第3回 文学は文化を知らないと読めない
※前回の記事はこちら
前回まで、昭和末期の女子大で受けた国語学の授業について書いた。
夏目漱石『草枕』を論理構造として読む授業。
そして、国語学の授業なのに ∀ や ∃ といった論理記号が普通に出てくる授業。
しかし水谷先生の授業の特徴は、それだけではなかった。
もう一つ強く印象に残っているのが、
文学を読むには文化的背景が必要だ
という考え方である。
久保田万太郎「寂しければ」を読む、という授業
授業では、久保田万太郎の作品も扱われた。
そのとき先生が言った言葉を今でも覚えている。
「地図が頭に入っていないと読めない」
文学の授業である。
しかし先生が問題にしたのは、登場人物の心理ではなかった。
東京の地理だった。
地図が頭に入っていないと読めない
久保田万太郎の作品には、東京の下町が登場する。
今なら、谷中や根岸のあたりの話だと分かる。
しかし当時の私は地方から上京したばかりで、下町の土地勘などまったくなかった。
東京の西側に住んでいた私には、距離感も方向も見当がつかないわけだ。
しかし先生は、
場所の位置関係が頭の中に浮かんでいないと、作品を読んだことにはならない
と言った。
女子大生に対して、なかなか高いハードルだったと思う。
スマートフォンもグーグルマップもない時代である。
しかも大正時代の地図を…どうやって…頭に浮かべておくのが「普通」だと…?
笹乃雪と「あんかけ」
作品の中で、主人公の親子が
「笹乃雪」
に行く場面がある。
笹乃雪は、根岸にある豆腐料理の老舗である。
しかし当時の私は、それも知らなかった。
さらに登場人物は、そこで
「あんかけ」
「海苔」
といった料理を注文する。
ところが私は「あんかけ」という料理がどんなものかも分からない。
先生に
「豆腐にあんがかかっている」
と説明されたのだが、
「おいしいのか、それ……?」
と、今思うと本当に失礼なことを心の中で思っていた。
上京したばかりの学生には、なかなか想像が難しかった。
「喇叭節」の解釈
こうした授業は、久保田万太郎だけではなかった。
明治から大正にかけて流行した「喇叭節」を扱ったこともある。


この台詞を言っているのは誰か
を推定する問題である。
しかも根拠となる表現を上記ヒントに答える形ですべて挙げなければならない。
メモにも書いてあるが、ここで言う「馴染み」は
遊女ではない。
江戸文化の語彙や人間関係を理解していないと、解釈ができないのである。
ちなみに当時の問いに少し答えてみる(当時の授業は覚えていないので、その後身についた常識みたいなもの?)間違っていたら申し訳ない。
1.大時代的な言い方をするのは、わざとでかい話にするときの特徴。子供に対して「おまえ」じゃなくて「〇〇さん?」といったりする感じ
2.男女間限定
3.(昔からの)お客さん、常連だった人
4.前にいったことから「当然」こういうことになるよね、ということ。噂で聞いたのではなくて(「聞けば」ではない)本人が推定したという意図
5.お~なさるは「お~になる」より、その動作をする人の意図が入っていますよ、という意味が込められる
6.「じゃのみちゃへび」まったく同じ職業でなくても、同じジャンルの相手のことなんだからわかりますよ、ということ
7.意図して考えたのではなく自然とわかります、という意味
8.「こちの人」と言ってたのに「お前」になってしまった。
「お前さん」みたいな丁寧な言い方ですらなく「お前」(今みたいな乱暴な意味ではないが敬語は取れた感じ)
9.言外の意味「馬鹿にすんな(なめるな)」「てか」は「て言っているのか」の省略
10.和傘で、相合傘をしていたので、相手が濡れないように差し掛けている。ちなみに当時は相合傘をしただけで「そういう仲である」という表現
11.家に同居しており、家のことは女性がやっている。男は浮気をして帰ってきたところで、まず上着(羽織)を渡しており(着替えている)それをたたんで普通な感じで浮気を問い詰め始める女性
12.濡れた羽織で帰ってきているので、濡れた羽織をいったん脱いだことは考えられない。ので朝というか今日の雨。ただし昨日から出かけており朝帰り(深夜とか早朝の説もあるのかも??自信なし)
13.こちの人は二人連れだったんだから相合傘していないと言い張っているが、片袖が濡れているのでだれかと相合傘をしているのは明確。
男に相合傘をさせるのはおそらくプロの女性。
でもこれだけ細かい問い(ヒント)があると、さすがに今だと結構わかりますね。
と書いたが間違っていたら先生に申し訳なさすぎるが。
文化を知らないと作品は読めない
こうした授業を通して、強く印象に残ったことがある。
文学作品は、
言葉だけ読んでも理解できない
ということだ。
文学を読むには
地理
文化
生活
常識
といった背景知識が必要になる。
水谷先生は、そうした文化的前提を理解してはじめて
文学作品を読んだことになる
と常々言っていた。
そしてこの経験は、その後の私の読書にも大きな影響を与えた。
文学は、言葉だけでできているわけではない。
その背後にある文化や生活を知らなければ、本当の意味では読めないのである。
次回 私が国語学に興味を持った理由
次回は、私がなぜこの大学の日本文学科を選んだのかについて書いてみたい。
