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【創作大賞作品】オレはタクシードライバー




あらすじ



暖かみのある声であった。  
すこしホッとする。  
正直なはなし、タクシー会社(とくに東京のタクシー会社)はガラが悪い、というイメージを辻村は勝手に育てていたのである。  
だから、いざ電話するぞ、と決めてから、携帯を手にするまでに三十分もかかってしまった。
 素早くシャワーを浴び、カメラマン時代めったに閉めなかったネクタイを四十五センチの首にぎゅうぎゅう巻きつける。慣れないので苦しい。窒息寸前のキブンであるが、これから毎日しめるのだ、慣れなくちゃいかんのである。  
風呂場の鏡の曇りを濡れタオルでこすると、できあがった円のなかに、なんとも無性に悲しそうな男の顔がぽっかり浮かびあがった。  
自分でも、そう見えるのである。  
面接官にいい印象を持ってもらえるワケがないじゃないか。
「いやはや……」  
大きなため息ひとつ吐くと、あっという間に、顔は消えてしまった。  
もう一度、濡れタオルで円を描く。  
そのなかでムリして笑ってみた。
 はっきりとしたビジョンを持つと、人は成功するものだ――、と誰かが言っていた。  成功した人がそう言うてたのである。  いや、待てよ。  言うていたのはサーフィン馬鹿のケンケンか、ハワイへ一緒に行った上金かもしれぬ。 「俺は運がいい。素晴らしい人生が待っている。砂浜を馬鹿笑いしながら走るのだ。なんだってやれるさ。夕食はカツ丼にしよう」  胸の前で腕を交差させ、息を吐くと同時に勢いよく両側へ開いた。
「オス! 大盛!」  
気合いが入ったのである。


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オレはタクシードライバー


宮崎から東京へ

 乗車率二〇〇%の田園都市線で渋谷へ。  渋谷から山手線である。
 東京の人たちはみな足がたいへんに速い。  
 流れの早い川のようなのである。  
 俺はあっという間に飲み込まれ、押し込まれるようにエスカレーターへ乗っかった。  
 右横を、怒ったような顔をした大勢の人たちが、ガオガオガオと猛烈な勢いで駆け上がっていく。  
 エスカレーターの右側は駆け上がる人のためにあけておかなくてはいけないらしい。  都会のルールをひとつ覚えた。
 スーツの男もジーパン姿の若者もみな洗練された都会人に見える。  
 おっと、ジーパンじゃなく、ジーンズだ。  
 ところどころ破れたジーンズも、都会ではサマになるんである。ダメージジーンズ、というのだそうだ。田舎の母親の前でこんなジーンズを履こうものなら、マッハの勢いでミシンの餌食にされるに違いない。  
 路線図を何度も覗き込んでは確認している俺は、きっとやぼったく見えているのだろうなあ。  
 いかん、いかん、負けるもんかッ。
 「オス! 大盛り!」

関取男、登場

 会社に着くと、すでに二人が面接を受けていた。  
 リクルートスーツ姿の長身の青年と、白髪頭の小柄なおじさんである。  
 おじさんは、グレイのジャケットの下に暖かそうなセーターを着ている。  
 二人は、すぐに俺に気づき、微かな笑みを浮かべた。
「えーっと、はじめたばかりです。説明をしますので、あなたもこっちに来て」  
 関取のような身体の男が、俺を手招きした。  
 東北なまりなのである。 「それじゃあ、履歴書と免許証を出して」  
 関取男は、自分の名前も名乗らずに、免許証の提示を求めてきた。  
 なんだか、無愛想で、無遠慮な警官みたいなのである。  
 俺はすこしムッとしながら、テーブルの上に免許証と履歴書を投げ出すように出した。 「あれ……?」  
 関取男は、俺の免許証を手にすると、ただでさえ強面の顔をさらに険しくした。
「辻村さん」  
 関取男は、俺をまっすぐに見て吐き出すように言った。
「あなた、タクシーの運転手になれないよ」
「な、な、なんで、ですか? なぜ、タクシードライバーになれないのでしょう?」  
 思わず、腰を浮かしてしまった。
「辻村さん……」  
 関取男は、そんな俺を制するように分厚い掌をつきだして言った。  
 唇が乾いていくのを感じながら、固いソファに腰をおろし、テーブルを軽く叩くモノ音に緊張する。  
 事務の女の人が、お茶を持ってきてくれたのだ。
「どうぞ」
「ありがとうございます」  
 香水と一緒に、中華系の香りがふわりと浮かんで消えた。  
 そういえば、お昼はまだだった。
「辻村さんは、一種免ですよね?」  
 関取男は大きく肩を上下させながら言った。  
 取り組みが終わってインタビューを受けるお相撲さんのようである。
 お相撲さんは、取り組み後インタビュールームまで全力疾走してくるから、人によっては話しができないほどゼイゼイ言っているのだ、ということを知ったのは宮崎であるお相撲さんとお寿司を食べたときだ。  
 そのお相撲さんは、力士としては体重のないほうなのだけれど、俺の前で、あっという間に日本酒一升を飲みつつ、十人前の寿司をたいらげてみせたのだった。
 関取男が大きく息をしているのは、インタビュールームにむかって全力疾走したワケでもなく、酒一升を胃に流し込んだせいでもない。  
 ただの運動不足なのだ。  
 タクシードライバーをやると太る、というけれど、こんなにはなりたくないなあ。    あ、いや……。  
 そのタクシードライバーになれるかどうかも、まだわからないのであった。
「はい。電話でもそう伝えました。こちらで養成していただけるとおっしゃったので……」 「ええ、養成はしますよ。ただ、二種免を取得するためには、一種免を取ってから三年以上経過していないとダメなんですよ」
「え……? もう二十年以上乗ってますよ」
「まあ、ここ、見てください」  
 関取男は、俺の免許証の左下を指さした。
「ああ……」  
 目の前が真っ暗になってしまった。  
 そうか……。  
 そうだった……。  
 俺は頭を抱えたくなった。
 そこは、免許を取得した日付が書き込まれている。  
 確かに三年に満たない。
「足りませんね」  
 関取は、重々しく言った。
「はい……」
「これは、どうしたのですか?」
「い、一度、免許の更新を忘れて……」
「免許の失効ですね」
「だめなんですか? これでは、二種免、取れないんですか?」
「だめですね」  
 関取は冷たく言い放った。
「そんな……」  
 何のために苦労して東京に出てきたのだろう。  
 なんだか、なにもかも面倒になってきた。  
 すぐ、帰ろう。  
 もうここにはいたくない。  
 そのとき、関取男がフッと微笑んだ。
「このままでは、だめです」
「え?」
「府中の試験場で運転経歴書をもらってきてください。それがあれば、とれます」
「運転経歴書ですか?」  
 俺は関取男を抱きしめたくなった。
「二種免の試験を受けるまでに、それを取っておいてください」  
 関取男が言った。
「はい。わかりました」  
 気が抜けた。  
 とりあえず、タクシードライバーを目指すことはできそうなのだ。
「それでは、次。橋本さん」  
 関取男が、俺の左横を睨んだ。
「はい」  
 リクルートスーツ姿の長身の青年が返事をした。
「ふうー」  
 関取男が、長いためいきをついた。  
 それから低い声でゆっくり言った。
「ペーパードライバーだって?」
「あ……、はい……」  
 橋本君は、申し訳なさそうに答えた。
「ペーパードライバーがタクシードライバーに……、かあ……。いやあ、すごいな……」 「は、はい……」
「あとでうちの指定の教習所に電話するから、面接が終わったらすぐにそこに行ってくれる? いい?」
「はい」
「本当に乗ったことないの?」
「はい。バイク便をやっていたこともあって、バイクしか乗っていません。四年前に一度だけ四輪に乗ったきりです」
「うはあ……。まあ、都内でバイク便をやっていたのなら地理は詳しいだろうけど、四年前に一度っていうのはまいったな。筋金入りのペーパードライバーだね」  
 関取男が、ほんの少し笑った。
「す、すいません」
「あやまらなくてもいいよ。そうだ、ちょっと運転を見せてもらっていいかな。辻村さん、藤森さんもついでに見せてもらえますか?」
 俺たちは、関取男の後ろについて駐車場へ移動した。
「いやいや、どうも、どうも……」
「あんたがた、どこさ……」  
 歩きながら、俺たちは簡単な自己紹介をした。  
 藤森さんは、先月まで不動産関係のコンサルタントをしていて、政治家の秘書の経験もあるのだそうである。  
 そのせいか、身なりは悪いが、僕たちを少し上から見ているというか、プライドの高そうな顔つきをしている。  
 雇ってもらえれば、お互いに前職を辞めた理由を語りあうこともあるのだろうけど、今はひとつずつ、ハードルを越えていこう。

二 はじめてのコンフォート

 でかい、駐車場だ。  
 いったい何階あるのだろう。
「これが営業車です。最初は私が運転しますから、乗ってください」  
 トヨタのコンフォートである。  
 冷えた車内はタバコの匂いがして、俺は思わず息をとめてしまった。  
 助手席の窓をほんの少し開けながら、左のフェンダーミラーに写った自分を見た。  
 我ながら情けない面である。  
 もう少し気合いの入った顔にならんのかね。
 それにしても、この車はタバコ臭すぎる。  
 もしタクシードライバーになることができたら、お客さんのタバコに耐えなくちゃいけない場面も出てくるんだろう。  
 お客さんに「吸わないでください」、とは言えないしなあ。  
アメリカのENVIRONMENTAL AGENCYという機関によると、タバコの間接的喫煙(伏流煙)が原因で、毎年肺がんで三千人のタバコを吸わないアメリカ人が死んでいるとのことである。  
 健康に害があるどころか、明白に死んでるって事実があるのだ。  
 ショックである。  
 レストランや駅など、タバコを吸えない場所が増えているけれど、最後に残りそうなのは、タクシーだろうなあ。  
 ただでさえお客さんが少なくなっているというのに、喫煙者は乗せない、というワケにはいかないだろう。  
 逆に、都内でタバコを吸えるところがどんどん減っていき、道路もオフィスもレストランも禁煙、そうして、ただ吸うためだけにタクシーに乗ってもらえるなら、それもいいことかもしれない。
「コラムシフトなんですね」  
 後部座席に座った、藤森さんが言った。  
 俺の後ろの橋本君も身を乗り出して、運転席を見ている。  
 シートをつかんだ両手から、彼の不安が伝わってくる。
「そうです。慣れるとこれの方が楽ですよ」  
 関取男は広い駐車場を走り抜け、急なスロープを降り始めた。  
 左回りである。
「かつんと切ってやれば、ハンドルはもう動かさなくてもいいんです」  
 関取男が説明する。  
 本当だ。  
 かなりのスピードでスロープを降りているというのに、関取男のハンドルはピクリとも動かない。  
 ドヘタなドライバーは、コーナーの中でハンドルを細かく動かすものだ。  
 乗り物に弱い人は、こんな運転をされると、たちまち酔って吐いてしまう。
 下まで降りると、今度はスロープを上る。  
 もとの場所に戻ると、藤森さん、俺の順番で車を運転した。  
 久しぶりのセダンだったけれど、もともと運転は得意なのだ。  
 合格点はもらえた。
「おふたりは慣れてますね。いいでしょう。さて、最後は橋本さん!」  
 関取男が言った。
「は、はい」  
 スーパーなぺーパードライバーの橋本君は、そう言って、運転席に回った。
「ぶつけてもいいから、思い切っていきなさい」  
 助手席の関取男が、橋本君の肩を叩いた。
「は、はい」
「がんばって」  
 俺は、思わず声をかけてしまった。  
 でも、怖いからぶつけないでね……。
「はい」  
 大きく深呼吸した橋本君がハンドルを握り、左手でギアをDに入れた。  
 はじめてハンドルを握る人みたいである。  
 うひゃあ、俺まで緊張してきたぞ。
「おい、おい!」  
 関取男が笑いながら言った。
「サイドブレーキを解除してから出発だよ!」
「え、えっと……」  
 橋本君の視線がハンドルの回りを泳ぐ。
 膝がハンドルに当たっている。  
 長い足が窮屈そうだ。  
 頭から天井まで空間はじゅうぶんにあるから、座高は低いんだ。  
 いいなあ。  
 自分の頭の上の空間を掌で探って、橋本君よりかなり狭いことを知り愕然とする辻村であった。
「どうした?」
「あのう……、サイドブレーキってどれですか?」  
 橋本君を見て緊張していた俺と藤森さんは、思いっきりずっこけてしまった。
「え? そこにあるレバー!」
「こ、これですか?」  
 橋本君がレバーを操作すると、キュキュッという耳障りな音が響いた。  
 再び、ずっこける、俺と藤森さん。
「それはワイパー!」  
 関取男が苦笑した。  
 突然、駐車場がぱっと明るくなった。  
 ライトが上向きになったのだ。
「あのなあ……」
「い、いや、今のは手があたってしまって……」  
 室内ミラーに写った橋本君は、途方にくれた顔をしている。
「本当に車のこと知らないんだな。いや、まいったな、これは」  
 関取男が、短く刈り込んだ頭をかいた。
「すいません」
「これだよ。これ! 引くときも解除するときもできるだけ音をたてずに操作するのがプロだからね」  
 関取男は、サイドブレーキの説明をした。
「はい」
「それじゃ、車を出して」
「リラックスですよ」  
 藤森さんが、ほいほい、と自分の肩を上下させて見せた。  
 しかし、橋本君にはそれにこたえる余裕はないようだ。
「い、行きます!」  
 橋本君は、ガンダムをはじめて発進させるアムロのように言った。  
 がんばれ、橋本君!  
 命は預けたよ!  
 車はするすると滑るように駐車場の中を、ずっとむこうに見える外光に向かって走り出した。  
 だいじょうぶ、だいじょうぶ。  
 オートマチックなんだもの、すぐに慣れるさ。  
 そして、スロープ。  左に大きくカーブしておりていく。  
 お、なかなか、ハンドルの切り方もいい。  
 無難にこなしていくではないか。  
 でも、なんとなく、橋本君の運転姿勢がおかしい。  
 身体が微妙に助手席の関取男の方に傾いているのだ。
 たまらずに関取男が言った。
「橋本君、なぜそんなに身体を傾けているの?」
「あ、そうか!」  
 橋本君は、ぜんまいじかけのおもちゃのように、ぱっと身体をまっすぐにした。
「はあ?」  
 関取男が、怪訝な顔をしている。
「バイクの癖で」
「あー。ハングオンね」  
 バイク好きの俺が思わずシートを叩いて言うと、藤森さんがすかさず言った。
「ジュディーオング?」  
 全員が大爆笑した。
「ハングオン。バイク用語です。車体を傾け、膝をするようにコーナーをぬけていく体勢のことだよね」
「はい、そうです」  
 橋本君もうれしそうに笑っている。  
 このおかげでリラックスしたのか、橋本君は見事にスロープをクリアーしたのだった。  俺たちは車の外に出た。
「OK! いいでしょう。事務所にもどっていろいろと書類を書いてもらうけど、それが終わったら、橋本君は教習所へ、藤森さんと辻村さんは健康診断に行ってきてください」   関取男の吐く息は、白かった。

三 雪の日の健康診断

 藤森さんのシビックで、俺たちは指定された病院にむかった。  
 たかが健康診断、されど健康診断。  
 タクシー会社では、健康診断の結果が悪ければ、再検査になり、改善されなければ採用してもらえないこともあるのだそうだ。  
 一回目の診察料は会社が負担してくれるのだけれど、再検査から自己負担になる。  
 血液検査や尿検査、視力、聴力、心電図に血圧などなど。  
 そうそう、エイズの検査まであるのだ。  
 映画で見るアメリカのフットボール部は、一列にならんで、医者の耳元でカラ咳をしつつ、いっせいにパンツをおろしたりするんだけど、あれはやっぱりナニの形状や色つやを見つつ、ナニ系の病気を診断してるんだろうね。
『ビッグウェンズデー』でも、徴兵される若者たちがパンツをおろしていた。  
 映画『アルマゲドン』では、肛門の検査までしていたなあ。  
 お客さんにタックルしたり、コンフォートで空を飛んだりすることはないハズなので、パンツをおろす系の検査はたぶん行われないと思うのだけど、油断はできない。
「今日は、勝負パンツだったかな? お尻はきれいに洗っていたかな?」  
 なんて、唇噛みしめ、眉寄せて、そんな検査をされている自分を想像しては、「おぞましー、おぞましー」と、身震いするのであった。  
 平行して、刺青の有無も確認される。  
 大きな声では言えないけれど、中にはOKという会社もある。  
 つまり元ヤクザを雇っている会社もあるのだ。  
 でも、まあ、基本的に都内のほとんどのタクシー会社が刺青を入れている人は雇わない。  ドライバー志願者は、健康で健全であるということが絶対条件のようである。
 ちなみに、二種免許の教習費も途中リタイヤしたら、負担してくれた会社に返さなくてはならない。  
 学科試験は二回目まで、会社負担。  
 実技試験も二回まで、地理試験は二回だけ、会社がもってくれる。  
 引っ越しや部屋を借りるのに、ものすごくお金を使ったので、自腹はできるだけ避けたい。
 俺は、やや血圧に問題があったので、二週間前くらいからタマネギを主食のように食べては、友人から借りた本格的な血圧計でまめに計測していた。  
 おかげで血圧は正常に戻っている。
「辻村さんは、地方出身なんですね」  
 藤森さんが、少し甲高い声で言った。
「はい、九州の宮崎です」
「ああ、シーガイアの?」
「はい。でも、あれは宮崎の恥部です。反対する県民の意見を無視して、俺たち一般人が一本でも切ったら逮捕されてしまう国有林を何万本も伐採して作りましたからね」
「怒ってますねー」
「はい、シーガイアについては五時間くらいしゃべれますよ」
「それで、東京には長く住んでいるのですか?」
「それが……、つい先日引っ越してきたばかりで……。ははは……」
「わあ、それはたいへんですね。ペーパードライバーの橋本君もたいへんだけど、辻村さんも、それと同じくらい、いや、もっとたいへんかもしれませんねえ」
「わあ、脅かさないでくださいよ」
「いやいや、すいません。それでは……。今、私たちが走っている道路の名前を言えますか?」
「いいえ、恥ずかしいことに全然わかりません。さっきオーバーハングの標識を見たので池袋方面に向かっている、っていうことがわかる程度です」
「そうですか? いや、やっぱり、たいへんですねえ」
「それで、正解は?」
「明治通りです」
「はあ、そうなんですか。やっぱりたいへんそうですね。ああ、不安だなあ」
「いえ、いえ、たいへんといえば、私だって、そう。家に帰ることのできない立場ですからねえ」  
 藤森さんは、突然とんでもないことを言った。
「え?」
「いろんな人に追われているんですよ」  
 そう言う、藤森さんの目の下にはクマがある。  
 心なしか、全体的に憔悴したような姿にも見える。  
 ヤバイ人に追われているのだろうか。  
 ペルー政府から国際手配されているんですか? 
 なんて、冗談は言えない。
「いや、それは、とんでも……」
「最後に関わった建築でトラブってしまって。情けないですよ。億単位の金を動かしていた男がタクシーの運転手だなんて」
「政治家の秘書もされていたんでしょう」
「ええ、いい思い、しましたねえ……」  
 ハンドルを握りしめた藤森さんは、遠い目をしつつ、いい思いをしたというエピソードをいくつか話してくれたのだった。  
 不況のせいで、社長の冠をかぶったことのあるタクシードライバー志願者も多い。  
 しかし、前職のプライドを捨てきれない人は、ドライバーは勤まらないと聞く。  
 今まで部下を怒鳴っていた人間が、自分よりずっと年下の客に見下され、怒鳴られたりすることだってあるのだ。  
 それを仕事と割り切れないドライバーは、客とトラブルを起こして、去っていくのだそうである。  
 俺はどうだろう?  先生と呼ばれる職業についたヤツはろくな人間がいない、というけれど、俺もときどきそう呼ばれる職業だった。  
 腰は低い方だと思うのだけど、怒鳴られて腹を立てない、という自信はない。
 大沢病院は、通りから少し小道に入ったところにあった。  
 ひび割れた外壁が、雑に補修されている。  
 汚れた白壁に枝分かれしてはしるコーキングのグレイは、血管を連想させる。
 受付で書類に名前を書いていると、若い看護士さんが無邪気な声を上げた。
「雪だ!」  
 患者さんが乗ってきたのだろう。病院の前にとめてあったオートバイの黒いシートがすぐに真っ白になってしまった。
 検査は、順調に進んでいく。
「もし、普段高めでしたら、計る前に深呼吸してくださいね」  
 と、いう看護士さんのアドバイスのおかげで血圧も正常値。  
 最後の血液検査になった。
「血管が細いですねえ」
「はい、身体は思いっきり太いんですけどねえ」
「……」  
 冗談が通じない。
 看護士さんは、真剣な顔で俺の左腕を見ている。
「看護士さんによっては手の甲に刺す人もいますよ」  
 不慣れな看護士さん、もしくは八つ当たり的キブンの看護士さんは、腕に針をさした後、血管をぐりぐりと探したりするのである。  
 これは、針を抜いた後で相当痛くなるので、血管が見つからないのなら、手の甲でお願いしたい。  
 ――と、いう意味をこめて言ったのだ。
「それでは、刺しますよ」  
 ああ、やっぱり、腕に刺すのね。  
 うまく刺してねー。
「はい……」  
 俺は、小さく返事をして、視線を腕からそらした。  
 見なければ、ほんの少しだけ、痛みが軽くなるような気がする。
「終わりました。テープを貼っておきますので、しばらくしたらワイシャツの袖をおろしていいですよ」  
 この看護士さんは、上手だった。  
 ほとんど見えない、俺の静脈に一発で針を刺し、しかもほとんど痛くなかったのだ。 「ありがとうございました」  
 俺は、上着を持って外に出た。  
 その俺を見て、廊下で上着を着ていた藤森さんが叫んだ。
「どうしたんですか! 辻村さん!」

場外乱闘で大流血?

「へ……?」  
 と、のびたモモヒキのような声を出しながら、藤森さんが指さした先を見ると、なんと、俺のワイシャツの袖が真っ赤になっているではありませんか!  
 もちろん、血がワイシャツを赤く染めているのだ。  
 肘から先が、てかる程にぐっしょりと濡れている。  
 しかも、その範囲はどんどんひろがっているのである。
「あびたこぼんちゅらえったかどっこい!」  
 俺は、言葉にならない声を発してしまった。
「看護士さーん!」  
 藤森さんが、すぐに処置室の中に顔を突っ込んだ。
「いったいなんなんだよ」  
 もうすでに、手首まで真っ赤になったワイシャツを「えいゃ!」と、まくって腕を見てみた。  
 なんと、肘の内側に貼ったバンドエイドがめくれ、それで覆われていた小さな穴から勢いよく血が噴き出していたのであった。  
 びっくりなのだ。  
 バンドエイドがはがれて血が噴き出したのか、へなちょこバンドエイドが血の突進を阻止できなかったのか、わからないけれど、それは思ってもみない光景であった。
「あらあら」  
 看護士さんは、穏やかな声でそう言うと、俺を処置室の椅子に座らせ、手際よく、脱脂綿やガーゼで腕をきれいにしてくれた。  
 看護士さんまでが動転し、「きぃー!」と、まなじり釣り上げ叫びつつ、両手両足うち振り回しながら、外に飛び出して行く――、というおもしろい風景には、残念ながら出くわさなかった。  
 さすが、プロなのだ。  
 ほどなく出血もおさまり、俺の腕には大きな絆創膏が貼られた。
「それではワイシャツを洗いましょうか」
「いいですよ。上着を着るから見えません」
「すぐに洗わないと、血は落ちにくくなりますよ」
「いいんですか?」
「アルコールでぱっぱっと洗いますから、少しここで待っていてください。片袖だけですから、すぐに終わります」  
 俺に、小さな背中をむけた看護士さんはやはりプロだった。

四 学科教習所は賭場のよう

 さあて、いよいよ、『養成』だ。  
 学科を習いに自動車教習所に通うのである。  
 教習料は、会社が持ってくれる。  
 養成期間中は、日当として八千円がでるけれど、二年間は会社で働かなくてはいけない。  俗に言う『しばり』だけれど、まあ、二年以内に会社をやめたくなったときは、教習費用を返せばいいのである。
 教習所は、巣鴨にあった。  
 ○○自動車教習所という立派な看板しょっているくらいだから、会議室くらいの部屋の中でホワイトボードなんかを背に、スーツをびしっと着こなしたシチサン男が、やや細めのメガネをキラリと光らせながら、「ほらほらそれはハミキンです。ハミキンはハミチンとは違います、わかりますか、みなさん? これこれ、緒方さん、早弁はやめてくださいね」などと、厳しくも、丁寧に教えているものかと思っていたら、これが大間違い。  
 来るべき場所を間違えてしまったのか、と一度開けたドアを閉めてしまったほどであります。
 タバコの煙で白く濁った教室というか事務所は六畳くらいで、道路側の窓に会議用のくたびれた長机が並べられているだけなのだ。  
 八人座ったら、空席なし。  
 十五人も入ったら窒息死してしまいそうである。  
 先生は、けだるくタバコをふかす、うす紫色のツナギを着た長髪の兄ちゃん。  
 特攻服が似合いそうだ。
 俺たち、生徒が机にむかって座ると、兄ちゃん先生には背中をむけることになる。  
 兄ちゃん先生が選んでくれた問題集をがしがしやって、回答した後、わからないところを彼に質問するというスタイルでやっているようである。  
 教材はない。  
 ひたすら、模擬試験なのだ。  
 一種免許は百問中八十問正解すれば合格だが、二種免許は九十問正解しなくてはならない。  
 さらに、旅客に関する問題がくわえられる。  
 一見手強そうだけど、学科の問題なんて、一種のときに一度やってきているので、そんなに難しいことではない。  
 フツーにやれば、みんな一発合格じゃないだろうか。  
 しかし、この先生に問題があった。  
 やり方は実践的で非常にいいのだけど、問題は教え方だ。  
 手のつけられない不良だったと豪語する兄ちゃん先生は、なかなか覚えることのできない生徒を見つけると、椅子に片膝を立て、難癖をつけつつ、昔の武勇伝や自分がいかに立ち直ったかを延々と語り始めるのである。
「なあ、オレより運転歴が長いと思ってるから、オレの話しは聞けないんだろ」
「そんなことはありません」
「あんた運転歴どのくらいよ」
「はい。三十年です」
「ふーん。オレと同じくらいだなあ」
「そうですか」
「だってオレ、五歳のときから乗ってるもんね。足が届かなくて苦労したなあ」
「すごいですね」
「なんなら勝負するかい。教習所のコースを逆走でぐるぐる回るんだ。オレはちっともフラつかないよ」
 こんな話しが始まると、みんな鉛筆を置いて、兄ちゃん先生の方に椅子をむけ、「ほー!」とか、「へえー!」という感嘆の言葉を並べ立てつつ、一刻も早く彼のつまんない話しが終わるのを祈るしかないのだ。
「新宿でボクサーとケンカしてな、ヤツはオレのことを素人と思っているから、わざとボディをあけてやったのよ。ここね、ここよ! そこを狙ってうってきたところをバーン! わかる、フェイントよ!」
 そんな子供だましのフェイントにひっかかるボクサーなんているのだろうか。
 自分より遙か年上の、しかもスーパーうさん臭いオヤジ集団を教えて行くためには、ある程度のはったりは必要なのだろうけど、一時間半、自慢話をされるとさすがに鼻白み、嫌気がさしてくる。  養成のオヤジさんたちは、一日でも早く試験に受かって仕事をしたいのだから、精神論振りかざしつつ回り道なんかするよりも、目的地にむかって一直線――、ようするに予備校方式で正解を選ばせる頭脳やテクニックを教え、鍛えぬいた方がいいんじゃないだろうか。  
 みんな、時間の余裕はないのだ。
「もうあんたに教える気がないから、かみさん連れてこいよ。オレはあんたのかみさんに教えるから、あんたはかみさんに習いな」  
 兄ちゃん先生にこんなことを言われ、膝の上で両拳を震わせて耐えているおっちゃんもいた。
「仕事を始めたら、ひどい客もいるから、それに耐える心を養うためにもわざと厳しくしてもらってるよ」  
 俺たちをここに送った人の言葉を思い出した。

五 技能教習所はさらにボロ

 ずっと、砂金っていうモノは、川砂をザルですくって、その中から見つけだすものだと思っていた。  
 でも、よく考えると、サイズの小さいものをふるい落とすことしかできないザルに砂金を選ぶ力はないのだ。  
 ただの砂と砂金の違いは、重さだ。  
 砂金取りは、パン皿を使う。  
 砂をパン皿でさらい、軽く水に浸した状態でパン皿を回しながら砂を流していくと、重い砂金がパン皿に残るのである。
 さて、俺はただの砂だろうか、それとも砂金か……?  流されないで、この世界に踏ん張ることができるのだろうか。
 錦糸町の事故対策センターの適正診断も、学科試験も難なくクリアーして、いよいよ二種免許の運転をコーチしてもらうことになった。
 技能試験は十一日後。  
 ずいぶんと、日にちがあくものだ。  
 先の見えない不況のせいで、タクシードライバーを目指す人が多く、そのためなかなか受験の予約を取れないのである。  
 さっさと試験に受かって、一日でも早く仕事をしたいって気持ちもあるけれど、十一日くらいでプロの運転をマスターできるのだろうか、という不安もある。  
 預金残高のケタがひとつ多ければ、半ばあきらめた浪人学生のように、お気楽に養成生活を半年ほどおくってもかまわないんだけどなあ。  
 なあんて思いつつ、巣鴨の学科教習所へ。  
 さらに、巣鴨の教習所から、荒川の河川敷のコースまで、『養成』である俺たち自身が運転するハイエースでむかうのだ。  
 全員、私服。  
 弁当は、各自持参。  
 おやつもタバコも自由。  
 他の会社では養成期間中、制服を義務づけているところもある。  
 挨拶も軍隊式ですべてテキパキと行動しなくてはいけないらしい。  
 そういった教習所に比べたら、ずいぶん楽だ。  
 助手席に座った『養成』の先輩から運転のチェックをされる運転手以外、お気楽遠足モードなのである。  
 しかし、東京の道路を走る自信のない俺は、いつか回ってくるハイエースの運転手役を内心びびっていたりした。
 河川敷のコースは、さびれた自動車学校といったカンジである。  
 錆びたポールは、スズメの巣になっている。  
 トイレは、工事現場などでよく見かける仮設トイレだ。  
 それでも、車庫入れや鋭角など必要なモノはすべてそろっている。  
 道場や学校は、見てくれはあまり関係ないと思う。  
 指導者さえ素晴らしければ、それでいいのだ。  
 指導者さえ……
「うんうん……」  と、頷く俺の横をCB七百五十に乗った青年が駆け抜けて行った。  
 後ろ姿の彼は、なんとヘルメットをかぶっていない。
「こら! お前! 道路を歩くんじゃねえ!」  
 突然、罵声が響いた。  
 声の方を見ると、ドラム缶の炎に手をかざしていたオヤジの目が三角になっていた。   いやはや、さっそく、怒られてしまった。  
 俺を怒鳴った歯並びの悪いオヤジが、校長だと、先輩が教えてくれた。  
 他に、先生は二人いた。  
 いつも人を小ばかにしたような顔をしたおばちゃん先生と、坊主頭にレイバンのサングラス、さらにショルダーホルスターという、ヤクザ映画から飛び出してきたような風体の矢沢さんだ。
 怪しい。  
 怪しすぎる。  
 そういえば、矢沢さんの車には日の丸のステッカーが貼ってあった。  
 本職は、右翼の方かもしれない。
「ほんじゃあ、はじめるぞー! 今日はじめての人は?」  
 バイクブーツのチャックをだらりとあけ、短靴のようにして履いている、校長先生が声を上げた。
「はーい!」  
 みんな元気がいいのだ。  
 小学生のように、数人のおじさんたちが手をあげた。
「それじゃ、そこのおっちゃんとこっちのおっちゃんはこの車、今日は左折をやる!」   大先生が、ヤニだらけの出っ歯を剥き出しにして、うききっと笑った。

六 おばちゃん先生は怖い

「辻村さん……。ついにここまで来ましたねえ……」  
 大黒様のような豊かな顔と大きな耳たぶを持った、金田さんが遠い目をして言った。   在日韓国人で、元運送屋社長の金田さんは、学科試験でかなり苦労した。  
 毎回、たった一点に泣いていたのだ。  
 受験費用は二回までは会社が見てくれるが、それからは自己負担になる。
「辻村さん。オレ……、五回落ちたとき、もうやめようと思いましたよ」  
 赤い目をした金田さんが、言った。
「つらかったでしょう」
「ええ。生活費を切りつめて、毎回、受験費を捻出してくれている女房に、金をくれなんて言えなくなりましてねえ……」
「うーん……。試験の費用ってけっこう高いですもんね……」  
 カメラマンを失敗した俺も、金がなくなり、妻から小遣いをせびることができずにバイクを売ったのだ。金田さんの気持ちは痛いほどわかる。
「そんなとき……、へこんでいたオレに息子が声をかけてくれたんですよ」
「ああ……、トラックに乗っている息子さんですよね」
「そう。あいつがね、こう言ったんですよ、うっ……」  
 金田さんの顔が崩れた。  
 今にも大粒の涙がこぼれてきそうである。
「……オヤジは、かあちゃんに金をもらうのが、いやなんだろう? 後はオレが金だすからさ。何度でも受けてきなよ――って……」  
 金田さんは、メガネを外すと、ハンカチで両目をぬぐった。  
 いい息子さんだなあ。  俺も胸が熱くなった。
 金田さんが学科試験に合格した日、俺も同じ受験室にいた。  
 電光掲示板に金田さんの番号が点灯し、しばらくして、俺の番号も点灯した。
「おめでとうございます!」  
 俺が差し出した右手を強く握り返してきた金田さんの唇が震えていた。  
 俺は、口を真一文字に閉じた金田さんの背中を叩いた。
「いえい!」  
 ひとつ目のハードルを越えたことを吉野家の牛丼で祝い、俺たちは本社で制服を受け取ったのだった。
 さらに高いハードルに挑む金田さんが、大きく深呼吸をした。  
 俺は、金田さんの小さな目を見つめ、金田さんは、俺の目を見つめた。  
 泣きたいときは、思う存分泣けばいいんだよ、金田さん。  
 涙は心の汗さ。  
 たっぷり流してみようよ。  
 オレたち、まだ青春!  
 なんて、感動をぶちまけようとした瞬間。
「ほら、そこのオジサンふたり! さっさと車に乗りなさい!」  
 おばちゃん先生が、声を上げた。  
 眠そうな目が、すわっている。  
 はいはい、どーせ、我らオジサンですよ。  
 俺と金田さんの本日の教官は、おばちゃん先生のようだ。
「どっちでもいいから、さっさと乗りなさいよ!」  
 俺と金田さんが運転席に座る順番を話し合っていたら、さらに怒鳴られた。
「じゃあ、オレが」  
 金田さんが、あわてて運転席に座った。  
 おばちゃん先生が助手席に座り、俺は後部座席に腰をおろした。
「まず何をするのよ!」
「えっと、シートベルトを……」
「そんなものしなくてもいいから、さっさと車を出しなさい!」
「しなくていいんですか?」
「あんたね、私がしなくてもいい、って言ってるのをなんで聞き返すの? 私は誰?」 「は、はい。きょ、きょう、教官様であります!」  
 金田さんは、パニックになってしまった。
「そうよ。おじさんたちは素直にはい、って言ってりゃいいのよ。早く出しなさい!」 「はい!」  
 金田さんは、素早くシフトレバーをDに入れると、ウィンカーを出して、ブレーキから足を離した。
「確認は?」
「はい?」
「ちゃんと、見なさいよ!」
「はい!」
「ミラーを見てどうすんの! 自分の目できっちり見なさい! むこうから車がやって来てるじゃないの!」
「はい!」
「はい、はい、は聞き飽きたから、早く車を出しなさい! 
 今日は、左折をやりたいんだけど、車を出すところで終わりそうねっ!」  
 おばちゃん先生は、小馬鹿にしたように言う。
「はい、すいません!」  
 車に乗り込んで、五分。  
 金田さんは、怒られ続けた。
「のろのろ走らないの!」
「はい、ごめんなさい! ひー!」  
 金田さんは、完全に萎縮している。  
 こんな指導でいいのだろうか。  
 俺は、大勢の初心者サーファーの指導をしてきた。  
 何ヶ月も板の上に立てない人を二時間以内で立たせてしまうのが、自慢だった。  
 なんにでもコツというモノはある。  
 萎縮するとコツを覚える前に潰れてしまうものだ。  
 その人が持っているものを引き出してあげてこそ、本当の指導者なのではないのだろうか。  
 後ろから見ていて、このおばちゃん先生はただ金田さんをいじめているだけにしか見えない。  
 こんな人の指導でいいのだろうか。  
 俺は、ものすごく不安になった。

七 俺もしごかれる

「ルーム! ミラー! 死角!」  
 おばちゃん先生がヒステリックに叫ぶ横で、俺は完全に萎縮してしまっていた。
「こんにゃろー!」  
 俺は、心の中で叫んだ。  
 しごかれる金田さんを見ているうちに、俺もいつの間にか舞い上がっていたのだ。  
 おばちゃん先生を殴りたいという気持ちは完全に押しつぶされ、俺はおばちゃん先生にカンペキに気合い負けしていた。
 二種免許合格のポイントは、安全確認がきちんとできているかにつきるらしい。  
 確かに、技術面については、すでに一種を持っているので、できて当然なのだ。  
 ところが、その技術も萎縮すればするほどあやしくなってくる。  
 ウィンカーを出すのを忘れる。  
 フラつく。  
 段差に乗り上げる。  
 もうすでに、数十年運転してきた男たちが、考えられないことをやってしまうのだ。  安全確認だって、決して易しくはない。  
 萎縮し、初心者ドライバーに戻ったような精神状態の中で、これをこなさなくてはならないのは結構タイヘンなことなのである。  
 ルームミラーを見て、フェンダーミラーを見て、死角を見る。  
 すべて、目だけを動かすのじゃなく、きちんと首を振って見なくてはならない。  
 試験官に「どうよ! わたしゃ、ちゃんと見たもんね!」と、アピールしなければいけない――ということだ。  
 しかも、それぞれの動作が流れてはいけないのだ。  
 ぴっ、ぴっ、ぴっと素早く視線を止めて、マッハの速度で首を振る。  
『巨人の星』の星飛雄馬は野球人形、オズマは野球ロボットと呼ばれたけれど、俺と金田さんはおばちゃん先生から首振り人形、もしくは首振りロボットへと養成されていくのであった。
「こら! ハンドルは滑らせない!」  
 俺が左に切ったハンドルを掌の中でつーっと滑らせるのを見た、おばちゃん先生はダッシュボードを叩きながら怒鳴った。  
 俺には、運転の癖がつきすぎているようだ。  
 十時十分の位置でハンドルを握るなんて何年ぶりだろう。  
 きちんと握りなおして、ハンドルをもどすという作業もすっかり忘れている。
「滑らせないぞうー、滑らせないぞうー」  
 と、思うほどに緊張してハンドルさばきがギクシャクしてきた。
「オレってこんなに運転がヘタだっけ……」  
 情けなくなってきたところに、またおばちゃん先生のヒステリックな声が飛んできた。 「踵を床につけて、アクセル、ブレーキしない!」  
 つまり、アクセルからブレーキペダルに爪先を移動させる際に、踵も上げろというのである。  
 俺は首を傾げた。  
 ある女性のプロレーサーから、踵を上げるとペダルへの移動スピードが遅くなる、と聞いていたからだ。
「どうよ」  
 って、質問したくてたまらなくなったけど、言ったって自分の技量が上がるワケではない。  
 時間ももったいないので、教官にしたがっておこう。
「ほら、踵上げなさいよ!」
「は、はい!」  
 俺の返事は、ひきつっていた。
「ほーら! 死角を見てない!」
「は、はい!」
「はいじゃない!」
「は、はい!」
「ちゃんとやれよ!」
「は、はい!」
「はい、はい、言うな!」
「は、はい!」
「返事だけはいいんだから、これくらいできないでどうすんの。あ、また、滑らせた。あんた……ば……」  
 おばちゃん先生は、言葉を飲み込んだ。  
 ふと横を見ると、もうあきれたねえ――という顔をしている。  
 性格の悪さが顔に染み付いている。  
 何と言おうとしたか、顔みりゃあ、わかるよ。
「辻村のバカ」  
 と、書いてある。
「やめた! やめた!」  
 と、言って、帰りたくなった。  
 プロドライバーになろうと必死にがんばっているのに、なんだか、このおばちゃん先生からは、真剣に教えようという気持ちが伝わってこないのだ。  
 一日でも早く受かりたい。  
 一日でも早く受からせるのが、教官の仕事じゃないのだろうか。  
 助手席で嫌みを言って、理不尽な怒鳴り声を上げて、生徒をビビらせるのなんて誰にでもできる。  
 ああ、まったく、糞味噌怒鳴ってやって、この車から飛び出したら、どんなに気持ちいいだろう。  
 いや……。  
 でも、このおばちゃん先生と一生つきあうワケじゃないのだ。  
 教習の期間だけ、我慢すればいい。  
 いやな上司に毎日耐えなければいけない人たちに比べればマシだ。  
 俺は、唇を噛んだ。

八 みんな仲良く背水の陣なのだ

 冷たい雨が降ってきた。  
 仮設トイレで用を足し、手を洗おうと水道の蛇口をひねったけれど、水は出てこなかった。  
 蛇口の下には、取っ手のないプラスチックのバケツがあって、その中の水はすっかり凍っていた。  
 俺は、その氷を撫でるようにして手を洗った。  
 右手の親指がしびれる。  
 まだ千切れた神経は完全に成長していないのである。  
 ジーンズのポケットから引っ張り出した、くしゃくしゃのハンカチで親指を包んでマッサージしてみる。  
 雨のカーテンの向こうにジュースの自動販売機が見えた。
「いやはや、いやはや」  
 と、呪文のように唱えながら俺は自動販売機にむかって走った。  
 ホットコーヒーを指と頬と、交互に押し当てて、吐いた息は白かった。
「やっていけるのかなあ……」  
 霞むコースを見ながら、宮崎の青い海と空を思うと、少し目頭が熱くなってしまった。 「いかん、いかん……」  
 勢いよくプルリングをひいた。
「空手をやってるんですって?」  
 雨の中から声がした。  
 ふと、顔を上げると、いつの間にか大柄な男が立っていた。  
 俺より五つくらい年上の榎木さんだ。  
 前の職業は、ゴルフのレッスンプロ。  
 怖い目をしているけれど、ふと見せる笑顔はたまらなく優しい。
「はい、大昔ですけど……」
「強いんですか?」
「まあ昔はかなり強かったです」
「そうですか。一度、見てみたいなあ」  
 榎木さんは、そう言って、両拳を胸の前で構え、少し腰をおとした。
「それより、午前の教習はどうでしたか?」  
 俺は、榎木さんがうってきた左ジャブを右の掌でサバキながら言った。  
 じーん。  
 右手親指がしびれた。
「校長に嫌みばかり言われましたよ」  
 榎木さんは、雨にむかって右の拳をつきだした。
「オレもです。ただの左折ができなくて……、もう、自信なくしちゃいました。いやあ、ホント、怖いおばちゃんです」
「ところで、辻村さんはなぜタクシーを?」
「カメラマンだったのですが、やめたときに他の職業を思いつかなかったのです」
「カメラマンをやめるなんて、もったいないですね」
「榎木さんだって、レッスンプロだったんでしょう? 榎木さんこそ、もったいないじゃないですか」
「まあね。でも、やめてから、かなりたつんですよ。蓄えはあるし、かみさんがいい仕事をしているんで、ぶらぶらしていたんですがね。ある日、娘に『お父さん、それってヒモとかわらないんじゃないの?』って言われて、働かなくてはと思ったんです。でも、この年でしょう? 選択肢は少ないですよね」
「で、タクシー?」
「はい。運転は得意だし、地理は詳しいっていうことでね。でも、学科で何度もずっこけてしまいました」  
 榎木さんは、豪快に笑った。  
 学科で苦しんだことなど、もう過去のことなのだ――、榎木さんの目がそう言っている。  榎木さんは、学科担当の兄ちゃん先生とウマがあわなかった。  
 兄ちゃん先生が、プライドの高い榎木さんを疎ましく思っていたのかもしれない。  
 それにしても、一種で一度は度合格している学科で、何度もこける人が意外に多いってのは、先生の指導のせいかもしれない。  
 もっと柔軟に各個人にあわせて、教え方を変えるべきだと思った。
 そうそう、同期の中に、いばりまくるヤツがいた。  
 四十歳の宮鳴だ。  
 先生の前ではいい子ぶり、影で人の悪口ばかり言う。  
 イヤなヤツの見本みたいな男なのである。  
 口をひねりたくなるほどおしゃべりで、電車に乗っていると、他の乗客が、さも「うるさい!」と、言いたげに横目で睨んだりしている。
「どうせスネに傷を持ったヤツばかり。他に行くところないんでしょう。それならプライドすててやらなくちゃ」  
 文字にするとマトモなことを言ってるようにも思えるんだけど、宮鳴が言うと、とにかく鼻につくのだ。  
 前職が電気屋の宮鳴は、仕事で田原俊彦の家に行ったことを繰り返し自慢していた。  そのくせ、田原俊彦の悪口を言うのだ。  
 その宮鳴に榎木さんはからかわれていた。  
 机にむかって学科問題に取り組んでいる榎木さんの後ろに回り、榎木さんの肩を揉みながら「しっかりしてくださいよう」と、言う姿には吐き気がした。  
 俺は宮鳴が大嫌いだった。  
 だから、先輩の宮鳴より早くすべての試験を合格したいと密かに思っていた。

九 試験中の事故、そして人生に迷ったら歌なのだ

 技能教習二日目。
「一発合格だあ!」  
 自信満々で実技試験にむかった先輩の宮鳴が、肩を落として教習所にあらわれた。 「なーんで落ちたんだよ。外には出ることができたのか?」  
 校長は、口元に下卑た笑みを浮かべながら言った。  
 宮鳴は、教官たちからも太鼓判を押されていたのだ。
「はい。車庫入れと鋭角はここのモノよりも簡単だったので楽勝だったのですが……」   二種免許の実技試験は、試験場のコース内をクリアーできた者だけが一般道路に出て試験を受けることができるのだ。  
 コース内で落ちる受験者も、多いらしい。
「試験官にオーバーハングの所で止めろって言われて、えーっと、オーバーハングってどれだあ……、と思っているうちにそこを通りこしてしまったみたいで……、はあ、だめでした……」  
 宮鳴は、媚びた顔で一同をみわたすと、「へへへ」と、笑った。  
 オーバーハングは、オーバーヘッド標識ともよび、幹線道路等で一般の路側標識では視認性が乏しいために、道路頭上に設置した大きな標識のことを言うのだ。
 俺が購入した学科の問題集に記載されていたので、その名称は知っていた。  
 わからなければその場で「オーバーハングってどれですか」と、聞けばいいのに。  
 聞いたからと言って、減点されることはないのだから。
「オレよりへたなヤツ受かってよう!」  
 宮鳴が、吐きすてるように言った。  
 停留所に止まったバスを抜けずにまごまごしていたら、試験車を一般車両が追い越して行ったのだそうだ。
「そいつに試験官が何って言ったと思う?」  
 宮鳴は、鼻をひくひくさせながら言った。
「一般車両に抜かれるタクシーなんていないよなあ。こんなタクシーをへたくそって言うんだ!」  
 言った、宮鳴はひとりで大笑いしている。
「そんなヤツが受かるんだぜえ。もう、何が基準かわかんねえよ!」  
 宮鳴は、校長に促されて教習車にむかった。  
 技能試験は学科試験のように毎日受ける、というワケにはいかない。  
 予約を取り、取れたその日よりももっと早く受験したければ、試験場に日参してキャンセル待ちをしなくてはならない。  
 宮鳴の次の受験日は、一週間後だった。  
 つまり、俺の受験日と一緒になったのである。

人生に迷ったら歌なのだ

「おーい! 次は難しいぞう!」  
 校長先生は、ヤニで真っ黄色になった歯をむきだしにして「がはははは!」と、人間離れした声で笑った。  
 けちょんけちょんに自尊心を傷つけられた後でも、校長みたいに笑うことができれば、俺も大物になれるのだろうな。
「けけけけけけ」  
 いっこうにやまない雨の中で、静かに笑ってみた。  
 さらにむなしくなった。
 右左折をなんとかクリアーした俺たちは、車庫入れと鋭角に挑むことになった。  
 まずは、車庫入れだ。  
 おばちゃん教官の、小憎らしいほど上手なお手本をありがたく見せてもらった後、ひとりひとり運転席に座った。  
 でぶや、ちびや、痩せっぽにのっぽ。  
 みな体格が違うので、ハンドルを切るときに目標にする窓外の風景が違うのだ。  
 だから、ひとりづつ乗って、目標の位置を確認した。  
 俺の自家用車はずっとワンボックスなので、バックするときはリアミラーを見ながらやっていた。  
 だから、目視でバックするという行為には慣れていない。  
 つい、左右のミラーに頼ってしまう。  
 それがいけない。
「ミラーを見ながらバックするんじゃない!」  
 外から指示をだしていたおばちゃん先生にボンネットを叩かれた。  
 ひえー!
「だめなのねー」  
 そう、思ってても、長年の癖。  
 つい、やっちゃうのよ。
「何よ! その手は!」  
 また、怒号が飛ぶ。  
 ひえー!  
 助手席の背もたれに手をかけてしまったのだ。  
 それにしても、怒鳴られすぎると、できることができなくなってしまう。  
 それは、みんな同じだった。  
 脱輪者続出なのだ。
「オレ、バックセンサーとテレビモニターに頼ってるからなあ」  と、腕組みしつつ、威張る強者までいる。  
 俺たちがいずれ乗るコンフォートには、リアミラーもバックセンサーもテレビモニターもない。
「みんな、一種免許を持ってるのう?」  
 おばちゃん先生が、苦笑した。  
 確かに情けない、と思う。  
 なぜ、こんな簡単なことができないんだろう。
「オレの家の駐車場はここより狭いけど、一発でいれちゃうのになあ。おっかしいなあ。なんで、ここではできないんだろう」  
 五回も切り返しをした、金田さんが頭を抱えこんでしまった。  
 実際の試験では、一度だけの切り返しは認められている。  
 しかし、脱輪したら、その場で不合格なのである。  
 鋭角も難しかった。
「腹の位置にきたら、ハンドルを思いっきりきるんだ!」  
 俺の横に座った、教官の矢沢さんが叫ぶように言った。  
 たとえば左折して鋭角に進入すると、右に折れるコースになる。  
 その場合、左に沿ってゆっくり車を進ませ、右に折れる角の延長線が自分の腹の位置にあたったときに、思いっきりハンドルを右に切って進むのだ。  
 そして、鼻先をぎりぎりにつけることができたら、左にハンドルを切ってバック。  
 リアタイアを車線の端いっぱいにつけて、Dドライブに。  
 右にハンドルを切りながら脱出。  
 緊張してなかなかうまくいかない俺にサングラスの矢沢さんが静かに言った。
「辻村くん……、あのな、ひとつ聞きたいんだけど……。君は歌が好きか」
「はい、好きです」
「そうか……。いいねえ……。で、何を歌う?」
「そうですねえ」  
 そう言いながら、俺はハンドルをぐるぐる回していた。
「なんでもいいよ」
「宇宙戦艦ヤマトですかね」
「ほ、ほう、懐かしいねえ。さらばあー」  
 矢沢さんが歌いだした。  
 サングラスに坊主頭、特攻服にショルダーホルスター。  
 かなりヤバイ出で立ちの矢沢さんが、俺の横で宇宙戦艦ヤマトのテーマを歌いはじめたのだ。
「なあ……、緊張したときは、好きな歌を歌うのがいいんだ」  
 歌い終わった矢沢さんが、言った。
「なるほど……」
「じゃあ、次は、鋭角の右から入ってみようか」
「はい」
「そう、ゆっくりだ。右に車体をよせて。いいぞ」
「はい」
「おい……、辻村くん、何か忘れてないか?」
「え? えっと……」
「歌だ!」  
 おばちゃん先生はとことんイヤなヤツで教習生をドヘタにしてしまうけど、矢沢さんは教習生たちの緊張をほぐし技量を上げることができる、ナイスガイだった。

十 おじさんもキレるのだ

「まあ、なんだ、君はこれだけど、そこのおじさんはこれだなあ」  
 生徒たちの前で精神論を語っていた、校長がひとりの生徒の前で握り拳を作ったあと、元レッスンプロの榎木さんの前でそれを開いた。  
 まるで君はパーだというように。
 目の前でひろげられた校長の掌をじっと見ていた、榎木さんの顔が見る見る紅潮していった。  
 そして、溜まりにたまったものが破裂したように叫んだのだった。
「ありがとうございました! 失礼します!」  
 皆が呆然とする中、榎木さんは深く頭を下げると、門に向かって大股で歩きだした。 「お、おい……」  
 うろたえた顔をした校長が走りだし、俺も後を追った。
 校長は、榎木さんの腕をつかんだ。
「すいません! もう耐えられません!」  
 榎木さんは、校長の手を乱暴にふりほどいた。
「まてよ!」  
 体勢を崩した校長は怒ったように叫んだ。  
 榎木さんは、それを無視して歩いている。  
 俺は榎木さんの前に回った。
「榎木さん、辛抱しましょうよ。これまでがんばってきたのに、もったいないじゃないですか」  
 俺は両手を広げて言った。
「辻村さん、もういいんですよ」
「そんな、一緒に卒業しましょうよ。後、少しですよ」
「こんなとこ、もう我慢できません」
「それはわかります。オレも毎日泣かされてますよ。でも、耐えますよ。耐えましょうよ」 「辻村さんは強い。オレは弱い。それだけです」
「何言ってるんですか。榎木さんはオレの何百倍も強いですよ。さっさと卒業して校長を見返してやりましょうよ」  
 校長が俺の横で複雑な顔をしているが、知ったこっちゃない。
「次、馬鹿にされたら、オレ、手がでちゃいそうで」
「大丈夫。オレが止めますから。オレ、心はへなちょこですけど、馬鹿力もってますから。それはまかせてください」  
 俺は、ゴリラのように自分の胸を叩き、「うぃー!」と、野生の雄叫びをあげてみせた。  榎木さんが、たはーっと笑った。
「辻村さん。あんたねえ、そうとうヘンですよ」
「タクシードライバーなんか目指すヤツはみんなちょっとヘンです。あ、そうだ。榎木さんがキレる前にオレがキレて暴れ出すかもしれない。そのときは、榎木さん止めてください。榎木さんしか、オレは止められませんよ」
「まあ、そうだな」
「と、いうワケで戻りましょうや」  
 俺は、榎木さんの雨に濡れた肩を叩いた。

十一 試験中の事故

 車庫入れと鋭角を含んだ、試験場内のコースを走った後、まだ点数の残っている受験者だけ路上試験に移ることができる。  
 意外に簡単だった。  
 試験官が助手席に乗っていてもあがらなかったのは、教習所でさんざんプレッシャーをかけ続けられたおかげだ。  
 車庫入れと鋭角も、教習所のモノに比べたら、かなりヌルい。  
 レンタカーを借りて下見をしていたせいもあって、路上試験も楽に最後まで走ることができた。  
 自分の番が終わった俺は後部座席でくつろぎつつ、他の人の走りを見ていた。  
 次は、背が高く線の細い田中さんの番だった。  
 田中さんは別のタクシー会社から来ている。  
 受験生はみなそれぞれのタクシー会社の制服で来ているので、誰がどこの会社か一目でわかるのだ。  
 田中さんは、ずいぶん緊張していた。
「落ち着いて……」  
俺は心の中で言った。  
 田中さんが細い道路を徐行しながら走っていたら、前方の交差点手前にトラックが止まっているのが見えてきた。  
 道路沿いの自転車屋に、荷物をおろしているのだ。  
 仕事のためとはいえ、試験車にはかなり迷惑な存在である。  
 こちらの車線はふさがれ、前方の道路の様子がぜんぜん見えない。  
 こういった障害物のあるなしは、運なのだ。  
 俺のときになかったものが、田中さんのときはあった。  
 田中さんは、ちらっと横目で試験官を見た。  
 試験官は無言だ。  
 当然である。  
 教習所の先生とは違う。  
 アドバイスはいっさいしないのだ。  
 この場合、前方の様子に注意しながら、反対車線に出てトラックを追い越すしかない。  田中さんは、ゆっくりとハンドルを右に切ってトラックの前に試験車の鼻を突きだしてみた。  
 しかし、運悪く、車はむこうからも来ていたのだ。  
 やがて鉢合わせになる。  
 むこうから来る車が、待っていてくれれば楽なんだけど、そんな気遣いはしてくれそうもない、強面のおばさんがハンドルを握っている。  
 試験車になんか、これっぽっちも気を遣う様子もなく、ぐんぐん勢いよく進んでくる。 「はあ……」  
 田中さんは、小さなためいきをつき、ギアをバックに入れた。  
 そして、ほんの少し動いた、そのとき。
 がっ!
 車が揺れ、俺は背中に軽い衝撃を感じた。
 振りかえると、太ったおばちゃんとおじちゃんの乗った、軽自動車が試験車にはりついていた。  
 田中さんがバックギアを入れてすぐの衝撃だったから、タイヤは一回転もしていないはずだ。  
 それなのに、ぶつかるってことはよほど、軽自動車が試験車に接近していたということなのだ。
「まいったなあ……」  
 試験官が帽子を脱いで外に出た。  
 顔色のなくなった田中さんも、シートベルトをふりほどくようにして、教官を追いかけた。  
 トラックから荷下ろしをしていたトラックドライバーと自転車屋さんが途方に暮れた顔をふたりにむけている。  
 事故は彼らのせいじゃないけど、トラックが道をふさいでいなければ、事故はおこらなかったかもしれないのだ。  
 そのことを彼らも思い、自分たちの責任のサイズについて、考えを巡らしているに違いない。  
 すぐに、二台の車は大勢の警官に囲まれた。  
 事故をおこしたのが試験車ということもあって、警官達の顔がかなり険しかった。  
 受験生といっしょに試験官も後方確認をしなくてはいけない場面だった。  
 危険を察知した試験官がブレーキを踏めば事故は起こらなかったのだから。  
 田中さんは、軽自動車のふたりに深く頭を下げている。  
 気の毒だなあ。  
 と、そんな田中さんの姿を見ていたら、軽自動車の助手席に乗っていたおじさんの方が、いきなり試験車の後ろに貼ってあった、警視庁と書かれたマグネットシートを剥がしてしまった。  
 それを頭の上で振り回している。  
 試験車に戻ってきた教官に、「あの人、酔っぱらっているんじゃないですか?」って聞くと、教官も「そうかもしれないね」と、苦笑していた。  
 事故処理は意外に長い時間を必要とした。  
 お互い傷もついていないのに、軽自動車のふたりが難癖をつけているのだ。  
 ようやく帰ってきた田中さんは、後部座席の俺に頭を下げた。  
 田中さんは泣いていた。
「すいません。無駄な時間を……」
「いいですよ。それより大丈夫ですか?」
「二十年以上も無事故無違反だったんです。それが、こんなところで」  
泣き崩れる田中さんの肩を試験官が叩いた。
「運転、変わろう」  
 試験場まで、試験官の運転で戻り、俺は合格の言葉を聞いた。
 先輩の宮鳴は、また落ちたらしい。  
 俺は大嫌いな宮鳴を抜いたけれど、もうそんなことはどうでもよかった。

十二 いなくなった友人

 一番自信のなかった、東京タクシーセンターの地理試験では、前代未聞の出題ミスがあった。  
 その分が受験者全員の得点に加算され、環七と環八の区別もつかないような俺がなんと一発で合格したのであった。  
 恐ろしいことである。  
 社内研修も難なくこなし、いよいよ、タクシードライバーとして、デビューすることになったのだ。
 その日の朝、本社にむかう駅のホームで、携帯が鳴った。  
 サーフィン馬鹿のケンケンだった。  
 宮崎からだ。
「お、ひさしぶり」  
 と、俺が言うと、少し沈黙があって、ケンケンはいつになく暗い声で話しはじめた。 「そこは、落ち着いて話しを聞ける場所か?」
「にぎやかだろう? 駅のホームだ。この人の多さにはうんざりする。たぶん、何年たっても慣れないだろうなあ。今、すみっこに移動したぞ。なんだ?」
「上金が死んだ……」  
 ケンケンの声は震えていた。
「おい。ちょっと、まて。上金とはついこないだ電話で話したんだぞ! 俺はあいつに映画に出てくるようなタクシードライバーになれって励まされたんだ!」  
 オレは叫んだ。
「オレもショックでくらくらしてる」
「あ、だめだ。まいったな。俺もだめだ。立ってられない」
「座れよ……」
「そうする」  
 俺は、ホームの隅に座り込んだ。  
 頭がくらくらする。  
 突然、周りの風景の色がすべて抜け落ち、リアリティがなくなった。  
 俺は膝の上に落とした携帯電話をしばらく拾えずにいた。  
 携帯電話が小さく叫んでいる。
「ごめん」  
 俺はあわてて携帯電話を耳にあてた。
「ああ、キモチ、わかるよ」  
 ケンケンがつぶやくように言った。
「じ、事故か?」  
 俺は、聞いた。
「遺体は自宅の駐車場にとめてあった車の中だったそうだ。上金は車の中で練炭で暖をとっていたようだ」
「そんな……、まさか……」
「まだ余計なことを考えるな」
「ああ、わかった」
「詳しいことがわかったら電話する。おい!」
「なんだ」
「大丈夫か?」
「大丈夫なわけないじゃないか」
「宮崎に帰ってこないか?」
「そうしたいキブンだけど、やめとく。今日、俺はタクシーデビューなんだ。上金と約束したからな。がんばるって」
「わかった。がんばれ!」  
 ケンケンは、俺に何かをぶつけるように言った。  
 しかし、その言葉は俺に届かなかったようだ。  
 立ち上がれない。  
 足に力が入らないのだ。  
 だめだ、ムリだ。
「上金、なんでだよ……」  
 俺は、両膝の間に顔を伏せた。
「辻村さん、ダイヤモンドヘッドを眺めながらおしっこしてしまいました」  
 頭の中で上金の声がこだまする。  
 ハワイワイキキ沖の天真爛漫な上金の笑顔を思い出して、俺はしばらく泣いたのだった。

十三 デビュー

 最初の日は助手席に指導者が乗ってくれる会社も多いようだけど、俺の場合、なんといきなりひとりぼっちでデビューだった。  
 明治通りすらまだきちんと理解していないタクシードライバーがいきなりお客さんを乗せて走るのだ。  
 今、考えると、かなり無茶な話しである。
 頭の中が真っ白になった俺は、乗務員証と高速カード、日報などを事務所で受け取り、あてがわれた車を探して、広い駐車場をよろよろよたよたと彷徨った。  
 一台いちだいナンバープレートを覗き込みながら探していたら、 「おいそんなことしてたら日が暮れてしまうぞー!」  
 と、先輩に怒鳴られた。  
 車の屋根の中央についているアンドンに記された番号を頼りに探すのが、正しいタクシードライバーのやり方なのだそうだ。  
 なるほど。
 オイルやバッテリー液、ボディのへこみなどをチェックしていざ出発。
「ひえー! 車も人もうじゃうじゃいるぜ!」  
 俺はパニックになりながら、ハンドルにしがみついた。  
 明治通りから職安通りに入って、西武新宿駅の前を走る。  
 誰も手を上げてくれないので、靖国通りを左折。
「誰も手を上げるんじゃねえぞ! 上げたら、ぶん殴ってやるからな!」  
 会社を出てからずっと心臓はバクバクいっている。
「ケンケン、上金、俺、もうこのまま宮崎に帰りたいよ……」  
 俺は、フロントガラスから馬鹿高いビルを見上げながら、つぶやいた。  
 本当は誰も乗せないまま、一日を終わりたいのだけど、そうゆーワケにはいかない。   少しでも日報を埋めなくちゃ。
 視線の左隅で手を上げる女性に気がついた。  
 あわてて左に寄って、後ろから来たバイクにクラクションを鳴らされる。  
 ウィンカーも出してなかった。  
 ライダーが上手で助かった。  
 でなけりゃ、いきなり人身事故だ。
「馬鹿野郎!」  
 怒鳴られた。  
 はい。ごもっともです。
 不安げな表情を隠そうともせず、俺の車に乗ってきた女性は日本人じゃなかった。  
 知的な瞳を持った、美しいフィリピン女性だ。
「麻布の方へ……」  
 女性は流暢な日本語をしゃべった。  
 少しほっとする。  
 道もわからない上に日本語もしゃべれない客相手じゃ、お手上げだ。
「えっと。すいません。新人ですので、道がまだ不案内です。申し訳ありませんが誘導いただけますか?」  
 俺は、研修室で習ったようにしゃべった。  
 俺が客だったら、この言葉を聞いただけで、「あ、じゃあ、いいや」って降りちゃうね。 「わかりました。たいへんですね……」  
 女性はため息まじりに言った。  
 東京には田舎出の新人のタクシーが多いってことも、タクシーをよく利用する人は知っているのだ。

十四 はじめての羽田空港

 恵比寿からスーツ姿の男性を乗せた。
「羽田にいそいどんのや」  
 関西弁である。関西の人かな。
「あの。すいません。新人ですので、道をまだ知りません。もし、誘導いただけるのでしたら、行けるのですが、それでよろしいでしょうか?」  
 ナビのない時代である。  
 関西の人が、道案内できるのだろうか、と思いつつもマニュアル通りに言うしかない、新人なのだ。
「ええよー」  
 男性はさらりと言った。
「えっと、一番近い高速の入り口はどこでしたっけ」
「ああ、悪いけど、それは知らんなあ。それだけは調べてや」
「はい」  
 俺は道の端に車を止めると、時間メーターを止めて地図を開いた。
「大丈夫か?」
「はい、わかりました。高樹町から乗ります」
「ようわからんけど、頼むわ。時間あまりないし」
「はい」  
 俺は並木橋から六本木通りに出た。  
 少し走ると、高速入り口が見えてきた。  
 どきどきしながら、七百円を支払い、高速道路に飛び出した。  
 首都高速道路。  
 東京の首都高を走ったことのない人は、まっすぐで、広くてきれいな道を想像されるのではないだろうか。  
 ところが、首都高は狭くてワダチだらけで、モナコGPのコースのように曲がりくねっているのだ。  
 けっこう恐ろしい。  
 恐怖で視線は狭く近くなり、道案内の標識も目に入らない。
「この先はどちらでしょう」  
 羽田空港へは、谷町ジャンクションを右だ。  
 でも、このときの俺は、まだこんな常識さえ知らなかった。  
 今考えても、よくこんな稚拙な地理知識だけで東京を走っていたなあ、と思う。
「あのなあ」  
 男性がこほんと咳払いをして言った。
「はい」
「ぶっちゃけた話し、俺、ぜんぜん道知らんのよ」
「えー!」
「ごめんなー」
「えー!」  
 目の前には分岐点が迫っている。  
 いったい、俺はどっちに行けばいいのだ。
「えー!」  
 再び、俺は叫び、男性は 「ごめんなー」  と、情けない声を出すのであった。

十五 はじめての成田空港

 わけのわからないまま、毎日四百キロ以上を必死に走り、気がつくとひとつきが過ぎていた。
 ある日の朝の七時、自由通りにひとりのおばあちゃんが立っていた。  
 苦渋に満ちたような顔を俺にむけると、左に曲がるように指先で路地の奥をしめした。  曲がって窓を開けると、おばあちゃんが近寄ってきた。
「羽田か成田に行くらしいので、あそこでUターンして、この家の前で待っていて……」  乗るのはおばあちゃんではないらしい。  
 行く先がわからないとはどうゆうことだろう。  
 まあ、いいや。  
 成田だといいなあ。  
 成田までを定額にしているタクシーも多いけれど、ありがたいことに俺の会社はまだメーター通りなのだ。  
 ここからだと、確実に二万を超える。  
 でも、道はわからない。
「経験が浅くて道をあまり知りませんけど、大丈夫ですか?」  
 俺が言うと、 「大丈夫。荷物が多いから後ろ開けててね……」  
 と、家の中に消えて行った。  
 おばあちゃんの家の玄関前はゴミのようなもので雑然としていた。  
 弦が切れて干からび、艶を失った琴が腐った段ボール箱の間にうずくまっている。  
 おばあちゃんが家の中からひっぱり出してきた大荷物を積むと、トランクは一杯になった。  
 後部座席にも載せる。  
 引っ越しのようだ。  
 おばあちゃんは笑わない顔で「すいませんねえ……」と、俺に荷物をわたした。  
 四十分以上たって、ピンク色のスーツを着た女性が出てきた。  
 田中真紀子に似ている。  
 おばあちゃんが笑わない訳がわかった。  
 女性は下僕に命令するような高飛車な態度でおばあちゃんに命令しているのだ。  
 たいへんな人を乗せることになってしまったようだ。  
 まあ、一生つきあう訳じゃない。  
 成田空港で降ろしたら、もう二度と会うことはないのである。  
 我慢、がまん。  
 俺は一週間前に買ったナビに、成田空港を登録した。
「三茶から乗って。成田へ。急いで!」  
 女性はテキパキと言うと、英語で電話をしはじめた。  
 俺の稚拙な英語力を駆使して聞き耳を立てたのだけど、この女性が政府関係の人で二ヶ月ほどアメリカに滞在するということしかわからなかった。  
 俺の英語力もおそまつなものだけど、この女性の英語が早口すぎるのだ。  
 なんだか、怒ってるみたいだ。  
 とにかく後部座席でいらいらしている。  
 さわらぬ神に祟りなし。
「さっきから何をぶつぶつ言ってるの!?」  
 突然、女性が声をあげた。
「ナビの声です。気になられるのなら消しますけど」
「あ、そう。まだ我慢できるからいいわよ!」  
いらいらしていた原因がナビの声で、その声を俺のものと勘違いしていたのだそうだ。   ナビの声は女性のモノなんだけど、どうやったら俺の声と間違えられるのだろう。
 自分の母親を下僕のように扱い、ナビを俺のつぶやきと勘違いし、高飛車な言い方しかできない、こんな人がアメリカの日本大使館に行くのだ。  
 だいじょうぶなのだろうか。  
 おっと。  
 人のことを心配している場合じゃない。  
 高速に慣れていない俺の運転の方が心配だ。  
 ビルの間をレース場のコースのように曲がりくねっている首都高を必死に走って、湾岸道路。  
 そして、東関道。  
 八時五十分着。
 女性と大荷物をおろし、俺は思いっきり背伸びをして、車を東京にむけた。  
 成田空港は遠い。  
 長い道のりだったけど、それ以上に長く感じた。  帰りの酒々井パーキングエリアで食べたおにぎりはおいしかったなあ。

十六 追突したのは芸能人

「こんでますね。渋谷からここに来るまでに事故処理の現場を三回見ましたよ」  
 駒沢から乗ってきたおばあちゃんに声をかけた。  
 二四六は、バイクの事故が多い。  
 特にビッグスクーターの事故をよく見る。  
 オートマチックだからだろうか、他の車種に比べて、運転の未熟なライダーが多く感じられる。  
 おっと、俺のタクシーもスーパー未熟なのだ。  
 人のことをとやかく言えない。
「事故はいやですね。運転手さん、事故は?」  
 おばあちゃんは言った。
「十五年以上無事故無違反です。これしかとりえがないんですが」
「それが一番よ。実はね、ずっと以前、高島屋の駐車場で私の息子の車に、バックしてきたベンツがぶつかったんですよ」
「それは、たいへんでしたね」
「ギアの前進と後進を間違えたまま、アクセルを踏んだようね。息子はかんかん。ところが、降りてきた人を見て、怒っていた息子は、思わず笑ってしまったんだって」
「どうしてですか?」
「ぶつけてきた人が芸能人だからよ。歌手で女優。今もたくさんテレビに出ているわよ」 「へー、それはびっくりですね」
「私、事故したという電話を受けてびっくりして、その事故の相手の名前を聞いて二度びっくり! 事故の相手の彼女は、警察へ電話をした後、その後に行く予定だった料理番組に間に合わないってことを携帯で連絡していたそうよ」
「もしかしたら、イクエちゃん? イクエちゃんの料理番組を私もときどき見るんです」 「そうそう、よくわかったわね。イクエちゃん、いい娘だったわよー」
「会われたんですか?」
「ええ。それから、数日して、我が家にイクエちゃんが菓子折を持ってきてくれたの。真面目で明るくていい娘ね。息子がイクエちゃんのレコードを部屋から持ってくると、私の最初のレコードです! って大喜びして、サインまでしてくれたのよ」
「よかったですね」
「でもね」  
 女性はぽつんと言った。
「その二ヶ月後に息子は急死したの。頭の後ろが痛いと言って倒れるとそれっきり。まだ息子が死んだって実感できないでいるのよ」
「事故のせいですか?」
「違うと思う。たぶん。あの子、身体が弱かったからねえ」
「そうですか。私の父も急死だったんですよ」
「お父様も?」
「途方に暮れました。長い間患って他界するなら、心の準備もできるのですが」
「そうよねえ……」
「イクエちゃんにそのことは?」
「言ってないわよ」
「そうですか」
「言ってどうなるわけでもないし。イクエちゃんの責任だとは思ってないから」  
 車は高島屋の前に着いた。
「ありがとうね。少ないけどお釣りは取っておいて」  
 女性は、華やかな高島屋の中に消えた。

十七 タクシードライバーの一日

 タクシードライバーの朝は早い。  
 そして、一日は気が遠くなるほど長いのだ。  
 出社時間は六時から八時くらいまで。  
 今は七時十五分くらいに出社しているけれど、この頃は「朝早くからがんばろー」と、まだ燃えていたので、五時五十分に出社していた。  
 ロッカーで着替えて、事務所へ行き、点呼とアルコール検査を受ける。  
 無免許で運転していた個人タクシーの運転手が逮捕されてからは、免許証の確認も厳しく行われるようになった。
 さて、出庫だ。  
 朝九時くらいまでは会社に向かうサラリーマンを乗せて都心に、夜は帰宅するサラリーマンを乗せて郊外に向かって走るのだ。  
 朝は時間に余裕のない客が多いので、ぴりぴりした車内の空気に神経を削り、夜は酒で態度のでかくなった客にストレスをためる。  
 俺の場合、昼の暇な時間だけ病院に車をつける。  
 駅や病院で待機することを着け待ちという。  
 本当は長い距離が出る可能性の高い、空港に着けたいのだけど、うちの会社ではそれを禁止している。  
 待ち時間が極端に長いからだ。  
 可能性が高い、というだけで、何時間も待って六百六十円ってこともあるのだ。  
 そんな博打性の高い仕事の仕方を、うちの会社では嫌っているらしい。  
 基本的に「流せ」と、指導される。  
 ドライバーになる前は、この着け待ちを利用して小説やエッセイを書こう、と思っていた。  
 ところが、いざやってみると東京の着け待ちはそんなにのんびりはしていないのだ。  はっと気がつくと、前に並んでいた車はかなり先に進み、室内ミラーで後ろのタクシーを見ると「さっさと進んでくれ」と、言いたげに睨んでいる。  
 さすがにタクシードライバー同士なのでクラクションは鳴らされないが、小説などを書くことに熱中していたらそういったことだってあるかもしれない。
 以前大怪我をした、俺の右手親指は、コインをつまみ上げるのが苦手だ。  
 千切れた神経が、まだ完全に成長していないせいだろう。  
 指先の感覚が全くなく、お客さんに釣銭をわたすときに他の人より時間がかかってしまう。  
 田舎なら許される、お客さんが降りるのんびりとした時間も都会では許されないことの方が多い。  
 すぐに発進しないと、後ろの車から怒涛のクラクション攻撃を受けてしまうのだ。  
 ある日、コインをつかむことが苦手なことを先輩に相談したら、いくつかのフィルムケースに釣銭を入れておけばいい、と教えてくれた。  ワンメーター六百六十円のお客さんが多いので、三百四十円をフィルムケースに入れておけ、と言うのだ。  
 これはものすごく便利だった。  
 一瞬で釣銭が用意できるのだから。  
 指が健康な人にもおすすめなのだ。
 仕事上の拘束時間は十九時間。  
 基本的に二十一時間は走る。  
 距離にすると三百キロから四百キロになる。  
 あたりまえのように毎日五百キロを走ってくるドライバーもいる。  
 知らない人を乗せてこの距離を走るのだ。  
 簡単なことではない。  
 忙しい金曜日に二十八時間走ったこともあるけれど、一台の車をふたりで共有しているので、合番が出社する前に帰庫して洗車をすませておくのがルールである。
 こんなに長い時間を走って、車を丁寧に洗うのは正直骨が折れる。  
 車内の掃除もきっちりしなくちゃいけないのだ。  
 頭の中は溶き卵のようになり、思考能力も極端に低下してしゃべるのもおっくうになる。身体は常にふわふわ揺れて、長時間歩いていないので足はエコノミック症候群を心配したくなるほど、むくんで硬くなり、よちよち歩きになる。背中も腰も痛い。  
 そんなときに頼りになるのが、『洗い屋さん』だ。  
 どの営業所にも『洗い屋さん』がいて、彼らに車を預ければ千三百円ほどで洗車をしてくれる。  
『洗い屋さん』は、ドライバー兼任でやっている人もいれば、免停などの理由で今タクシーに乗れない人がやっている場合もある。とにかくへとへとになって帰庫するタクシードライバーにとって彼らの存在はありがたい。
 帰宅したら風呂に入ってすぐに寝る。  
 何か食べたくなるのをぐっとこらえて、ドロのように寝る。  
 三時間したら起きて、小説を書いたり、トレーニングをしたりしている。  
 出社はひとつきに十二回なので、この明け番をうまく利用すれば、いろんなことができるのだ。  
 ただし、身体は本人が思っている以上に疲労しているので、十分に注意しなければならない。  
 無断欠勤が続くので、たずねてみたら、布団の中で冷たくなっていた、という話しはこの業界では本当に珍しくないのである。
 体調が悪くなって、夜中の二時くらいに仕事を切り上げたときなど、始発の電車を待つのはつらい。  
 始発を待たずに帰宅して明け番を有効に使いたい。  
 そう思って、俺はオートバイを買うことをきめた。  
 遮二無二に働いたおかげで、初任給は広告どおり四十五万円を超えていた。  
 まだ蓄えもあるので、中古のオートバイくらい買ってもいいだろう。  
 俺は車検のない二百ccのヤマハのバイクを手に入れた。  
 これで、通勤が楽になった。

十八 タクシーでエッチ

 夜中の二時すぎの明治通り。
 恵比寿から乗せたアベックは、乗る前からべたべたしていた。  
 俺はもうすでにドアを開けて待っているのに、タクシーの脇でずっと抱き合っているのだ。  
 なんだかいやな予感。
 倒れこむように乗ってきたふたりが、黄色い声を上げ、俺はドアを閉める。  
 つんと、甘い香水が鼻を叩いた。
「天現寺からのって、鈴が森でおりる」  
 男がそう言うと、車内は静かになった。  
 えらそーに。  
 命令口調だな。  
 まあ、いいや、飛ばすか。
 高速を走りはじめてしばらくすると、女性の声が聞こえた。  
 こらえ切れずに、唇からもれた声だ。
「あ……」
 何が「あ」だよ。  
 ハンドルを握る手が汗ばんでくる。
「いい……」  
 次は「い」かよ。  
 じゃあ、次は「う」っと唸ってみせてくれ。  
 俺は、心の中で罵った。
「うう……」  
 あとは、野となれ山となれ。  
 ぴんと張った糸が音をたてて切れたように、ふたりの世界が始まってしまったのだ。   映画『摩天楼(ニューヨーク)はバラ色に』でマイケル・J・フォックスが隣の部屋から聞こえてくるあえぎ声にあわせてタクトを振るマネをする、というシーンがあったが、俺も声に合わせてハンドルを右に左に激しく切りたくなった。  
 いやはや。  
 ちょっとは我慢しなさいよ。  
 すぐ着くからさあ。  
 ぺちゃ、ぺちゃ、という湿った音にハモるように男がけっこう大きな声を出しはじめた。 「あうー! へうー! がうー!」  
結構、笑える。  
 なめなめされてるのね。  
 楽しいのはわかる。  
 でも、シートを汚されるのは困るのだ。
「じゃあ、ここで降ります」  
 俺が声をかけると、少し理性が戻ったのか、ふたりは会話を始めた。
「子供のようで大人の女。大人のようで子供みたいな女だなあ、みつこは」  
 男が臭い台詞をつぶやくように言った。
「えへ。ほめてるの?」
「声なんか子供っぽいじゃない。でも、ここは」
「あ……」  
 湿ったトコロをかき回す音が響いた。
 だからさあ、もうすぐだから、我慢してよー。
「玄関までおくるよ。うへはあ」  
 男は喘ぎつつ言った。
「悪いわあ。このまま帰っていいよ。はあはあ」  
 女も喘ぎつつ答えた。
「玄関まで送るのが小林家のしきたりなんだ。うへはあはあはあ」
「へえ、紳士だね。はあはあはあはあ」
「紳士さ。うへはあはあはあはあはあはあ」
「ここは紳士じゃないけどね。はあはあはあはあはあはあ」
「こら、眠れる獅子を起こすんじゃないよ。怒れる獅子になっちゃうぞう。うへはあはあはあはあはあはあはあ」
「えへ。獅子はじゅうぶん怒っているようよ。はあはあはあはあはあはあはあはあ」  
 バカである。
 着いた。  
 五一四〇円と高速料金七百円を払って、ふたりは大森のマンションに消えていった。   その後、俺が営業所でシートカバーを交換したのは言うまでもない。  
 もちろん、男女の営みの臭いもすごいので、店じまいである。

十九 タクシードライバーが若い女性を嫌う訳

 ガスがなくなってきた。  
 経堂から乗せたお客さんを中十条でおろすと、回送にしてスタンドにむかう。  
 平日の環七はタクシーがあまり通らないせいだろう、信号待ちしていると、二十三歳くらいの女の子が強引に乗ってきた。
「あのう。ガスがあまりなくて回送にしているのですけど……」
「近くだから乗せてよ」  
 浜崎あゆみのマネをしたようなファッションだ。  
 大きめのサングラスはスモーク。  
 ヒョウ柄の上着に、ヴィトンのバック。  
 おまけにテンガロンハット風の帽子。  
 たしかに浜崎あゆみが着たら似合うのだろうけど、ムリっぽい人もたしかにいるものだ。 「新人なので、このあたりはあまり知らないのですけど、それでもよろしいですか?」 「いいから、走って!」  
 上から覆い被ってくるようなタメ口が気になったけど、一応お客さんだ。俺は静かに返事をして車を出した。
「なにやってんのよー!」  
 突然、ヒステリックに叫びはじめた。  
 彼女の言うとおりに走っていたのに、道が違うというのだ。  
 自分で間違って怒るというのは、若い女の子によくあるパターンだけど、彼女はひどい。 「バカ!」  
 と、何度叫んだのだろう。  
 山手通りの渋滞で止まってしまったときなど、シートを蹴りながら叫ぶのだ。  
 歩道で休憩していた工事現場のおじちゃんたちが、車内をのぞきこんでいる。  
 彼女のカナキリ声が外にまで響いているのだ。  
 工事現場のおじちゃんたちと、目があった。  
 ひとりのおじちゃんが口に手をあてて何か叫んでいる。
「たいへんだなあ、兄ちゃん。がんばれよー」  
 と、言ってくれたような気がする。  
 目的地に着いても、女の子は、「苦情入れるぞー、ぼけー!」と、叫んでおりてくれない。  
 ガスを早くいれたいので、「お金はいりませんから」と、降りてもらった。  
 四九〇〇円の自腹は痛いけど、これも勉強代だな。  
 こんな娘がいるから、多くのタクシードライバーが若い女の子を乗せたがらなくなるんだよね。  
 新人ドライバーだと知ると、キレた風を装い料金を踏み倒す女の子も多いらしい。  
 気をつけよう。

二十 自分の命は自分で守るしかないのだ

 駒沢駅前から乗せたお客さんから、すごい話しを聞いた。
「すぐそこの青山の前でね、一年前にタクシーの運転手さんが切られて、車を盗まれたんですよ」
「お客さんは現場にいたんですか?」
「見ましたよ。運転席から血をぽたぽた流した運転手さんがおりてきてね、犯人は運転席に乗り込んで急発進していきましたよ」
「運転手さんは亡くなったのでしょうか?」
「いや。腕から血が出てたからね、大丈夫だったんじゃないかなあ。たまたま、現場近くにお医者さんが歩いていてね、その場で応急処置をしていたよ」  
 人ごとじゃないなあ、と思った。  
 同期の橋本君は新宿署が内偵していた、容疑者を乗せたということで警察から事情聴衆を受けたというし、榎木さんは酔っぱらいが突きだした傘で頬に傷を負った。  
 いつ何時、事件がらみの人や異常な人を乗せないとも限らないのだ。  
 面接を受けたとき、運転席の背もたれには鉄板が入っていると聞いたけれど、それも整備のスタッフに嘘だと教えられた。  
 結局、他人に無関心なこの大都会東京で生き抜くためには、自分の命は自分で守るしかないのだ。  
 やっぱり催涙スプレーくらいは必要かもしれない。

二十一 ヤクザを乗せて

 六本木の交差点の手前で、そのスジの雰囲気を全身から発散させた男が手をあげていた。  黒いロングコートが走りすぎる車を威嚇するようにはためき、男をさらにでかく見せている。
「どうしようかなあ……」  
 乗車拒否をするか――、ものすごく迷いつつも、静かに減速。結局、その男の前でドアを開けてしまった。  
 ミスター・マリックのようなヘアスタイルをした色の黒い男だ。  
 男は「青山」と、告げると、携帯にむかって低く話し始めた。  
 何事もなく、青山に着けますように……。  
 祈るような気持ちで走っていたら、男がいきなり声を上げた。
「しまったあ!」
「ひっ……」  
 俺は思わず身体を固くした。
「くそっ! クスリを忘れたぜ!」  
 クスリ?  どっちの?  
 胃腸薬なら持ってますけど……。  
 俺は、すっかりびびってしまった。
「おい! どっかでUターンしろ!」  
 男が叫んだ。
「は、はい!」  
 俺は、西麻布で転回した。
「よし、この先でもう一度Uターンして、六本木プリンス」  
 右のフェンダーミラーを見ながらタイミングをはかっていたら、痺れをきらせた男が怒鳴りつけてきた。
「堂々と割り込め!」
「は、はい!」  
 すごい勢いで迫ってくる後続車に手を振りながら、俺はレーンを右にかえようとした。ところが、長く下品なクラクションが背中にはりついてきたのだ。  
 ちぇ。  
 東京の車はすぐにクラクションを鳴らす。ロスでやったら、すぐに射殺されるぞ。  
 そう思った瞬間、男が叫んだ。
「後ろの車をとめろ!」
「え?」
「すぐにとめんか! とめろ! とめたら、すぐにドアを開けろ!」
「はい!」  
 六本木通りのど真ん中で車をとめてしまった。  
  俺はルームミラーに目を移した。  
 後ろの営業バンに乗った男は、口をへの字に曲げて、俺を睨んでいる。  
 俺は後部ドアを開けた。  
 男が車から降りて、ぱっとコートを翻した。  
 とたんに、全車線の車がとまった。  
 男は悠然と、その営業バンに近づいていった。  
 すぐに営業バンの男の顔色がかわった。  
 客が乗っているタクシーにむかってクラクションを鳴らすときは、十分に気をつけなければならない、と彼は深く反省し、後悔しているハズだ。  
 男がいきなりバンのボディを蹴飛ばした。そして、黒い手袋をつけた右手でドアノブを引いた。ドアは開かない。バンの男がすぐにロックしたようだ。男は振り上げた拳で天井を殴った。バンの男は小さくバンザイをしている。さらに、男が何か叫んで、三回蹴った。 「逃げちゃおうかなあ……」  
 ふと、思った。  
 多少、溜飲の下がる思いはしたけれど、あの男はまたここに戻ってくるのだ。  
 ものすごく高そうなロングコートの下には、絶対何か隠していそうだもの。何かって、もちろん、それはゲームボーイやバウリンガル、ミニモニおでかけセットなどではない。もっと、もっと怖いことに使うものである。怖いことは嫌いだ。  
 おっと、怖い男が戻ってくる。  
 あいやー。  
 すんごい顔してるよ。
「逃げようかなあ……」  
 もう一度思った。  
 が、まごまごしているうちにドアを開けられてしまった。  
 すぐに「行け!」と、命令される。
「はい!」  
 ドキドキしながら、Uターンした。  
 それから、残った全部の勇気をふりしぼって男に声をかけた。
「ありがとうございました」
「ん……? 今のか……?」
「は、はい」
「ふん……」  
 男の返事はそれだけだったが、ほんの少しだけ角のとれた声になったような気がした。

二十二 タクシー乗車中の事故

「あれ? 事故みたいですね……」  
 俺はつぶやくように言った。  
 反対車線が赤色灯で賑やかになっている。
「あら、本当だ。なんだかたくさん来てるわねえ。消防自動車までいるじゃない」  
 お客さんが言った。  
 俺は、二四六を右折して、環七を野沢の交差点にむかっているところだった。
「私もね、タクシーに乗っているときにその野沢の交差点で事故ったことがあるのよ」 「えっ?」
「三人で後ろに乗っていてね。私が今の位置に座っていたわ」  
 お客さんは、後部座席左だ。
「学大から野沢に出たところで、運転手さんが、あーって叫んだと思ったら、どーん! って」
「ぶつかったんですね」
「そう、その中央分離帯」  
 コンクリートの中央分離帯だ。  
 高さは三十センチくらいだろうか。
「みなさん、ケガはしたんですか」
「真ん中の人はたいしたことなかったけどねえ。私は、助手席の後ろにあるバーで胸を強く打ってね。今も痛むのよ。足はシートの下にはいっちゃって」
「いつの話しなんですか?」
「去年ね。示談したときに、後遺症がでないか、って心配していたんだけどね。やっぱり出たわ」 「たいへんでしたね」
「警察で書く書類にね。運転手さんに重い罰を与えますか、軽い罰でいいですか、って○する箇所があってね」
「そんなのもあるんですか」
「そう、あるのよ。まあ、事故はしたけど、ワザとやったワケじゃないし、運転手さんもあと三ヶ月で個人タクシーになれる権利をもらえるハズだったなんて言うから、かわいそうでね。軽い方に○をしたんですよ。でもね」
「何かあったんですか」
「その運転手さん、その後、示談のとき以外、一度も見舞いに来なかったんですよ。誠意がないと思いませんか? これだったら、示談もせずに、重い罰の方に○をしておけばよかったわ」  
 お客さんは、吐き捨てるように言った。

二十三 不当利得を得た、という話し

 ビデオに撮っておいた、『ザ・ジャッジ』というテレビ番組を見た。  
 あまり見ない番組だけど、内容がおもしろそうだったから撮っておいたのだ。  華道家●屋崎が、タクシーに乗ったときの話しだった。  
 行き先を知っているのか、●屋崎が運転手に確認して乗ったのに、信号待ちのときに、その運転手が地図を広げたというのだ。  
 その後、何度も道をまちがえそうになった運転手に腹をたて、●屋崎は料金を払わずにタクシーをおりてしまった、というエピソードだった。  
 ●屋崎が料金を払わなかったことは、正当な行為なのだろうか。
「道を知らなかったら、ワタシ、タクシーを乗り換えるんです。この運転手は知らない、と言わなかったんですよ」  
 ●屋崎は、そう言って、目をつり上げている。  
 ●屋崎って、もっと穏和な人だと思ったのに、意外にキレやすい人だったのね。  
 確かに知ったかぶりした上、ルートさえ確認しなかった運転手には落度がある。  
しかし、●屋崎の行為は、民法七〇三条の不当利得にあたり、法律上正当な理由がないにもかかわらず他人の財産や仕事上の利益を受けることにより他人に損失を与えることをいうのだそうだ。
 番組は、再現フィルムを流している。
 ●屋崎は、運転手に行き先を確認して車に乗る。  
 しかし、その後の運転手が地図を広げる様子を見て、
「あなたやっぱり知らないじゃないのよ」  
 と、運転手が道を知らないことを知って●屋崎は激怒する。  そして、目的地に着く前に車を止めさせ、 
「どうして迷惑をかけられた私がお金をはらわなくちゃいけないんですか」  
 と、一方的に支払いを拒否したのだ。
 番組は、次のようにしめくくっていた。
 運転手は道を知らないにもかかわらず●屋崎を乗せたが、その後何度も道を間違えそうになりながらも、●屋崎の指摘で道を間違えずに停車した交差点までは目的地にむかった。  そこまでの料金はタクシー会社が得る正当な利益と考えられる。  
 にもかかわらず、料金を支払いを拒否してタクシーをおりていった●屋崎の行為は、本来タクシー会社が得られるはずだった料金を正当な理由がなく自分のものにしたとみなされ、不当利得を得たと判断される。
 不当利得を得た場合、民法七〇三条により損失者に返還されなければならないのだ。
 以前乗せた、自分で道を間違えたことに腹を立て料金を踏み倒した、浜崎あゆみ風の女の子も、この不当利得を得た、と見なされるのだろうか。

二十四 今から殺しに行く

 うーん。  
 やっぱり、日曜の朝だ。  
 お客さんがいない。  
 東京のタクシードライバーは、土日、月曜が基本的に暇だ。  
 土日は出勤退社に利用するビジネスマンがいないためで、月曜は週のはじめから飲みに行くような豪気なビジネスマンが少ないからだ。  
 はっきり言って、東京のタクシードライバーの給料を左右するのは、ビジネスマンなのだ。  
 だから、土日に公休をとるタクシードライバーは多く、東京の街を走るタクシーの数は半減する。  
 まあ、日曜に出たということはそういうことを理解しつつ走っているということだから、あまり焦っても仕方がないけど、ずっと空車というのも空しいものだ。  
 俺は、大きなあくびをしながら東根公園通りを駒沢通りにむかって走り、公園の角を左に曲がった。  
 そのとき、公園にいた男がいきなり追いかけてきて、思いっきりドアを叩いた。  
 車内に無遠慮な音が響く。  
 温厚になりつつある俺も、さすがにむっとした。
「おい、こら! 開けろ!」  
 男が叫んでいる。  
 無視しようかな、と一瞬考えたのだけど、またいつものヤジ馬根性でドアを開けてしまった。
「芝浦!」  
 運転席の背もたれを蹴飛ばしながら、男は怒鳴るように言った。
 また、カチン、ときた。  
 俺は振り向いて、まっすぐに男の顔を見た。  
二十五歳くらいだろうか、長髪にニット帽。  
 口の回りにできた醜いデキモノを避けるように、タバコがヒョコヒョコ動いている。  血走った目が、俺を睨んでいた。  
 ノミで彫ったような大きな鼻と、細いアゴを右の拳で破壊してやりたい衝動に襲われてしまった。  
 こいつらは、タクシードライバーを、「へいへい」言ってるだけの弱虫だと軽蔑しきっているのだ。
「なんだよ」  
 しばらく睨みあった後、男が口を開いた。
「まったくの新人なので芝浦を知らないんです」  
 俺は低い声でこたえた。  
 この男と一緒にいたら、俺は殴ってしまいそうだ。  
 自分より強いか――、は相手の目を見たらわかる。  
 この男は、絶対に俺に勝てない。  
 俺は、チンピラにはてかげんしない。  
 ビール瓶を砕く、右の拳を使いたくなるのを我慢する自信なんかない。  
 もう、今だって、この男を殴りたくってしょうがないのだ。  
俺の中に棲む、もうひとりの凶暴な俺が、この男の恐怖を喰らいたくて舌舐めづりをしている。
 がまん、がまん……。
 俺は、道を知らないフリをして穏便におりてもらうことにした。  
 それが一番いいハズだ。
「なんとか行けよ!」
「知らないものはしかたがありませんよ」
「ナビがあるじゃねえか、それで行けよ!」
「わかりました。じゃあ、もう蹴らないでくださいね」  
 ナビを操作するフリをしながら、催涙スプレーをすぐに使えるように胸のポケットに移動させた。  
 拳銃やナイフを出してきたら使おう。  
 東京では、拳銃だってリアリティがあるのだ。
「知るか! 着かなかったらお前、ぶっ殺すからな!」
「わかりました」
「くそ、が」  
 男はそう言うと、携帯で仲間と話しをはじめた。
「今から殺しに行く」  
 と、男は言った。  
 とんでもない話しだ。
 この男の恋人が別の男と逃げたらしい。  
 そいつらを見つけて殺す、と言っているのだ。  
 完全にキレている。  
 もしかしたら、クスリもやっているかもしれない。  
 電話の会話から男の名前が『トオル』だということがわかった。  
 電話の相手に止めてもらいたいのだろうか。  
 激しい言葉の中に、悲しみが漂っている。  
 気持ちはわかるけど、殺しはいかん。  
 絶対にいかんぞ。
 仲間との話しが終わると、男は別のところに電話した。
「トオルです。なんで電源を切っているんですか? どこにいるんですか? これを聞いたら、電話ください。しなくてもいいけど」  
 追いかけている恋人の携帯電話のようだ。
「今タクシーで芝浦にむかってます。それじゃあ、電話くださいね」  
 電源の入っていない恋人の携帯の留守番電話サービスに、男は低い声で淡々と吹き込んだ。  
 声が激高していない分、本気だってのがよくわかる。  
 十時二十分に芝浦に着いた。
「三四六〇円です」
「道知らなかったから、お前のおごりな」  
 男が自分で開けて出ようとしたドアを俺は強引に閉めた。  
 ドアをロックする。
「何するんだよ、おめえ」  
 男は助手席の背もたれを叩いた。
「だめです」  
 俺は男を睨んだ。
「何言ってんだよ、お前」  
 男が、俺を睨み返してきた。  
 ついに、ここでケンカしちゃうのかな、と思った。  
 クビかな。  
 ケガさせちゃったら、警察かな。  
 いやはや。  
 俺は、黙って男を睨み続けた。
「じゃあ、三〇〇〇円でいいだろ」  
 男が言った。
「道を間違えることもなく、最短距離でここに着きました。お客さんにも道を聞いていません。自力で来ました。料金は三四六〇円です」  
 また、睨み合いだ。  
 しばらくして、男が面倒臭そうに言った。
「三五〇〇円。釣りはいいから、ここ開けろ」  
 男は降りていった。
「ふぅー」  
 強ばっていたものが、身体中から溶けていく。  
 さて、どうしたもんか。  
 あの男の目は本気だったけれど、このことを警察に説明した方がいいのだろうか。
 昼過ぎに所用で営業所に寄った際、課長に聞いてみた。
「エモノは持っていそうだったのか?」  
 課長が言った。  
 エモノとは、もちろん、ドスなどの武器のことだ。  
 兎とかカモなんかじゃない。
「はい、たぶん持っていたと思います」
「あそこはなあ、住吉系の事務所があるからな」
「そうなんですか。オレ、やばかったですかね」
「いや、完全にキレていたら、殺すぞ、なんて言わずにグサリだろう。まあ、ほっといて大丈夫と思うよ」
 本当に大丈夫だろうか。  
 瞬きをしないあの目が、頭から離れない。

二十五 詐欺師

 深夜の深沢、一時三十分。
「横浜に行ってくれ!」  
 男は、車に飛び込んで来るなり、早口でそう言った。
「はい、わかりました。ドア、閉めますよ。いいですか」  
 行き先が遠くても近くてもお客さんは平等に、と心がけているのだけど、やっぱり遠距離はうれしい。  
 第三京浜かな、東名かな――、なんて思いながら、急上昇しつつあるテンションを表に出さないように、俺は運転席の下についているレバーを軽くひいた。
 ドアは、一度に強く閉めないのが正しい。  
 バタン、と激しい音をたてて閉めると、喧嘩を売っているように受け取ってしまうお客さんも中にはいるのだ。  
 ドアは閉まる直前で、いったん止めて、「ぱふ」と気あいのはいっていないオナラのような音をたてて閉めるのである。  
 ところが。
「あー!」  
 男が素っ頓狂な声を上げた。
「どうしたんですか?」
「どうしたもこうしたもねえよ。はさんだじゃねえか」
「お客さんの足ですか? 大丈夫ですか?」  
 ドアはまだ完全に閉まっていない。
「バックだよ。大丈夫じゃねえよ!」
「どこですですか?」
「ここだよ。シートとドアの間に……。あららら……」  
男はヴィトンのバックの中からサングラスを取りだした。
「壊れちゃってるよー! ほら!」
「壊れてますね」  
 たしかにサングラスは壊れている。  
 レンズは外れ、フレームがぺしゃんこになっている。  
 でも、ドアで潰した壊れ方じゃない。  
 自分の尻でサングラスやメガネを何度も潰しているので、そんなときメガネはどんな形になるかよく知っているのだ。  
 男のメガネのフレームが外側に開き、ツルもゆであがったカニのように両側に開いている。  
 メガネを畳んだ状態で挟んだとしたら、こんな形になるワケがない。  
 しかも、こんなにサングラスが壊れているのに、それを入れていたバックにかすり傷ひとつないのだ。
「運転手さんが全部悪いとは言わないよ。でも、これ、こないだ買ったばかりのブランドものなんだよね」  
 男は、ねちっこい声で言った。
「そうなんですか」
「四万したんだけどね、二万円出してくれよ。それでいいからさ」
「ちょっと待ってください。どこで挟んだっておっしゃいました?」
「ここだよ。シートのところ」
「まだ、閉まってませんでしたよね。足元だったら、可能性はありますが、シートとドアはまだ十センチ以上開いてます。それに、挟んだのだったら、なぜ、バックに傷がついていないんですか?」
「あれれ。運転手さん、逃げようとしてない?」
「いいえ、事実の確認をしたいだけですよ」
「潰れたのは事実だろうが!」
「わかりました。すぐ、そこに玉川警察署があります。そこで、いろいろ確認しましょう」 「オレは急いでるんだよ。ここで、運転手さんが二万払って、明日にでも、警察行けばいいじゃないの」
「警察に行って、私が潰したとはっきり確認できればすぐに払いますよ」
「だから、オレは忙しいんだよ。もう、おりるわ。ここまでいくら?」
「メーター、まだいれていませんから」
「これもらっていくよ」  
 男は運転席の後ろに備え付けているアンケートハガキを取った。
「どうぞ」
「明日、お前んとこ、電話するからな」
「はい、待ってます。横浜、行かなくていいんですか?」
「馬鹿野郎、それどころじゃねえよ」  
 そう言いのこして、男は路地のむこうに消えてしまった。
 もちろん、翌日電話はかかってこなかった。

二十六 あたり屋はデブだった

「交差点をわたったところでとめてください」  
 三宿の交差点の手前で、お客さんが言った。  
 メーターの横の時計の針は、十一時十分をさしている。  
 これから青タン(三割増の時間帯)だ。
「はい」  
 そうこたえて、前方を見ると、いかにもそのスジの人とわかる風体の男がふたり、車道に立っている。  
 肩をいからせ、周囲にガンつけているデブの方が、何かをやりそうな気配を漂わせている。
「お客さん。へんな人がいますから、少し通りすぎたところで止めますよ。いいですか?」 「はい」  
 俺は車を最徐行させた。そして、交差点から車道に飛び出して立っている男たちを避けるようにして、大きくふくらみつつ前に出たのだった。  
 そのときだった。
「おい! この野郎!」  
 デブが叫んだ。  
 俺はミラーをちらっと見てためいきをついた。  
 デブが追いかけてくる。
 あ、やられた、と思ったのだ。
「待てよ、この野郎!」  
 追いかけられて、車のボディを殴られた。  
 車内にすごい音が響いた。
「インネンつけられそうです。まあ、とにかく止めますね」  
 俺はお客さんに声をかけた。
「はい」
「それでは、一八六〇円です」  
 ここでお釣りを受け取らずに、お客さんを乗せたまま一度車を出して逃げた方がいいだろうか、と悩んでいるうちに、デブにつかまってしまった。
「おい! この野郎!」  
 と、デブに運転席のドアを開けられてしまったのだ。
「人にぶつかっといて、逃げるとはいい度胸だな!」  
 でかい声で叫ぶデブのアルコール臭い息が車内に飛び込んできた。
「ぶつかってないですよ」
「なにをこの野郎! 出てこい、この野郎!」
「出るから待ってよ。お客さんにお釣りわたすから」
「客だあ? お前もかえさないからな!」  
 デブがそう叫ぶと、デブのツレのヒゲが後部座席のドアを開けて、お客さんを連れ出したのだ。
「何するんですか」
「あー!」  
 デブが叫んで、俺の胸ぐらをつかもうとしたときだった。
「どうしたんですか?」  
 声がした。  
 自転車に乗った、若い警官だった。  
 小柄な警官は、ナイナイの岡村に似ている。
「なんだ、お前は。ひっこんでろ!」  
 デブは、警官にもつかみかかりそうな勢いでわめいた。
「近くを通りかかったので……。えっと、何があったんですか?」  
 若い警官が言った。
「この野郎にはねられたんだよ。近くを通っていたんなら、お前、見ていたんじゃねえのかよ!」
「いえ、見ていなかったです。運転手さん、本当ですか?」  
 若い警官は、言った。
「ぶつかってないですよ。インネンつけられているだけです」  
 俺は苦笑した。
「なんだと、この野郎! 出ろ!」  
 デブが叫んだ。
「わかったよ。出るから……。うるさいなあ」  
 俺はシートベルトを外して外に出た。
 すると、すぐにデブが腹をつきだして俺によってきた。  
 よく格闘技戦などでゴングが鳴る前に、気合いの入りすぎた選手同士がおでこや胸をあわせて押し合いしているでしょう。  
 あれだ。
「何だと、この野郎!」  
 叫ぶデブの息を至近距離で浴びてしまった。  
 臭いのなんのって。
「あたってないだろう?」  
 俺も押した。
「なにー、このデブ!」  
 デブにデブと言われてしまった。  
 たしかに、デブはぽっちゃり系で八十キロくらいにしか見えないが、俺の体重は百キロ以上ある。  
 でも、バーベルやサンドバックで鍛え上げているんだぞ。  
 デブとはなんだ。  
 頭にきたので、それを言葉にした。
「デブとはなんだ! デブ!」
「なにー!」  
 デブは、額を押しつけてきた。
「まあ、まあ。ここは危ないので、歩道で話しましょうよ」  
 若い警官が言った。  
 そうなのだ。  
 俺とデブは、二四六のドマンナカで押し合っていたのである。  
 歩道に行くと、もうひとり年輩の警官がきていて、俺たちは警官たちに分けられた。 「何があったんですか? 詳しく説明してもらえませんか?」  
 若い警官が言った。
「実は……」  
 俺が説明している間もデブは叫び続けている。  
 年輩の警官を『メガネ』と呼び、罵っているのだ。
「すいませんね。用事があったんじゃないですか?」  
 俺は、お客さんに頭を下げた。  
 お客さんは誠実そうな青年だった。  
 髪型と顔がなんとなく竹内結子に似ていて、ホモに狙われそうだなあ、と俺は場違いなことを思ってしまった。
「いえ、すぐ近くの家に帰るだけですから……」  
 竹内結子似のお客さんは、笑顔でそう言った。  
 乗っていたお客が証言してくれれば簡単に話しは終わるのだけど、「覚えていない」と、どっちつかずの話ししかできないのだ。
「じゃあ、運転手さんはあたってない、と言うんですね」  
 警官が言った。
「はい。絶対にあたってません。一メートル以上離れていました」
「わかりました。それじゃあ、免許証と車検証を見せてください。それと、会社の電話番号を教えてください」
「はい」  
 俺が、デブに「どこに行くんだあ!」と怒鳴られながら車に頭を突っ込んで車検証を出していると、俺と同じ制服を着た人が近づいてきた。  
 少し前に俺と同じ色の車が止まっている。
「何かあったんですか?」  
 援軍じゃないみたいだけど、仲間が来ると、ほっとする。
「あたり屋です」
「これ?」  
 彼は自分の頬に指をあてた。
「間違いないですね」
「一一〇番したの?」
「いや、偶然、おまわりさんが通りかかってですね」
「それはラッキーだったね。まあ、おまわりさんがいるから、まかせた方がいいよ。それから、会社に電話した?」
「いえ、それはまだです」
「すぐにした方がいいよ」
「おい! チビ! お前はなんだ!」  
 デブが叫んだ。
「ここにいるとからまれますよ。大丈夫ですから、仕事にもどってください」
「うん、わかった。がんばってね」

二十七 警察はヤクザの味方か

 気がつくと、警官が五人に増えていた。  
 ギャラリーたちが遠巻きに見ている。  
 デブの声が大きくて目立つのだ。
「ジャイアンみたいだよな」  
 年輩の警官が若い警官に言った。
「言うと、また、からまれるから言わないけどさ」  
 警官たちも、デブにふりまわされている。  
 二四六は一般車両にまじってパトカーもたくさん走っている。  
 そんなパトカーが前を通るたびに、
「見てんじゃねえよ、馬鹿野郎! いけいけ!」  
 と、デブは叫ぶ。  
 そして、デブは、俺と目があうたびに身体を押しつけてくるのだ。  
 俺もいいかげん腹が立っているので、やりかえす。  
 それを警官たちが、「まあまあ……」と、わける。  
 そのくりかえしだった。  
 デブが自分の携帯電話で俺の車の写真を撮っているときに、俺の携帯電話がなった。   営業所からだった。
「はい」
「あー、寺原だけどね。さっき、そこのヤーさんから脅しの電話があったよ」
「あ、すいません」
「あやまらなくていいよ。いや、すごい勢いだったよ。出てこいって言われたよ。来ないと、大勢つれて乗り込むってさ。だから、誰かやろうと思ってさ。こんなときはカバが一番頼りになるんだけど、今、あいつは蒲田にいてね。だから、今渋谷にいる吉村主任に行ってもらうことにしたよ。で、どんな状況なの?」  
 俺は、仮眠中だった、事務員の寺原さんに説明した。  
 それから、十五分くらいして、警視庁の事故処理車がやってきた。  
 三宿の交差点を曲がったところで車はとまった。  
 それがデブには気にいらなかったらしい。
「バカ野郎! ここだろうが!」
「はいはい」  
 笑顔の捜査官がおりてきた。  
 のっぽとちびのでこぼこコンビだ。  
 ちびの方は林家こぶ平似でのっぽの方は顔なしに似ている。  
 こぶ平は、腰をかがめながらデブの話しを聞いている。  
 もう、俺はいいかげんうんざりしていた。  
 さっさと仕事に戻りたい。  
 二四六を下るタクシーはみな実車なのだ。
「おい、みろよ。あの態度だぜ」  
 デブがまたせまってきた。  
 俺が腕を組んでいたのが気にいらなかったらしい。
「なんだよ!」  
 俺も怒鳴ってしまった。
「まあまあ、まあまあ」  
 こぶ平が俺とデブの間に身体を滑り込ませた。
「ヒザが痛いんだよ!」  
 デブは、膝をおさえた。
「後ろ向きに立っていたくせに、どうやったらヒザを打つんだよ!」  
 俺は怒鳴った。
「なんだとこの野郎!」
「まあまあ、まあまあ」  
 顔なしがデブをむこうにつれていった。
「で、どうなの? ぶつかったの?」  
 こぶ平が言った。
「いえ、ぶつかってないですよ」  
 俺は、また一から事情を説明した。
「でも、目撃者はないでしょう?」  
 こぶ平は、俺の目をまっすぐに見ている。  
 俺が嘘をついているかどうか、目の色を見て確かめているのだ。
「確かにないです」
「そうなると裁判するしかなくなっちゃうよ。どうする?」  
 こぶ平の目は、事故を認めたら、と言っている。
「絶対にぶつかっていないので、裁判でいいです」  
 俺はきっぱりと言った。
 そのこたえが意外だったのか、こぶ平は、一瞬目を丸くした。
「わかりました。じゃあ、待っていてね」  
 こぶ平は、デブのそばに戻って話している。
「どうしたらいいと思いますか?」  
 俺は、若い警官に聞いた。
「まかせていればいいですよ。ああ言う人達をなだめるのうまいですから。たぶん、彼らはタクシーが嫌いでインネンつけているだけだと思います。お金がどうとかじゃないですね。だから、今の興奮がおさまればなんとかなるんじゃないでしょうか」  
 若い警官が言った。  
 それから、十分ほどして、こぶ平が戻ってきた。
「あたっていなくてもさ、近くを通ったわけでしょう」
「一メートル以上は離れていましたよ」
「もっと迂回しないと、交差点に人がいたら、その人は病人かもしれないじゃない。プロなんだからさあ」
「はい」
「そのへんを認めて、悪かったと言えば、ここはチャラにするって。どうする?」
「わかりました。よろしくお願いします」  
 俺は頭を下げて、むこうにいるデブを見た。  
 目の光が少しだけ柔らかくなっている。  
 感心した。  
 こぶ平は、猛獣をあやつるムツゴロウさんみたいだ。  
 やれやれ、これで終わりかな。  
 と、思ったときに吉村主任がやってきた。
「おい! お前はなんだ!」  
 デブがまた怒鳴りはじめた。
「主任の吉村ともうします」
「あー、主任だあ!」
「はい……」
「何しにきたんだよ! なんか、お前の顔を見たらまた腹がたってきたよ!」
「事情を聞きに……」
「け! 物見遊山で来るんじゃねえよ! 帰れ!」
「でも……」
「お前になんか決定権があるのかよ」
「ないですけど……」
「だったら、社長を連れてこいよ! お前は帰れ!」  
 怒鳴られた、吉村主任の目が据わっている。  
 ヤバイなあ。
「主任、せっかく来ていただいたのにすいません。あとは自分でなんとかしますから」   俺は、デブと主任の間に入った。
「そうだ、帰れ!」  
 デブに怒鳴られて主任は車に戻った。
「なんだよ。あいつ」  
 デブが言った。
「さあ……」  
 俺は頭をひねった。
「さあ、ってお前、あいつ知らないのか?」
「はい、知りません」  
 営業所に社員は何百人もいるけれど、顔をあわせる機会は少ないのだ。
「へー!」  
 デブが腹をかかえて笑った。
「あいつダメだよ。度胸がねえ。お前が主任になった方がいいな。お前、態度は悪いけど、度胸はあるからな」  
 デブが言った。  
 ヤクザに褒められても、うれしくないけど、うまくこの場をおさめられそうだ。
「ありがとうございます」  
 俺は頭を下げた。
「じゃあ、これで丸くおさまったということで。運転手さんも反省しているっていうことですし」  
 こぶ平が言った。  
 反省って、俺は何もしてないんだけどなあ。
「最初からそう言ってくれれば、何もなかったんだよ」  
 デブが言って、手を差し出してきた。  
 俺はデブの手を握った。
「じゃあ、稼げよ。このあたりを流しているんだろう? そのうち乗るからな。またな」  デブが言った。  
ほっとしつつ、俺は車に戻った。  
とうに日付はかわっている。  
さて、とにかく走ろう。

二十八 セクハラ

「いやあ、チチをもまれちゃったよう」  
 同僚の米田さんから電話があった。  
 小柄な米田さんは、白髪のてっぺんがカッパのようにハゲた陽気なおっちゃんだ。
「仕事中ですか?」
「昨夜だよう。新宿でのせたお客さんなんだけどさ、わざわざ運転席の後ろに座るからヘンだなあ、なんて思ってたの。普通、助手席の後ろじゃない」
「うん、うん」
「そしたらさあ、身を乗り出して、はあ、とオレのね、耳の穴にふきかけてきたんだよう。ありゃ、こいつ何すんの、とびっくりしてたら、いきなり左の胸を」
「もまれたんですね。へー」
「オレ、固まっちゃったよう」
「あそこがですか?」
「バ、バカなことを言うなよ。オ、オレはそんな趣味はないよう」
「いやいや、すいません」
「なんちゅうか、痴漢された女の子の気持ちがわかったよ。あれは屈辱的なもんだなあ」 「で、やめてください、とか言ったんですか」
「あのさ。よく女の子が電車で痴漢にあって声を上げられないっていう話しを聞くじゃない? あれね。本当だよ」
「……」
「最初、何がおきたか、理解できないんだよう」
「じゃあ、何も?」
「いや、まあ、しばらくして、身体はよじったけどさ。相手はなんか強そうだしね」
「されるがままですか」
「うん……」
「つらかったですねえ」
「うん……。五十越えて、痴漢にあうとはねえ。田舎のかみさんや娘たちには絶対言えないな……」  
いやはや……。

二十九 アンドンを踏みつぶされる

「いやあ、たいへんなやつにあいましたよ」  
 経堂のスタンドで、久しぶりに会った同期の臼田さんは、苦い顔をした。
「トラブルですか?」
「あのね。道玄坂でアンドンを踏みつぶされましたね」  
 アンドンというのは、タクシーの天井のドマンナカにのっているアレだ。  
 例外もあるけれど、たいていの会社は空車時にだけ点灯するように作られている。  
 だから、空車のタクシーを探す人は光るアンドンを探せばいいのだ。
「どうやって? まさか、車の上に乗ってきたんですか?」
「その通り。私、いつもの通り、道玄坂に車をつけていたんですよ。もうすぐ五時(朝の)になる頃でした。人通りもさすがに少なくなり、こりゃあ、今日はダメかなあ、と移動しようと思ったとき、下の方から若いふたり組が歩いてきたんです。客かな、と思ってたら、ひとりがとんってボンネットに飛び上がって、そのまま天井へ」
「それで、ぐしゃ! ですか?」
「はい、踏みつぶされました。こなごなです」
「わあー! ひっどいですねー」
「これからアンドンを踏みつぶしてやるぜ――、といった凶悪な顔をしていたワケじゃないんですよ。にこにこしながら、飛び上がったんです。目の前にあらわれた階段を上るみたいにね」
「うーん。余計、不気味ですね」
「ええ。そして、そのまま、後方におりて、すたすた歩いていっちゃったんです。何事もなかったかのように。振り返りもせずに」
「おいか……」  
 追いかけなかったんですか? 
 と聞こうとして、やめた。  
 たった二千円のために殺されたタクシードライバーもいるのだ。  
 臼田さんは、若くない。  
 俺だってそうだ。  
 毎日鍛えてはいるけれど、バケモノと呼ばれた時代は遙か昔のことなのだ。  
 鏡の中の俺は、確実に老いている。  
 悲しいけれど、それを止めることはできないのだ。  
 アンドンのためになんか、闘えない。  
 どうせ闘うなら、愛する人のために闘いたい。
「アンドンは、臼田さんが弁償ですか?」
「いえ。警察には被害届けをだしましたから……。それはいいそうです」  
 臼田さんは悲しそうな顔をして、自分の車を見た。
 はっとした。  
 臼田さんの車を見る目が、俺のそれと違うのじゃないか、と思ったからである。  
 臼田さんは、親友を見るような目で車を見ているのだ。  
 雨の日も風の日も雪の日も酷暑の日も、ともに必死に走っているのだ。  
 ベストフレンドのアンドンを踏みつぶされて、悔しくないハズがない。  
 できれば闘いたかった。  
 ――と、思っているのじゃないだろうか。
 先日、東京一二チャンネルで放送されたドキュメンタリー番組で、日本のタクシーが南米最南端からニューヨークまでの、二万六千キロを走ったのだけれど、そのタクシーに乗っていたドライバーがやはり、臼田さんのような目で車を見ていた。
 俺はまだ甘いんだなあ。
 兵士たちは愛銃に女性の名前をつけるという。  
 名前はともかく、俺も自分の車を愛さなくちゃいけないなあ。

三十 ブルース・リー女

 二十一時二十分。
 突然の大雨のおかげで、大忙しである。  
 桜新町駅でもお客さんを降ろすと同時に、女性が乗ってきた。  
 両手に買い物袋をたくさんさげている。  
 これじゃあ、傘を持っていたとしても、さすことはできないよなあ。  
 気の毒に思っていたら、車のボディを激しく叩く雨の音の間から感情のない声が響いた。 「どうしたの? こんでるの?」
「ええ、前に遅い車がいて」  
 見ればわかることをなぜ聞くんだろう、と俺はちょっと首を傾げた。
「迷惑な話しねえ」  
 そう言って、女性は「ふん!」と、大きく鼻を鳴らした。  
 むむむ。  
 なんだか、重苦しい空気になったぞ。  
 よし。  
 女性が告げた目的地が、ヤクルトの古田選手の家の近くなので、古田選手の話しで明るい雰囲気を作ろう、と話すタイミングを計っていると、不気味な音が聞こえてきた。
 がし、がし、がし、がし
 音にやや遅れて油のいい臭いが漂ってきた。  
 コロッケかな。  
 そうか。  
 袋の中からコロッケを探していたので、前の車の様子を見てなかったんだ。  
 そうか、そうか。
「急ブレーキは絶対に踏まないでね」  
 女性がもごもごした声で言った。  
 そうだよね。  
 コロッケを食べてるもんね。  
 急ブレーキでコロッケを顔に叩きつけて、顔中油だらけになったら、ちょっと悲しいよね。  
 コロッケを床に落としたらもっと悲しい。
「はい、わかりました」
「もし、踏んだら、ただじゃすまないよ……」  
 女性は、おどろおどろしい声でそう言った。
「え?」  
 俺は、思わず聞き返した。  
 でも、こたえはなかった。
 がし、がし、がし、がし
 返事のかわりにコロッケを粗食する音が響く。  
いや、まて。  女性が食べているのはコロッケじゃないかもしれない。  俺が臭いからコロッケと想像していただけなのだ。  もしかしたら、もっとヘンなモノを食べているのかもしれない。  そう思ってしまうほど、後部座席から漂ってくる『気』は尋常とはかけ離れている。
 がし、がし、がし、がし
 五分ほどして目的地に着くと、なんだか妙にほっとした。
「はい。着きました。六六〇円です」  俺は室内灯を着けながらそう言った。
「これでいい?」
「はい?」
「これでいいって聞いてるの」
「はい、カードですね。お預かりします」  
 俺は、女性からカードを受け取って、機械にとおした。  
 カードは油でテカテカ光っている。  
 重苦しい空気の中でしばらく待つと、びーいっとカエルが踏みつぶされたような音をたてて伝票が出てきた。
「サインをお願いします」
「う」
「はい、これがお客様の控えになります」
「いらない!」
「でも、クレジットの……」
「いらないって言ってるでしょうー!」  
 突然、女性が頭のてっぺんから声を出した。  
 俺は少し身体を固くして、怪鳥音とはこのことを言うんだ、と思った。
「すごいですね」  
 本当にびっくりしたので、つい言ってしまった。  
 悪気はまったくなかったのだけど、この言葉が火に油を注ぐ結果になってしまった。  まるで、怒れるブルース・リーである。
「なにがよー! きょえー!」
 ぼん
 車を蹴られてしまった。
「いけー!」  
 自分の家の前で、ブルース・リーのような怪鳥音を発し、タクシーを蹴るとは、いったい何様なんだろう。
「いけー! きょえー!」  
顔を見ると、完全に目がいっちゃってる。  
 へたすると、包丁などを振り回しかねない雰囲気なので、さっさとこの場を離れることにした。
 いやはや。
 タレントの清水圭さんは、ご自身で町内会の会費を集めに、ご近所回りするのだそうだ。  チャイムがなってドアを開けたら。清水圭が立っていたりするのだ。
「すんません、会費集めてます」  
 と、清水圭に言われたらびっくりするだろうなあ。
 古田選手はどうしているんだろう。  
 もし、会費を集める役が回ってきたら、どうするんだろう。  
 責任感の強い古田選手のことだ。  
 きっと、自分で集めて回るに違いない。  
 ブルース・リー女の家にも会費を集めに行くのかなあ。  
 ブルース・リー女は、古田選手にも怪鳥音を聞かせてほしいなあ。

三十一 タレントさん

 十五時。
 あるお寿司屋さんの前で、タレントさんを乗せた。  
 タレントさんもよく乗せるのだ。  
 女性のタレントさんの場合、大きな帽子に大きなサングラスという、あまりにもわかりやすいスタイルが大半なので、すぐに有名人だとわかってしまう。  
 今日のタレントさんは素顔だ。  
 男性である。  
 ディレクターさんもいっしょだ。  
 ふたりで番組の打ちあわせをしているので、有名人の名前がぽんぽん出てくる。  
 へへへへ。  
 なるほど、なるほど。  
 もっと、もっと。  
 と、ダンボのように聞き耳を立てていると、いつの間にか静かになった。  
 そして、首都高に乗った頃には気持ちよさそうな寝息も聞こえてきた。  
 多忙なタレントさんは、こんなふうに移動の時間を使わないと、まんぞくな睡眠などとれないんだろうなあ。
 高速をおりてしばらく走ると、指示されたフジテレビが見えてきた。
 まだ、そんなに寝ていない。  
 起こすのが気の毒だ。  
 そういえば、睡眠時間を確保するために、ジェット機を余分に飛び続けさせた大統領がいたなあ。
「すいません、もうすぐ着きますよ」  
 返事がない。こほんと咳払いをして、もう一度声をかける。
「もうすぐ、フジテレビです」
「ああ……」  
 ふたりは起きた。  
 局に車を入れるとき、たくさんの黄色い声があがった。  
 セーラー服を着た女の子たちだ。
「やっぱり、すごい人気ですね」  
 俺が言うと、タレントさんは、
「あいつら、誰でもいいんや。オレの後に誰か来たら、そいつにも悲鳴あげるんやから……」  
 と、低い声でつぶやくように言った。
 思い出した。
 東京都と埼玉県で八八年から八九年にかけ、幼女四人を相次いで連れ去り殺害したなどとして、誘拐、殺人、死体損壊などの罪に問われた元印刷業手伝い宮崎勤被告が護送車に乗って、拘置所に入るときも、「キャー!」という黄色い声があがったのだった。  
 たしかに、日本の女子高生は節操ないなあ、と思うのでありました。

三十二 走り去る酔っ払い

 俺も乗車拒否をするべきだったのだ。  
 中年のカップルを乗せて五分も走らないうちに俺は後悔していた。  
 俺の前を走っていたタクシーは、二四六に仁王立ちしていた男を避けるように、大きく右にふくらんで駒沢の交差点を左折していった。  
 トラブルをおこしそうな客は、姿でわかる。  
 タクシーにむかって仁王立ちしているヤツなんてもってのほかだ。  
 頭にピンクの変なモノついてるし。  
 女性は、そんな男の斜め後ろに立って、困った顔をしていた。
「こんな走り方をするヤツはぶん殴りたいよ!」  
 走り出してすぐ、男は吐き捨てるように言った。
「どうして?」  
 女性が聞いた。
「気にいらねえから、気にいらねえの! おい! 聞いてる? お前のことだよ!」  
 酒臭い息を吐きながら、男は運転席のうしろを蹴った。
「はい、聞いてますよ。もうすぐ第三京浜に入ります。危ないので、もう蹴らないでくださいね」
 運転席のうしろを蹴られるのは珍しくない。  
あまり蹴ってくるので、 「おー、いいわあ。コリがほぐれます。あ。もうちょっと上の方もお願いします」  と、言って、さらに、酔客の怒りを買った先輩もいる。  
 俺は彼のように、人間が大きくないので、こんなことをされるとすぐにキレてしまう。  俺がかなり怒ってることが伝わったのか、女性が「やめなさいよ」と、ようやく男をたしなめはじめた。  
 まあ、こうして制してくれる人がいるから何もないだろう。  
 と、思っていたら、
「あ。運転手さん。料金所をこえたら、そのまま第三京浜の下を走って左ね。私だけそこでおります」  
 と、女性が言った。  
 わあ、この男だけになるの、まいったなあ。  
 俺はうんざりした。
「はい。ここですね」  
 着いてドアを開けると、 「ありがとう」  と、女性は素早く車から降り、「おれも……」と、ついていこうとする男性をドアを使って押し込んでしまった。  
 連れて行ってくれればいいのに。  
 ああ。  
 これはさらに機嫌が悪くなるぞ。  
 まいったなあ。
 道はT字路になった。  
 暗闇に信号の赤が鮮やかだ。
「お客さん、どっちに曲がりましょうか?」
「どっちに行きたい?」  
 後ろの男が、低く唸るように言った。
「私はお客さんの家を知らないので教えてもらえますか?」
「好きな方にいけよ」
「遠回りになるといけないので、右か左か教えてもらえませんか?」
「好きに行けっていってるだろうが!」  
 思いっきり蹴られた。
「ちょっと、お客さん、なぜ、蹴るんですか?」
「蹴りたいからだよ!」
「これは暴力ですよ」
「もっと蹴るか?」  
 蹴られた。
「お願いですから、やめてくれませんか」
「ばーか!」  
 また、蹴られた。
「やめないのでしたら、交番につけますけど、いいですか?」  
 万が一のことを考えて、シートベルトを外した。  
 男が刃物を出さないとは限らないのだ。
「いいよ。オレ、逃げるから」  
 たしか……。  
 近くに交番があったはずだ。  
 俺は、右膝の近くにある『SOSスイッチ』を引っ張り、祈るような気持ちで、南部沿線道路を右折した。
 あった。  
 遠くに赤色灯が見える。
「どこに行くんだ?」
「さっき、お伝えしたとおり、交番です」
「やめろ!」  
 また、蹴られた。  
 もう何度蹴られたやら。  
 わめきちらす男を警官たちが取り囲むシーンを想像しながら、俺は交番前の歩道に車を乗り上げた。
「あれ……?」  
 交番は無人なのだ。  
 かんべんしてよ。  
 途方に暮れている暇はなかった。  
 予告していた通り、男が逃げ出したのだ。
 やれやれ。  
 疲れているのに、全力疾走かよ。  
 二十メートルほど走って男に追いついた。  
 二十五メートルで追いつけなかったら、逃げられていたなあ。  
 上半身だけじゃなく、下半身ももっと鍛えなくっちゃ。
「この野郎! はなせよ!」  
 やだね。  
 毎日鍛えているんだもの。  
 パワーで素人に負ける気はしない。  
 俺は、交番の前まで男を引きずってきた。  
 俺たちを見て、車が二台止まった。  
 若い人が運転する日の丸タクシーさんと、白いヤンキー車だ。  
 日の丸さんが心配そうな顔でこっちを見ている。
「大丈夫ですかあ」  
 日の丸さんが、大きな声で叫んだ。  
 と、同時にヤンキー車のドアが開いた。  
 スキンヘッドに大柄な男と、すらっとした女の子がふたり降りてきた。  
 女の子たちは、雨よけに頭から白いタオルをかけている。
 鋭い目をしたスキンヘッド男が言った。
「運転手さん、どうしたの? 困りごと?」
「無賃乗車です」
「誰が無賃乗車じゃい!」  
 俺につかまれてじたばたしている男がわめいた。  
 男の歳は、五十くらいだろうか。  
 追いついたときに俺が最初につかんだ白いシャツの襟の部分が、だらりとのびきっている。  
 俺が今も握っている腕は、明日は痣ができているかもしれない。  
 かわいそうな気もするが、逃げようとしているんだからしかたがないことだ。
「だったら、払えよ!」  
 スキンヘッド男が、胸を突きだした。
「こいつが生意気だからなあ!」
「そんなの関係ないでしょう!」  
 女の子が、手に持った携帯を突き出すようにして男を怒鳴った。
「一一〇番しちゃうよっ」
「あ、どうぞ! なんで払わなくちゃいけないんだよ」
「ここまで、つれて来てもらったんでしょう? だったら、払いなさいよ」
「このデブが悪いんだよ」  
 誰がデブだよ。
「運転手さん、困ってるじゃない。かわいそうでしょう。払いなさいよ」
「ちぇ……。払えばいいんだろう」  
 女性に言われるほうがこたえるようだ。
「そうだよ、男らしく、ずばっと払えよ。運転手さん、いくら?」  
スキンヘッドが言った。
「四〇二〇円です」
「なんだ、たいした金額じゃないじゃない。三万くらいかと思った。ぱっと払った方がかっこいいわよ」  
 女の子が笑いながら言った。
 二千円の無賃乗車の男を追いかけて刺されたタクシー運転手さんのことを思い出した。  あの事件の後、テレビのワイドショーのコメンテーターが、「たかが二千円で」と、言った。  
 たった二千円で目くじら立てて追いかけた運転手さんのことを苦笑していたのだ。  
 女の子はそういうつもりではないだろうけど、ちょっとそのことを思い出してしまったのだった。
「ふん」  
 男は、三角になった目で俺を下から睨みつけながら、カードを財布から出した。
「じゃあ、カードを機械に通します。みなさん、ほんと、雨の中、すいません。助かりました」
「いいって。どうする。ホント。警察に電話してやろうか?」
「いえ、自分でしますから。大丈夫です」
「お、カード通ったみたいだな」  
 機械があっかんべーをするように伝票が発行されるのを見た、スキンヘッド男がうれしそうに言った。
「ありがとうございました」
「ここ、中原署だからね。電話しなよ」  
 ヤンキーの車が行ってしまった。
「じゃあ、サインお願いします」  
 俺は、男に伝票を差し出した。
「ボールペン貸せ!」
「はい、どうぞ」
「ふん。ばーか!」  
 何を思ったか、男は俺が差し出したボールペンで車のボディに傷をつけたのだった。 「な、何する……」
 がつ
 急に、頬から目にかけて、熱くなった。  
 かけていたメガネが、水たまりに落ちて小さな音をたてた。  
 唖然とする俺の顔を、男が思いっきり殴りつけたのだ。  
 すぐに、男の足音が響いた。  
 それがだんだん小さくなっていく。
「あ、ちくしょう!」  
 たいして、痛くはない。  
 小学生に唾をかけられて逃げられたようなものだ。  
 でも。
 屈辱だ。  
 追いかけた。  
 走った。  
 一生懸命に走った。  
 でも、もう、追いつくことはできなかった。
「くそが……」  
 うつむいて、踵をかえした。
「くそっ!」  
 俺は、車のボディについたギザギサの傷を、掌でなぞりながら、叫んだ。
「くそっ! くそっ! くそっ!」
 交番に入った。  
 少しゆがんだメガネをかけて、ぐるりと中を見回した。  
 壁に「ここは中原署上小田中交番です」と、書かれていて、その横に無人の場合の連絡先が書いてあった。  
 机の電話を引き寄せて、すぐに、その番号を押した。
「はい。中原署です。事件ですか? 事故ですか?」  
 すぐに、声がかえってきた。  
 俺が事情を説明すると、 「それでは、パトロール中の警官を交番に戻しますので、しばらくお待ちください」  
 と、電話のむこうの警官は淡々とした声でこたえた。
  交番の中から、俺の車を見た。  
 『SOS』の文字と、赤く点滅するアンドンが滑稽だ。  
 俺は、雨に濡れながら、SOSのスイッチを切った。  
 無線室には、緊急事態が伝わっているハズだ。  
 救援部隊はこっちにむかっているのだろうか。
 十五分ほどして、バイクに乗った警官がやってきた。  
 若い警官だった。  
 小柄だからだろうか。  
 カッパを脱ぎ、ヘルメットをとった姿は、中学生が警官の仮装をしているようだった。  大貫さんという警官は真面目に話しを聞いてくれた。  
 しばらくすると、奥から年輩の警官があくびをしながら出てきた。
 え、いたの?
 犯罪に二度も目を瞑った、さいたまの交番のことを思い出してしまった。  
 俺は、若い警官に話した同じことを、その警官にもしゃべった。
「あのね。大怪我してるわけじゃないじゃない」  
 年輩の警官が言った。
「え?」  
 俺は耳を疑った。
「この車の傷だって、指でごしごしすれば消えるよ」  
 年輩の警官は、そう言って、机から取り出してきた消しゴムで車のボディにできた傷を消し始めた。
「それって、証拠を消している、という状況じゃないの」  
 俺がそう言うと、年配の警官は「大丈夫、大丈夫」と言いながら、頭をかいた。
「何が大丈夫なんですか?」  
 俺を見て自慢げな顔をしている年輩の警官は薬師寺さんといって、ボクサーの薬師寺と親戚なのだそうだ。
「でも、殴られたんですよ。カード番号から本人を特定することはできるはずですので、すぐに調べてくださいよ」
「タクシーの運転手さんだから仕方がないってことあるんじゃない。ほら、よっぱらい相手にしてるんだからさ。私だって、よっぱらいに殴られるのなんてしょっちゅうだよ」  
薬師寺さんは、矢継ぎ早に言った。
「公務執行妨害にならないんですか?」
「多少のことではしないね。不名誉だしね」  
 あれ。  
 なんだか、へんな方向に話しが進み始めたぞ。
 俺は被害届を出したいのに、薬師寺さんは「報告だけにしておきなさい」と、言うのだ。  説得されているうちに、まあ、これくらいっていう気持ちになってしまった。
「わかりました。じゃあ、このカード番号だけはひかえていてもらえませんか? 会社にかえってどうなるかわかりませんので」
 もう、夜中の三時だ。  
 なんか疲れちゃったなあ。  
 帰ろうっと。  
 俺は、ギアをバックに入れた。  
 そのようすを、交番の中の薬師寺さんがタバコを吸いながらじっと見つめていた。
 営業所に戻ると、主任の堀江さんがいた。  
 トレーニング仲間で、堀江さんも以前、無賃乗車をつかまえたことがあるのだ。
「無賃乗車にあいましたよ」  
 俺が言うと、堀江さんは目をまんまるにした。
「辻村さんがですか?」
「はい」
「逃げられたんですか?」
「いいえ。一度は、捕まえました」
「一度は? と、いうと?」
「クレジットの伝票にサインをさせよう、としたら、殴られちゃって」
「殴られたんですか? ひどいなあ。で? 逃げたのですね?」
「はい……。この伝票、サインがないとダメなのですか?」
「ああ……、たぶん、ダメだと思いますけど、一応、課長に聞いてみます。辻村さんも報告を書いておいてもらえますか?」
「わかりました」
「で、警察には?」
「はい。届けてあります」
「被害届けは?」
「いえ、説得されちゃって」
「どうゆうことですか?」
「報告だけにしとけって。タクシー運転手だから仕方がないだろうって」  
 俺は、詳しく説明した。
「わあー! それはひどいなあ。その警官、職務怠慢じゃないですか?」  
 堀江さんが言うと、俺たちのまわりで日報を書いていた仲間が、口々に叫びだした。 「監査に訴えてやれ!」
「なんて警官だ!」
「ドライバーをバカにしているぞ!」  
 白髪の先輩がゆっくり立ち上がった。
「あ。私もね。新宿で殴られてねえ。こことここ」  
 目じりと頭を指さした。
「血だらけになったんだけど、たっぷりふんだくってやったよ」  
 と、言うと、ひょひょひょ、と笑いながら指を一本たてた。
「じ、十万ですか?」  
 俺が聞くと、白髪の先輩はひょひょひょ、と首を振った。
「ひ、百万ですか?」
「ひょひょひょ」  
 白髪の先輩は、楽しそうに笑うのであった。
「まあ、タクシードライバーを殴ったら、それだけかかるってことだよね」  
 堀江さんが言った。
「堀江さんだったら、どうしてます?」
「俺だったら、ぼこぼこにしてやりますよ。なめてますよ。警官もね、タクシードライバーをなめているんですよ。社会的地位を低くみているんですよ。なんか。ますます、この業界がいやになってきました」  
 そう言いながら、ひたすら怒る、堀江さんは、泣きそうな顔をしていたのだった。

三十三 おくびょうなAV女優

 渋谷から、小柄だけどスタイルのいい女の子が乗ってきた。
「よかったあ。止まってもらえて」
「空車がつかまらなかったんですね?」
「まあ、金曜日ですからねえ……。でも、遅くなると家に帰るのが怖くなります」  
 女の子はそう言って、ため息をついた。  
 タクシードライバーが『お祭り』と、呼ぶ、金曜日のこの時間、女の子がタクシーを捕まえるのは難しい。  
 トラブルが多く、短距離である場合が多い女性と、Tシャツジーンズ姿の若者は多くの場合敬遠され、タクシードライバーは、スーツを着た客を優先して乗せるようになるのだ。
「あの、お願いがあるんですけど」  
 女の子が言った。
「はい、なんでしょう?」
「自宅周辺が一方通行だらけで難しい道なんですけど、家の前までお願いできますか?」 「もちろんです」  
 お客さんには二通りのタイプがある。  
 自分の居場所を知られたくないためにか、自宅から離れたところでタクシーから降り、タクシーが去ったのを確認して家に向かう客と、自宅ぴったりに車をつけさせる客だ。  
 この先行き止まりなんて道で、後者の客だった場合、おろした後たいへんなのだ。  
 大雨の中、街灯のない曲がりくねった細い道を何百メートルもバックしたときなど、ホント、泣きたくなった。
「女性の夜道のひとり歩きは怖いですよね」
「それもありますけど、家の回りが神社なんですよ。オバケは信じてないのですけど、夜になるとさすがに気味悪くて」  
 女の子はそう言ったあと、うふと笑った。
「オバケは怖いですよね。私が高校生のとき、オバケ屋敷に行って、フランケンシュタインを殴ってしまったことがあります。突然、目の前にあらわれたので、ぎゃー! どかん! って」
「フ、フランケンって人形ですか?」  
 女の子が期待をこめた声で言った。読み聞かせのおばちゃんに続きをねだる子供の声だ。きっと瞳も子供みたいに輝かせているに違いない。  
 俺は、「こほん……」と、小さく咳などをして、わざとタメを作った。
「いいえ、人でした。夏休みだけそこでバイトをしている大学生だったに違いありません。『痛い……、痛い……』と頬をおさえてうずくまる、フランケンシュタインを介抱していたら、他のオバケたちがわらわらと集まってきて、一つ目小僧から『君、暴力はいかんよ!』って怒られました」
「一つ目小僧に怒られたんだ。わはははははは」
「それ以来、オバケ屋敷には行ってません」
「運転手さんって、タクシードライバーっぽくないですよね。以前は何をされていたんですか」
「カメラマンです。今は運転手をしながらモノ書きの勉強をしています。本も出してはいるのですけど、それだけでは食べていけませんね」
「カメラマンさんでモノ書きさんですか。私、モデルで雑誌にも載っているんですよ」 「きれいな方だなあ、とは思いましたが、やっぱりそうでしたか」
「でも、えっと、いかがわしい本のモデル」
「あ、なるほど」
「臆病なAV女優なんです」
「今日も撮影だったんですか?」
「いえ、ライブチャットの仕事してきました」
「今、流行ってますね」
「網タイツで縛られてがんばってたら、チャット相手から『あのさ、今、大地震がきたらタイヘンだね』って言われました」
「それは確かにタイヘンだ」
「もし大地震が来るのなら、せめて服を着ているときにお願いしたいです」
 十五分ほど走って、彼女の言った神社の近くに着いた。
「ここを左です」
「えっと、ここは一方通行の出口なので入れません」
「すぐそこなんですけど」
「どのくらい先ですか?」
「百メートルくらいかな。前がダメならバックで入れてもらうことはできませんか」    バックでいれて……。  女の子は甘えた声で言った。セリフがセリフだけに、ちょっとよろめきそうになってしまう。
「イってくれませんか?」  
 女の子はたたみ掛けるように、意味深なしゃべり方をしてくる。  
 前進だけでそこに到着するには、かなり遠回りになりそうだ。  
 さりとてバックで入っても、道交法違反。  
 よくおまわりさんがパトロールしている界隈だ。  
 危険はおかせない。
「ダメみたいですね……」  
 女の子はため息をついた。
「はい」
「でも、本当に怖いんですよ。そうしたら、家の前まで歩いてついてきてもらえませんか? ボディガードとして」
「え?」  
 俺は予想もしなかった言葉にびっくりしてしまった。  
 と、同時に頭の中にヘンな期待感が芽生えてしまった。
「だめですか?」
「うーん、いいですよ」  
 こんな怪しい場所に女の子ひとり残してはいけない。  
 俺は神社の脇に車をとめた。  
 並ぶと女の子は、俺の肩くらいしかなかった。  
 女の子の前にでようと、歩く速度を上げると、女の子も同じように歩いた。  
 ときどき触れる細い肩に、心臓は破裂しそうだ。
「ひとり暮らしなんです。これからもずっとそうかなあ。こんな仕事、してるからかなあ。もう、ずっと、彼氏、できないんです」  
 女の子が言った。
「……」  
 答えられずにいると、女の子は突然俺の真正面に立った。
「ここです。ありがとうございました。また、運転手さんの車に乗りたいので名刺いただけませんか」
「モノ書き用の名刺だったら」  
 俺が名刺をわたすと、女の子は軽く手を振りながら、マンションの中に消えていった。
「さてと……」  
 足元から駆け上がってきた、冷たい風に身震いしながら振り返ると、闇の奥でハザードを繰り返す俺の車の横に白い人影が見えた。

三十四 俺はタクシードライバー

 今日もいろんな客を乗せた。  
 俺を人以下にしか思わないヤツもいれば、異常に興味を示すヤツもいた。  
 一日に平均四十組の客を乗せるけれど、ほとんどの客とはもう出会うことはない。  
 この広い東京で、偶然出会う客たちなのだ。  
 客たちがタクシードライバーをどうとも思わないように、俺にとっても彼らが何者でこれから何をするかなんてどうでもいいことなのだ。
 午前五時。
 青タンの時間も終わった。  
 たくさんのタクシーが表示を回送にしてそれぞれの営業所に向かっている。  
 みんなへとへとなのだ。  
 営業所に帰る前に力つきたのか、道路の端に車を止めて、熟睡してしまってるドライバーもいる。  
 ふと、同期の仲間のことを考えた。  
 ほとんどの仲間がやめてしまった。  
 あんなに苦労してタクシードライバーになったのに、と思ったりもするけれど、やめた人はもっといい生き方を見つけたのかもしれない。  
 結局、一番頼りなかった俺が残ってしまった。  
 俺は、なぜ、たいして好きでもないタクシーにまだ乗っているんだろう。  
 考えたって、答えはでない。  
 もう頭の中は、溶き卵状態なのだから。
 そろそろ俺も帰るか。
 車を営業所にむけると、歩道から車道に肩を怒らせて降りてくる男の姿が見えた。  
 俺が軽くアクセルを戻すと、思った通り、髪を短く刈り込んだ中年の男は右手を上げた。  男の真横に車をつけてドアを開けると、冷たい空気が飛び込んできた。  
 俺はエアコンのつまみをカチリと右に回した。
「いいか。この娘(こ)を必ず家まで送り届けろよ」  
真中(まなか)の交差点でドアを開けると、男がドアに顔を突っ込んでそう言った。  
男の左のまぶたが腫れ、その間から微かにのぞいた眼球は赤く濁っていた。
 その男が、女の子の片腕を掴んでいるのだ。  
 俺はさりげなくシートベルトを外して身構えた。  
 危険な香りがする。
「はい」
「二〇〇〇円で足りるだろう。これで行ってくれ。頼むぞ」  
 千円札を二枚差し出しながら、男はまっすぐに俺の目を見た。  
 男の目は、「お前の顔、しっかり覚えたからな」と、言っている。
「はい、まかせてください」  
 俺がこたえると、男は女の子を後部座席に押し込むようにして乗せた。  
 女の子は、たぶん二十歳前だ。
「ほら!」  
 強い口調で女の子をせかしているけれど、腫れていない男の右目は優しい色をしている。 「飯代もねえだろう!」  
 男は、ポケットから五千円札を出して、女の子に握らせた。  
 女の子は、黙ってうつむいている。
「いいか、無事に送り届けるんだぞ。頼むぞ!」
「はい」  
 俺は、車を出した。  
 何があったのだろう。
 女の子は、ベージュの短パンに、ざっくりとした長袖のトレーナーを着ている。  
 上着は膝の上だ。  
 髪も乱れていないし、薄くだけど、化粧もしているようだ。  
 犯罪に巻き込まれたような雰囲気じゃない。
「あの……」  
 しばらく走ってから、女の子が小さな声で言った。
「はい?」
「もし、その二千円で足りないときはどうすればいいんですか?」  
 室内ミラーに目をやると、女の子は男から渡された五千円札を胸に抱いて震えていた。 「足りますよ。もし足りなくても、いいんですよ。約束しちゃったから」  
 俺が答えると、女の子は「えーん」と、泣き出してしまった。  
 いったいなんなのだ。  
 細い路地のつきあたりにあるアパートの前で女の子を降ろした。  
 思った通り、二千円でお釣りが出た。  
 俺は後部座席のドアを開け、室内灯の中で釣りを女の子にわたすと、それを大事そうに掌に包んで女の子は車を降りた。
「ありがとうございます。忘れ物はないですね」  
 俺が声をかけると、女の子は小声で何か言った。
「何か?」  
 俺は後部座席のウィンドーを下げた。  
 女の子は、開いた窓ごしに小さな声で言った。
「優しい大人もいるんですね」
「さっきの男の人のことですか?」
「はい」
「お知り合いですか?」  
 俺が聞くと、女の子は軽く首を振った。
「さっき会ったばかりです」
「なるほど」
「え?」
「なにか……、助けてくれたんですね?」
「はい」
「よかったですね」  
 と、笑うと、女の子は穏やかな笑顔を残して踵をかえした。
「ありがとうございました」  
 俺は彼女の背中にむかって、つぶやいてみた。  
 俺も、目の腫れたおっちゃんも、もう彼女に会うことはないのだろうなあ。  
 これが東京なのだ。  
 これがタクシードライバーなのだ。
「うむ、うむ」  
 自分に言い聞かせつつ、シートを見ると、微かに茶色く汚れていた。  
 土汚れだった。 「そうか……」
 ケンケン……。  上金……。
 懐かしい海の仲間たちの名前を心の中でつぶやいた。  
 俺、がんばってるよ。  
 映画に出てくるようなタクシードライバーにはほど遠いけど、ときには感謝もされる。  今は、それだけでもいいのかもしれないなあ。
「さて、今度こそ、帰ろう!」  
 俺は表示を回送にすると、元気よくドアを閉めた。  
 車内は、また真っ暗になった。



(了)


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