【clum! '96 #20】予定外のゼロ距離
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1996年、7月の放課後。梅雨の晴れ間の湿った空気が、碧翔学園の廊下に溜まっていた頃の話。
一頼と立夏の距離が、ほんの少し、けれど決定的に動いた瞬間の話。
放課後の渡り廊下。掲示板の前で、一頼と立夏が並んで立っていた。
ふと足を止めた一頼が、自分の隣に立つ立夏の頭のてっぺんに視線をやり、それから自分の目線の高さを確かめるように瞬きをした。

「……あ、立夏。見て、もうほとんど視線の高さが同じだ!」
一頼が少し弾んだ声で言うと、立夏は驚いたようにパチクリと大きな瞳を揺らした。
「本当だ……。一頼、また背が伸びたのね」
4月の入学式では、まだどこか幼さの残っていた一頼だったが、この一年と数ヶ月で急激に「男子の骨格」へと成長していた。
「嬉しいです。これなら、先輩が少し俯いた時でも、俺がすぐに気づけますから」
一頼は、優しく、そして丁寧に微笑んだ。
彼にとって、身長が追いつくということは、彼女を守るための対等な立場に一歩近づけたという、純粋な喜びの証だった。
その様子を少し離れた場所で見ていたのが、玲と迅だった。

「早坂くん、すごく嬉しそう……。立夏ちゃんも、早坂くん相手だと、あんなに自然に笑えるんだね」
玲が目を細めて呟くと、隣に立つ迅はフン、と鼻を鳴らしました。
「……あいつ、丁寧すぎてたまにイラつくが。立夏にとっては、あの中途半端な丁寧さが丁度いいんだろうな」
ちょうどその時、一頼が勇気を出して、そっと立夏の指先に触れた。
「先輩。……あの、手を、繋いでもいいですか?」
「……うん。いいよ」

立夏は少しだけ頬を染め、ゆっくりと自分の指を一頼の掌に預けた。
それを見届けた玲は、自分のことのように「よかったぁ……」と胸を撫でおろし、迅も黙ってその光景を碧い瞳に焼き付けていた。
しかし、幸福な時間が一瞬の「ハプニング」で暗転する。
廊下の角から、部活動に遅れそうな生徒が勢いよく走ってきた。
「危ないっ!」
咄嗟に反応したのは一頼だった。彼は立夏を庇おうと、繋いでいた手をグイと引き寄せ、反対の手で彼女の肩を抱き寄せた。
——ドンッ。
立夏の背中が柱に当たり、一頼の身体が、彼女を覆い隠すように至近距離まで迫った。

一頼に悪気はなかった。ただ、彼女に人がぶつからないようにと必死だっただけだ。
けれど。
一頼が「大丈夫ですか?」と顔を覗き込んだ瞬間。
彼の目に飛び込んできたのは、見たこともないほどに絶望と恐怖で凍りついた、立夏の瞳だった。

「……あ……、ひっ……、あ……」
立夏の呼吸が、目に見えて浅く、速くなる。
自分を包み込む大きな「男子」の体温。逃げ場のない壁際。上から降ってくる重圧。
それは立夏にとって、一頼という優しい恋人ではなく、かつて自分を壊した「恐ろしい生き物」の記憶を呼び覚ますトリガーとなってしまった。
「……先輩?」
一頼は戸惑った。
つい数秒前まで、同じ目線になったことを喜び、穏やかに手を繋いでいたはずの彼女が、今は自分を「バケモノ」でも見るような目で見て、ガタガタと震えている。
「……あ、すみません……っ、僕、そんなつもりじゃ……」
一頼が慌てて距離を置こうと手を離した瞬間、立夏はその場に力なくへたり込んでしまった。
「……何やってんだ、お前」
低い、地を這うような声。
気づけば迅が、一頼の肩を強く掴んでいた。

その碧い瞳には、後輩への怒りというよりも、立夏の反応を予測できなかった自分への苛立ちが混じっていた。
「立夏ちゃん! 大丈夫、大丈夫だからね……っ!」
玲が駆け寄り、震える立夏を必死に抱きしめる。
一頼は、自分の両手を見つめたまま、呆然と立ち尽くした。
守りたかった。同じ目線になって、隣で笑っていたかっただけなのに。
自分が「男」であるという事実だけで、彼女をこれほどまでに追い詰め、壊してしまう。
一頼は、自分が憧れた「ヒーロー」への道が、どれほど残酷で、どれほど深い泥の中にあるのかを、立夏の怯えた瞳を通して、初めて突きつけられたのだった。
【今回のおまけ】はお休みです。
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