透明なラストノート|【狸の短編小説】
真空管アンプの熱で温められた実験室に、防腐剤とアルコールの臭気が満ちていて、棚には時間の死骸が並んでいる。
私は琥珀色の液体が揺れるフラスコを見つめて、慎重に中身のそれをピンセットで摘み上げた。
かつてミオという人間が空気を震わせた、音声データの波形。
それを特殊な溶剤に浸して濾過し、彼女を構成していた音を液化して抽出する。
これは彼女の蘇生などという美しい儀式ではなく、私が私のために行う記憶の剥製作りだ。
まずは、朝の挨拶から抽出したトップノート。
これは鼻の奥の粘膜を突き刺す、鋭利すぎる柑橘の香り。
彼女が無理をして張り上げていた明るさが酸となって、私の喉を焼く危険な香り。
次に、笑い声を凝縮したミドルノート。
煮詰めた砂糖が焦げ付いたような、暴力的な甘ったるさが漂ってくる。
吸い込むだけで胃の腑が重くなり、胸焼けが食道をせり上がった。
ただ、どれを調合しても、試験管の中で生まれるのは、精巧な塗装を施されたマネキンの体臭で、そこには呼吸に伴う湿り気も、血管を流れる鉄の匂いもない。
私が彼女に強要していた理想的で明るいミオという虚像が、鼻につく芳香剤となって漂っているだけ。
焦燥が指先の震えとなって表れる。
これでは駄目だ。
私は彼女の遺品である革鞄の底を漁って、一冊の黒い手帳を引きずり出した。
ページを開くと、そこには整っていた筆跡が現れるが、後半に進むにつれて乱れていき、紙面を食い破るような筆圧が刻まれている。
『わかってほしくない』
『優しさという管理がつらい』
『綺麗なものとして見ないで』
視覚の情報が脳の誤変換を起こして、嗅覚中枢を殴りつける。
雨上がりのアスファルトにへばりついた、濡れ落ち葉の腐臭と、口の中を切った時に広がる生暖かい鉄の味。
飲み込んで消化しきれず、胃の中で発酵した言葉の澱。
私はそのページを乱暴に破り取ると、紙が裂ける音が小動物の骨を折る音に聞こえて、背筋に粟が立つ。
そのまま、このドス黒い感情の紙片を、煮えたぎる蒸留器のフラスコへと放り込んだ。
キュッと悲鳴のような音を上げながらガラス管を通って、冷却された雫は黄金色のベース液に一滴、ポタリと落ちた。
瞬間、試験管の中の液体が泥のように濁って、対流を始めた。
理想化された太陽の香りに、湿った影が侵食していく。
私は完成した液体をムエットに浸す余裕もないままに、瓶の口に直接鼻を近づけて、溺れるように香りを吸い込んだ。
すると、誰にも見せなかった涙の湿り気と汗の塩気、吐息に含まれる二酸化炭素の重みが通過していく。
あまりの生々しさに吐き気を催し、気管支が収縮して、拒絶反応で涙が滲む。
だが、その不快さの奥底にだけ、確かな肉体はあった。
液体がドクン、ドクンと脈打っている。
これは香水などではない。
私が蓋をして見ようとしなかった、彼女の内臓そのもの。
これをコルクで封じ込めることは、彼女を二度殺すことだ。
永遠に保存された、綺麗な標本になどなりたくないだろう彼女を、再び硝子の中に閉じ込めるわけにはいかなかった。
私は窓の鍵に手を掛ける。
錆びついたレバーが軋んで、夜の冷気が停滞した部屋の空気を切り裂いて流れ込んでくる。
私は完成した最高傑作を握りしめて、コンクリートの壁に叩きつけた。
パリンという硬質な破砕音とともに、飛び散った泥色の液体は壁の染みとなって、瞬く間に気化して夜風にさらわれていく。
部屋にはもう、柑橘の鋭さも砂糖の甘さも、泥の重さもない。
私が必死にかき集めて繋ぎ止めようとした全てが、分子レベルで解体されて、拡散していく。
後に残ったのは空っぽの空間だけ。
その時、ふわりと鼻先を掠めたものがあった。
それも香料などではない。
湿度も温度も、意味さえも持たない完全な無臭。
だがその何もしない、なにもない余白にこそ、隣でただ呼吸していた彼女の、あの安らかな温度が宿っていた。
私は深く息を吸い込む。
何ひとつ香らないその風を、肺の奥底まで満たしていく。
そこにはもう、物語も意味も存在しない。
ただ、透明な不在だけが、優しく私を取り囲んでいた。

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