聖なる墓荒らし|【狸の短編小説】
夜の底に沈んだ街路で、剥離師は息を殺したまま、再開発を待つレンガ壁の前に立っていた。
壁のひび割れた肌は、幾重にも言葉を上書きされた羊皮紙にも似ていて、古傷のように無数の色が滲んでいる。
彼は革の手袋を外して、自らの心の地層を探るように、素肌の指先でレンガの目地に触れると、凍てついた石灰の粉は、指紋に吸い込まれていく。
それから、いつも持ち歩く道具箱のビロードの内張りから聴診器を取り出して、冷たい円盤を壁に当てた。
耳に届いて来るのは、遠い地中の水脈にも似た鈍い反響音。
その奥に、忘れられた幾千もの声が混じり合う静かな囁きと、硬い核の脈動を探り当てると、彼は静かに頷いた。
壁は生きている。
そして今夜、看取られるのを待っている。
愛用のスクレーパーの刃が、一番上の無機質な灰色の層を削ぎ落とし始める。
アスファルトの粉塵と同じ匂いのする、退屈という仮面の欠片が、音もなく足元に積もった。
刃が深く沈み込み、現れた鮮やかな黄色の層からは、割れた玉の甘い匂いと、路地に響いたゴムボールの乾いた音がする。
遠い日の幻肢痛を感じていると言わんばかりに、指先が微かに疼いている。
さらに下のインクブルーの層は、粘り気を帯びて刃に絡みついた。
剥がれた断面からは、誰かの涙で滲んだ手紙のインクと、桟橋の潮錆の匂いが立ち上る。
鉄のスクレーパー越しに、約束を果たせなかったことの指先の震えが伝わって、一度手を止めた。
再開したのちに、刃が食い込んだ真紅の層からは、ガラスの砕ける鋭い音と、血と香水の入り混ざり合う熱がやってきて、その場の空気を灼いた。
声にならなかった言葉の断片が、夜光虫の群れとなって闇に生まれては消えていった。
それは鎮魂であると同時に、美しい屍を玩ぶような、背徳的な悦び。
幾刻が過ぎただろうか。
スクレーパーの先端が、硬いレンガの肌に触れ、最も古い地層に辿り着いたことを悟った。
そこに直接刻まれた、白く掠れたペンキで書かれた三文字。
『生きろ』
剥離師は道具を置き、指先でそっとその文字に触れると、接触した一点から、焼印を押されたような疼きが腕を駆け上がってくる。
言葉は、未来へ繋ぐための至上の祈りであると同時に、過去の全ての苦痛から決して逃さない、重い呪いでもあった。
この壁の記憶を解放しているのか、それとも最も甘美な部分だけを盗掘しているのか、その境界線が溶けていくのを、彼は勘付いている。
夜風が渦を巻き、 足元に積もっていた全ての色の欠片が、一斉に宙を舞っていく。
赤、青、黄、灰色。
あらゆる時代の色彩が混じり合って、言葉の亡霊を宿して夜空へと昇る。
街灯の光を乱反射させて、無数の短命な恒星が生まれては消えていった。
彼は、空になった道具箱の縁を握りしめ、ただその光景を見上げていた。
自らが創り出した一夜限りの天の川。
やがて最後の光点が闇に溶けて、壁には全ての記憶を抉り取られた、生々しい外科手術の痕だけが残されていた。
その傷口は、安らかな眠りを妨げられたものの無言の抗議が、夜の気配に晒されている。
剥離師は壁に背を向けた。
そしてまた次の静かな路地へと向かっていく。
過去という甘い毒に、また一口を求めにいく中毒者のように、規則正しい靴音を響かせ始めた。

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