白い霧の約束 第六話
前回の話
夜だけ看板を変える小さなバーの、奥。
ナオコは、誰にも見られないように視線を落としたまま、細い廊下を進んだ。
突き当たりの個室の前で、いったん立ち止まる。
中から、笑い声がこぼれている。
ドアを開けると、ソファ席で、ユミカが同級生と並んで酒のグラスを傾けていた。
制服の面影はなく、大人びたワンピースに身を包んでいる。
けれど、その表情は、ナオコの知っている
――“優等生のユミカ”のままだった。
「来たんだ」
軽く手を振る。
一貫校に通い、先生の前では完璧で、親の前では従順で、
いつも、自分の居場所を間違えない女の子。
ユミカは、ソファからナオコを見上げた。
「……ほんとうなのね」
ナオコは、ゆっくりとうなずいた。
「うん」
「ナミは……受験、だめだったって」
その言葉を口にした瞬間、ナオコはバッグから旅行のパンフレットを取り出し、
そっとテーブルの上に置く。
ユミカは、それを拾い上げた。
⸻
翌日。
家に戻ると、ナミはリビングで、黙々と荷物をまとめていた。
「なにをしているの?」
ユミカが声をかけると、ナミは振り返った。
「片づけ。参考書とか、もういらなくなったから」
それだけ言って、また手を動かす。
――ナミ、受験、残念だったね。
これから、どうするの?
何も答えないナミをよそに、ユミカはバッグから、昨日ナオコから受け取ったパンフレットを取り出した。
「ねえ、ナミ」
テーブルの上に、そっと置く。
「これ」
ナミの手が止まる。
「合格したら、お母さんと、ここに行く予定だったんでしょ?」
ナミは、パンフレットを見つめたまま、何も言わない。
「“おともだち”から聞いたよ」
ユミカは、微笑んだ。
間を置いて、明るい声で続ける。
「私は受験ないけどね、
大学には進学するから、友だちと高校卒業旅行どうしようかって相談してたの。
だから、ナミの代わりに行ってきてあげるね」
ナミの喉が、小さく動いた。
「……そう」
それだけを、つぶやいた。
⸻
このやりとりの、数日前。
放課後の図書室に、ナミとミチと岸本が集まっていた。
そこに――
「入ってきなよ」
ミチが、小さく声をかける。
ためらいながら、ナオコが席に加わった。
ナミが座るテーブルの前には、折りたたまれた一枚の紙。
――合格通知。
ナミは、大学に合格していた。
ミチが、静かに言った。
「……お母さんの件、もう我慢しなくていいと思う」
ナミは、膝の上で手を握りしめる。
義理の父の暴力。
逃げ場のない家。
「大学が決まったら……お母さんと、出ていく」
岸本が言った。
「叔父が、離婚の手続きに詳しいんだ。ちゃんと相談できる」
ナオコは、目を伏せたまま言った。
「……ユミカには、私がパンフレットを見せる。
旅行に行くように、仕向ける」
誰も、責めなかった。
それが、ナオコにできる唯一のやり方だと、分かっていたから。
⸻
後日。
そんなやりとりがあったことを知らないまま、
ユミカは旅行に出かけた。
ユミカの知らないところで、弁護士が入り、話し合いが行われ、
ナミの母と義理の父の離婚は成立していた。
そして、引っ越しの日。
ナミが家を出ようとドアノブに手をかけた、そのとき。
「……やっぱり、早めに帰ってきて良かった」
背後から、声がした。
振り返ると、ユミカが立っていた。
「そこで、何してるの?」
ゆっくりと、首をかしげる。
「もしかして……家、出ていくの?」
声が、少しだけ幼くなる。
「いやだよぉ。
おねえちゃんがいなくなったら、つまらないよ」
ナミは、何も言えなかった。
ユミカは、楽しそうに続ける。
「ねえ、小学生のときさ。
かくれんぼして、物置が開かなくなったこと、あったでしょ?」
ナミの背中が、冷たくなる。
「……あれね、ユミカが鍵かけたんだよ」
くすり、と笑う。
「中学のときもさ。
おねえちゃん、友だちいなかったでしょ?」
「……」
「いろんな噂、広めたの。私」
淡々とした声。
「物置のときも、中学のときも、楽しかったなぁ」
ユミカは、天井を見上げる。
「物置きの中から助けを呼ぶ声、聞いてるとさ……
なんか、すごくワクワクした」
ナミの指先が、震えた。
「高校で離れたでしょ。
今度は、別のおねえちゃんの顔を見てみたかったの」
ゆっくりと、ナミを見る。
「親友だと思ってたのに、違ったって分かったときの顔。
どんな顔するのかなぁって」
ナミが、静かに口を開いた。
「……ナオコを、自由にしてあげてほしいの」
ユミカは、しばらく黙ったあと、肩をすくめた。
「今回は、失敗したみたいだね」
残念そうに笑う。
「いいよ。ナオコの“秘密”、ナオコに返してあげる」
そして、甘えるように首を傾けた。
「その代わり――
おねえちゃん、ユミカに、なにかちょーだい」
視線が、ナミの髪に落ちる。
「その、長くて、きれいな髪がいいなぁ」
ナミは、一瞬も迷わなかった。
机の上のハサミを取り、耳元で、一気に刃を閉じる。
ざくり、と音がして、黒い髪が床に落ちた。
もう一度。
もう一度。
短くなった髪が、頬に触れる。
ナミは、それを束ね、ユミカの手のひらに乗せた。
「ユミカ」
まっすぐに言う。
「これで、ほんとうにおしまいにしよう」
ユミカは、返事をしなかった。
ただ、切り落とされた髪だけを、じっと見つめていた。
ナミはドアを開け、振り返らずに部屋を出た。
第六話
了
※本作品はフィクションです。
登場する人物・団体・出来事はすべて架空のものです。
実在の人物や団体、出来事とは一切関係ありません。
