「婚活エルフ、目指すはポラリス」第一部:様々な人間との接触 第六話:CASE 03 滝川 敏之の場合
1
三和から渡された次のお見合いの釣書には、「滝川 敏行(たきがわ としゆき)、三十七歳」とあった。
都内のIT企業に勤めるシステムエンジニアで、収入は平均よりやや高く、身元も確か。
「物静かで、異世界人への偏見もありません。データ上では非常に優良な物件です」
三和は、いつものさばさばとした口調で、太鼓判を押していた。
指定された場所は、秋葉原の電気街から少し外れた路地裏にある、本に囲まれた和モダンなブックカフェだった。薄暗い店内には静かにジャズが流れ、壁一面の本棚には古い文芸書や専門書が並んでいる。
銀座の喧騒や日比谷の密室とは異なる、どこか内省的な空間だった。
案内された壁際の席には、すでに滝川が座って待っていた。
無地のネイビーのシャツにチノパンという清潔感のある装いで、少し背を丸めて文庫本を読んでいる。ノエルが紺色のパンツスーツで足音を響かせて近づくと、彼は弾かれたように顔を上げた。
「あ……初めまして。滝川、です」
滝川は眼鏡の奥の瞳を大きく見開き、息を呑んだ。
まるで、歴史的な聖画や、触れてはならない国宝でも目の当たりにしたかのような、畏怖の混じった眼差しだった。
「初めまして、ノエルと申します。お待たせしてしまいましたでしょうか?」
「いえ! 全然、僕もいま着いたばかりですから。どうぞ、お座りください」
滝川は椅子から立ち上がり、まるで壊れ物でも扱うような丁寧さでノエルを席へと促した。
その所作には、宍倉のような下卑た好奇心も、日原のような絶対的な支配欲も感じられない。ノエルは少しだけ安堵してから、静かに腰を下ろした。
ルミエールとアンナの話を聞いた後だったからこそ、今回のノエルには「相手を条件だけで狩るまい」という小さな覚悟があった。
目の前の男が、ともに不格好なおにぎりを分け合えるような、対等な人間であるかどうか。
それを、一流の狩人としての目で、偏見なく見極めようとしていた。
2
ノエルはメニューを開き、温かいアッサムティーと、フードメニューの欄にあった「厚切りカツサンド」を注文した。お見合いの席には不釣り合いかもしれないが、植物代理店の立ち仕事の後で、ひどく腹が減っていたのだ。
滝川は少し驚いたような顔をしながら、自分はアイスコーヒーだけを頼んだ。
「その……ノエルさん、本当にお美しいですね。まるで、古い叙事詩からそのまま抜け出してきたようだ」
滝川は両手を膝の上できっちりと揃え、熱烈だがどこか遠い視線をノエルに向けていた。
「大召喚のニュースを見たときから、僕は胸を痛めていたんです。君たちのような、精神的に高度で、清らかな森の精霊と語らう気高き種族が、こんなコンクリートと排気ガスで汚れた大都市で、人間と同じように泥臭く働かされているなんて。……それは、あってはならないことだ」
滝川の言葉は優しく、同情的だった。
だが、ノエルの耳の先端が、微かな違和感でピクリと震える。
「もし僕と結婚していただけるなら、ノエルさんにはなにもしなくていい環境を約束します。お仕事も辞めていただいて構いません。あなたがこの醜い現代社会のシステムに汚される必要は一切ない。僕は、あなたという『聖域』を、外の世界の俗悪さから守る盾になりたいんです」
なにもしなくていい。
そのフレーズは、日原の言った金の籠の提案に酷く似ていた。だが、滝川のニュアンスはそれとは決定的に異なっている。
日原はノエルを自分のコレクションに加えたがっていたが、滝川はまるで、手の届かない天上の神仏のように拝んでいるのだ。
――この男も、私を見ていない。
ノエルの冷徹な感情が気づく。
滝川が熱い視線を注いでいるのは、目の前に座っている紺色のスーツを着た生身の存在ではない。
彼が信奉する、古いファンタジー小説や神話に登場する「完璧で汚れないエルフの聖女像」なのだ。
3
「お待たせいたしました。厚切りカツサンドでございます」
ウェイトレスが席に来ると、香ばしいソースの香りを漂わせたカツサンドがテーブルに置かれた。こんがりと焼かれた食パンの間に、肉厚な豚カツが挟まれ、千切りキャベツが溢れんばかりに詰まっている。
「いただきます」
ノエルは躊躇なく、指先でカツサンドを一つ、掴み上げた。
その瞬間、滝川の身体がびくりと強張った。眼鏡の奥の瞳が、ノエルの白い指先に向けられる。
それにノエルは構わず、大きく口を開けてカツサンドに噛みついた。
サクッ、という小気味よい音とともに、ジューシーな豚肉の脂と、濃厚なソースの味が口いっぱいに広がる。狩人として、獲物の生命をエネルギーに変えるための、淀みのない、たくましい咀嚼。
「あ、あの……」
滝川の声が、震えていた。
ノエルが視線を向けると、彼の顔からは完全に血の気が引き、絶望に満ちた目でノエルの口元を見つめている。
「ノエルさん……君は、それを、食べるのですか……?」
「ええ。とても美味しいですわ。滝川様もいかがですか?」
「……そんな、嘘、だ……」
滝川は椅子をガタつかせ、信じられないものを見るかのように頭を振る。
「エルフは、高貴な森の民は……動物の死骸をそんな風に、無遠慮に貪るようなことはしないはずだ。朝露を飲み、木の実を少しだけ齧り、精霊の歌を聴いて生きる清らかな存在のはずなのに……そんな、人間と同じように肉の脂に触れるなんて……」
滝川の言葉は、拒絶と幻滅に満ちていた。
彼にとって、ノエルが「腹を空かせ、肉を噛み切り、生命を維持するただの生き物」であるという現実は、耐え難いグロテスクなものとして映ったのだろう。
ノエルはカツサンドを静かに皿に戻し、紙ナプキンで口元を丁寧に拭った。
プラチナブロンドの髪の奥で、尖った耳が冷ややかに静止する。
「滝川様」
ノエルの声から作り物の気品が消え、狩人としての低い響きが戻る。
「大きな勘違いをされているようですわ。私は元の世界では、一流の狩人でした。生きるために自ら気配を消し、泥に塗れ、狙いを定めた獲物の喉笛を正確に射抜いてきた。その手で獲物の腹を裂き、血で汚れた肉を焚き火で炙って、貪り食らって生き抜いてきたのです」
静かで流れるようなノエルの声に、滝川は呆けた顔で身を委ねていた。
「あなたの憧れるエルフとは、私ではありません。私は、生きて、腹を空かせる、ただ一人のエルフですわ」
「ひ、ひいっ……!」
ノエルから静かに放たれた、本物の捕食者としての鋭い眼光に射すくめられ、滝川は短く悲鳴を上げた。
彼が信奉していたガラスの聖女像は、ノエルの言葉によって音を立てて粉々に砕け散ってしまった。
「……すみません……僕、用事を、思い出しました……!」
滝川は財布から千円札を数枚、テーブルに叩きつけるように置くと、鞄をひったくるようにして立ち上がる。そして一度も振り返ることなく、逃げるようにブックカフェの出口へと走っていった。
4
静寂が戻った壁際の席。
バッグの中から、オンブルが限界まで呆れ返ったようなため息とともに、念話を送ってきた。
「……やれやれ。あやつ、お前が泥に塗れて生きる泥臭い生き物だということも、想像がつかんのだろうな。人間に好かれるというのも、ひどく面倒なものだ」
「そうね。でも、これで分かったわ」
ノエルは残されたカツサンドを再び手に取り、今度はゆっくりと味わうように咀嚼した。
肉の確かな歯ごたえと脂の旨味が、彼女の身体に「生きている」という生々しい感覚を刻み込んでいく。
ルミエールが言った『宙に浮いた音は腹を満たさない』という言葉の本当の意味が、いまならよく分かる。滝川の抱く崇拝は、あのリュートの音楽と同じだった。美しく心地よいが、そこには生活という名の血の通った土台が存在しない。
――私は、誰かの脳内を飾るための偶像になりたいわけではない。
私のこの肉体と、この野生と、この食欲を、同じ地平で受け止めてくれる人間でなければ、ともに不格好なおにぎりを分け合うことなど、できないのだ。
ノエルはカツサンドを綺麗に平らげ、温かいアッサムティーで喉を潤す。
また一つ、手痛い破談のデータが増えてしまった。上村三和のあの薄い唇が、呆れたように歪む様が目に浮かぶ。
けれど、ノエルの足取りは不思議と軽かった。
彼女は紺色のスーツのボタンを一つ外して、自分の意志で、自らの足で、秋葉原の夕闇の中へと歩き出した。
注記
この物語は筆者の想像に基づいたフィクションであり、登場する人物、団体、および物語上の設定はすべて架空のものです。作中に登場する名称などは物語を彩るための舞台装置として用いており、現実の出来事や人物とは関係がありません。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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また次の作品でお会いできることを楽しみにしております。
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