で強張っていたノエルの心を、甘く痺れさせた。
森にいた頃、彼女は一族の未来を背負う狩人だった。
召喚されてからは、異邦人として身を潜め、飢えぬようにあがいてきた。
重い弓を下ろし、誰かの庇護下で「生きた宝石」として余生を過ごす。
それは、リナが、そして多くの同胞たちが夢見た、究極の安息ではないか。
「……素敵なお話ですわ、日原様」
ノエルは微笑んだ。
だが、その微笑みはどこか、自分の感情から乖離していた。
3
食事が進み、メインの肉料理が運ばれてきた。
日原は満足げに頷きながら、ワイングラスを傾けている。
「それからもちろん、そのバッグの中にいる猫についても、安心してください。邸宅の地下に広いケージを用意させましょう。散歩のときは、専門のブリーダーを付き添わせますから」
その瞬間、ノエルの背筋に氷のような冷気が走った。
「……ケージ、ですか?」
「ええ。屋敷内には高価な調度品が多いですからね、放し飼いというわけにはいかない。でも大丈夫、食事も最高級のものを用意させますよ。君の『持ち物』も、私の一部として大切に管理します」
日原の瞳に宿っているのは、慈しみだった。
だが、それは人間に対する敬意ではなく、コレクションを傷つけぬように保管する収集家の情熱としか見えなかった。
オンブルの影が、ノエルの足元で低く唸った。
「……ノエル。こいつは、お前の翼を折ってから、金メッキを塗るつもりだぞ」
「……」
日原は、ノエルの沈黙を喜びと履き違えたのか、さらに饒舌に言葉を続ける。
「婚姻届を出すのと同時に、君にはいまの仕事を辞めてもらう。外に出る必要はないし、人間たちの醜い視線に晒されることもない。君のすべては私が守り、私が管理する。それが私の考える『最高の愛』なんだ。君は僕の用意した金の籠の中で、永遠に変わらぬ美しさを保っていればいい」
ノエルの脳裏に、かつての森の情景が鮮烈に甦る。
雨上がりの湿った土の匂い。
弓の弦を限界まで引き絞ったときに伝わる、張り詰めた緊張。
仕留めた獲物の肉を焚き火で炙って食べたときの、野性味溢れる生命の味。
日原の提示する未来には、それらが一切欠如していた。
彼が求めているのは、孤独の解消ではなく、絶対的な支配だった。
ここにあるのは、完璧に温度管理された無菌室。
自分の意志で風を切り、自分の足で大地を踏みしめる喜びを捨て、ただ所有されるだけの、生きた標本としての余生。
リナは、これを望んだのだろうか?
いや、違う。リナは孤独が怖かったのだ。
「……申し訳ありません、日原様」
ノエルは、一度も手をつけていないメインディッシュの皿を見つめ、静かに、けれど明確に言葉を紡いだ。
「え……?」
「私は、籠の中で歌うために生まれたのではありません」
ノエルは顔を上げ、日原の瞳を真っ直ぐに見据えた。プラチナブロンドの髪が、個室の照明を受けて冷たく輝く。
「私のこの指は、土を弄るためにあります。この耳は、世界の呼吸を聴くためにあります。そして私の隣にいる彼は、持ち物ではなく、対等な魂の伴侶なのです」
日原の表情が、驚きから困惑、そして微かな不快感へと変わっていく。
「ノエルさん、君はなにを言っているんだ? 帰化したいのでしょう? この国で安定して暮らしたいのでしょう? 職を転々とし、狭いアパートで怯えて暮らす生活に戻りたいとでも?」
「たとえ泥を啜り、雨に打たれようとも……自分の足で歩いている限り、私は私でいられます。……あなたという籠に入れられた瞬間、ノエルという個人は死に、ただの人形に成り下がる。それは、私が最も恐れていた死です」
言ってノエルは席を立ち、紺色のスーツの襟を正した。
「国籍は、いつか必ず手に入れます。ですが、それは自分の魂を売った代価としてではなく、私がこの国で一人の自立した市民として認められた証として、手に入れたいのです」
「……君は、後悔することになるよ」
日原の冷ややかな声を背に、ノエルは一度も振り返ることなく重厚な扉を開けた。
4
レストランを出ると、夜の日比谷公園には冷たい風が吹き抜けている。
ノエルは深く呼吸をした。
高級フレンチの重苦しい香りではなく、少しだけ排気ガスの混じった、けれど自由な都会の空気が肺を満たす。
ひょこり、とバッグの中からオンブルが頭を出した。その金色の瞳は、どこか誇らしげに細められている。
「……あの肉料理、一口ぐらい食っておけば良かったのに」
「ふふ、そうね。あなたの分までお肉が用意されていたのに、残念だったわ」
ノエルは苦笑しながら、地下鉄の駅へと歩き出す。
空腹が、彼女の生命力を力強く主張している。
いまの彼女が求めているのは、豪華な個室での甘美な毒ではなく、下町の路地裏に漂う出汁の匂いだった。
辿り着いた『酒処 灯』の縄のれんをくぐると、いつものようにルミエールとアンナの温かな空気が出迎えてくれた。
「あら、ノエル、いらっしゃい。……お腹、空いてる?」
アンナの問いに、ノエルは大きく頷いた。
「ええ、最高に。……なんでもいいから、私が私であることを思い出させるような、力強い料理が食べたいわ」
「心得た。少し待ってくれ、とびきりのを出す」
ルミエールが包丁を叩く、小気味よい音が響く。
カウンターの隅でオンブルと並び、煮込みの湯気を見つめながら、ノエルは思った。
……帰化への道は、想像以上に険しい。
美貌も、種族の希少性も、ここではときとして呪いになる。
けれど、自分の弓を捨てる気はさらさらない。
ノエルは、アンナが出してくれた熱いお茶を両手で包んだ。
その温かさは、金の籠の中では決して得られない、確かな生の手触りだった。
注記
この物語は筆者の想像に基づいたフィクションであり、登場する人物、団体、および物語上の設定はすべて架空のものです。作中に登場する名称などは物語を彩るための舞台装置として用いており、現実の出来事や人物とは関係がありません。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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また次の作品でお会いできることを楽しみにしております。
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