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もののけ姫 ─ 「たち」の葛藤に「物語」は立ち上がる | Earth Folklore Quest #001

『もののけ姫』を見るたびに、
どこか説明しきれない違和感が残る。

これは、自然と人間の対立を描いた「物語」なのだろうか。

そう言ってしまえば、たしかに分かりやすい。

森を守るものたちがいる。  
鉄をつくり、森を切る人間たちがいる。  
神々が怒り、人間が神を殺す。

けれど、私にはどうしても、
それだけでは足りないように感じる。

『もののけ姫』は、自然と人間という二つの極のあいだにある「物語」ではない。

もっと多くのものたちが、絡まり、傷つけ合い、
依存し合い、互いを変えていく。

ここでいう「たち」とは、
人間たちだけのことではない。

森たち。  
鉄たち。  
神たち。  
獣たち。  
火たち。  
病たち。  
そして、それらと関係せざるを得ない人間たち。

『もののけ姫』の「物語」は、
誰か一人の葛藤からではなく、  
この「たち」の葛藤に立ち上がっている。


「物語」から地球の関係を読む

私はこれまで、Earth Folklore OSという概念で、
土地と「物語」の関係について考えてきた。

最初に書いたのは、  
[Earth Folklore OS 宣言]だった。

そこでは、神話や民話を、人間の空想や文化の産物としてだけ読まないことを考えた。

土地は「物語」の背景ではない。  
「物語」の生成条件である。

その後、私は諏訪を歩き、  
[古層が積もり続けている土地]として記録し、
諏訪の古神ミシャグジを通して、  
[大地のあわいから生まれた、ミシャグジという古神]を考えた。

そこでは、地球の現象が、
古神として立ち上がっていた。


また  [Earth Folklore OS 定義書]では、地質、水、生態系、あわい、「物語」、制度、身体、認知といったレイヤーを整理した。

さらにシカゴでは、  
[雲と摩天楼、欲望と自然が共存し始めた都市]として、現代都市を読んだ。

諏訪では、地球の現象は古神になった。
シカゴでは、地球の現象は欲望になった。
では、『もののけ姫』ではどうか。

『もののけ姫』では、
地球の現象は「物語」そのものになっている。


森は背景ではない。  
鉄は道具ではない。  
神は象徴ではない。  
獣はキャラクターではない。  
病は設定ではない。

それらはすべて、
「物語」を生成する力として存在している。

これは、映画論ではない。

すでに生まれた『もののけ姫』という「物語」から、その奥に折り畳まれた地球、森、鉄、火、病、神、獣、人間の関係へ遡っていく試みである。


自然と人間、では足りない


『もののけ姫』を「自然と人間の対立」として読むことはできる。

けれど、その読み方だけでは、
この作品の異様な厚みを取り逃がしてしまう。

森は、単純に善ではない。  
人間は、単純に悪ではない。

タタラ場は森を切り、鉄をつくる。  
けれど、そこは同時に、社会からこぼれ落ちた人々が生きる場所でもある。

エボシは神を殺そうとする。  
けれど、彼女はただの破壊者ではない。

サンは森の側にいる。  
けれど、彼女は人間でもある。

アシタカは人間の側にも、森の側にも、
完全には立てない。

シシ神は命を与える存在であり、
命を奪う存在でもある。

この世界は、二つには分けられない。

森と鉄と神と獣と火と病と共同体と欲望と祈りと殺害が、互いに絡まり合っている。


その絡まりの中で、世界と人は生きている。

つまり、『もののけ姫』が描いているのは、
自然と人間の「あいだ」ではない。

「あいだ」を感じることができないほどのカオスである。

そして、もしかするとそれこそが、人間が生きる環境なのだ。


照葉樹林文化論がほどいたもの


『もののけ姫』を考えるとき、
照葉樹林文化論という補助線は避けて通れない。

ただし、その本質は、
森を美しく描いたことではないと思う。

また、単純に「中心ではなく周縁を見る」ということでもない。

それでは、まだ中心と周縁という二元論の中にいる。

照葉樹林文化論が開いたのは、日本という「物語」を、国家や稲作や中心史だけからではなく、森、発酵、焼畑、獣、鉄、火、病、祈り、共同体の絡まりから見直す視点だったのではないか。

照葉樹林は、もう一つの中心ではない。

中心そのものをほどいてしまう、
生態と文化の場である。

だから『もののけ姫』の森は、
単なる自然の象徴ではない。

そこには、森と鉄と神と獣と火と病と人間たちが、分けられないまま絡まり合っている。

宮崎駿は、その絡まりの「あいだ」から「物語」を立ち上げた。


照葉樹林文化論とは、日本の「物語」を中心から周縁へ移す理論ではない。

日本の「物語」を、森・湿度・火・食・獣・鉄・祈り・暮らしの絡まりへ戻す視点である。


モノノケとは何か

では、モノノケとは何なのか。

それは、森の側にいる存在の名前なのだろうか。

人間ではないもの。  
神に近いもの。  
獣に近いもの。  
人間に祟るもの。

そう言うこともできる。

けれど、Earth Folklore OSで読むなら、
モノノケは種族の名前ではない。

モノノケとは、関係が重なり、
蓄積された層なのだと思う。


森と鉄と神と獣と火と病と人間たちが絡まり合う。

森を切る。  
鉄を撃ち込む。  
獣を追い詰める。  
神を恐れなくなる。  
暮らしのために、少しずつ関係を傷つける。

そのひとつひとつは、小さな出来事かもしれない。

けれど、それらは消えずに積もっていく。

関係の傷が、層になる。

その層は、人間の理解を超えている。


けれど、理解できないからといって、
そこから逃れられるわけではない。

人間は、その絡まりの中で生きている。

そして、その名づけきれない関係の蓄積が、ある閾値を超えたとき、コップから水が溢れるように、世界の表面へ噴き出してくる。

それが、タタリ神なのではないか。

タタリ神とは、突然現れた怪物ではない。

積み重なった関係の傷が、もう隠しきれなくなった姿である。


モノノケは、妖怪ではない。  
神でもない。  
自然そのものでもない。

それは、森と鉄と神と獣と人間たちの関係が、人間の理解を超えて積層したとき、かろうじて姿として現れたものだ。

モノノケとは、森の側にいる存在の名前ではない。

森と鉄と神と獣と人間が絡まり合う場所に、層として立ち上がる関係の現象である。


なぜ、人は神を殺すのか


『もののけ姫』の中で、
もっとも恐ろしい「問い」のひとつはこれだ。

なぜ、人は神を殺すのか。

神とは、人間が地球と関係を結ぶために生み出したインターフェースだったのではないか。

山を神と呼ぶ。  
森を神と呼ぶ。  
獣を神と呼ぶ。  
水を神と呼ぶ。

それは、人間が地球の「現象」と「関係」を
結ぶための方法だった。


にもかかわらず、人間はその神を殺す。

なぜか。

生きるためだ。

鉄を得るため。  
共同体を守るため。  
病を遠ざけるため。  
飢えを避けるため。  
自分たちの暮らしを続けるため。

人間は、生きるために神を殺す。

けれど神とは、地球と関係を結ぶために、
人間が生み出した「物語」でもあった。

だとすれば、人間は生きるために、
自らの「物語」を殺している。


ここで重要なのは、神を殺すことを、単なる自然破壊として読まないことだ。

神を殺すとは、自然を壊すことだけではない。

地球と「関係」するために、人間が生み出してきた「物語」を、自ら断つことでもある。

その矛盾こそが、
『もののけ姫』の中心にある葛藤なのだと思う。

人間は自然を壊して生きている。  
けれど、自然なしには生きられない。

人間は世界を理解したい。  
けれど、世界は理解しきれない。

人間は「物語」で世界を分けようとする。  
けれど、地球のカオスは「物語」では分けきれない。

その解けない葛藤のあわいに、
『もののけ姫』は立ち上がっている。


理解を超えた体感


なぜ、『もののけ姫』はすごいのか。
それは、理解を超えた体感があるからだと思う。

私たちはあの映画を、ただ見ているのではない。

森と鉄と神と獣と火と病と救済と暴力が絡まり合う、認知しきれないほどの情報量を浴びる。

誰が正しく、誰が間違っていたのか。  
何を守るべきで、何を捨てるべきなのか。  
神は救いなのか、恐怖なのか。  
人間は破壊者なのか、生存者なのか。

簡単には答えが出ない。

けれど、答えが出ないまま、
私たちはその世界を一度生きてしまう。

映画を見るのではない。

「物語」を生きる。

そして、その認知できないほどの情報量を浴びたあとで、人々はまた日常に帰る。

けれど、帰ってきた日常は、
少しだけ違って見える。

木を見る目が変わる。  
山を見る目が変わる。  
鉄を見る目が変わる。  
人間の暮らしを見る目が変わる。

「物語」とは、世界を説明するためだけのものではない。

理解できないほど複雑な環境を、一度、身体に通すための装置なのかもしれない。


「物語」は、人間だけから生まれない


『もののけ姫』は、映画として語ることもできる。

作画。  
演出。  
音楽。  
構成。  
キャラクター。  
時代設定。

もちろん、それらは重要だ。

けれど、Earth Folklore OSで読みたいのは、
映画としての完成度だけではない。

この「物語」が、どのような地球現象と、
人間の葛藤のあわいから立ち上がったのか。


そこにあるのは、
映画論ではなく、「物語」生成論である。


「物語」は、人間の内面だけから生まれるのではない。

森たち。  
鉄たち。  
神たち。  
獣たち。  
火たち。  
病たち。  
人間たち。
モノノケたち。

それらが絡まり合い、傷つけ合い、依存し合い、変質し合う場所に、「物語」は立ち上がる。

『もののけ姫』とは、その発生現場を、私たちに体験させる「物語」なのだと思う。


誰もが知っている「物語」の見え方が変わる。

ここで、私自身のことに戻る。

『もののけ姫』を見たあと、
私はなぜか、諏訪へ向かった。

それは、モノノケを見たかったからではない。
縄文を見たかったからでもない。

たぶん私は、諏訪に積層された、『もののけ姫』のような「多層」の「物語」を浴びたかったのだ。

山。  
湖。  
縄文。  
古神。  
御柱。  
ミシャグジ。  
断層。  
水。  
祈り。  
暮らし。

それらが、ひとつの意味に整理される前の、
分けきれない厚み。

私はそこに、映画の中で浴びたものと似た感覚を探していたのかもしれない。

「物語」を浴びる。  
問いが生まれる。  
土地へ向かう。  
地球の条件を見る。  
そして、もう一度「物語」が変わって見える。

『もののけ姫』という「物語」は、
私にとって、諏訪へ向かう入口でもあった。

諏訪では、地球の現象は古神になった。  
シカゴでは、地球の現象は欲望になった。  
そして『もののけ姫』では、地球の現象は「物語」そのものになった。


Earth Folklore OSは、
土地だけを読むものではない。

すでに語られた「物語」の奥に、どのような地球現象が折り畳まれているのかを読むこともできる。

誰もが知っている「物語」の見え方が変わる。

森は背景ではなくなる。  
鉄は道具ではなくなる。  
神は象徴ではなくなる。  
モノノケは妖怪ではなくなる。

それらは、人間と地球が関係を結ぼうとして、結びきれなかった場所に立ち上がる、「物語」の姿である。

私が諏訪で浴びた多層の記事
→ [Earth Folklore Log 諏訪─古層が積もり続けている土地]

→ [Earth Folklore Log 諏訪─大地のあわいから生まれた、ミシャグジという古神]

Earth Folklore OS のシリーズについて

Earth Folklore Log
「地球」を歩きながら、そこに立ち上がる「物語」の生成プロセスを記録するシリーズです。  
地質、水、風土、生態、信仰、都市、身体感覚を手がかりに、地球から「物語」へ向かいます。

Earth Folklore Quest
「物語」から、その発生条件を探究するシリーズです。  
映画、神話、妖怪、アニメ、ゲーム、展示などを起点に、「物語」から地球へ遡ります。

Earth Folklore Lens
学問というレンズを通して、「問い」を育てるシリーズです。  
知識の答えを知るのではなく、世界の見え方を変える思考のフィールドワークです。

Earth Folklore Seed
記事になる前の、問いの断片を残すシリーズです。  
違和感、メモ、仮説、まだ名前のない感覚を、未来の「物語」の種として蒔いていきます。

Earth Folklore Lab
「物語」を体験や展示として立ち上げるシリーズです。  
空間、映像、音、光、インスタレーションなどを通して、Earth Folklore OSを現実の体験へ変換します。

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