「婚活エルフ、目指すはポラリス」第一部:様々な人間との接触 第九話:過去の断片
1
深夜二時。三ノ輪の路地裏に佇む築四十年のアパートは、完全に静まり返っていた。
終電の都電荒川線が遠くでガタゴトと鳴っていた振動も、とうに寝静まっている。
四畳半の狭い室内を満たすのは、冷蔵庫の微かな駆動音と、窓際に置かれた観葉植物が静かに夜露を吸う気配だけだった。
ノエルは、パジャマ代わりのTシャツ姿で、ローテーブルの前に座っていた。
……昼間、上野駅のファミレスで佐藤健太を拒絶したときの、あの「いい人」の曇った笑顔が、まだ胸の奥に苦い澱のように残っている。悪人の牙をへし折るよりも、善人の好意を無下にすることの方が、どれほど己の傲慢さを突きつけられるか。狩人としての硬い指先が、いまはひどく冷たく感じられた。
「……佐藤様を断ったのは、私の我が儘かしらね。オンブル?」
ぽつりと溢れた呟きに呼応するように、ローテーブルの上の影が、不自然にぐにゃりと波打った。
影の中から這い出るようにして現れたのは、黒い猫の姿をした使い魔、オンブルだった。
金色の瞳を細め、器用に前足を舐めながら、念話ではなく低くしゃがれた実体のある声で鼻を鳴らした。
「我が儘? 贅沢な悩みだな、主よ。人間どもの国籍とやらが喉から手が出るほど欲しいのだろう? 思考を止めてあの男の飼い犬にでもなっていれば、こんな隙間風の吹くボロアパートを出て、美味い肉でも食えていたものを」
「軽口はやめて。貴方だって分かっているはずよ。あのまま彼とテレビを見て過ごす日々を選べば、私は……」
「……ああ、分かっているさ」
オンブルは前足を止め、その鋭い金色の瞳でノエルを真っ直ぐに見つめていた。
その瞳の奥には、アパートの薄暗い天井ではなく、かつて二人が確かに生きていた、あの深く美しい「朝霧の森」の光景が映り込んでいるようだった。
2
元の世界では、ノエルは一族の期待を一身に背負う、誇り高き下級貴族の狩人だった。
そして、彼女の傍らには、同じ一族の戦士であり、次の季節が巡れば婚姻の誓いを交わすはずだった、一人の男が常にいた。
二人の狩りの息は完璧だった。
ノエルが風を読み、男が獲物を追い込む。ノエルが引き絞った弦を弾くと、矢が獲物の眉間を貫く。男はノエルにとって、最も美しく、そして最も冷徹な理解者だった。
朝霧の立ち込める巨木の間を駆け抜け、仕留めた獲物の血を分かち合う、その泥臭くも気高い野生の日々こそが、ノエルの世界のすべてだった。
しかし、あの「大召喚」の夜に、すべては唐突に引き裂かれた。
突如として天空が裂け、森の木々を薙ぎ倒しながら、大地に漆黒の召喚方陣が浮かび上がった。魔導の理が狂い、時空が歪む。吹き荒れる魔力の暴風の中、ノエルと男は、互いの手を千切れんばかりに強く握りしめていた。
「離すな!」と叫ぶ男の声が、暴風の音にかき消される。
次の瞬間、理を超えた次元の亀裂が、無情にも二人の手を引き剥がした。
ノエルが最後に見たのは、光と闇の濁流の向こうへ吸い込まれていく、男の絶望に満ちた顔だった。
名前を叫ぶ間もなく、ノエルは底のない次元の狭間へと、真っ逆さまに落ちていった――。
3
時間も空間もねじ曲がった混沌の渦中で、ノエルの肉体と魂は、ばらばらに霧散しかけていた。
意識が闇に呑まれ、存在そのものが世界の塵として消えかけようとしていたそのとき。
暗黒の淵でうごめいていた「古き朝霧の森の精霊」が、彼女の魂の放つ、凄まじい輝きに目を留めていた。
「絶対に死なない。生きて、這い上がって、あの人ともう一度会う」
それは、狂気にも似た壮絶な執念と誇りだった。
『面白い。世界の理が崩壊する中で、これほどの野生を保つ器があるとはな』
森の精霊は、散逸していくノエルの存在を繋ぎ止めるため、単なる主従の契約ではなく、互いの「魂の一部」を交換し、深く融け合わせるという、不可逆の禁忌を提示した。
ノエルは自らの魂の拠り所である「狩人としての野生と誇り」の半分を切り離し、精霊へと差し出した。引き換えに、精霊は自らの「不滅の核」を、ノエルの裂けかけた魂の深部へと埋め込んだのだ。
二人の生命は、文字通り一連の糸として編み込まれたのだ。
不滅の核を宿したことで、ノエルは異世界の理をその身に保ったまま、現代日本の三ノ輪へと、一人の個体として奇跡的に着地することができたのだった。
ノエルの野生の魂をその身に宿した精霊は、現世において黒い猫の姿――「オンブル」という、食欲や生々しい感情を持つ肉体を得たのである。
オンブルは、ノエルの使い魔であると同時に、ノエルが「私」であり続けるための、誇りの生き写しそのものだったのだ。
4
「思い出したか、ノエル」
オンブルはローテーブルの上で静かに身を起こし、ノエルの膝の上へと飛び移る。
実体を持たない森の精霊のはずなのに、ノエルの魂を宿したその身体は、生き物としての確かな温もりと重みを持っていた。
「私はお前の誇りの残骸であり、お前があの森の狩人であるという最後の証明だ。お前があのような平凡な男の優しさに甘え、牙を抜かれた従順な人形でいることを選べば、お前が私に預けた魂の輝きは完全に消える。そうなれば、お前はただの記号となり、私はこの世界から消滅するだけだ」
オンブルはノエルのTシャツの胸元に、丸い頭をそっと押し付けた。
「……お前が佐藤を断ったのは、我が儘などではない。お前の魂に埋め込まれた私の影が、人形になることを本能的に拒絶したのだ。お前はまだ、あの男との約束を、自分の野生を、なに一つ諦めていない。だからこそ、退屈な幸福には耐えられなかった……そうだろう?」
オンブルのしゃがれた声が、ノエルの胸の奥、埋め込まれた不滅の核を優しく震わせる。
自己嫌悪に曇っていたノエルの瞳に、冷徹な狩人の光が戻ってきた。
「……ええ。その通りよ、オンブル」
ノエルは愛おしさをこめて、オンブルの黒い背をそっと撫でてやる。
人間社会のシステムに呑まれ、生きるための思考を止め、誰かの籠の鳥になること。
それこそが、あの次元の狭間で消えかけたとき以上の「本当の死」なのだ。
悪者になろうとも、どれだけ心を摩耗させようとも、この野生だけは誰にも渡してはならない。
「まだ、私の弓は眠らないわ。必ずこの手で国籍を掴み取り、自分の足であの人のいる場所を探し出してみせる」
「ふん、それでこそ私の主だ。さあ、明日の仕事に備えて少しは眠れ。目黒の偽物の森でお前が倒れたりしたら、私の飯の鱈の皮が減るからな」
オンブルはそう言って、ふいっと顔を背けると、ノエルの足元の影の中へと、するりと溶けるように消えていった。
窓の外、夜明け前の三ノ輪の空に、微かに青い光が差し込み始める。
四畳半の部屋の窓際で、規格外の観葉植物が、ノエルの決意に呼応するように、ピンと瑞々しく葉を伸ばした。
ノエルはスーツを丁寧に整えてクローゼットに吊るすと、短い眠りにつくために万年床へと横たわったのだった。
注記
この物語は筆者の想像に基づいたフィクションであり、登場する人物、団体、および物語上の設定はすべて架空のものです。作中に登場する名称などは物語を彩るための舞台装置として用いており、現実の出来事や人物とは関係がありません。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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