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白い霧の約束 第五話

前回までの続き


その日、ナミは放課後の図書室にいた。

冬の光が、高い窓から斜めに差し込み、机の上の紙を白く照らしている。
静かな空気の中で、ページをめくる音と、遠くの運動部の掛け声だけが、かすかに混じっていた。

手元には、共通テストの結果。

――この点なら、志望の大学も合格できそうだ。

そう分かっているのに、胸は少しも軽くならなかった。

そこへ、ミチが小さく手を振りながら近づいてくる。

「ナミ」

向かいの席に腰を下ろしたミチは、ナミの表情を見るなり、すぐに察したように言った。

「……ナオコのこと?」

ナミは、ゆっくりとうなずいた。

「うん……」

「いったい、なんであんなことしたんだろうね。ナオコ」

それは――
ナミは言葉を探すように、視線を落とす。

「……」

その沈黙に、ミチは小さく息を吸い、低い声で尋ねた。

「もしかしてさ……“ユミカ”、関係あるの?」

その名前が出た瞬間、ナミの肩が、ほんのわずかに揺れた。

ミチは思わず、机の下で拳を握りしめる。

「前から思ってたけどさ。
ナミの義理の妹って……正直、なんなの?」

怒りを抑えきれない声だった。

「ムカつくけど……でも、大学に合格したら、家を出られるよね」

ナミは、うつむき

「……そうしたら……」

言葉が、途中で途切れる。

「お母さんを、あの家に一人にしておけない」

ミチは、はっとしてナミを見た。

「お母さんは、隠してるけど……」

ナミの声は、ほとんど囁きだった。

「お父さんに、暴力を受けてる。
ユミカと、お父さんがいる、あの家に……お母さんを、一人きりにはできない」

沈黙が落ちる。

図書室の時計の針の音が、やけに大きく響いた。

そのとき――

「あの……」

控えめな声が、二人の間に入り込んだ。

振り向くと、ひとつ後ろの机に座っていた男子生徒が、遠慮がちに手を挙げている。

「……?」

「岸本君、だよね」

ナミが言うと、彼は慌ててうなずいた。

「はい。ぼくも……毎日ここで、勉強していて……」

少し緊張した様子で、言葉を選びながら続ける。

「もし、よかったら……ぼくにも、協力させてもらえませんか」

間を置いて、岸本は続けた。

「ぼく、ナオコさんと同じクラスで……
最近、学校に来てないのも、ずっと気になってて」

一度だけ視線を落とす。

「……クラスで、話しかけてくれたの、ナオコさんだけだったから……」

小さく、しかしはっきりとした声だった。

「ナミさんのお母さんのことと、ナオコさんのこと。
その両方を、少しでも良くできる方法――一緒に考えさせてください」

三人は、声を潜めながら、それぞれの知っていることを出し合った。

誰が、何を知っていて。
誰が、どこまで動けて。
どこなら、誰にも気づかれずに調べられるか。

やがて、ひとつの形になりかけた案を前に、沈黙が落ちる。

「……それなら……」

ナミは、思わず息をのんだ。

「いける、かもしれない……けど……」

隣で、ミチが不安そうにナミを見る。

「でも……まずナオコが、どこにいるのか探さないと……」

その言葉に、ナミは、ゆっくりと首を振った。

「大丈夫」

不思議なくらい、声は静かだった。

「ナオコは……きっと、私の前に現れる」

ミチと岸本が、同時にナミを見る。

「たぶん――」

ナミは、窓の外の薄い冬空を見つめたまま、続けた。

「入試の、前日に」



――そして、入試前日。

ナミは、志望校のある北の大地にいた。

冷たい空気に混じって、知らない街の匂いがする。

ホテルの前で立ち止まり、振り向いた、そのときだった。

そこに――ナオコが立っていた。

「ナミ……」

少しだけ息を切らしたような声で、ナオコは言った。

「話があるの。……聞いてくれる?」

ナミは、何も言わずにうなずいた。

二人は、ホテルのすぐ近くにある、小さな喫茶店に入った。

「ご注文は?」

店員の声に、ナミは答える。

「私はホットコーヒーで」

そして、ナオコの方を見て、続けた。

「ナオコは……コーヒー苦手だから。
ココアか、ミルクティーにする?」

一瞬、迷う素振りを見せてから、付け加える。

「……どっちも好きでしょ?」

ナオコは、ほんの少し驚いたように目を見開き、それから小さく笑った。

「……そうだね。ミルクティーにするよ」

そして、ぽつりと呟く。

「よく知ってるね……ありがとう」

間を置いて、続けた。

「今まで……“友達ごっこ”に、付き合ってくれて」

ナミは何も言わず、ただナオコの言葉を待っていた。

「入学して、間もない頃さ……」

ナオコはミルクティーを一口飲み、左手でカップをテーブルに戻してから、口を開いた。

「ナミに、売春してるって噂が流れたの、覚えてる?」

ナミは、ゆっくりとうなずく。

「あれ……噂を流したの、私」

ナミは驚いた様子も見せず、静かにナオコの話を聞いていた。

しばらくして、ナミが口を開く。

「ねえ、ナオコ」

ナオコが顔を上げる。

「……どうして今日は、全部“逆”なの?」

「え……?」

「カバンを持つ手。
カップを持つ手」

ナオコは、はっとしたように自分の手を見る。

「それに……さっき喫茶店に入るときも。
ドアを開ける手、逆だった」

ナオコは、視線を落とし、黙り込んだ。

答えはなかった。

ナミはそっと席を立ち、ナオコのそばへ近づく。

そして、ためらうようにしながら、利き腕のセーターの袖を、やさしくまくった。

そこには――はっきりと分かる、大きな痣が残っていた。

ナミの胸に、静かな確信が広がる。

「ナオコ……受験票がなくなったとき」

ナオコは、わずかに肩を震わせた。

「あのとき、本当なら……処分してしまえば、よかったんだよね」

ナオコは、何も言わない。

「でも、ナオコは処分しなかった。
会場の近くの神社に、隠して……
時間ぎりぎりで、私に隠し場所のメールをくれた」

ナミは、ゆっくりと言葉を選ぶ。

「そのとき思ったの」

「本当に、私に受験させる気がなかったなら……
処分してしまえば、それで終わりだったはずだって」

ナオコは、俯いたまま、唇を噛みしめていた。

「……それに」

ナミは、痣の残る腕から、そっと手を離す。

「その腕は……ユミカからの、“罰”なんでしょ」

ナオコの肩が、小さく震えた。

ナオコは、絞り出すような小さな声で言った。

「……私が、悪いの……」

一度、言葉を飲み込む。

「中学二年のとき……あることに誘われたの
ほんの、軽い気持ちで……」

ナオコの指先が、カップの縁をなぞる。

震えが、止まらない。

「最初は……ただ、言われたことに従っただけで……」

喉が詰まったように、声が途切れる。

「そしたら……ユミカが現れて……」

ナオコは、ぎゅっと目を閉じた。

「……写真、とか撮られてて……ユミカに…」

「……ユミカが、私を従わせるための罠だったって……後から、知って……それで……」

ナオコの声は、ほとんど聞き取れないほど小さかった。

その瞬間だった。

ナミは、ナオコの言葉を遮るように、静かに身を乗り出し、
テーブルの上で震えているナオコの両手を、そっと包み込んだ。

冷たい指先に、ナミの体温が伝わる。

ナオコの肩が、びくりと揺れる。

「……っ……」

張りつめていたものが切れたように、ナオコの目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。

「……友達ごっこ、だなんて言って……ごめんなさい……」

声は、もう抑えきれずに揺れていた。

ナミは、ナオコの手を離さず、ゆっくりと首を振る。

「大丈夫」

とても静かな声だった。

「……わかってるよ」

ナオコが、顔を上げる。

ナミは、まっすぐにナオコを見つめたまま、続けた。

「私たちが一緒に過ごした三年間は……
“ごっこ”なんかじゃない」

ほんの一瞬、図書室でミチと話していた日の光景が、ナミの脳裏をよぎる。

笑ったことも、喧嘩したことも、何でもない帰り道も。

全部が、本物だった。

「ナオコと、ミチと、私の三年間」

ナミは、ゆっくりと言葉を重ねる。

「それから……これからも」

ナオコの手を包む力を、ほんの少しだけ強くした。

「誰にも、壊させないから」

ナオコは、声を出さずに泣きながら、何度も、小さくうなずいた。


第五話


※本作品はフィクションです。
登場する人物・団体・出来事はすべて架空のものです。
実在の人物や団体、出来事とは一切関係ありません。



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