腐敗の適温|【狸の短編小説】
ビルの谷間を吹き抜ける風が、僕の輪郭を曖昧にする。
肋骨の隙間を外気が素通りしていく感覚だけがあって、そこに確かな肉体があるという実感が乏しい。
街を行き交う人々は皆、分厚い幸福と無関心の脂肪を纏っていて、重力に従って地面を踏みしめている。
その中で僕だけが、製造過程で中身を詰め忘れたガラス細工のように、透けて浮いていた。
ポケットの中で、感覚の消えた指先同士を擦り合わせると、枯れ葉を折るような乾いた音が、自分の内側から響く。
僕が必要としていたのは、暖房器具の熱ではない。
この世界に留まるための、重しとなる汚れだ。
一本路地を入ると、そこだけ時間が腐敗して澱んでいる場所がある。
湿った段ボールの玉座に、その老婆はいた。
手元では、二本の棒針が異常な速度で交差している。
カチ、カチ、カチ、カチ。
それは毛糸を編む柔らかな音ではなく、小動物の脊椎を一本ずつ継ぎ合わせるような、硬質で無慈悲な音。
老婆は通りがかった僕の顔を見ることはなく、ただ僕の胸元の空洞あたりをじっと見据えて、しわがれた声で言った。
「重いよ。あんたのその薄い魂が、潰れるくらいにはね」
差し出した紙幣には目もくれず、老婆は編みかけの布を僕に手渡した。
受け取った瞬間、手首がガクリと沈む。
それは単なる繊維の重さではない。
泥を含んだ内臓を直接手渡されたような、湿った質量の塊。
首に巻いた瞬間、世界から音が吸い取られた。
同時に、首筋の動脈に、別の生き物の血管を接続されたような感覚が走る。
ドクン、ドクン。
マフラーそのものが脈打っていた。
銀色の繊維の一本一本が、皮膚の毛穴に潜り込んでくる。
熱い。
火傷しそうなほどに生々しい、他者の熱。
誰かが激情にかられて吐き出した唾液や、隠した涙の塩気が気化して、僕の鼻腔を満たしていく。
不快さの限界を超えたその先に、暴力的なまでの安堵がある。
空っぽだった僕の胃袋に、鉛のような生が流し込まれていく。
僕は往来の真ん中で立ち止まって、溺れるようにその獣臭い温もりを吸い込んだ。
そうしてようやく、僕の足裏が地面という現実を捉えた。
三日目の朝、マフラーの端がドアノブに引っかかった。
ブチッと繊維が断裂する音がして、部屋の中に腐臭が広がる。
ほつれた糸の先から、ドス黒い液体のような声が滲み出して、床に落ちた。
『……死んでくれてよかった、あいつがいなけりゃ……』
耳ではなく、脳幹に直接杭を打ち込まれるような、安堵を含んだ男の声。
続けて裏切りの言い訳、親への呪詛、愛猫を捨てた時の乾いた音が、切れた血管から噴き出す血のように溢れ出た。
銀色の布は床の上で、のたうち回る蛇のように蠢きながら、吐瀉物のような懺悔を撒き散らしている。
老婆が編んでいたのは毛糸ではなかった。
人々が忘れたいと願い、切り捨てた罪悪感の声帯を、丁寧に撚り合わせて封じ込めていた。
この温もりの正体は、誰かの魂が腐っていく時の発酵熱。
窓の外を見る。
通勤路を行き交う人々の顔が、やけにツルツルとして輝いて見える理由がわかった。
彼らは自分の中の醜悪な部分を排泄し、綺麗な抜け殻となって、前へ前へと進んでいるんだ。
彼らが捨てた汚泥が今、僕の部屋でとぐろを巻いている。
部屋の温度が急激に下がるのを感じた。
いや、僕自身が空洞に戻ろうとしているんだ。
孤独という冷気が、再び肋骨の内側から僕を食い荒らし始める。
あの吐き気を催すほどの熱量なしでは、もはや一秒たりとも呼吸ができないほど、僕はその重さに依存していた。
僕は床に這いつくばり、震える手で、蠢くそれを拾い上げて、ほつれた糸を強引に結ぶ。
『……死んでくれて……』という声を、結び目の中にねじ込んで、指で押し潰して黙らせる。
嗚咽は途切れて、再び粘着質な沈黙が戻ってきた。
僕は鏡の前に立つ。
青白く、輪郭の薄い男がそこにいる。
僕はマフラーを首に巻き、その結び目を喉仏の真上に押し当てた。
ジワリと他人の罪が肌に浸透して、僕の空っぽの器を満たしていく。
誰かの不幸で暖を取る。
その背徳感こそが、僕の冷え切った血を循環させる唯一の燃料だった。
鏡の中の男は、ウットリと目を細めた。
そして、首が絞まる限界までマフラーを締め上げると、まるで恋人の手に頬擦りをするように、銀色の毒蛇へ愛おしげに顔を埋めた。
ここが、僕の定位置だ。


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