「婚活エルフ、目指すはポラリス」第一部:様々な人間との接触 第七話:目黒の観葉植物
1
目黒区、青葉台へと続く穏やかな坂道の途中に、その店はあった。
コンクリート打ちっぱなしのモダンな外観に、一枚板の大きなガラス窓。看板には控えめに『グリーン・アルカディア』とだけ刻まれている。
都内の資産家やインテリアに妥協を許さないクリエイターたちを顧客に持つ、高級観葉植物の輸入販売代理店。
それが、ノエルの現在の戦場だった。
午前九時。
ノエルはいつもより早く店に到着して、バックヤードの更衣室で戦装束であるパンツスーツを丁寧にハンガーに掛けた。
代わりに身に纏うのは、洗いざらしのカーキ色のワークシャツと、頑丈なキャンバス地のエプロン。プラチナブロンドの髪を一本のゴムで実用的にまとめ、尖った耳を堂々と晒す。ここでは、その耳こそが信頼の証だった。
「ノエルさん、おはよう。今日も早いね」
温室の入り口で声をかけてきたのは、オーナー店長の木島(きじま)だった。五十代半ばの男性で、日に焼けた肌に白髪交じりの短髪、いつも泥のついたチノパンを履いている。
気難しい職人気質の男だが、エルフを珍獣として扱う他の人間たちとは違い、ノエルのその並外れた植物への技術に対して、一人の職人としての経緯を払ってくれる貴重な人物だった。
「おはようございます、木島店長。南米産のプラティセリウムの状態が気になりましたので」
「ああ、それなら奥の養生室だ。頼むよ、君が来てからうちの歩留まりは、劇的に良くなった。本当に助かっている」
木島は短く笑うと、すぐに自分の作業へと戻っていった。
ノエルはガラス張りの温室へと足を踏み入れる。天井のミストノズルから微細な霧が噴き出し、都会の乾燥した空気を一瞬で遮断する。湿った土と、植物たちが吐き出す濃厚な酸素の匂い。
異世界の深く広大な森に比べれば、ここはガラスで囲まれたあまりにも小さな箱庭に過ぎない。
しかし、記号と数字、そして欲望が交錯するお見合いの席に比べれば、この緑の空間はどれほど、ノエルの心を安らげてくれているか分からなかった。土に触れ、葉の声を聴いている時間だけは、自分が何者でもない漂流者であることを忘れて、ただの狩人に戻れる気がした。
「……ふん。人間の作った偽物の森だが、湿度だけは悪くないな」
温室の遮光ネットの影から、オンブルの念話が届く。
小さな黒い身体を、器用に観葉植物の棚の隙間に滑り込ませ、金色の瞳で主人の作業を監視しているつもりらしい。ノエルはクスリと笑いながら、霧吹きを手に取った。
2
異変が起きたのは、正午を過ぎた頃だった。
店の正面には、配送業者の大型トラックが横付けされていた。
「ノエルさん、ちょっと手を貸してくれ! マダガスカル便の特級品が届いたんだが、様子がおかしい!」
木島店長が血相を変えて飛び出してくる。なにが起こったのか分からないノエルが少し瞳を開いて、トラックから運び込まれている植物に視線を向ける。
運び込まれたのは、大人の胴体ほどもある巨大な塊根植物――『パキポディウム・グラキリス』の古木だった。
推定樹齢は百年を超えるという、市場に出れば数百万の値がつく超高級品。人間のコレクターたちが狂喜乱舞する、今シーズンの目玉商品のはずだった。
しかし、木箱から現れたその姿は、惨憺たるものだった。
本来なら水分を蓄えてパンパンに硬いはずの丸い主幹が、まるで腐った果実のように不自然に弛み、表面の肌は艶を失って灰色に濁っている。
枝先に僅かに残った葉は、触れるまでもなく黄色く枯れ落ちていった。
「嘘だろ……現地からの空輸は完璧だったはずだ。温度管理も、湿度の調節も、データ上はすべて適正数値を維持していたのに!」
若い人間のスタッフたちが、タブレットの画面を見つめながら青ざめている。
木島は慌てて植物活力剤のボトルを手にとって、駆け寄りながら叫んだ。
「希釈倍率を上げて根本に投入するんだ! 温室の温度を一度上げて、サーキュレーターを回せ! 根を冷やすな!」
「お待ちください、店長」
木島の号令でスタッフたちが動き出そうとした瞬間、ノエルの静かな、けれど有無を言わせぬ強い意志がこもった声が温室に響いた。
「ノエルさん? 一刻を争うんだ。この株を枯らしたら、うちの今月の利益が確実に吹き飛ぶ。それに、信頼にも関わる」
「いま活力剤を入れれば、確実に破裂して死にます」
ノエルはエプロンのポケットからハサミを取り出し、パキポディウムの前に跪いた。彼女の鋭い瞳が、主幹の底部をじっと見つめる。
スタッフたちはタブレットに映し出される数値ばかりを見ていた。だがノエルが見ているのは、その植物が発している目に見えない「悲鳴」だった。
彼女はそっと、白い指先でパキポディウムの肌に触れる。
エルフの皮膚を通して、植物の内部を流れる微かな導管の振動が伝わってくる。それは、過剰な水分と通気性の悪い土のせいで、根が窒息しかけている溺死者の心音だった。
「……データが適正だったのは、この国に入ってからの話です。この子は、マダガスカルを出る前の段階で、すでに長雨による過加湿に晒されていたはずです」
ノエルが凛とした声で淡々と続けると、木島とスタッフたちはただその声に吸い込まれるように、静かに立ち尽くしていた。
「そこに追い打ちをかけるように、長時間のフライトによる低温。スタッフたちが良かれと思って施した輸送直前の水やりが、冷たい密室の中で根を腐らせたのです。いま必要なのは、栄養ではなく外科手術ですわ」
3
木島は、ノエルの言葉に圧倒されていた。
科学的な根拠はない。
しかし、ノエルの指先と一切の迷いのない眼差しが、彼女の言葉に絶対的な確かさを与えていて、拒むことができない空気が場を包んでいる。
「……ノエルさん、君を信じる。どうすればいい?」
「木島店長以外のスタッフは、温室から出てください。私の邪魔をしないで」
ノエルはエプロンの紐をきつく結び直した。
スタッフたちが戸惑いながら退室していく。
静まり返った温室の中で、ノエルはパキポディウムを木箱から引き抜き、根を覆っていた高価な培養土を容赦なく掻き出した。
案の定、露出した根の大部分は黒く変色し、嫌な臭いを放ちながらドロドロに溶けかけていた。
「オンブル、『影』を」
「御意」
棚の隙間からオンブルの影が不自然に伸びて、ノエルの手元を覆った。
影の世界に引き込むことで、植物の細胞の活動を一時的に鈍らせて、手術のショックを和らげる。
異世界の森の民だけが知る、植物との対話の作法。
ノエルはハサミを火で炙って消毒すると、躊躇なく黒ずんだ根を切り落とし始めた。
木島店長が後ろで息を呑むのが分かった。
しかし、ノエルの指先に迷いはなかった。
腐った部分を僅かでも残せば、そこから病魔は全身に回る。それは、狩猟における傷口の処理とまったく同じ理屈だった。
サクッ、サクッ、と、かつて仕留めた獲物の皮を剥いだときのような、冷徹で正確な手応え。人間の感覚からすれば、高価な植物の根をここまで切り詰めるのは恐怖でしかないだろう。
「……ふう、ここまでね。……木島店長、川砂と粗めの桐生砂、それから木炭の粉末を用意してください。軽石を底に敷き詰めます」
「なんだと? 培養土は使わないのか? 栄養が……」
「この子はいま、重傷を負って胃腸が完全に止まっている状態です。栄養のある土は、かえって毒になりかねません。ただひたすらに、水が通り抜け、風が抜けるだけの、最も過酷で清潔な環境を作らなければなりません」
ノエルは自ら泥に塗れ、砂と炭を混ぜ合わせ始める。白い腕が、黒い木炭の粉と赤土で汚れていった。
完璧な気品を纏うエルフの聖女を求めた滝川が見れば、悲鳴を上げて逃げ出すような、泥臭い労働の姿。
だが、ノエルの心は、お見合いをしているときのどの瞬間よりも、激しく生動しているのだった。
新しい鉢に、極限まで水はけを高めた砂を入れ、根を優しく、けれどしっかりと固定する。
仕上げに、ノエルは自分の口元をパキポディウムの幹に近づけ、ふっと静かに息を吹きかけた。
これは精霊の呪文ではない。
ただ、自分の肺にあるこの世界の酸素を、生命の循環の始まりとして分け与えるための、狩人の儀式だった。
「……これで、やるべきことは、すべてやりましたわ」
その言葉を聞いて、木島は呆気にとられたままで何度か頷いた。
ノエルは立ち上がり、泥のついた手を腰のタオルで拭う。
温室の時計は、すでに午後五時を回っていた。
4
翌朝。
ノエルは昨日のパキポディウムの様子を早く確認したいと思いながら、ワークシャツ姿で温室へ入ると、そこにはすでに木島が佇んでいた。
パキポディウムの前で、彼は呆然と立ち尽くしている。
「木島店長……?」
ノエルが近づくと、彼はゆっくりと振り返る。その目には、明らかな驚嘆の光が宿っていた。
「……ノエルさん……見てくれ、これを」
指し示された主幹の表面は、昨日までの弛んだ灰色が嘘のように消え、内側から自前の水分でパンと張り詰めた本来の渋い銀褐色を取り戻していた。
切り詰めた枝の先端、硬い表皮を破るようにして、米粒ほどの、鮮やかな鮮緑色の新芽が、力強く頭を覗かせていた。
「信じられん……。あの状態から、一晩で新芽を出すなんて。植物生理学の常識じゃ、あり得ない」
木島は、何度も眼鏡を外しては目を擦り、最後にノエルを見て、深く頭を下げる。
「理屈はさっぱりわからん。だが、君の腕は本物だ。この株を救ってくれたお陰で店は救われた。いや、それ以上に、本物のプロの仕事を見せてもらった。ありがとう、ノエルさん」
彼はいまにも泣きそうな潤んだ瞳で、ノエルを見つめながら続ける。
「来月から時給を二割上げさせて欲しい。君のような職人を、ただのお手伝いとして扱っておくわけには、いかない」
ノエルは胸の奥が、かつてないほどに熱くなるのを感じている。
お見合いの席で、年収や資産という他人の数字を値踏みし、あるいはエルフという希少性だけで取り引きをしようとしていた日々。そこには常に、漂流物としての虚しさが付きまとっていた。
だが、いまこの手に掴んだものは違う。
ノエルという一人の個人の腕と誇りによって、この世界の人間から真っ当にもぎ取った対価であり、承認の証だった。
「……ありがとうございます、木島店長。これからも、この子たちの声をしっかり聴かせていただきますわ」
言うノエルは、心からの笑顔だった。
温室の影から、オンブルがひょっこりと顔を出す。その金色の瞳が、誇らしげにきらりと光った。
「書類がなくても、お前の指先はこの土地の緑を動かした。お前はただの漂流物なんかじゃない、立派なこの街の狩人だ」
「……ありがとう。そうね、オンブル」
夕方、仕事を終えたノエルは、再び紺色のスーツに身を包み、目黒の街を歩き出した。
……時給が上がったのは嬉しいが、日本国籍が手に入るわけではない。帰化への道は、依然として遠く、霧に包まれている。
けれど、彼女の足は、昨日よりもずっと深く、この世界の石畳を踏みしめていた。
自分の腕一本で生きていけるという確信が、紺色のスーツの襟を、これまでになく誇らしげに押し上げていた。
注記
この物語は筆者の想像に基づいたフィクションであり、登場する人物、団体、および物語上の設定はすべて架空のものです。作中に登場する名称などは物語を彩るための舞台装置として用いており、現実の出来事や人物とは関係がありません。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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また次の作品でお会いできることを楽しみにしております。
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