【clum! '95 #20】厨房の攻防

合宿所の厨房は、熱気とスパイスの香りでいっぱい。
わたしはエプロンの紐を結び直す。
二十人分のカレー。
カレーはもちろん作ったことはある。
でも、こんなに大勢のために作るのは初めてだ。
失敗したらどうしよう……。
でも、みんな楽しみにしてるし。
わたし、岡本玲は、エプロンと三角巾を身に着け、体をいっぱいに使って指揮を執っていました。

「よし、お米20合炊けたね。次は野菜! 早坂くんはジャガイモの皮むき、折館くんはお肉の一口大カットをお願いできる?」
「はい! 任せてください岡本先輩!」
「ん、了解」
折館迅くんと一年生の早坂一頼くんは、練習の疲れも見せず、キッチンに立ってくれた。
「よし、私も人参を切るね。……と、その前に」
玲が包丁を握った瞬間、背後から白い影が忍び寄った。
「待った!! ストップだ、玲!」
白衣に保護メガネを装着したわたしのお兄ちゃん、樹だ。手にはなぜか分度器とノギスを持っている。

「……何、お兄ちゃん。邪魔しないで」
「人参の切り方だよ! カレーにおける根菜のカットは、表面積を最大化しつつ煮崩れを防ぐ『乱切り』が基本だが、その角度は対角線に対して37.5度が最も美しいと論文にある!」
「そんな論文知らないよ!」
樹は、隣でジャガイモを剥いている早坂くんの方へ向き直った。
「おい早坂くん! 君のジャガイモの芽の取り方は甘い! ソラニンの毒性を甘く見てはいけないよ。半径3ミリ、深さ5ミリの円錐状にえぐるのが正解だ」
「ええっ!? そ、そんな精密に!?」
早坂くんはピーラーを持ったままパニックに陥る。
樹はさらに、肉を切っている折館くんの元へ。
「折館くん! 筋繊維の切断方向が……」
「……うるさい」
折館くんは樹の方を見もせず、黙々と、でもすごいスピードで豚肉を切り続けている。
その手際はプロのお肉屋さんみたいでびっくりした。お家でお料理とか、してるのかな?
「俺は腹が減ってんだ。角度とかどうでもいい」
「なっ……野蛮人め! 料理は科学だぞ!」
お兄ちゃんを何とかしなきゃ。
わたしはお玉で空の鍋を カンッ! と叩いた。
「お兄ちゃん。……今すぐそこから退かないと、今日の夕食、お兄ちゃんだけ『素揚げした人参(37.5度カット)』だけにするよ?」
「ッ!! ……わ、分かったよ。退けばいいんだろう」
わたしと夕食抜きへの恐怖に屈し、樹はすごすごと厨房の隅へ後退した。
「フン、僕はここから『メイラード反応』の監視を行うとするさ……」
「よし、煮込み開始!」
巨大な寸胴鍋に具材を投入する。
グツグツと煮立つ音と共に、食欲をそそる匂いが立ち込める。
「う〜ん、いい匂い……! もう我慢できない!」
匂いに釣られて、ジャージ姿の佐野立夏ちゃんが厨房の窓から顔を出した。
「岡本さーん! まだ? 味見係必要じゃない?」
「あはは、佐野さん鼻が利くね。……うん、ルーも溶けたし、味見してみようか」
わたしは小皿に少しだけカレーをすくい、さらにそれをスプーンですくった。
佐野さんは「あーん」と口を開けて待ち構えているので、少し迷った。
でも。
折館くんは、
誰より長く鍋を混ぜてくれていた。
だから。
最初に食べてほしいと思った。
「折館くん、ずっと混ぜてくれてたから。……どうかな?」
「!?」

不意打ちを受けた折館くんは驚いたみたいだったけど、仕方ないという顔をしてスプーンを口に含んでくれた。
「……ん」
「ど、どう?」
「……美味い。少し醤油っぽい?」
「よかったぁ! 隠し味におでんの出汁を入れたの!」
折館くんの「美味い」ということばを聞けて、わたしはとってもホッとしてうれしくなった。
その様子を見ていた早坂くんと佐野さんが騒ぎ出した。
「ずるい折館くん! あたしも!」
「ぼ、ぼくもジャガイモ剥きました! 毒素取りました!」
「はいはい、みんなの分もあるよ」
わたしは次々と新しいスプーンで味見をさせていく。
厨房の隅で、樹だけがギリリとハンカチを噛んでいた。
「き、貴様ら……玲の『あーん』を……! しかも折館、間接キスではないか!(※スプーンは変えています)」
「お兄ちゃんもうるさい! ほら、味見!」
「むぐっ! ……う、美味い! 悔しいが、和風出汁が豚肉の脂と絶妙なハーモニーを……!」
結局、樹もわたしの料理には勝てなかった。
「カレー完成でーす!」
食堂に大鍋が運ばれると、部員たちから歓声が上がった。
わたしがよそったカレーを、みんなが夢中で頬張ってくれる。
「岡本先輩、マジで店出せますよこれ!」
「おかわりください!」
わたしは大忙しでおかわりを配りながら、充実感に満たされていた。
そんなわたしの隣に、自分の分を食べ終えた折館くんがそっと立った。
「……岡本」
「あ、折館くん。おかわり?」
「いや。……重かったろ、鍋」
折館くんは、わたしの赤くなっている手首(重いお玉を回し続けたせいだ)に視線を落とした。
「え? ううん、全然!」
「……後の片付け、俺がやる。岡本は座って食え」
「えっ、でも……」
「いいから。……ごちそうさん」

頭にふわりと重みが乗る。
驚いて見上げると、
折館くんはもう洗い場へ向かっていた。
触れられたところだけ、
熱くなっている気がする。
……ずるいなぁ。
いつもの耳打ちもそうだけど、
結構そういうこと、平気でするんだから。
……でも。
こうして折館くんや、みんなの役に立てるのは嬉しい。
合宿についてきて、本当によかった。
明日も。
明後日も。
この夏が終わるまで。
みんなの「おいしい」が聞けますように。


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