虚ろの結晶|【狸の短編小説】
音も光も届かない水底に、男の工房は存在していた。
工房の棚には、光を砕く多角体や内側にモヤを宿す正球、淡い光を抱く雫などの乾いた感情の残骸が並んでいる。
彼は温度のない指先で埃を払って、完成した作品を差し出すと、客は自分の過去を受け取り、静かに頷いて去っていく。
その背中を見送る男の目に、色など映るはずもなかった。
涸れた泉の心を持つ彼は、他人の感情の奔流に刃を当てて、その飛沫を浴びることで、心の渇きを癒していた。
彫り終えた後の、薄明の静けさだけが彼のもの。
月の夜、工房の扉の前には桐箱がひとつ。
依頼主の名はなく、 中には一粒の結晶。
どの棚に置いてあるものとも異なり、形のないただの透明な塊が送られてきた。
だが、よくよく観察してみると、その内部では無数の虹が明滅している。
触れた指先が微かに灼ける、この結晶を握りしめては作業台の光をかざし、夜が明けるまで男はその場を動かなかった。
刃先が結晶に触れるたびに、知らない感覚が神経を焼いて、男を釘付けにしている。
消毒液の匂いが、光を反射したステンレスの器具に絡みつき、観覧車の窓に映る夕焼けが、頬の汗を淡く照らして、雨がアスファルトを打つたびに、街の灯りが滲んでいく。
結晶は硬く、内側から抵抗するため、刃は滑り、彼の指から何度も血が滲んだが、拭うだけで手を止めることはない。
彼の全てがこの虹の正体を知ろうと動き、ノミを握って寝食を忘れた。
懸命に誰かの時間を削り取った。
何日目かの夜明け、遂にノミが虹のある核に届いて、最後の一片を削り落とした。
男が核に触れたその一瞬、世界が白く弾けて、視界の縁は焼け落ちる。
途切れた電子音が、空気の底で微かに震えて、握りしめた手のひらには、時間の止まった冷たさが滲み、血の気が遠のいていくのを感じる。
彼の乾いた器を、奔流がこじ開けて満たしていく。
いつの間にか彼の手は止まっていて、ノミが手から離れたと気づいた頃には、床に当たり乾いた音を立てている。
作業台の上の光の中に、膝を抱えて顔をうずめて慟哭する若き日の男を模した像は現れていた。
虚ろだった男の瞳から熱いものが落ちると、ノミとは異なり、石の床に当たってチリンと澄んだ音を立てる。
埃の舞う深海の工房のなかで、小さな硝子の粒がひとつ、転がっていた。

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