【clum! '95 #05】家庭科室は避難所

4月の放課後。
西日が差し込む家庭科室には、バターとバニラの甘い香りが充満していました。
「……作りすぎちゃった」

わたし、岡本玲は、目の前に積み上がった大量のマドレーヌを見て、小さくため息をつきました。
部員勧誘のために焼いたものの、見学者はゼロ。
このままでは、家に持ち帰ってお兄ちゃんの胃袋に収まるだけです。喜んでくれるだろうけれど、それはそれで悔しい。
「はぁ……。誰か食べてくれないかな」
そのときでした。
家庭科室の引き戸が、「ガララ……」と遠慮がちに、しかし必死な様子で開きました。
「あ、あの……すみません! 匿ってください!」
転がり込んできたのは、この前図書室で会ったあの一年生の男の子でした。鼻の絆創膏はもう取れているけど、顔は汗だくで必死そのものでした。


「早坂、くん? どうしたの?」
家庭科室にいたのは岡本先輩だった。
よかった。何だか少し、いや、かなりホッとした。
「あ、岡本先輩! 実は、佐野先輩が『今日は地獄のサーキットトレーニングよ!』って追いかけてきて……ぼく、もう足が限界で……」
言いながら、僕のお腹が グウゥ〜 と盛大に鳴った。家庭科室が甘い匂いで満たされていたからだろうか。
僕は真っ赤になってお腹を押さえる。恥ずかしい……!
「あはは。避難所が必要みたいね。……よかったら、これ食べる?」
「えっ、いいんですか!?」
岡本先輩が焼きたてのマドレーヌを差し出してくれた!
女神様!
僕は拝むように受け取り、一口で頬張った。
「んん〜っ! 美味しい! 生き返る〜!」
「ふふ、よかった。作りすぎちゃって困ってたの」
僕のリアクションに、岡本先輩がほっとしてくれた瞬間。
背後の廊下から、重たい足音が近づいてきた。
「……ここにいたか」
「ひいっ!」
僕は悲鳴を上げて机の下に潜り込もうとした。
しかし、現れたのは鬼の形相をした佐野先輩ではなく、無表情な折館迅先輩だった。
よかった……の、かな?
と胸を撫で下ろしたのも束の間、折館先輩は岡本先輩の方へ歩いていった。

「お、折館先輩……。び、びっくりさせないでくださいよぉ」
「……いい匂いがしたからな」
折館先輩は僕の方をチラッと見ると、そのままノシノシと調理台の方へ歩み寄ってきた。

わたしの心臓が ドクン と跳ねた。
お、折館くん……!
近い!
おっきい……!
威圧感に思わず後ずさりしそうになります。
折館くんは無言で山盛りのマドレーヌを見つめていました。
怒られる? 勝手に部室使ってるって思われたかな?
調理部の活動なんだけど、あまり知られてないだろうし。そもそもわたしひとりしかいないし。
と、わたしがパニックになりかけたそのとき、折館くんがボソッと言った。
「……これ、食べていいのか」
「え?」
「腹減った」
拍子抜けするほどシンプルな要求。わたしは瞬きをした。
慌てて一番形のきれいなマドレーヌをのせたトレイを差し出した。

「ど、どうぞ……! お口に合うか、わかりませんが……」
「サンキュ」
折館くんは大きな手でそれをつまむと、パクりと口に入れた。
わたしが固唾を飲んで見守る中、彼はゆっくりと咀嚼し、飲み込む。
「……美味い」
短く、でもはっきりとした言葉。
うれしい……!
さらに彼は、「もう一個いいか」と自分から手を伸ばしました。
「は、はいっ! いくらでも!」

わたしの顔、マドレーヌが焼けるオーブンよりも熱く赤くなってるかもしれない。
怖そうだと思っていた彼が、リスのように頬を膨らませてお菓子を食べています。
そんな風に食べてくれるんだ……!
と、その平和なティータイムは、嵐のような声によって打ち破られました。
「みーつけたぁぁぁ!!!」
バンッ!! と勢いよく扉が開きました。

仁王立ちしているのは、僕を探している佐野立夏先輩だった……!
殺される……!

「早坂くん! トイレ行くって言って逃げたでしょ! ……って、ん?」
佐野先輩の鼻がピクピクと動く。
彼女の鋭い視線が、僕と折館先輩、そして岡本先輩の手にあるお菓子へとロックオンされた。
「……何それ。ずるい、自分たちだけ!」
「あ、佐野さん……これ、よかったら……」
「食べる!!」
佐野先輩は一瞬で戦闘モードを解除し、岡本先輩の手からマドレーヌをひったくると、豪快にかじりついた。
「んん〜っ! めっちゃ美味しい! 何これ、岡本さん天才!?」
「えへへ……ありがとう」
「よし早坂くん! 今日のサーキットは免除! その代わり、このマドレーヌ分しっかり動くこと!」
「はいっ! ありがとうございます!」
助かった……!
やっぱり岡本先輩は女神だ!

いつもは広いのに、今日は少しだけ家庭科室が狭く感じました。賑やかな声が響いていて、心がぽかぽかしました。
空っぽになったお皿がうれしい。きっとわたしは今日一番の笑顔になっていると思う。

部員は増えなかったけど……常連さんは増えたかも。
その横で、折館くんが帰り際に、わたしの隣にやってきた。
なんだろう。え、近い……!
折館くんが、わたしの耳元でぼそっと呟いた。
「……また作って」
「!! ……は、はい!」

声が裏返りながらもなんとか頷いた。
佐野さんが「あー! 折館くんだけ抜け駆けはずるい!」と茶化して、早坂くんがオロオロとなだめてくれている。
こうして調理部は、バスケ部員数名の「秘密の補給基地」として認定されたようなのでした。


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