「花まるの野原」に、あらためて思いを寄せて。【手神さまへの手紙⑯】
来月で、noteを始めて二年になります。
投稿を始めて二ヶ月たったときに、「二年経ったような氣がする」と書いた記憶があるのですが、実際に二年経ってみたら、「二十年経った氣がする」といいたい氣持ちになりました。
それほど濃く、大切な学びを与えてくれたnoteには、感謝しかありません。
投稿数は決して多くはないとはいえ、ふりかえれば、ずいぶんたくさん書いてきました!
「そのときそのときの自分」を、できる限りそのまま投稿することを心掛けてきましたので、どの投稿も「いまのわたし」には書けないものばかりですが……いま読んでもちゃんと心がふるえます。
よかった。大切に書いてきたなあと思えます。
そういう過去記事に、わたしはときどき自分自身の決意のようなものを記してきました。
それはつまり、「いまのわたし」をつくってくれた言葉たちです。
たとえばこちらの記事に、わたしは「花まるの花」の咲く野原の詩を載せました。
詩に書いた「花まるの花」が、読んでくださった方々の心で花開いたこと。
そしてそれを、朗読や歌など、また別の表現で記事にしてくださった方々がいらしたことは、わたしの大切なたからものです。
数日前に投稿されたこちらの記事も、そんなたからものに加わりました。
3.7さんの、「37.8FM挿入歌『花まるの花束を💐』」。
開いてみたら、懐かしい曲が、スタエフからたゆたうように流れてきました。
3.7さんがAIとともに作詞作曲された、「花まるの花束を」。
わたしが花まるの詩を書いたとき、そのわたしの詩から生まれた……と、ご投稿くださった曲です。
う~ん、やっぱり沁みるなあ。
素敵な歌声、ぜひ記事でおききになってみてくださいね。
わたし自身の書いた詩「もしも、野原に花まるが咲いてたら。」は、前掲のわたしの記事から。
あるいは、こちらのひいろさんの素敵な朗読詩からお楽しみくださいね!
3.7さん、ひいろさん、わたしの日々にたからものを……本当にありがとうございました。
さて、この過去記事に自分の「決意」を記した……と前述しましたが、その部分をこちらに抜粋します。
ふりかえってみて、はっきりとわかるのです。
(不登校を経験した)息子たちが元氣になったのは、我が家に花まるの花が開き始めた頃だった……と。
ただ心配と不安だけが家に溢れた時を経て──ある日、花が咲いたときだったと。
我が家はちっとも完璧な家族ではありません。
でも、花まるの咲く家です。
そうだ。それだけで十分なのでした。
学校だって、それでいいんだな。
完璧でないことで、わたしに批判される必要なんてちっともないんだ。
(中略)
わたしはまず、(書き溜めた)8万字の(学校への)批判の鎖を手放そうと思います。
手放してしまえば、それは自分に必要なかったのだと……必ずわかると知っています。
そして、二度と、自分の言葉を批判のために使わない。
難しくても、ゆっくりとでも、花まるを言葉に添えて使っていく。
「二度と、自分の言葉を批判のために使わない。難しくても、ゆっくりとでも、花まるを言葉に添えて使っていく。」
この決意が、記事を投稿したあの日から、わたしの、世界をみる目をやさしくしてくれたと思っています。
それ以来、自分のなかにある批判を、ひとつひとつ、氣づくごとに花まるに塗りかえてきました。
もちろんそれは、氣持ちを無理やり塗りつぶしたのとは違います。
世界の見方をかえると決意したら、批判のなかに埋もれていた「花まるのつぼみ」が、自然と目に入るようになったのです。
そしてその決意は、批判だけではなく、わたしのなかにある「思い込み」を手放すためのエネルギーともなりました。
そういえば、ちょうど前回の記事でも、「重力に対する思い込み」について、少しふれたのでした。
「絶対的なもの」であり、わたしたちを「制限するもの」であるというイメージの強い重力ですが、実際には、物理世界に存在する力のなかで、「桁違いに弱い力」であるのだそうです!
それを知ってハッとしたのは──そもそも重力は、わたしたちに、なんら制限などかけていなかった!という事実に氣づいたからでした。
小鳥は自由に飛んでいますし、雲は空に悠々と浮かんでいます。
木や草は上へ上へと伸びていますし、花は、華奢な花びらをふわりとほどいて開きます。
重力は、その妨げにはなっていません。
鳥や花や木々だけではありません。
「制限されている」と思い込みながらも、わたしたち人間は、この地上で自由を謳歌してきたのだと、あらためて思います。
目の前に積みあげられてきたわたしたちの日常生活が──それを静かに確かに物語っています。
逆に、もし重力がなかったら、わたしたちはこの場所に何かを創ることも、その上で寛ぐこともできませんでした。そして、空氣も水も、身のまわりに存在しないのです!
そんな想像力を働かせれば、重力がわたしたちに与えてくれていたのは、制限どころか、ここで生きるための自由だったと氣がつきます。
わたしたちがここで何を考え、どんな行動をとっても、重力はわたしたちを突き放しませんし、それでいて、束縛もしないのです。
重力は、「ここにいていいよ」とわたしたちを抱いてくれる、居場所そのものだった……。
そう思ったら、とてもやさしい氣持ちになりました。
わたしがどう思ったところで、重力が変化するわけではないはずなのに、実際に、体がふわりと軽くなるから不思議です。
こういう感覚は、批判を手放した「決意」の延長線上にあるのだろうなあと感じます。
3.7さんが投稿してくださった懐かしい曲をききながら……あの日、批判を手放したことを、いまいちど大切にしようと思いました。
批判のかわりに花まるを。
思い込みのかわりに、素直でやさしい解釈を。
自分にでき得る限り、これからも届け続けよう。
重力に抱かれたやさしいやさしい世界に、花まるを咲かせていく。
それはやっぱり、大切な、大切な、わたしの生きる目的です。
ここからは、マガジン「手神さまへの手紙」より、「#手」の記事のご紹介です。
重力は、万物をやさしく見守る力ですが、そのなかで人が特殊なのは、重力からふたつの手が完全に解放されていること。
ではその「手」で、わたしたちはこの世界に何を創造していくのか。
今回はそんな視点から、四つの記事をご紹介します。
ひとつめは、こちらの記事。
秋春瑠さんの、「ペーパークイリングのご祝儀袋」。
TVチャンピオンへの出場経験もある、お料理名人の秋春瑠さん。
レシピ記事のファンも多いと思いますが……なんと、こんな素敵なものも、秋春瑠さんの手は「生みだす」のです!
ペーパークイリングでつくる、ご祝儀袋。
その美しさは、百聞は一見に如かず。
文章の引用のかわりに、記事内の写真を何枚かご紹介します。



つい最近、ペーパークイリング専用アカウントも立ちあげられたばかりです。
ご興味のある方は、下の記事からどうぞ!
続いては、まさに「手を通して生みだす」ことについて書かれたこちらの記事。
あやのんさんの、「手描きのひと✧♡」。
あやのんさんといえば、写仏に書、短歌、日常生活や読書体験から繰りだされるユニークな視点……と、その多才ぶりから多くの人を魅了してやまないnoterさん。
上の記事は、あやのんさんご自身が「手描きが好き」であったことにあらためて氣づき、お氣に入りのチラシや日記をご紹介くださる微笑ましい構成となっていますが、個人的には結びの言葉が印象に残っています。
くりすたるるさんの手の記事をきっかけに、そろそろ、アンタも、手描きの人だということを思い出せ!と自分自身に言われました( ´艸`)
そうだ!
魂占いで、私は自分自身と結ばれるのが幸福な人間だった💖
あやのん、自分の部屋で独りで、絵を描きなさい✧♡
多才なあやのんさんですが、ご自分にとっての「本業」は「絵を描く」ことなのだと……思いが伝わります。
わたしはあやのんさんの詠まれる短歌のファンでもありますが、「本業」の本氣の始動も、心から楽しみに、応援しています!
続いてはこちら。
ゆづさんの、「”て”はわたしの大切な相棒」。
ゆづさんの音楽について書かれた記事が、わたしはとても好きです。
それは、プロの合唱家としての歌い手のエネルギーが、ゆづさんの「手が打つ文字」を通して、そのままわたしに届くからだと感じます。
そう感じる理由を……この記事が伝えてくれた氣がしました。
ゆづさんには、子どもの頃から大切にしている歌があります。
「て」というタイトルの合唱曲。
下の抜粋は、その歌への思いを綴った記述です。
「て」という詩は、私の手と心に深く寄り添ってくれた。思春期というこころ揺さぶられる多感な時期。どうして、人と分かり合えないのだろうと泣き叫んだ夜。この詩がじわりじわりと心に広がり、私の心……そしてすべてをあたたかさで包んでくれた。“手”は人によって違う。それぞれの“手”がたくさんの役割をもって、人との距離を繋いでくれる。そして、手と手の距離はちょうどまんなか……つまり自分と相手は対等なのである。お互いを尊重し、繋ぎ、認めう“手”。「て」という詩で感じたものは、確かにわたしの心の中で今でも柔らかい光を放っている。
大切な歌のその歌詞は、ぜひゆづさんの記事で。
最後はこちら。
月星真夜さんの、「手は口ほどにものを言う」。
目は口ほどにものを言う……といわれますが、たしかに「手」を通して相手に伝わるものも、とても多いですよね。
以下引用です。
言葉にならない気持ちって、きっと誰にでもあると思うの。うまく言葉が見つからないときや、言葉と言葉の間にふわりと漂うような気持ちのとき。そんなとき、人はそっと手を動かして、その気持ちを形にしてきたんじゃないかしら。
言葉と手の関係を表現した、素敵な言語化だと感じます。
身近な人たちへ、言葉にならない思いを手で伝える。
きっとどなたにでも、心当たりのあるシーンではないでしょうか。
真夜さんは、さらにこう続けます。
昔から、人は手を描いたり、彫刻にしたりしてきたでしょう? それはきっと、手に込められた気持ちを忘れたくなかったからじゃないかしら。
こちらも納得の言語化です。
真夜さんが町でみつけられた様々な「手」のお写真も、あわせてお楽しみくださいね。

「手神さまへの手紙」の企画にご参加くださったみなさまに、心からお礼を申し上げます。
お寄せいただいた記事を、毎回できるだけひとつのテーマに沿いながら、順次ご紹介しています。
遅筆ゆえ、ご紹介に時間がかかっておりますが、どの記事も大切に思いながら書いています。すべての記事のご紹介まで、しばしお時間をいただけましたら幸甚です。
みなさんの「#手」の記事を収録したマガジンです。↓↓↓
みなさまの「#手」の記事を紹介した、わたし自身の投稿「手神さまへの手紙」シリーズ。そちらをまとめて収録してあります。↓↓↓
