色葬|【狸の短編小説】
世界から色が抜けた日のことは、うまく思い出せないが、指先がひどく熱かったことだけは覚えている。
海からの風は妙にサラサラしていて、灰色の砂が混じって、触れるものすべてを削っていくような、嫌な風だった。
テーブルには安っぽいガラス瓶がある。
私は目を閉じて、海に行った日のことを考えていた。
波の音と目が痛くなるほどの青。
思い出そうとすると、肋骨の内側を爪で引っかかれるような変な痛みがして、胸が苦しくなる。
その苦しみによって、目が感情を詰めた一滴を押し出して、頬を伝って落下した。
カランと音がして、目を開けるとガラス瓶の底に青い石が転がっている。
サファイアって呼べば聞こえはいいが、私にはただの青の塊に見えた。
ふと、窓の外を見ると空が灰色だ。
色が剥離していて、新聞紙のようなつまらない色をしている。
あの青い石は、この世界から青を引っこ抜いてできたものらしい。
綺麗な思い出を残す代償として、現実が彩度を失っていく。
そういう取引だ。
次の日、森の記憶も瓶に入れた。
木漏れ日の揺らめきと湿った苔の匂い、彼女が纏っていたカーディガンの萌黄色。
喉の奥が焼けつくような渇きと共に、目尻からエメラルドが生成された。
すると、部屋の観葉植物が炭の彫刻へと炭化する。
窓の外の並木道も、鉛筆のデッサン画へと変わっている。
私は緑という色を、自分の世界から切り離して、ガラスの牢獄へと追放した。
瓶の首元まで宝石が積み上がり、あとは最後の一つだけ。
引き出しの奥から、一番大事な記憶を引っ張り出す。
病院の白いシーツと彼女の笑顔。
痩せてしまっているが、あの笑顔だけはずっと残したかった。
心臓が不整脈を刻んで、激しく血液を送り出している。
指先の震えが止まらない。
熱い塊が目の裏を焼いて、溢れ出たそれは黄金色のアンバーとなって、瓶の口ギリギリに収まった。
私は蓋を閉めて、蝋で封をする。
両手にはズシリとした重力がかかって、彼女との日々の全てが保存されたことを、この重さが教えてくれている。
私は安堵の息を吐いて、愛おしいその瓶を光にかざした。
だが、そこにあるのは無色透明な石ころの山。
違う。
ここには色があるはずだ。
私は何度も目を擦ってみても、もう色は見えなかった。
青がどんな深さだったか、緑がどんな安らぎだったか、黄金色がどれほど眩しかったか。
わからない。
思い出せない。
頭の中の辞書から、その頁だけ破り捨てられてたように、スッポリと色のことだけが抜け落ちている。
彼女の瞳の色も唇の赤みも、もうわからない。
記憶を普遍の物に変えるこの儀式は、思い出す権利を放棄すること。
知らなかった。
いや、薄々は気づいていた。
私は、色のない石が詰まったその瓶を胸に抱き寄せて、ガラス越しに伝わる硬さと、手首に食い込む確かな重さを感じていた。
もう何も見えない、灰色の砂漠の中で。

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