「婚活エルフ、目指すはポラリス」第一部:様々な人間との接触 第八話:CASE 04 佐藤 健太の場合
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三ノ輪の駅から徒歩十分、路地裏の木造アパートへと続く道には、いつもどこか湿った生活の匂いが漂っている。築四十年のそのアパートの四畳半の一室が、ノエルとオンブルの現在の住まいだった。
保証人が不要とはいえ、いまだにエルフの居住環境は良いとは言えない。エルフ可の物件を探すと、どうしてもこういった古い建物しか選択肢がないのだった。
室内には万年床と小さなローテーブル、そしてグリーン・アルカディアから引き取った、売り物にならない小さな観葉植物だけが置かれた殺風景な部屋だった。
夜になると、窓の外を走る都電荒川線のガタゴトという微かな振動が、床を通じて伝わってくる。
そこから日比谷線に乗り、上野や目黒へと向かう。
紺色のパンツスーツに身を包むとき、ノエルは自分が三ノ輪のアパートに住む貧しい異邦人であることを忘れ、一人の「狩人」として街へ出る。
時給が二割上がったことで毎日の食費には少しだけ余裕ができたが、日本国籍という名の獲物を仕留めるための戦いは、まだ一歩も進んでいなかった。
「あなたの強すぎる野生と折り合いがつきそうな、非常に無難で善良なデータです」
上村三和がいつものようにさばさばと言うのを見ながら、ノエルは手元の釣書に目を通した。
佐藤 健太(さとう けんた)、三十二歳。都内の中堅食品メーカーの総務部に勤務するサラリーマンで、年収は平均的だが、とにかく温厚で、相談所でのトラブルが過去に一度もないという。
「もちろん――お受けしますわ」
それから数日後の週末、指定されたお見合いの場所は、上野駅に直結した商業ビルの五階。どこにでもある賑やかなファミリーレストランだった。
これまでの高級ラウンジや個室フレンチとは違い、店内には子どもの泣き声や、ドリンクバーの機械が立てる電子音、お喋りに興じる学生たちの声が混沌と響き渡っている。圧倒的なまでの、人間の日常の生々しさが飛び交っていた。
「あ、ノエルさんですか? 初めまして、佐藤です!」
案内された四人掛けのボックス席で待っていた佐藤は、ノエルの姿を見るなり、その美貌に気後れする様子もなく、人懐っこい笑顔で立ち上がった。
少し仕立ての緩い量販店のビジネススーツを纏い、髪型も流行を追わない無難な短髪。
これまでの男たちのような、ぎらついた欲望も絶対的な支配欲も、彼の瞳からは一切感じられなかった。
「初めまして、ノエルと申しますわ。お待たせしてしまいましたでしょうか」
「いえいえ、僕もいま着いたところです! うわあ、スタイルいいですね、スーツが似合ってる。どうぞ、座ってください」
佐藤は屈託のない調子でノエルを席へと促すと、自ら手元のタッチパネルを操作し始めた。
「ここ、ドリンクバーの種類が豊富でいいんですよ。ノエルさん、なにが飲みたいですか? 僕、取ってきますよ」
「……あ、では、温かい緑茶をお願いできますか」
「了解です! ちょっと待っていてくださいね」
佐藤は軽快な足取りで席を立った。ノエルは少しだけ、肩の力が抜けるのを感じていた。
ここにあるのは、これまでのどのお見合いよりも普通で、害のない空気だと、そう思えた。
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「はい、緑茶です。僕はメロンソーダにしちゃいました」
戻ってきた佐藤は、緑色の炭酸が弾けるグラスを置いて、ニコニコと笑った。
「ノエルさん、目黒の観葉植物のお店で働いているんですよね。花屋みたいな感じですか? オシャレだなあ。毎日立ち仕事で大変でしょう」
「ええ、少し体力は使いますが……でも、植物に触れている時間は、心地よいものですわ」
「いいなあ。僕なんか毎日オフィスでパソコンの画面睨みつけて、書類の整理ばかりですからね。あ、エルフの方って耳が尖ってるんですよね。綺麗だなあ。あ、ジロジロ見たら失礼ですよね、すみません!」
佐藤の質問には、他意がなかった。
珍しい種類の飼い犬を近所で見かけて、飼い主に「それ、なんて種類なんですか?」と気軽に訪ねるような、純粋で、悪意のない好奇心。
ノエルは「いえ、大丈夫ですわ」と、自然な微笑みで返すことができた。
彼は、本当に気の利く、優しい男だった。
スプーンやフォークをノエルの前に並べる手際、会話が途切れないように世間話を振ってくれる配慮。どれをとっても、絵に描いたようないい人だった。
だが、会話が少しずつ進むにつれ、ノエルの胸の中に得体の知れない奇妙な違和感が澱のように溜まり始めた。
歯車が、噛み合わないのだ。
「佐藤様は、休日はどのように過ごされているのですか?」
「僕はね、大体家でテレビを見てるか、週末は競馬ですね。テレビのバラエティ番組が大好きで、お笑い芸人とか、ノエルさん知ってます? 面白いんですよ、なにも考えずに笑えて」
佐藤は嬉しそうに、最近のテレビのトレンドについて語り続けた。しかしあいにくノエルの家にはテレビがなく、今後購入する予定もない。
ノエルは相槌を打ちながら、会話の糸口を探ろうと、自分の元の世界の話を少しだけ混ぜてみた。
「私の故郷の森でも、季節の変わり目には一族が集まって、歌や踊りの祭りがありましたわ。私たちの娯楽は、常に隣り合わせにある『自然の厳しさ』や『狩猟の成果』への感謝と結びついておりましたもの。生命をいただく、という感覚が、常に生活の根底にありました」
「へえ、狩りですか。すごいなあ」
佐藤は感心したように頷いたが、すぐに少し身を引いて、困ったような笑顔を浮かべた。
「でも、僕そういう血を見るような怖いのは苦手で。ホラー映画とか全然見れないんですよ。あ、そういえば昨日のニュース見ました? 世田谷区の方で珍しい鳥が見つかったらしくて――」
佐藤は、ノエルの言葉の奥にある野生や生命のやり取りという本質的な部分を、無意識のうちに拒絶している。
自分が理解できる、安全で無難な現代日本の日常へと、器用に引き戻してしまった。
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佐藤の世界は、半径数メートルに流れるテレビのニュースと、会社の人間関係、そして週末のささやかなギャンブルだけで、完璧に、そして非常に幸福に完結していた。
そこには、ノエルが抱える「故郷をすべて失った異邦人の孤独」も、「この街で自分の足で立つための闘争」も、入り込む余地は一ミリもなかった。
彼にとってエルフとは、「ちょっと耳の尖った、スタイルのいいオシャレな外国人の女の子」程度の認識でしかなかったのだ。
注文したハンバーグが運ばれてきて、佐藤はそれを美味しそうに頬張りながら、また別のテレビ番組の話題を楽しそうに続けている。
――悪人ではない。
本当に、いい人なのに。
ノエルはナイフとフォークを握ったまま、じわじわと胸を締め付けるような息苦しさに襲われていた。
これまでの男性たちのように、怒りを覚えるポイントがなに一つない。
なのに、どうしてこれほどまでに絶望的な退屈を感じてしまうのだろう。
彼と結婚すれば、三ノ輪の狭いアパートを出て、普通の「日本人の妻」としての穏やかで安全な生活と、目的である日本国籍が、入手できるかもしれない。
ただ、彼とともに生きるということは、毎日、流れるテレビの音を聞きながら、思考を止め、ただ無難に時間を消費していくということだ。
それは、ノエルにとっては、魂の野生を少しずつ削ぎ落とされ、静かに窒息していく「精神的な死」に等しかった。
バッグの中から、オンブルの冷ややかな念話が、憐れむように脳裏に響いた。
「ノエル。この男は確かに良い奴だ。お前を傷つけることは決してないだろう。だがな……」
オンブルの声に耳を傾けながらも、ノエルは緑茶のグラスを持って、静かに喉に流し込む。
「……お前がかつて仕留めた獲物の話をしても、こやつはきっと『大変だね』としか言わんぞ。お前の魂の叫びも、狩人の誇りも、この男の耳にはただの雑音だ。お前は、このさき何百年も、この男と一緒にテレビを見て過ごすつもりか?」
オンブルの言葉は、ノエルが目を背けようとしていた確信を、的確に射抜いていた。
ルミエールが言っていた『誰かと生きると決めたその日常』。
彼とアンナは、不格好なおにぎりを分け合い、過酷な現実をともに生きる約束をした。
だが、佐藤とノエルの間には、分け合えるおにぎりも、共有できる現実も存在しなかった。
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「あー、楽しかった! ノエルさんと話していると、なんだか新鮮で時間が経つのが早いなあ」
お見合いの時間が終わって、二人は上野駅の広大な中央改札の前まで歩いてきた。
その途中、佐藤は屈託のない、眩しいほどの笑顔でノエルを振り返る。
「もし良かったら、今度は僕のオススメのラーメン屋に行きませんか? 来週末とか、空いてたりします?」
次回の約束を求める佐藤の瞳は、純粋な好意に満ちていた。
ノエルは紺色のスーツのポケットの中で、自分の指先を強く握りしめている。かつて弓を引き、冷徹に獲物を仕留めてきた硬い指。
その指が、目の前の善良な男を、自分の我が儘な「誇り」という理由だけで切り捨てようとしている。
いままでにない、重く鋭い罪悪感が、ノエルの胸を抉っていた。
「佐藤様」
ノエルは、精一杯の、最大限の丁寧さを込めて、微笑んだ。
完璧に貼り付けた、けれどどこか哀しいエルフの気品。
「あなたは、本当にとてもお優しく、素晴らしい方ですわ。……ですが、私には少し、この街の風が強すぎるようです。あなたのような温かい場所には、私のような異邦人は不釣り合いですの」
「え……? あ、そう、ですか……」
佐藤の笑顔が、困惑したように少しだけ曇る。
彼には、ノエルの言葉の意味――あなたとは世界の階層が違いすぎる、という明確なお断りのニュアンス――が、正確には理解できていなかったようだった。
それでも、拒絶されたことだけは伝わったようだ。彼は困惑しながら苦笑いを見せて、首を大きく傾けている。
「……分かりました。……でも、お会いできて嬉しかったです! お仕事、頑張ってくださいね」
最後まで佐藤はいい人のまま、駅の改札を通って、雑踏の中へと消えていった。
一人、日比谷線のホームへと向かうエスカレーターに揺られながら、ノエルは激しい自己嫌悪に陥っていた。
悪人を拒絶するのは容易い。
だが、善人を拒絶するということは、これほどまでに己の傲慢さを突きつけられ、心を摩耗させるものなのか。
生活をともにするということは、相手がただいい人であれば足りるわけではないという、婚活のさらなる深淵を、ノエルは思い知らされていた。
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三ノ輪駅に降り立ち、ノエルは冷たい夜風に吹かれながら路地裏を歩く。
バッグの口からひょっこりと顔を出したオンブルが、静かに言った。
「高くついたな、ノエル。悪者になってまで守りたい誇りか」
「……ええ。私は、ただ無難に消費されるだけの生き物には……戻れないわ」
ノエルは紺色のスーツの襟をきゅっと引き締め、古いアパートの階段を上った。
傷つくことも、他人を傷つけることも恐れていては、この社会という戦場で生き抜くことなどできない。
ノエルは自分の硬い指先を見つめ、次なる戦いへの覚悟を、より一層深く、その胸に刻み込むのだった。
注記
この物語は筆者の想像に基づいたフィクションであり、登場する人物、団体、および物語上の設定はすべて架空のものです。作中に登場する名称などは物語を彩るための舞台装置として用いており、現実の出来事や人物とは関係がありません。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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また次の作品でお会いできることを楽しみにしております。
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