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🟪『オキシトシンの沈黙』シリーズ  第3章|育てなくていい身体、という時代

【全8章】
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— オキシトシンの沈黙は、社会のどこから始まったか —

1. 導入|育てなくて“済む”社会になった

「もう、誰にも育ててもらわなくて大丈夫」
「誰かに触れられなくても、生きていける」

社会は、そんな空気で満たされはじめている。
かつて、オキシトシンが自然に分泌されていたような環境──
つまり、「関係性の中で身体が開かれる」ような状況は、今、急速に減っている。
たとえば、核家族化。
家の中に大人がひとりしかいない状況は、「育てる」と「支える」が孤立してしまう構造を生む。
誰にも委ねられないまま、ひとりでなんとかしないといけない。
そこに、粉ミルク、哺乳瓶、ベビーカメラ、AIアプリ…。
“育てる”ための便利な道具は増えたけれど、
それは同時に、「誰かの手を借りなくてもできるよ」という自己完結の時代の合図でもあった。


2. 触れないリスク社会の到来

他者との接触も、「ぬくもり」ではなく「リスク」と捉えられるようになった。
特に感染症の拡大は、“触れ合うことそのもの”が危険とされる風潮を生み、
人と人との身体的距離は、心理的な壁としても定着していった。
「安心して触れられる」という体験は、当たり前ではなくなった。
むしろ「不用意に触れないほうが安全」という意識が先にくるようになった。


3. 呼びかけの消失と名乗り出る困難

気がつけば──

  • 「触れてほしい」と思える相手がいない

  • いたとしても、「この人に触れてもらって安心できるか」がわからない

  • 「安心して触れる」こと自体が、ハードルになっている

そんな時代に、オキシトシンはどうやって分泌されるのか?
このホルモンは、「信頼」や「安全な文脈」が整わなければ出てこない。
だからこそ、沈黙しているのは身体ではなく、社会のほうなのかもしれない。
「差し出します」と名乗り出ることも、今では簡単じゃない。
「頼まれてないのに、しゃしゃり出てると思われたらどうしよう」
「受け取ってもらえなかったら、ただの暴走に見えない?」
差し出す行為が、「怪しまれること」や「拒絶されるかもしれないこと」に変わっていく。


4. 差し出す“文脈”の違い

差し出す行為について考えるとき、
売春と乳母って、どこか似てるんじゃないか?」という声もあるかもしれない。

共通する「差し出す」という行為

  • 乳母/育てる行為 → 「自らの身体機能を、他者のために開く」「ケアの回路に入る」

  • 売春/性的奉仕行為 → 「自らの身体を“サービス商品”として提供する」

ここまでは、行為として“身体を差し出している”という表層では似て見える。

でも私は、そこに圧倒的な違いを感じる。

1. 差し出す“文脈”の違い

  • 乳母やケアにおいては、信頼・育み・関係性の応答が前提にある

  • 売春においては、市場・交換・支配(される/する)構造が支配的
    → つまり「“文脈ホルモン”が働く環境かどうか」が決定的に違う


2. 安心と非対称性

  • 売春の文脈では、「安心」や「信頼」が女性側にとって常に危うい・剥奪されやすい
    → だから“身体が応答しない構造”になってる
    → むしろ、オキシトシン的な応答は“機能停止”する側に追いやられる


3. 暴走・支配の発生リスク

  • 乳母やケアの場面では、「支配に転化する」ケースが少ない(ゼロではないが)
    → むしろ“共に育む”という対称性に向かう

  • 売春では、「顧客化」「リピート獲得」「管理」など、戦略的支配と依存の循環が生まれやすい
    → 関係性が「対話」ではなく「取引」になりやすい

売春の現場において、
“信頼”や“安心”という空気が、女性側にとって整っていることは、ほとんどない。
むしろ、顧客に対して“支配しようとする戦略”が求められ、
取引と駆け引きの関係のなかで、“身体が応答する余白”はどんどん削がれていく。

一方で乳母のような営みは、たとえ制度や立場に歪みがあったとしても、
「この子を育てたい」「守りたい」といった関係性の応答が基盤にあった。

差し出す行為は似て見えても、
育てる身体と、取引される身体は違う。

信頼に応答するか、顧客化を狙うか。

そこに生まれる“空気”が違う。
オキシトシンは、支配や戦略の中では沈黙する。

差し出すって、
相手を育てようとする意思なんやと思う。


5. 沈黙は、身体ではなく社会から始まった

オキシトシンの沈黙は、もしかすると
ホルモンが出なくなったというより、“関係性の予兆”が見えなくなったことなのかもしれない。
このホルモンは、個人の努力では出ない「環境反応型ホルモン」。

  • 誰かの気配

  • ふとした言葉のやり取り

  • 安心して触れられる空気

そうした“関係の文脈”がそろって初めて、身体は反応する。
逆に言えば、それがそろわない社会において、
身体が沈黙してしまうのは、むしろ“防衛本能”としての自然な反応なのかもしれない。


6. 小さな余韻|沈黙は、破られるのを待っているのかもしれない

沈黙は壊すものではなく、「聞かれるのを待つ声」。
オキシトシンの沈黙もまた、
社会の側からの“呼びかけ”があれば、
再び身体が応える日がくるかもしれない。

育てることが、もう一度“共同の営み”として語られるとき──
オキシトシンは、きっとまたその場に、立ち上がるだろう。


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