致死量の凪|【狸の短編小説】
モニター上の波形は、常に僕を脅かす。
不揃いに尖った頂点は、窓の外から侵入する工事の打撃音と、遠くでブレーキを軋ませる車の悲鳴。
僕はマウスを操作して、その頂点を削り取る。
そうしてようやく、スピーカーから吐き出される空気は整列して、無害な振動へと変わる。
世界は、あるべき平坦さを取り戻す必要があった。
海辺の古い借家の屋根裏で、その黒い箱を見つけたのは必然だったのかもしれない。
黒檀の表面には、無数の幾何学模様が刻まれていて、指でなぞると、何者かが爪を立てて引いた、絶望の記録であることが指先を通して伝わってくる。
だが、僕の目にはそれが、複雑で美しい吸音材のパターンに見えた。
蓋には『帰響』の二文字だけ。
その箱は、僕の渇望を理解していた。
「静かに」
僕が祈ると、箱は空間の振動を飲み込んだ。
窓ガラスを震わせていた潮騒は、視覚だけの情報に変わって、白波が崩れても鼓膜を叩く衝撃は訪れない。
完璧なS/N比を体現したノイズのない世界で、思考だけが加速する。
僕は箱の虜になって、餌を与え続けた。
隣家の畜犬の遠吠えに、上空を汚す航空機のエンジン音。
それらを「不要」と断じた瞬間、箱の表面の傷が微かに脈動して、音が死を迎える。
部屋が深海よりも濃い静謐で満たされていく快感に、口角を上げざるを得なかった。
異変に気が付いたのは母からの電話だった。
受話器から流れる音声データは明瞭でも、そこにあるはずの湿度が欠落している。
かつて母の声の背景には、実家の柱時計の秒針や、煮炊きする鍋の噴きこぼれる音が張り付いていた。
その雑音こそが安らぎの正体だったはずなのに、ノイズを濾過された母の言葉は、無機質な合成音声と等価になっていて、僕の胸のどこも震わせない。
好きだったベートーヴェンの交響曲を流しても、ただ周波数の異なる空気の圧縮が鼓膜を揺らすだけ。
感動というクオリアは、雑音と共に箱の底へ沈んでいる。
僕は恐怖し、箱を抱えて嵐の夜へ飛び出した。
これを捨てなければ、僕の中の人間性までが濾過されてしまう。
玄関を勢いよく出た瞬間、僕は気づいた。
世界が暴力装置へと変貌していたことに。
雨粒の衝撃が頭蓋骨を殴り、風の唸りが神経の束をやすりで削り取る。
過剰な静寂に浸りすぎた僕の感覚器は、通常の世界の解像度にもはや耐えられなかった。
這うように部屋へ戻って、箱を机に置く。
訪れる安寧。
痛みからの解放は、麻薬的な快楽を伴って脳を痺れさせた。
もう、戻れない。
ノイズに塗れた世界で傷つくくらいなら、ここで透明な存在になるほうが幸せだ。
そんな僕に答えを提示するかのように、箱は空腹を訴えている。
捧げるべき最後のノイズ、僕という個体を世界に繋ぎ止めている音の鎖。
僕は箱の縁に唇を寄せて、震える声帯で自らの名前を紡いだ。
音節が空気に触れた瞬間、箱の暗闇へと吸い込まれると同時に、僕の輪郭も希薄になる。
過去も感情も、肉体の質量さえもが、純粋な静寂へと還元されていく。
部屋には、黒い箱だけが残された。
その表面には、また一本、新しい傷が増えていることに気づく者は、もう誰もいない。

🔻以前に書いたこちらの記事を修正しました
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