ダブル・ダブル|【狸の短編小説】
ベランダの鉄柵に置かれた缶ビールが、じわりと汗をかいている。
隣に立つ彼女の視線は、頭上の最も明るい青白い一点を正確に射抜いていた。
今、彼女の網膜を焼いているその輝きは、二十五年前に放たれたもので、四半世紀という時間の厚みが、夜空スクリーンに張り付いている。
ただ、彼女が本当に見ているのは、光の速度でも埋まらない時間の彼方にある、化石になった記憶。
星を見るのは、そのカモフラージュにすぎない。
「ねえ」
彼女の指先は、青白い主役の星からわずかにズレた、暗い場所を示した。
「あの星、ベガのすぐ隣にあるやつ。名前、なんていうの」
私は喉に流し込んだ苦味を嚥下する。
天体図の記憶を辿れば、そこには記号だけが記されていて、神話の英雄も動物の姿も、そこには割り当てられていない。
「こと座イプシロン」
事実だけを口にすると彼女は「ふうん」と鼻を鳴らし、それから愛おしそうに目を細めた。
「朔哉くん、あの星のこと、よく話してたっけ」
死者の名前が、夜気の中に白い息となって溶ける。
その星は、主役の隣に寄り添う名前のない脇役で、彼女の中では記号以上の意味を持っていた。
私は部屋の隅で埃を被っていた三脚を持ち出した。
誕生日に贈った天体望遠鏡は、レンズの蓋を外すと、冷たいガラスの瞳が夜空を睨む。
ファインダーを調整して、倍率を上げる。
接眼レンズの中、闇が拡大されて光の粒子が暴かれる。
「見えるよ」
場所を譲ると、彼女は子供のように身を乗り出した。
彼女の長い髪が私の腕を掠めて、その感触だけが今ここにある確かな質量だった。
彼女は片目をつぶり、レンズの向こうの世界へ没入する。
「あ……」
感嘆の声が漏れる。
肉眼では一つの頼りない点に過ぎなかった光が、レンズを通したその世界では、事情が異なっている。
「二つある。ぴったり、くっついてる」
ダブル・スター。
肉眼という解像度の低い世界では、混ざり合って一つに見えるものが、ここでは残酷なまでに二つに分かたれている。
暗い宇宙空間に、二つの恒星が並んでいて、互いの重力に捕らわれ、永遠に回り続けながら、決して衝突することのない絶対的な距離を保っている。
引力という名の鎖で繋がれた、他者と他者。
彼女はレンズから目を離さないまま、呟いた。
「私たちみたい」
彼女が重ねた私たちの像が、誰と誰を結んだものなのか。
記憶に縛られた死者と彼女自身か、あるいは、今ここにいる私と彼女か。
私は残ったビールを飲み干して、空になった缶を握り潰す。
薄いアルミが悲鳴を上げて歪んだ。
「そうだね」
肯定の言葉を落とす。
望遠鏡を覗き込まなくても、私にはわかっている。
そこには二つの星があるだけ。
一緒になれない光が、ただ隣同士、冷たい闇の中に浮いているだけ。
彼女はようやく顔を上げて、満足そうに微笑んだ。
その瞳にはまだ、思い出の光が残響のように焼き付いている。
私は黙って、彼女の隣という定位置に戻った。
名前のない星として、その軌道を回り続けるために。

🔻以前に書いたこちらの記事を修正しました
🔸共同運営マガジン始めました。参加者募集中!
🔸 AI画像のアートスタイルを集めました!
🔸おすすめ!(画像をタップ)⬇️
🔻雪原を汚して|【狸の短編小説】

生命力は枯渇した
🔻喉に棲むもの|【狸の短編小説】

もう見逃さない。全編を一気読みできます。⬇️

