【clum! '95 #02】近距離の鬼コーチ

入部届を出した翌日。
放課後の体育館には、バッシュの音——スキール音が響き渡っていた。
鼻に小さな絆創膏を貼った僕、早坂一頼は、緊張がまだ解けないまま、コートの隅に立っていた。
「よーし、早坂くん! 約束通り、みっちり基礎から教えてあげるからね」
佐野立夏先輩が、ボールを脇に抱えて仁王立ちしている。怖い。
ポニーテールを揺らしながら、佐野先輩は朝からずっと楽しそうだった。
僕を教えることが、そんなに面白いんだろうか。
「は、はい! よろしくお願いします、佐野先輩!」
「うん、いい返事。じゃあまずはディフェンスの構えから。足開いて、腰落とす!」
僕は言われた通りに両足を広げ、腰を落とした。
自分ではかなり低く構えたつもりだった。
しかし――。
「甘い! 全然高いよ!」
佐野先輩がズカズカと歩み寄ってくる。
そして、ためらいなく僕の腕と腰に手を添え、グイッと下に押し込んだ。

「うわっ!?」
「もっとここ! 太ももが床と平行になるくらい! きついのは効いてる証拠!」
「は、はいぃっ!」
声が裏返る。きついのは太ももの筋肉だけではない。
指導に熱が入った佐野先輩は、僕のフォームを確認するために、顔をグイッと近づけてきたのだ。

「背中丸めない! 前見て、あたしの目を見て!」
「えっ、あ、はい!」
言われて顔を上げると、そこには佐野先輩の大きな瞳が、わずか数センチの距離にあった。
長いまつげの一本一本まで数えられそうな距離。彼女の温かな吐息と、動くたびに香る制汗剤の爽やかな匂いが、僕の思考回路をショートさせる。
(ち、ちちち、近いです先輩!!)
心の中で絶叫した。
少し離れたところで、
女子の先輩たちがひそひそ話していた。
「立夏ってさ」
「男嫌いなのに、バスケになると距離感おかしいよね」
「あの一年」
「……頑張れって感じ」
足がきつくて辛いはずなのに、「男嫌い」という言葉だけがはっきり聞こえて、僕の足はさらに重みを増した。
僕も、嫌われている?
「ほら、きつくても耐える! 重心がブレてるよ、もっと足指で床掴んで!」
佐野先輩は僕の体操服の裾を少し引っ張り、膝の位置を直す。その指先が足に触れるたび、僕の身体はビクッと震える。
(うう……お兄ちゃんたちの特訓より、心臓に悪い……!)

きっと僕の顔は真っ赤だ。
そんな限界寸前の僕を救ったのは、低い声だった。
「……おい、立夏。早坂が死にかけてるぞ」
ドリンク缶を持った折館迅先輩が、呆れたように通りがかった。その声に、気が緩み、僕は床にへたり込んだ。

「え? なんで? まだ1分もキープしてないよ?」
「そうじゃなくて……お前、顔近すぎだ」
「はあ? フォーム見てあげてただけじゃん。ねえ早坂くん、これくらい平気だよね?」
佐野先輩にあっけらかんと聞かれ、へたり込んでいた僕は、首を千切れんばかりに縦に振るしかなかった。
「へ、へへへ平気です! 全然! もっといけます!」
精一杯の強がりだった。
本当はもう太ももがガクガクしてる。
でも。
佐野先輩にだけは、「やっぱりダメだね」なんて言われたくなかった。
「ほらー! 折館くんが甘やかすからダメなのよ。早坂くんはやる気あるんだから。よし、じゃあ次はサイドステップ!」
佐野先輩は満足げに頷くと、再び「ほら、構え!」と手を叩く。
僕は泣きたい気持ちのまま、再び腰を落とした。
折館先輩は憐れむような目で僕をチラリと見ると、無言で冷えたスポーツドリンクの缶を一本、僕の足元に置いてから去っていった。
折館先輩が置いていった缶を見下ろしながら、僕は思った。
……助けてはもらえないんだ。
帰りたい。
せめて休憩が欲しい。
でも。
「ほら! 次!」
元気よく手を叩く佐野先輩を見ると、不思議と嫌だとは思えなかった。
たぶん。
僕のバスケ部生活は、
思っていたよりずっと大変で、
思っていたよりずっと楽しいものになりそうだった。



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