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(6)【背中に般若を背負った男と銭湯】人生が終わった日も、朝のコーヒーだけは飲んでいた。-失踪編-


■この物語は筆者の実体験をもとに執筆しています。
・正直、極限まで恥をさらしてます。
・僕が生きてきた記録(ノンフィクション)です。
・ほぼ毎日更新を目指してます。


【背中に般若を背負った男と銭湯】


松下さんの背中には、
大きな般若が彫られていた。

銭湯の湯気の中で、
それは異様なほど、
はっきりと浮かび上がっていた。

和彫。
しかも、色の入っていない素彫り。

___途中でやめたのかもしれない。

僕は、一瞬だけ言葉を失った。



気づかないふりをして、
身体を洗う。

そして、湯船に浸かる。

冷え切った身体が、
ゆっくりと溶けていく。

今日一日、
怒鳴られ続けた身体。

張りつめていた何かが、
少しずつほどけていく。

___ああ、あったかい。

それだけで、
少し救われる気がした。

周りを見ると、
同じような人間が何人かいる。

人夫出し___。

言葉にしなくても分かる、
独特の空気。



松下さんが、
僕の隣に入ってきた。

湯気の向こうに、
あの般若がある。

僕は、つい聞いてしまった。

「松下さん___それ、般若ですよね」

「あぁ、これな。」

少しだけ笑った。

「若い頃に、うまいこと言われてな。
その気になって___。」

「まぁ、使い捨てやったわ。
バカやったなぁ。」

それ以上は、何も言わなかった。

僕も、何も聞かなかった。

ただ、同じ湯船に浸かっていた。

それで、十分だった。



「そろそろ行こか。
近くに八剣伝あるで。」

銭湯を出る。

外の空気は冷たいのに、
身体の中は、まだ温かい。



生ビール。

一口目で分かる。

___うまい。

今まで飲んできたどのビールより、
この時の一杯が、一番うまかった。

焼き鳥。
一品料理。

そして、人と食べる食事。

たった一週間ぶりのはずなのに、
ずっと長い間、
こうしてなかった気がした。

「さっき、
"使い捨てやった"って言ってましたよね」

僕は聞いた。

「あぁ___若かったからな。」

「おだてられて、その気になって、
中途半端なとこまでいってな。」

少し間を置いて、続けた。

「どこの世界も、厳しいで。」

そして、ゆっくりと言った。

「人生な——。」

ビールを持ったまま、
僕の方も見ずに。

「落ちるとこまで落ちてもな___。」

「どんなに道踏み外してもな___。」

「また、道はできるもんやで___。」

そう言って、
ビールを一気に飲み干した。



僕だけじゃない。

この人も___
落ちてきた人間なんだ。

だからこそ、
あの言葉が出る。

僕は、初めてこの人に
親近感を覚えた。



「喋りすぎたわ。そろそろ行こか。」

会計は、1万円近く。

「ここは俺が払うで。約束したしな。」

この人の日当は、
そんなに高くないはずだ。

「大丈夫なんですか?」

「心配せんでええ。」

「自分は安いやろけど、
経験者はちょい多いねん。」

少し笑って言った。

「それに、ボブサップで勝ったしな。」

「ボブサップ?」

「パチスロや。」



「奢る代わりってわけやないけど、
お願いがあるんや。」

来た——。

そう思った。

でも、
どんなお願いでもいいと思った。

この人には、
恩を返したい。

「会社の寮な、
ちょっと居づらくてな。」

「今日、泊めてくれへんか?」

「朝のコーヒーは奢るで。」



盗られるものなんて、ない。

あったとしても、構わない。

それくらい___。

今日一日で、
僕はこの人に救われていた。

ほんの少し。

本当に、ほんの少しだけ。

でも確かに、
希望が戻っていた。

地獄の中で、
光を見せてもらった。



「もちろん、大丈夫です。」

「ただ___本当にボロいですよ。」

「かまへんて。」

松下さんは笑った。

「寮はな、
先輩風吹かす奴ばっかで、面倒くさいねん。」



経験者でも。
ベテランでも。

しんどいものは、しんどい。



その夜。

僕たちは、
同じ部屋で眠った。

久しぶりに、
安心して眠れた。



___まさか翌日、
あんなことが起こるとは、

この時は、思いもしなかった。



(第7話【朝4時半の訪問者】に続く)



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「人生が終わった日も、朝のコーヒーだけは飲んでいた。」

【第一章・失踪編】
目次から読む
1話から読む

【第二章・新聞配達編】
目次から読む
1話から読む


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