高次脳機能障害と片麻痺の治療や再獲得という旅路に、楽しい感情を加える遊びやゲーム要素


高次脳機能障害のコンテンツや書籍を作成して人々の役に立つものを作成しようとすると、恐怖で立ちすくむことがある。
脳血管障害の人々の役人に立つコンテンツや書籍を作成しようと模索すると、恐怖で立ちすくむことがある。
脳血管障害の後遺症である片麻痺や高次脳機能障害は、魔法のような治療を求めている人が多い。
そして、脳血管障害後遺症である片麻痺や高次脳機能障害は、魔法の治療よりも地道な日々の日常生活習慣が大切となる。
仮に魔法のような新しい根拠に基づいた脳血管障害後遺症治療論文が発表されたとしても、退院後の日常生活や社会参加で廃用症候群を起こしてしまうと寝たきりとなってしまう。
人の医療や福祉に関わるという活動は、責任感もあり怖くなることがある。
脳血管障害後遺症のコンテンツ作成も、人生という旅路に似ているのかもしれない。
努力や根性で、苦しい現実を乗り越えなくてはいけない「怖い場面」が沢山ある。
最近読んだ日本漫画「葬送のフリーレン」に出てくる、勇者の言葉に「君は辛くて苦しい旅がしたいのかい」という言葉がある。
そして「僕は終わった時に、くだらなくて楽しい旅だったと笑い飛ばせるものにしたい」という言葉が、数千年を生きる主人公魔法使いエルフのフリーレンを変えていく。
高次脳機能障害や脳卒中片麻痺のコンテンツや書籍を作成することは、人の人生を変えるプレッシャーもあって辛くて苦しい。
それでも「高次脳機能障害や脳卒中片麻痺のコンテンツ作成は、くだらないゲームのように楽しかった」と、笑い飛ばせる旅路にしたいと考えてしまう。
脳卒中治療ガイドラインで根拠が示されている、注意障害治療のコンピュータ訓練に惹かれる理由は楽しい要素を加えたいのかもしれない。
医療や福祉に関わるコンテンツを作成する行為は、本質的に人の人生に介入することを意味している。
特に高次脳機能障害や脳血管障害後遺症という「人生の転換点となる重大な健康問題」を扱う場合、その責任の重さは創作者の心に深く圧し掛かってくる。
この恐怖は決して不合理なものではなく、むしろ人の人生に対する真摯な姿勢の現れといえるだろう。
脳血管障害を経験した当事者やその家族は、しばしば劇的な回復を約束する情報を求めている。
リハビリテーション医療の現場では、魔法のような治療法を期待する患者や家族に日々接することになる。
しかし、現実は脳損傷後の回復は緩やかで不確実なプロセスであり、地道な日常生活の積み重ねこそが最も重要な要素となる。
この現実と期待のギャップが、コンテンツ制作者を立ちすくませる最初の障壁である。
注意障害に対するコンピュータ訓練は、脳卒中治療ガイドラインにおいて一定の根拠を持つ治療法として位置づけられている。
この訓練法が持つ「楽しさ」という要素は、実は医療介入において極めて重要な意味を持っている。
なぜなら、継続性こそがリハビリテーションの成否を分ける最大の要因だからである。
どれほど科学的根拠のある治療法であっても、患者が継続できなければ効果は得られない。
廃用症候群という言葉が示すように、退院後に活動量が低下すればせっかく再獲得した身体機能や認知機能も失われていく。
この廃用症候群の恐ろしさは、単なる身体機能の低下にとどまらない。
廃用症候群は社会参加の機会を奪い、人生の質を根本から損なうことにある。
したがって楽しさやゲーム性を取り入れた介入は、単なる娯楽ではない。
遊び心のある楽しい作業は、継続性を担保するための戦略的な設計といえる。
葬送のフリーレンに登場する勇者ヒンメルの言葉は、医療コンテンツ制作という営みに対する重要な示唆を含んでいる。
辛くて苦しい旅を目指すのか、それともくだらなくて楽しい旅を目指すのか。
この問いは、「身体、精神、認知」のリハビリテーションという長い道のりに対する根本的な姿勢を質問している。
努力と根性だけを強調する従来型のリハビリテーション観は、一定の成果を上げてきたこともある。
しかし、退院後に「多くの患者を挫折させて、意欲を失わせてきた側面」も否定できない。
数千年を生きるエルフであるフリーレンが、限られた時間を生きる人間の勇者ヒンメルの言葉によって変化していく物語は、時間の捉え方についての深い洞察を提供している。
高次脳機能障害を抱える人々にとって、回復までの時間は途方もなく長く感じられる。
一方で支援する側の医療従事者やコンテンツ制作者は、その時間軸を客観的に捉えようとする。
この時間感覚の齟齬が、コミュニケーションの困難さを生み出している。
当事者にとっての一日一日は、まさに永遠とも思える長さである。
その中で小さな楽しみや達成感を見出すことが、継続の鍵となる。
小さな楽しみや達成感を見出すことが、継続の鍵となることは高次脳機能障害患者や片麻痺患者だけでない。
日々の毎日に小さな楽しみや喜びを見出す作業は、全人類の生活の質を豊かにする。
コンテンツ制作における恐怖の正体を分析すると、いくつかの層が見えてくる。
第一に誤った情報を提供することで、人の回復機会を奪ってしまうかもしれないという恐怖がある。
医学的根拠に基づかない情報は、限られた時間とエネルギーを無駄にさせる可能性がある。
ただし、根拠に基づいた治療は個人因子を阻害してはならないとガイドラインには常々警告記載がされている。
根拠に基づいた治療ガイドラインは、あくまでクリニカルパスに過ぎない。
「クリニカルパス」は医療の文脈では標準的な用語であり、特定の疾患に対する標準的な治療計画をまとめた診療計画表である。
クリティカルパスは、入院から退院までの「検査、治療、処置、リハビリ、食事、内服」などの予定を時系列に沿ってまとめたものである。
クリニカルパスを活用することで、チーム医療が円滑に進み、医療の質が向上する。
それだけでなく、患者が安心して治療を受けられるようになる。
そのクリニカルパスは、あくまで手順であることを忘れてはならない。
一人一人の個人因子と環境因子を最優先して、根拠に背いてでも「その人らしい生き方」を提供する医療も重要となる。
第二に過度な期待を抱かせることで、後に深い失望を与えてしまうかもしれないという恐怖がある。
魔法のような治療法が存在すると錯覚させることは現実的な目標設定を妨げ、かえって回復を遅らせる。
第三に努力を強調しすぎることで、結果が得られなかった人を責める構造を作ってしまうかもしれないという恐怖がある。
脳損傷後の回復には個人差が大きく、同じ努力をしても結果は異なる。
それにもかかわらず努力さえすれば報われるという単純な図式を提示することは、回復が思うように進まない人々を二重に苦しめることになる。
私達が「根性論、努力論」に懐疑的である理由は、人生の楽しみを奪いかねないからである。
人生はスパルタ訓練のような苦しくて悲しい旅路である時間が多いからこそ、私達人間脳が工夫してくだらない魔法のような楽しみを探求しないといけないはずだ。
根性論や努力論の恐怖は、他者人生だけでなく自身人生に対する深い責任感から生じている。
この恐怖が過度になると、何も発信できなくなってしまう。
「完璧な情報、誰も傷つけない表現、すべての人に役立つ内容」などというものは、絶対に存在しない。
むしろ重要なのは、「限界を認識しながらも、役立つ可能性のある情報を提供し続けること」ではないだろうかと私達は考えている。
日常生活習慣や小さな社会参加の重要性を伝えることは、一見地味で魅力に欠けるテーマに思える。
新しい根拠治療法や革新的な技術に比べて、「歯磨き、食事、トイレ、着替え、入浴」といった日常習慣的な活動は注目を集めにくい。
しかし、脳血管障害後遺症のある人々にとって、これらの日常動作こそが生活の質を決定する核心部分である。
「麻痺のある手でコップを持つこと、注意障害があっても家事を遂行すること」など、これらの積み重ねが社会参加への道を開く。
したがって、日常生活習慣に焦点を当てたコンテンツは、決して地味なものではない。
むしろ日常生活動作や日常生活間連動作の中に身体リハビリテーションや認知リハビリテーションを組み込むことが、最も実用的で価値の高い情報といえる。
問題は、どのようにしてこの重要性を魅力的に伝えるかである。
ここで再び、楽しさという要素が重要になってくる。
コンピュータ訓練が持つゲーム性は反復練習という本質的には単調な作業を、継続可能なものに変換する力を持っている。
「即座のフィードバック、達成感の可視化、段階的な難易度調整」など、これらはゲームデザインの基本要素である。
同時に、効果的な学習環境の条件でもある。
注意障害は高次脳機能障害の中でも、特に日常生活への影響が大きい症状である。
「物事に集中できない、複数のことを同時に処理できない、重要な情報を見落とす」といった問題は、料理や買い物、仕事といったあらゆる活動を困難にする。
片麻痺などの身体障害が軽度であったとしても、小さな注意障害によって日常生活動作自立や社会参加を阻害されてしまうケースは多い。
従来の注意訓練は、しばしば退屈で機械的な課題の繰り返しであった。
「数字の羅列から特定の数字を探す、音声刺激に反応する」などの認知リハビリテーションは、確かに注意機能を測定し訓練する上で有効だ。
しかし、継続のモチベーションを維持することが難しい。
コンピュータを用いた訓練プログラムは、この課題に対する一つの解答を提供している。
「視覚的に魅力的なインターフェース、ストーリー性のある課題設定、自動的な難易度調整、詳細な成績記録」といった要素が、訓練の継続性を高める。
さらに重要なのは、これらのプログラムが在宅でも実施可能であるという点である。
リハビリテーション施設への通院には、「時間的コスト、経済的コスト、身体的コスト」がかかる。
そもそも診療報酬削減によって、日本の外来リハビリテーション受診自体が縮小傾向にある。
縮小傾向ならいいほうであり、リハビリテーション砂漠となって医療崩壊や介護崩壊している地域が日本には沢山存在する。
一人一人の固有差に合わせた治療プログラムや環境調整によって、日常生活で当たり前のように習慣化できる内容を加えないとあっという間に寝たきりとなってしまう。
自宅で習慣的に実施できる遊び心のある訓練はこれらのバリアを低減し、より頻繁で継続的な介入を可能にする。
ただし、コンピュータ訓練が万能薬ではないことも認識しておく必要がある。
コンピュータ訓練で向上した能力が、実際の日常生活場面に般化するかどうかは別の問題である。
注意訓練プログラムで高得点が取れるようになっても、実際の買い物で必要な商品を忘れずに購入できるようになるとは限らない。
この般化の問題は、認知リハビリテーションや身体リハビリテーション研究における永遠の課題である。
したがって訓練プログラムの設計においては、実生活への転移を促進する工夫が必要となる。
例えば「訓練課題に日常生活場面を模した文脈を組み込む、訓練で学んだ戦略を実生活で試す課題を設定する、家族や支援者と連携して環境調整を行う」といった、具体的なアプローチが考えられる。
コンテンツ制作者が直面するもう一つのジレンマは、科学的厳密性と理解しやすさのバランスである。
医学論文やガイドラインの記述は正確だが、専門用語が多く一般の人には理解が困難である。
一方で過度に単純化すると、重要なニュアンスが失われて誤解を招く可能性がある。
例えば、ある治療法の効果量が統計的に有意であるという情報をどのように伝えるべきか。
専門家にとって効果量の大きさや信頼区間、対象者の特性といった情報は意思決定に不可欠である。
一般の読者にとってこれらの情報は理解が困難であり、かえって混乱を招く可能性がある。
かといって単に「効果がある」とだけ伝えることは、適用範囲や限界を無視した過度の単純化である。
この問題に対する一つのアプローチは、層構造を持った情報提供である。
まず平易な言葉で核心的なメッセージを伝え、興味を持った読者のために詳細な情報へのアクセス経路を用意する。
例えば、基本的な説明の中により詳しい情報へのリンクや参考文献を埋め込む方法が考えられる。
また、具体的な事例やストーリーを通じて抽象的な概念を理解しやすくすることも有効である。
数字やグラフだけでは伝わりにくい情報も実際の患者の経験談を通じて伝えれば、リアリティを持って受け止められる。
ただし、個別の事例が一般化できない特殊例である可能性にも注意が必要である。
一人の劇的な回復例は確かに希望を与える力を持っているが、同時に非現実的な期待を生む危険もある。
したがって事例を紹介する際には、「それが典型的な経過なのか、例外的な成功例なのか」を明示する必要がある。
さらに回復のプロセスにおける当事者の主観的経験と、客観的な機能評価の両方を含めることが望ましい。
認知リハビリテーションや身体リハビリテーションの目標は、単に検査の点数を上げることではなく生活の質を向上させることである。
したがって、機能的な改善だけでなく「本人がどのように感じているか、何ができるようになって嬉しかったか、どんな困難が残っているか」といった主観的側面も重要な情報となる。
結局のところ高次脳機能障害や脳血管障害後遺症のコンテンツ制作における恐怖は、完全に消し去ることはできない。
人の人生に影響を与える可能性がある以上、責任感と緊張感は常に付きまとう。
しかし、この恐怖に支配されて何も発信しないことは、必要としている人々に情報が届かないというより大きな問題を生む。
重要なのは恐怖を認識しながらも、それを乗り越えて前に進むことである。
そしてその過程を辛く苦しいものとしてではなく、試行錯誤を楽しむゲームのような旅として捉え直すこと。
完璧な情報を目指すのではなく、少しずつ改善していく継続的なプロセスとして捉えること。
これは実は、脳血管障害後遺症のリハビリテーションそのものと同じ構造を持っている。
一度の大きな飛躍ではなく、小さな改善の積み重ね。
完全な回復という到達不可能な目標ではなく、今日よりも明日が少し良くなるという現実的な期待。
そして何より、その過程に小さな楽しみや達成感を見出すこと。
コンテンツ制作者が自らの活動にこうした姿勢を持つことは、実は最も説得力のあるメッセージとなるのではないだろうか。
なぜならそれは言葉だけでなく、実践を通じて「地道な継続の中に楽しみを見出す」という核心的なメッセージを体現することになるからである。
くだらなくて楽しい旅だったと笑い飛ばせる日が来るかどうかは、旅の終わりにならなければわからない。
少なくとも、その方向を目指して歩み続けることは可能である。
そしてその歩みの中で生み出されるコンテンツは同じように長い旅路を歩む人々にとって、わずかでも励みとなる可能性を秘めている。
高次脳機能障害や片麻痺の治療や再獲得という旅路と、楽しい感情を加える遊びやゲーム要素が必要となる。
一人一人の固有差に合わせたゲーミフィケーションやコンピュータ訓練が注目されている理由は、認知リハビリテーションや片麻痺リハビリテーションの再獲得には苦しいスパルタ訓練では退院後に継続できないという問題点がある。
早期に「二木の分類」などで日常生活動作自立の予後予測をして、退院後の生活環境や社会参加をイメージして、認知リハビリテーションや身体リハビリテーションを行うことは重要となる。
脳血管障害後のリハビリテーションにおいて、予後予測は治療戦略を立てる上での羅針盤となる。
二木の分類は脳卒中片麻痺患者の機能予後を予測する代表的な指標として、日本のリハビリテーション医療現場で長年活用されてきた。
この分類法は発症早期の特定時期における上肢と手指の随意運動の有無を評価することで、将来的な日常生活動作の自立度を予測するものである。
具体的には、「年齢、障害程度、発症時の日常生活動作自立度、覚醒度合い、発症後数週間の時点で上肢の分離運動がどの程度可能か、手指の随意運動がどの程度出現しているか」などを観察する。
二木の分類では日常生活動作自立度や上肢の近位部と遠位部の運動機能を段階的に評価して、それぞれの組み合わせから予後を判定する。
最も予後が良好とされるグループは早期から手指の分離運動が可能な患者であり、これらの患者は将来的に実用手として患側上肢を使用できる可能性が高い。
一方、発症直後から歩行などの基本動作や日常生活動作自立度が低いケースや高齢者は、予後不良となるケースが多い。
片麻痺に特化して評価すると、肩や肘の運動は可能だが手指の分離運動が困難な患者は補助手レベルの機能回復が期待される。
上肢全体の随意運動が著しく制限されている患者は、廃用手となる可能性が高い。
発症直後から重度な片麻痺があるケースは、代償動作や環境調整を中心としたアプローチが必要となる。
高次脳機能障害の予後予測がしにくいが、意識障害が重度であるケースは予後不良となるケースが多い。
この分類の重要性は単なる予測にとどまらず、リハビリテーションプログラムの方向性を決定する指針となる点にある。
「座位保持、立位保持、移乗動作、歩行動作」などの基本動作が早期自立できるケースは、予後が良好となるケースが多い。
基本動作は「食事、整容、更衣、排泄、入浴」などの、日常生活動作自立にもつながる。
片麻痺に着目すると早期から実用手レベルの回復が期待できる患者には、精密動作の訓練や巧緻性の向上を目指した課題指向型訓練が有効である。
補助手レベルが予測される患者には両手動作における患側上肢の役割を明確にし、日常生活場面での使用機会を増やす戦略が中心となる。
廃用手が予測される患者には「障害受容、非麻痺側上肢の効率的な使用方法、福祉用具の活用、環境調整」といった、精神的アプローチや代償的アプローチが主軸となる。
ただし、二木の分類にも限界が存在することを認識しておく必要がある。
この分類は主に日常生活動作や運動機能の回復を予測するものである。
感覚障害や認知機能、動機づけといった他の重要な要素を十分に反映しにくい。
また、分類時期の設定にも議論がある。
あまりに早期では機能が未確定であり、遅すぎると介入の機会を逸する可能性がある。
しかしながら今も昔も早期予後予測をした発症後の集中的なリハビリテーション介入は、心身回復や認知回復に重要であることは約40年前から変わらない。
早期予後予測や早期リハビリテーションの重要性は約40年前から変わらないが、この年月は「IT革命、AI革命」など多くの環境変化を起こしている。
AIというコンピュータ脳や、AIに身体を与えるロボット支援技術は心身リハビリテーションや認知リハビリテーションの在り方を確実に変えている。
経頭蓋磁気刺激などの介入技術の登場も、予後予測の枠組み自体を再考するきっかけを与えている。
それでも二木の分類が現在も活用されている理由は、シンプルで臨床現場での実用性が高い土台であるからである。
患者や家族への説明においても、理解を得やすいという利点にある。
発症直後の「障害程度、基本動作自立度、日常生活動作自立度、覚醒度合い、片麻痺レベル」というのは、予後予測の指標として説明もしやすい。
退院後の生活を具体的にイメージする上で、日常生活動作や社会参加場所を早期予測することは大切となる。
基本動作や日常生活動作の自立に必要な上肢機能がどの程度回復するかという情報は、「住宅改修や福祉用具の選定、介護体制の構築」において必要となる。
ただし、片麻痺や高次脳機能障害よりも「基本動作自立度、日常生活動作自立度」のほうが評価優勢されるべきだと私達は考えている。
片麻痺や高次脳機能障害という後遺症が回復したとしても、日常生活動作自立や社会参加に繋がらず寝たきりになってしまうケースが非常に多い。
「寝たきり症候群」と比喩される廃用症候群を予防できるアプローチこそ、「身体機能、精神機能、認知機能」を継続的により良くする。
環境因子や個人因子は、予後予測がしにくい高次脳機能障害のアプローチに必要不可欠である。
高次脳機能障害の予後予測は、運動機能の予測よりもさらに複雑で困難な課題である。
なぜなら高次脳機能は、「注意、記憶、遂行機能、社会的認知、感情、言語」など多岐にわたる要素から構成されている。
それぞれが独立しながらも、相互に影響を及ぼしあっている。
さらに、これらの高次脳機能障害は客観的な測定が難しい特性もある。
高次脳機能障害の評価法はいくつもあるが、評価方法によって結果が大きく変動する可能性がある。
高次脳機能障害の予後を左右する要因として、まず病巣の部位と範囲が挙げられる。
前頭葉の損傷は遂行機能障害や行動制御の問題を引き起こしやすく、側頭葉内側面の損傷は記憶障害と関連が深い。
頭頂葉の損傷は空間認知や注意機能に影響を与え、右半球の損傷は左半側空間無視などの特徴的な症状を呈する。
人間脳は高度にネットワーク化された器官であり、特定の部位の損傷が単一の機能障害に対応するという単純な図式は成り立たない。
むしろ、損傷部位を中心とした神経ネットワーク全体の機能不全として高次脳機能障害を理解する必要がある。
年齢も、予後を大きく左右する因子である。
若年者は脳の可塑性が高く、損傷後の再編成能力に優れている。
そのため、より良好な回復が期待できる傾向にある。
一方、高齢者では既存の脳血管障害や認知機能の加齢変化が背景にあることが多い。
さらに高齢者は元々「身体機能、精神機能、認知機能」が老化現象によって低下していく傾向があり、回復が限定的になりやすい。
ただし、これも絶対的な規則ではなく個人因子や環境因子が極めて大きいことに注意が必要である。
教育歴や病前の認知的予備能も、重要な予後因子として認識されている。
退院後の日常生活を行う環境も、非常に重要である。
環境次第で、軽介助で日常生活動作や社会参加よできる人達が全介助になるケースはある。
同程度の脳損傷があっても、個人因子と環境因子で人生は大きく変化することを忘れてはいけない。
回復過程においても、個人因子や環境因子は有利に働く可能性が示唆されている。
豊富な神経ネットワークや効率的な情報処理戦略によって、脳損傷を個人因子や環境因子が代償できる可能性も高いためと考えられている。
発症後の経過時期も、予後予測において考慮すべき要素である。
一般的に高次脳機能の回復は発症後数ヶ月間が最も顕著であり、その後は緩やかになるとされている。
早期離床や早期リハビリテーションは、人間脳の認知機能に大きな影響を与えて、発症後年単位での改善も報告されている。
高次脳機能障害の回復時間は、従来考えられていたよりも、長い可能性があると今でも議論されている。
高次脳機能障害の予後予測において特に困難なのは、社会復帰の可否を判断することである。
神経心理学的検査で良好な成績を示していても、実際の職場や地域社会では適応困難となるケースは少なくない。
これは臨床現場や検査室という構造化された環境と、多様な刺激や予測不可能な状況が存在する実生活との間に大きなギャップがあるためである。
遂行機能障害を持つ患者は、臨床現場や検査では問題が顕在化しにくい。
しかし、「複数の課題を並行処理したり、予期しない状況に対応したりする必要がある実生活場面」において、初めて困難が明らかになることがある。
また、病識の欠如や自己認識の障害は予後に大きな影響を与える要因である。
自身の障害を認識できない患者は、危険な行動を取ったり認知リハビリテーションへの動機づけが低下したりする傾向がある。
病識の改善は、時間経過とともに徐々に進むこともある。
しかし、長期にわたって欠如したままのこともあり予測が極めて困難である。
こうした複雑な予後予測の困難さを背景に、ゲーミフィケーションやコンピュータ訓練の重要性が浮かび上がってくる。
従来の認知リハビリテーションは、しばしば反復的で単調な課題の繰り返しであった。
患者の内的動機づけを維持することが、大きな課題であった。
人間には目的や目標といった、内側から溢れてくるような動機付が必要である。
高次脳機能障害を持つ患者は、遂行機能の障害により目標設定や計画立案が困難となり長期的な訓練の継続が難しい。
ゲーミフィケーションは、こうした課題に対する一つの解決策として注目されている。
約40年年前の子どもや学生時代に「くだらない遊び」と親から叱責された人達は、現在は50~60代前後になっている。
「がん、心疾患、脳血管障害、糖尿病、高血圧性疾患」といった生活習慣病を発症しやすい年代が、ゲームはくだらない遊びと怒られていた世代だ。
「即座のフィードバック、達成感の可視化、段階的な難易度調整、報酬システム」といったゲームの要素を取り入れることで、日常生活の中に認知リハビリテーションを継続的に組み込むことができる可能性もある。
注意障害に対するコンピュータ訓練プログラムの多くは視覚的に魅力的なインターフェースと、プレイヤーの成績に応じて自動的に難易度が調整される適応型アルゴリズムを搭載している。
これにより高次脳機能障害患者は、適切な挑戦レベルの課題に取り組むことができる。
日本の30~40年前のゲームは容量制限の中で、本当に工夫されて作成されている。
日本人のゲームオタク技術や情熱には、驚かされる部分が多い。
日本の30~40年前のゲームを、宝物探しのように探しにくる訪日外国人も多い。
日本の「アニメーション、漫画、ゲーム」という文化は、くだらない遊びのようで魔法のような技術である。
未だに、日本人が開発した30~40年前のゲームがリメイクされて世界中を熱狂させている。
リメイクではなく当時のゲームに「時間競争、アイテム、レベル上げ」などの縛りをつけて、コンピュータ脳というCPU認知機能を持ったゲームと人間脳は未だに楽しく戦い続けている。
日本人がかつて開発したゲームやゲーミフィケーションは、芸術作品と言っても良いかもしれない。
過去に遊んだことのあるゲームシステムは、「過度に簡単で退屈になること、過度に難しくて挫折すること」を避けられる要素になる可能性もある。
記憶障害に対する訓練では、回想療法や想起の成功体験を積み重ねることが癒やしを生み出して重要となることもある。
ゲーム形式のコンピュータ訓練では、正解時に視覚的報酬と聴覚的報酬が明確に提示される。
誤答時にも否定的なフィードバックではなく、次のチャンスを示唆する前向きなメッセージが表示されることが多い。
こうした設計は学習理論における強化の原理に基づいており、行動の定着を促進する。
さらに重要なのは、個別化されたアプローチである。
高次脳機能障害は極めて多様であり、同じ診断名であっても症状の現れ方は一人一人虹色の固有差がある。
注意障害一つをとっても「持続性注意の問題が主体なのか、選択性注意の問題が中心なのか、あるいは分配性注意の困難が顕著なのか」によって、必要な介入は変わってくる。
コンピュータベースの訓練システムは高次脳機能障害患者の詳細な成績データを記録し、弱点となっている特定の認知プロセスを同定することができる。
これにより画一的なプログラムではなく、個々の患者の認知プロフィールに合わせたカスタマイズされた訓練が可能となる。
昨今では世界中が開発競争をしている生成AIによって、個人因子に適したカスタムゲーム創作すらできてしまう。
ただし、毎月アップデートしていく生成AI進化を追いかけている高次脳機能障害治療は、多いとは言えない。
世界中の大企業が開発競争を激化していり生成AIアップデートを追いかけ続ける認知リハビリテーション人材や、電子工作というAIコンピュータ脳にロボット身体を与える人材が不足している。
在宅での実施が可能という点も、ゲーミフィケーションの大きな利点である。
退院後のリハビリテーション継続は、社会復帰の成否を分ける重要な要素である。
しかし、通院の負担は患者にとって大きな障壁となるどころか、通院場所すら無い地域も沢山存在するのが日本の医療崩壊や介護崩壊の現状である。
自宅で好きな時間に取り組めるコンピュータ訓練は、この障壁を大幅に低減する。
さらに家族が訓練の様子を観察したり、一緒に取り組んだりすることで、障害への理解が深まる可能性もある。
日常生活動作や社会参加への支援方法ヒントを、ゲームという遊びから得ることもできる可能性もある。
ただし、ゲーミフィケーションやコンピュータ訓練にも限界と課題が存在する。
最も重要な課題は、コンピュータ訓練で得られた改善が実生活場面に般化するかどうかという問題である。
コンピュータ画面上で注意課題の成績が向上しても、実際の買い物場面で必要な商品を見落とさずに購入できるようになるとは限らない。
この般化の問題を解決するためには、認知リハビリテーション訓練課題を実生活場面により近いものにする工夫が必要である。
仮想現実技術を用いてスーパーマーケットや駅といった実際の環境を模擬し、そこでの課題遂行を訓練するアプローチも開発されている。
医療機関の認知リハビリテーション訓練で学んだ認知戦略を実生活で意識的に使用するよう促す、高次な認知的アプローチも重要である。
予後予測と個別化された介入を結びつける上で、二木の分類のような予測ツールは重要な役割を果たす。
発症時の「年齢、発症時の障害程度、基本動作自立度、日常生活動作自立度、覚醒度合い」は、AIというコンピュータ脳でコンピュータ訓練を組み立てる作業に必要不可欠である。
また、上肢機能の予後が実用手レベルと予測される患者には、手指の巧緻性を要するゲーム課題を取り入れることも考慮する必要がある。
個人因子や環境因子を活用することで運動訓練と認知訓練を統合した介入が、ゲームやコンピュータ訓練を通して可能性となる。
補助手レベルが予測される患者には、両手協調動作を要するゲーム設計が有効である。
廃用手が予測される患者でも、非麻痺側上肢を用いた認知訓練は十分に実施可能である。
片麻痺や高次脳機能障害のアプローチは、日常生活動作や社会参加に繋げる為に行うべきである。
しかし、時には片麻痺治療自体が、離床や廃用症候群予防の意欲に繋げることもある。
ゲームやコンピュータ訓練を通した高次脳機能の改善を通じて、日常生活の質や社会参加の確率をを向上させることができる場合もある。
高次脳機能障害の予後予測が困難であることは逆に言えば、介入の余地が大きいことを意味している。
運動機能の回復には解剖学的制約や生理学的制約もあるが、認知機能の改善には脳の可塑性や代償機構が大きく関与する。
固有差を大切にした認知リハビリテーションとゲーミフィケーションを組み合わせることで、従来の予測を超える改善が得られる可能性がある。
重要なのは、予後予測を固定的な運命としてではないことを自覚しておくとだ。
良くも悪くも予後予測とは、現時点での情報に基づく暫定的な見通しとして捉えるべきである。
早期の予測予測は、高次脳機能障害リハビリテーション計画の出発点であり、患者の努力や介入の効果によって変更されうるものである。
楽しさという要素を加えることは、単なる訓練の継続性向上だけでない。
高次脳機能障害患者の主体性と自己効力感を高め、内的動機付けを湧き出す重要な要素となる。
スパルタ式の苦しい根性訓練では脳血管障害患者が受動的な訓練の受け手となり、動機づけは外部からの強制に依存する。
内的動機付けが重要視されている時代の流れと、「根性論、精神論」は逆行している。
ゲーム要素を含む訓練では患者自身が能動的な参加者となり、内発的動機付けが育まれる。
この内発的動機付けこそが、退院後の長期にわたる自主訓練の継続を可能にする鍵となる。
予後予測とゲーミフィケーションを統合した包括的な認知リハビリテーションアプローチは、患者一人ひとりの固有の状況に合わせた最適な支援を提供する可能性を秘めている。
二木の分類による運動機能予後と高次脳機能の評価結果を組み合わせることで、より精緻な個別化計画が立案できる。
そしてその計画を実行する過程に楽しさや達成感を組み込むことで、長い回復の旅路を持続可能なものに変えることができる。
そこに昨今のノーコードやローコードのAIというコンピュータ脳を持った認知機能は、毎月進化していることを活用する工夫は必要かもしれない。
AIは魔法ではないが、30~40年前の日本ゲームは今も世界中の人達を魔法のように魅了している。
