レフト イズ ライト 令夫人の忘れもの あるいは 裏切られた世代 Betrayed Generation 第一話
(創作大賞2025応募作品)
【あらすじ】
左利き専用のホテル「ザ レフト ホテル神山」でホテリエとして仕事を始めたばかりの宇羽川くんは、人の顔を憶えられない欠点がある。令夫人とあだ名されるゲストが忘れ物をしたが取りに来ないという話を社員食堂で耳にした彼は、耳の記憶力、持ち前の観察眼と推理力で、言葉は冷たいが行動力があり気の利く保安部の女性 神野さんと共に、令夫人の忘れものの謎に挑む。公園に住む人たちのためにボランティア活動をしている同僚の樺沢さん、本を通して人助けをしている同僚の氷見さんから得たヒントを元に、二人は推理と行動力で、裏切られた世代の背景を持つ令夫人の謎を解くことに成功する。
-プロローグ-
この左利き専用のホテルはわたくしにとっては自分でいられる場所だった。いまどき1万円の利用ごとに100ポイントというホテルも珍しいのかもしれないけれど、だいぶ溜まったポイントも 今日で使い切ることができた。チーズケーキのおさめられたロゴ入りの袋を手に カフェの席を立ちロビーを横切ると、もう出口。ここを出たら、もう二度とこのホテルに足を踏み入れることはないでしょう。ザ レフト ホテル神山のホテリエは定着率が高い。わたくしのようなゲストにとってと同じように、きっと仕事をする人にも居心地がいいのでしょう。長年ドアマンを務めている同年代の旧知の男性ホテリエが笑顔でわたくしの名前を呼び、「またのお越しをお待ちしております」と告げる。またいらっしゃってくださいという依頼ではなく、事実を告げるこの挨拶は、控えめで心地がいいと思っていた。けれど、また来ることのない今日のわたくしには、申し訳なさが浮かんでくるばかりだ。庇の影から、夏の日差しの世界に足を踏み出す。舗装されたプロムナードを歩き、門に近づくにつれ、本当に最後だという思いが強くなってくる。ホテルの庭で蚊に刺された右手首の痕が消えるころには、わたくしのまとったホテルの空気も もう感じられなくなっているでしょう。
-BOOK-
天気予報によると とうぶん雨が降らないまとまった晴れのつづく日の六月終わりの午後。都会の喧騒に疲れて一息つきたいと思った人間たちが、蝉の大合唱が鳴りやまない井の頭通りに面した代々木深町小公園や渋谷公会堂近くの北谷公園、渋谷駅近くの宮下公園などのベンチに座ると、右端に一冊の文庫本が置かれている。そこには書かれたメッセージが目立つように 栞がかなり飛び出して挟まれている。
樺沢が代々木深町公園のトイレから出てくると ホテルの同僚である氷見がベンチから立ち上がって歩き出したところだった。氷見は非番だが、家が近いので散歩か買い物の途中だろうかと樺沢は思った。見ると、さっきまで氷見が座っていたベンチに本が置いてある。どうやら置き忘れてしまったようだ。氷見はもう公園を出ようとしている。樺沢は大きめの声を出して呼び止めた。
「氷見さーん!」
声をかけられた氷見は後ろを振り向いて岩男のような樺沢の姿を目に止めた。そして、目を見開いた後、加速して公園を出ていく。
「あ」
樺沢はベンチにあった本を掴むと、氷見の元へどすんどすんと駆けていった。樺沢の足は遅いが、さすがに早歩きの氷見には追い付いてしまう。
「はあっはあっ これ忘れてますよ」
息を切らした樺沢が文庫を左手で差し出すと、氷見は前を向きながらも嫌そうな顔をして歩き続ける。尚も樺沢が並んで歩いていると、仕方なく樺沢の方にちらっとだけ視線を向けた。
「それは、忘れものじゃない。置いとけ」
そう言って、さらに加速して行ってしまった。樺沢は茫然として立ち止まる。手にした文庫本からは栞が飛び出していた。よく見ると、そこには「置き忘れではありません。最近、本の存在を忘れていませんか? 」と書かれた文字が見える。樺沢が何だろうと思って、栞を引き抜くと、「本を読んでください。本を読む喜びを思い出してください。 紙の本普及隊」と書かれている。
数日後、大きな公園で、何冊かの本を置いて立ち去る氷見の姿があった。そこに出くわした樺沢は今度は追いかけず、ベンチに腰掛けると左端に置かれた本に目を落とした。硬い内容に思える単行本だ。樺沢は表紙を見た後で、奥付に目を通した。氷見からは本は奥付を見ろと言われていたことを思い出したからだ。『社会的共通資本 コモンズと都市』(宇沢弘文.茂木愛一郎.東京大学出版会.1994年)『人間の安全保障』(アマルティア・セン.集英社新書)『格差社会を越えて』(宇沢弘文.橘木俊詔.内山勝久.東京大学出版会.2012年)『不平等の再検討 潜在能力と自由』(アマルティア・セン.岩波現代文庫.2018年)の四冊だった。以前 見かけた本と同じように四冊とも栞が飛び出しており、「置き忘れではありません。最近、本の存在を忘れていませんか? 」と書かれた文字が見える。樺沢は栞を戻すと ベンチから立ち去った。夜になって、ベンチの端に置かれた本に ほつれた袖の先から覗く左手が触れる。
早番の仕事を終えたぼくは図書室で氷見さんと話していた。
「空を見て天気がわかるんだそうですね」
「俺の噂話をする物好きがいるとはな。宇羽川もそういう輪に加わるようになったか。ホテルに慣れてきて結構なことだ」
たしかに噂話は氷見さんの専門とも言えるが、多かれ少なかれ誰でも噂話はするだろう。それに氷見さんは滝行で打たれている人が水をそのまま受け流すように、知識や人の噂も垂れ流すから、氷見さんのことをよく知っている気になるけれど、考え直してみると、ぼくは氷見さんのことをよく知らない。もしかして、氷見さんは自分のことを謎にしておきたいから、こんなにおしゃべりなんだろうか。
「そういえばこないだ 朝 空を見た時は快晴で、降水確率零パーセントの日に 氷見さんが長い傘を持ってきてて、その後ぼくはフラれました」
「誰に。神野か?」
唐突に神野さんの名前が出るものだから、理由もなくぼくはあたふたして、思わず声に力がこもってしまう。
「な な な なにを 雨にです。雨に! そう言えば昨日、氷見さんを公園の近くで見かけたんですけど。仕事帰りによく行くんですか?」
「たまにな」
氷見さんの声がかすれたかと思うと すぐに眉間にしわを寄せて ン ン ンフン ンフンとやっている。バイクのエンジンがかからない音の真似だとしたら、とても似ているが、そうではない。
「しゃべりすぎですか」
「食べて出すだけなら動物と同じだ。情報を仕入れて出すから人間なんだ。そして しゃべるから俺だ」
今日は海外から俳優の夫婦に映画監督、青森からリンゴ農家の御一家、門司港から建築家の夫婦がチェックインをした。近所の常連のゲストはいつもどおりカフェで談笑、夜には毎週決まって訪れる夫婦、と日常が積み重なっていく。
フロントの仕事も一段落着いたので、ランチに行こうとすると、先輩の帯さんに声をかけられた。
「社員食堂に行くなら、氷見くんにこれを渡しておいてくれないか。サンダーランド夫妻が借りた本が面白かったと言っていたと伝えてくれればわかるから」
「はい」
ゲストが帰り際に図書室に寄るのが面倒だというのは理解できる。それに朝は図書室が開いていないから、こうしてフロントに本を託していくゲストは多い。世の図書館には本の返却ボックスなるものが設置されているが、ぼくはあれをみると心穏やかでいられない。返却ボックスに本を入れると、急な傾斜の中を本が金属製のコロをからんからんと回す音を後に残すと、その先はスーッと通って、無音があって その後にドサッと落ちる。もちろんその下には既に返却された本が積みあがっている。この時、もし本の小口から落ちたらどうなるか。傾斜を通り抜けて自由落下に移行した本のページは思うがまま開いてしまい、下の本に衝突する時にページが折れ曲がってしまうだろう。かと言って、背表紙から落ちるようにしても、もし着地した時に背表紙が下を向いたままだったら、次にそこをめがけて落ちてくる本がページを折り曲げられてしまうかもしれない。そんなことを考えると本のことが心配になるのだ。結局、ぼくはたいてい人のいる時間帯に本を返している。どうしてもという時は、なるべく挿入口の左端に 本の天を前にして入れることにしている。世の右利きの人は真ん中か右端から本を入れるだろうから、左端から入れた本の下には本が溜まっていない可能性が高い。そして、天から入れれば、他の本にぶつかっても傷みにくい。ホテルの図書室に返却ボックスを置かないのは、氷見さんが本を大切に思っている証拠だとぼくは受け取っている。氷見さんは図書室を訪れる長逗留のゲストにお勧めの本を教えることが多い。なにしろ古今東西の本を読んでいて博覧強記という人だから、ゲストが求める本をピタリと当ててしまうようなのだ。ぼくがいま手にしている『永遠のソール・ライター』と『マンガ都市TOKYO』というだいぶ前に開催されたアート展のカタログも 映画監督のお二人には刺激と理解につながったのかもしれない。どちらも観てわかるもので、日本語の文を読めなくても問題ない。ぼくは図書室には氷見さんと話に行くだけで、書架をじっくり見たこともないけれど、こういう本もたくさん置いてあるのだろう。
社員食堂に行くと、いつもの席に氷見さんはいなかった。お昼に図書室に来るゲストはいないだろうということで、この時間帯は図書室は閉めている。だから、氷見さんは決まってこの時間に食事をしているのだが。珍しく今日は外にでも食べに行ったのだろうか。どうしようかと思いながら 日替わり定食を注文して受け取ると、ぼくは誰か一緒に食べられる人はいないかと食堂を見回した。すると、ピンクやブルー、イエローといったカラフルなスーツの制服の中に、一人落ち着いた色のスーツを着て 雨を眺めている男性が見えた。バックオフィスの巻貝さんだ。この人はぼくの採用面接をしてくれた人で、すこし恩義を感じてもいる。ぼくは奥の席に足を向けた。
-Betrayed Generation-
「巻貝さん」
近づいて声をかけた。
「やあ」
巻貝さんが笑顔でこっちを見てくれる。ぼくは安心して さっそく座る。左隣に座ってしまうのは、右利きの世界で生きている時の癖だ。左利きの人間は、右利きの右側に座ると、自分の左腕と相手の右腕が箸を持った同士でぶつかってしまう。だから、たいていの左利きの人間は左側に座る。飲み会で左の壁にくっついて座っている人を見掛けたら、たぶん左利きだ。まだこのホテルに慣れていないから、そんな風に左に座ってしまった。そんな自分に少し落ち込みながら隣に視線を送る。巻貝さんは指で自分の口ひげを示すと、やや低い渋茶のような声で言った。
「どう? 今日マスクを外して朝礼に出たら、みんな注目していたでしょ。変かな?」
最近マスクをしていたのは、ひげを伸ばす間、隠しているためだったのか。
「結構、似合いますよ」
もちろんこれは本心だが、そうではなくても本人を前にして似合わないとは誰も言えないだろう。いや、神野さんと氷見さんは言えそうだ。
「そう? ふふ」
巻貝さんの顔が嬉しそうに綻ぶ様子を見て、ぼくも笑顔になってしまう。ぼくにもこういう反応はあるのだ。ただ、以前は社交のための反応だったけれど、最近は無意識に笑顔になっていることもあると気付いた。これは笑顔の反応が慣習になったのではなくて、どうやらすこし頭の中で嬉しいと思っているようなのだ。まだ顔より下には温かさなどの反応は感じないのだけれど、ぼくは嬉しいという感情を手にしつつあるのかもしれない。
「それでその本は?」
巻貝さんは ぼくの身体越しにテーブルの左側に置いた本を覗き込んでいる。
「氷見さんがゲストに貸していた本です。フロントに返してきたので、ここで氷見さんに返そうと思って、で 来たら、いないんです。いつもはいるのに」
「うーん たしかに。この時間はあの辺にいるよね」
と 巻貝さんはブロッコリーの茎を食べながら氷見さんの指定席のあたりを顎で示した。
「外に食べに行っているんですかね」
「いやあ、それはないんじゃない? 氷見くんがここに来て以来、外食なんて見たことないよ。仕事の日は一日も欠かさずあの席に座っているからね。私が知っている限りでは」
この発言で 巻貝さんもほぼ毎日ここで食べているということがわかる。そして、氷見さんがいつも決まった席にいるのは、人見知りのあの人らしいと思った。おそらく周りにいる人間が目まぐるしく変わる環境を避けているのだろう。図書館の利用者をホテリエか宿泊者に限っていることは、氷見さんに向いていると思ったが、そもそもそういう条件で氷見さんを雇っているのかもしれないとも考えた。考えすぎだろうか。
「そう言えば、このホテルの人って、外で食べないんですか?」
「昼食の時間は70分あるけれど、着替えて坂を下って、食べて、また坂を上がって、着替えてって面倒でしょ。私みたいにバックオフィスの人間ならスーツだから着替えなくていいけど」
たしかに、安いという以外に、ぼくも面倒だから社員食堂を利用しているというのはある。ホテルの規則で、休憩で外に出る時にはこのカラフルなスーツを着替えることになっている。だから70分という少し長めの休憩時間になっているのだが、それでも面倒ではある。
「だから、いつも同じ時間帯に同じ顔触れ。なごむよね。ときどき宇羽川くんみたいに新人さんが入ってくると、すこし定位置が変わったりしてさ。緩やかに変わっていく そのくらいの刺激が私には心地いいね」
巻貝さんやホテルにとって ぼくという存在は受け入れるに足る存在だったということを人間関係の面でもわかって安心した。そう言えば、ぼくもメンバーが全く代わらないのも人間関係が窮屈だし、代わりすぎるのも落ち着かない。
「じゃあ 氷見さんはおなかの調子が悪くて 今日は食べないのかもしれませんね」
そう言った後、そう言えばこの間 喉の調子がおかしかったから、風邪でも引いたのかもしれないと思い直した。
「うーん そうかもね」
「巻貝さんは外で食べることもあるんですか?」
「たまーにね。けど、外だと高いしフードロスも気になるんだ。私は就職氷河期世代だから、とくに倹約が染みついているんだよ。年金には期待していないし。このホテルは週四日勤務だけど、年収は同じ格のホテルよりも高いからありがたいけどね」
ザ レフト ホテル神山は左利き専門のホテルという特徴があるので、高価格でも開業当初から客室稼働率はほぼ100%だそうである。従って給料が高い。ぼくがここで仕事をしたいと思った理由の一つもそこにある。そして、週四日以内の勤務というのもありがたい。ぼくには声を聴き分けるという特技の他に、年齢を正確に当てる特技もあるので、いま巻貝さんの言葉を聞いて、ホテリエの年齢を思い出してみると、このホテルには就職氷河期の世代のホテリエが比較的多いと思い当たった。
「就職氷河期の人は社会的に正社員の率が少ないという印象なんですけど、このホテルには多いですよね」
「ああ それはね。オーナーが積極的にその世代を採用してくれているからなんだよ。私たちの世代は人数が多いから、子どものころから競争競争でね。兄弟姉妹の数も多いから、私や友人の場合、誕生日はみんな一緒に四月なんていうこともあった。なにせお金がないからね」
巻貝さんはテーブルの奥の方に虚ろな目線を向けて話を続けた。
「そのころ独身の大人や大学生はバブル経済で浮かれて遊んでいて、自分も大きくなったらお金を好きに使えるのも知れないとなんとなく思っていたんだ。外国製の大きな車に乗って、ブランド物のバッグや服を身に付けて、マハラジャなんかのディスコで踊ってね。ディスコではわからないかな。今で言うクラブだね。もちろん、本当にそんなことをしたいのかと言われたら、そうではなかったかもしれないんだけど。それが、私たちが高校生になったころにはバブルが崩壊、バカ騒ぎが無くなって落ち着いた空気にはなった。けれどそれは不景気になったということだった。そして なんとか大人数の厳しい競争を勝ち抜いて大学に入ると今度は就職氷河期。もう大学のブランドなんて役に立たない時代ですって言われたんだ。私たちは何のために競争させられてきたんだ? さすがにそれはないだろう? と思ったよ。バブルの時期までなら就職できた人も、私たちの世代だとできなくてね。採用をやめた企業も多かったし、必然的に解雇されやすいフリーターや派遣が多くなる。何年か前なら大企業の望む部署に入れた人が中小企業の望まない部署に入ったりもしたし、せっかく正社員で入ってもブラック企業だったりもしてね。社員は減っても仕事の量は変わらないから、一人一人の仕事量は増えた。早出残業休日出勤という働き方もそのままだ。それなのにボーナスはほとんどなくなるから年収は二分の一になった。鬱になって辞めて、引きこもったり、行方不明の同級生もいる。高校や大学の同窓会といっても、今の自分を見られたくないんだろうね。あんまり集まらない。亡くなってしまった人もいる。有名大学から大企業という一つだけの価値観を押し付けられて生きてきたのに、それがかなわなかったんだからね。適度に生きる、ありのままの自分でいいと誰も教えてくれなかったんだ。だから、与えられた価値観の枠から外れたら、生きていることができなかったんだと思う」
巻貝さんはまた現実に戻ってくると話を再開した。
「女性の採用は男性以上に絞られたから、当時主流だった社内恋愛も減ったし、そもそも残業が多くて給与は少ないからデートもできない。採用が戻ったころには私たちは30代だ。30代の男性を結婚相手に求める一番の要素は相手の収入だそうだけど、私たちの世代にはその条件を満たせる人はそんなに多くない。共働きは恥ずかしいという風潮がまだあったから、男一人の稼ぎで養えないようだととても結婚など申し込めない。かと言って、お見合いという時代は過ぎ去って、自分で何とかしないといけない。だから独身で子どももいない人は多い。バブルを謳歌した人たちとその時代の政府や官僚の政策の失敗が私たちの世代に押し付けられたんだ。たまったものではないよね。本来なら私には今ごろ宇羽川くんくらいの子どもがいてもおかしくないんだけど」
巻貝さんはぼくに目線を向けると、すこし疲れた表情になった。悪いことを聞いてしまった。その世代に生まれたというだけで、たった数年前に生まれた人と全く違う状況に置かれてしまう。そして世代ごと見捨てられる。受験戦争も就職氷河期も殺しあう戦争もそうだ。広島 長崎で空爆を受けた人には補償があるけれど、東京大空襲や神戸大空襲で被害を受けた人には何の補償もない。ましてや世代や地域ですらなく、いじめや虐待のように個人が被害を受けたとなると、社会がその環境を作ったのだとしても児童養護施設に入るか裁判でも起こさないと一切の補償がない。世界的に注目されないということは、なかったことにされるということなのだろう。
「上の世代のように正社員になって、結婚して、子どもを持って、ボーナスで車、年々上がる給与でローンを組んで持ち家に住んで、親は介護が必要になる前に亡くなるという人生のロールモデルを見てきたから、私の世代にとっては、それは人生の平均的な目標になっているんだ。けど、実際は実現が難しい夢に近いものになっている。それでも、私たちの世代の中では、私は恵まれた方なのかもしれない。このホテルに正社員として転職できたし、だいぶ遅ればせながらではあるけれど、去年結婚もできたしね。妻も就職氷河期で同年代だから、子どもはあきらめているけれど。ただ、同級生や同世代の中には旅行はできない、ホテルに泊まることもできないし、もしかしたら家もなくて公園で暮らしている人もいるかもしれない。このあたりでも廃品回収をしたり、段ボールを載せたリヤカーを曳いている人も見かけるけど、なんとなく同年代が多い気がする。なんとかしてあげたいけれど、余裕もないしね」
巻貝さんは一息つくと、再び話し始めた。
「つまりは がむしゃらに働くのはもう無理で、安い給与で耐え忍んでいるけれど、優秀なフリーターや派遣社員は多いという世代なんだ。オーナーはそこに目をかけてくれて、仕事ぶりが素晴らしい人を見るとヘッドハンティングするんだよ。例えば、コンビニエンスストアで見慣れない人が仕事を始めたなっていうことがあるでしょう。そういう人って、最初は元気で丁寧なのに、二か月もするとすれてくるんだ。元気がなくなって挨拶もおざなりになる。そういう人を見るたびに あーあ、またかって思うんだ。社会に磨り潰されてしまったんだなと。稀に長く働いているのに変わらず元気で丁寧な人を見ると、意識が高くて頑張っている人なんだろうなと思うんだ。オーナーはそういう人を採用する。世代は違うし、前職もばらばらだけど、神野くんも樺沢くんも、氷見くんもそうだし、三根くんもそうだね。実を言うと私もスカウト組だ。逆に宇羽川くんのように、応募で採用するというのは珍しいんだよ」
巻貝さんの目が ぼくを珍獣か何かのように見ているように思えてきた。自意識過剰だろうか。
「そ そうなんですか。最近は年齢的にスカウトしたい人がオーナーの行動範囲にいなかったから募集したんですかね。ぼくはラッキーですね」
そう言ったものの、ぼくは常連ゲストの白嶺様の口添えで採用されたようなものなので、それこそラッキーなのだと思い出す。
「宇羽川くんは優しいからね。いつかはオーナーの目に留まったかもしれないね」
オーナーの行動範囲というのはそんなに広いのだろうか。いくらなんでもぼくの住んでいるところまでは来ないだろうと思いつつも、巻貝さんこそ、そういう言葉をぼくにかけてくれて優しい人だと思う。なんだか照れたので顔を見られないように下を向くと、巻貝さんの袖口がほつれているのが目に入った。
「あ 巻貝さん」
ぼくがほつれている箇所を指さすと、巻貝さんは恥ずかしそうに「あ」と言ってから、袖口をいじり始めた。
「私のようにバックオフィス組だと制服がないから、スーツを自分で手入れしないといけなくて面倒なんだ。私は子どものころから制服というものが苦手でね。掛詞になるけど、征服された人間になったような気分でね。自由が奪われた気がするんだ。スーツはなぜか好きだからいいんだけど」
巻貝さんはおしゃれで、スーツと言っても高級そうな生地で、すこしゆったりとしたシルエットが素敵だ。巻貝さんは先に食事が終わったので、ハウスキーピングに行くよと言って、社員食堂を出ていった。ハウスキーピングの部門は、ほとんどのゲストには清掃専門の担当と思われているが、そうではない。三根さんも麻田くんも縫製をするし、書棚や椅子くらいは作れる。数多あるホテルの中には、制服はレンタル、ゲストの服の修繕や洗濯、家具の修理などは外部発注というところは多い。けれど、ザ レフト ホテル神山は電気や水道などの専門的な業務は別として、ほぼ自前で技術者を抱えている。
巻貝さんが仕事に戻った後、近くのテーブルにいるハウスキーパーの人たちの会話が聞こえてきた。ぼくは 神野さんのように遠い距離でも声が聞こえるというわけではないけれど、音をクリアに聞き取る能力は高い。だから、ぼそぼそしゃべっている人、小声の人でも話の内容がわかってしまう。
「氷見さん 最近 誰彼となく誕生日となると本をプレゼントしてくるんですよね。僕なんて『個人主義の誕生』っていう本をもらいましたよ。それに、先週は麻田くんが誕生日だったみたいで、『家族の世界史』っていうのをもらってました」
「なんか難しそうな本だな」
たしかに難しそうな本だ。氷見さんは本をよく知っていると改めて思う。
「たぶん。よく知りませんけど」
「貰っても困る奴だよな。うわー、やべー おれ来週誕生日なんだよー」
そうか。たしかにもらっても困る本もある。内容が合うからと言って、読みやすいとは限らないしと思っていると、もう一人がすこしにやつきながら言った。
「お それは おめでとう ございます。楽しみですね」
誕生日自体もおめでた感がないけれど、楽しみというのも皮肉で、そんなことを言っているのに怒らないということで、この二人はよほど仲がいいとわかる。
「あ そうか! サンタみたいに こっちからこれが欲しいって言えばいいんだ。うん そうしよう。よし、じゃあ図書室行ってくるわ」
なるほど。頭がいい。そして行動が早い。けど、氷見さんはいるのだろうか。そして、氷見さんは相手にぴったりの本を勧めてくれるそうだけど、無意識に求めている本もわかるのだろうか。ぼくにはどんな本を勧めてくれるのだろう。
https://note.com/datapatricii/n/neab7470eebb8
https://note.com/datapatricii/n/nbe2ef683aae3
https://note.com/datapatricii/n/n0c9bfc368183
https://note.com/datapatricii/n/n5d6a925d80f4
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